(9)イチロウからの贈り物
意気込んで道場にやって来たナナモだったが、練習再開の初日は気合が空回りするだけで、ほんの十数分竹刀を振っていただけで息が上がり、足腰は言うまでもなく、二の腕から指に掛けて筋肉痛と関節痛がひどくて、次の日にはまともに竹刀さえ持てなかった。それでも、三日をピークに身体が慣れて来た。だから、あと一週間たらずしかなかったが、それでも道具を付けて、立ち合い稽古まですることが出来るようになった。
「ナナさん気合が入っていますね」
久しぶりに剣道部のメンバーと顔を合わせたナナモにフジオカが声を掛けて来た。フジオカは解剖実習中、何度か道場に通っていたようだ。ナナモと同じ個人戦にエントリーしているが、タカヤマと同じように団体戦にエントリーしていたサクラギの姿勢をナナモより早く感じていたからかもしれない。
「付け焼刃かもしれないけど、大会に出る以上、少なくとも一勝ぐらいしたいからね」
ナナモはタカヤマに言われたことをぐっと胸に刻みながら、解剖実習中でも道場にもっと顔を出すべきだったと後悔していた。もちろん、ナナモは解剖実習が始まってから色々な声に悩まされてはきた。しかし、今道場にいるとそんな声は聞こえてこなかったし、寮に戻ってからもそれなりに解剖の勉強は出来ていた。
「ところで、ナナさん、僕らにとっては再試験だったんですけど、解剖の筆記試験はまた一発合格だったんですか?」
フジオカは骨学実習の事を知っている。
「いいや」
ナナモが答えると、意外そうな顔でフジオカから、えっと、声が漏れていた。
中田教授は、医学部体育大会の間も試験は続けると学生達の猛抗議にも屈せずに宣言した。ただし、医学部体育大会期間の試験は必須ではない。合否は出すが全員が必ず受けなくてはならないということはない。だから合格していない学生は大会が終わってから再試験を受けられるという変則的なものだった。
忘れないことが大切だという方針は変えなかったが、さすがに問題の量と回答時間との差が大きかったことに対しては修正してくれた。しかし、その分、より詳細に答えなければならなくなっていた。それに、まったく合格者を出さなかったということはなく、ナナモのグループではキガミが数少ない合格者に名を連ねていた。
「もしかたら、夏休みは解剖の勉強でつぶれるかもしれないな」
解剖の筆記試験は夏休み中に必ず終わるし、教授は全員合格させると言っていたから、白紙の回答用紙でもいいんじゃないかって言いだす者もいたが、それでも夏休み中に合格できなければ、夏休み明けから始まる第二解剖学の試験に加味されるって、どこからか怪メールが流れてきて、そうだよなと、皆、ご遺体に対して襟を正す姿勢に戻っていた。
「でも、ナナさん、実習中はすごくまじめだったし、口頭試問もいつも即答していたって聞きましたけど」
フジオカはクツオキ経由でキガミの話しを聞いたのかもしれない。確かにナナモは実習中の口頭試問では全て答えられていた。しかし、他の臓器に実習が移ると途端に前の臓器の記憶があやふやになっていた。それでも、また、教科書を読めば思い出すだろうと、これまでの試験に対する自信から深く考えないようにしていたのだが、いざ、筆記試験が始まった時にはナナモは全く答案用紙に文字を連ねることが出来なかった。
まるで電子工学基礎理論の様だと思いながら、でも、電子工学基礎理論は問題の意味すら分からなかったが、解剖の筆記試験の問題はすぐに理解出来た。それに、口頭試問ではスラスラ答えられていたので記憶が完全になくなっているわけではない。だから、タカヤマに本試験の内容を教えてもらったあと、ナナモはそれなりに復習すると、薄れていた記憶が再び色付き始め、これならと思って、いざ筆記試験に臨んだのだが、試験が始まると指が震えて全く字が書けなくなっていた。
ナナモは気を落ち着かせるため、問題を声を出さずに読んでみた。問題は心臓についての事細かな解剖についての記述だ。
過去の問題で最も多く出題されていたところだし、ナナモは十分勉強していたし、頭に叩き込んで記憶している。だから、口の中ではスラスラと答えられた。だから、それをそのまま文字にするだけなのに、指の震えはとまらなかった。
記憶が欠落しているのではないのだ。
ナナモは試験用紙から目をそらし、試験問題の事を考えないようにして、耳を澄ましてみる。しかし、どこからもナナモに語りかけて来る声は聞こえてこない。だから引き続いて瞳を閉じてみる。それでも異世界へ誘われることはなかった。
なぜだろう?
ナナモは熱にうなされて寝ていた時以外は参拝も続けていた。参拝を続けることによって誰かに導かれるような気がして少し不安だったが、ナナモはそれでも参拝を止めることはなかった。それなのに筆記試験の時だけは手指が動かなかった。
もしかして、誰かが僕を医の扉の向こう側に行かせないようにしているのだろうか?
ナナモは全てを忘れるためにへとへとになるまで剣道をするしかなかった。
そんな日々が数日続いた後、ナナモは第一解剖学教室の中田教授から呼び出された。ナナモが熱で受けることが出来なくなった本試験のあとに行われた追試験を二回受け終わったあとで、二日後には医学部剣道大会のため、杵築から旅立つという時だった。
基礎棟と呼ばれる主に基礎医学の教室が集められていた八階建ての建物の中に入って行く。一階と二階は実習室で、一階には解剖実習室があり、第一解剖学教室と第二解剖学教室が廊下をはさんでいた。
「失礼します」
教授室と書かれたドアがあるが、そのドアには、用事のある人は隣のドアをノックしてくださいと書かれてある。ナナモはその通り隣のドアをノックする。きっと教授秘書が居るのだろう、どんな人かなあと、少し緊張の度合いを下げたが、扉を開けた向こう側には、中田教授が立っていた。
「あ、失礼しました」
ナナモは部屋を間違えたのだと折角リラックスしていたのに、慌ててドアを閉めたのだが、ドアには教授室とは書かれていない。やはり部屋を間違えていないのだ。ナナモはそのことを確認するようにゆっくりと深呼吸し、気を落ち着かせてからドアをノックしようとすると、ドアが開いた。
「クニツ君だね」
中田教授がドアノブを持ったままナナモの顔を見ている。きっと、さっきナナモと少し目が合った時に、ナナモの顔を見て確信していたのだろう。実習中はマスクで顔の下半分が隠れていたが、それでも骨学の口頭試問の時は一度会っている。だから、ハーフであるナナモは中田教授にとってある意味覚えやすかったに違いない。
「はい」
ナナモは自分でも分からないが直立不動の姿勢をとっている。きっと、身体がガチガチになっているのだろう。無理もない。教授から直接呼び出されるなんて、ナナモ、お前なんかしでかしたんかと、タカヤマだけではなく、解剖実習班のキナミまでもが心配して声を掛けてくれた。
「そんなに緊張しなくていいよ」
中田教授はニコニコしながら、それでいて、緊張しているナナモを蔑むようではなく、なんとかリラックスさせるような優しさも醸し出していた。
ナナモはハイと言いながらも、そうできるわけはなく、早く要点を言ってくれれば良いと思っていたし、その要点についてもだいたいの察しがついていたので、叱られるんだったら仕方がないとも思っていた。
「秘書室だったんだけど、秘書を雇う予算がなかなか下りなくて、だから、この部屋をぶち抜いて教室員のための大部屋にしたんだよ」
教授の言う通り、ナナモの目の前には明らかに安そうな事務机が寄せ集められていて、ミーティングが出来そうな大きなテーブルが出来上がっていた。ちょうど昼過ぎで教室員のくつろぎの時間だったのか、テーブルの上には何やらお菓子らしいものがコーヒーの香りとともに置かれていて、ナナモをみて一瞬会話を止めたようだったが、すぐに口元が解けていくのがわかった。きっと、学生だとすぐに理解したのだろう。
ナナモはテーブルの一番奥にすわっている解剖学教室の助教である小谷と目があった。ナナモが鋭い視線を送っていたからかもしれないが、ナナモと視線が合うと、急に微笑みを消し、視線を外した。
ナナモは小谷に聞きたいことがあったので、その部屋の奥へと進もうとしたが、中田教授から、こちらへと、教授室に誘われた。
「なぜ呼ばれたのかわかっているよね」
思ったより狭く感じたのは壁の半面を全て本棚として使っていたからかもしれない。学生課で田中と対面したような刑事ドラマの取調室に出てくるような机と椅子ではなかったが、ふかふかのソファーに身を沈めるという風でもなかった。それでも、少しごわつきのあるソファーに身を置いた時には、なぜかナナモの緊張は途切れていた。
「はい」
だから、ナナモは簡潔にイエスの表示をした。
「君だけが二回とも白紙だったね。何かあったのかい?」
教授は解剖実習の時に何度かナナモの解剖台にも来てくれて口頭試問をしながら解剖のアドバイスをしてくれた。その時にナナモがしっかりと口頭試問に答えられていたのも覚えていたのかもしれない。
「いいえ」
ナナモはまた簡潔にノーの表示をした。ただし、今度はそれだけで済まそうとはしなかった。何故なら中田教授がめずらしく悲しそうな顔をしたからだ。
「先に教授には言っておきたいのですが、わざとではありませんし、夏休みを削ろうとしたことに対する抗議でもありません」
ナナモはもはや教授だということで緊張することがなくなっていた。
「君たちにとって夏休みは大切だよね」
中田教授はやんわりとした表情に戻っていた。
「はい」
僕達学生だけではない。教授にとっても教室員にとってもまとまった休みは必要だ。バカンスは次への挑戦のためにリフレッシュする機会だし、全く異なることに出会う勇気でもあると、ナナモはロンドンに居る時、最初は全く思わなかったがルーシーから教えられて考えを変えたのだ。もちろん中田教授には中田教授の考えがある。それに、全てをなげうってでも今しなければならないこともある。ナナモは再受験のために部屋にこもってばかりいた夏のことを思い出した。
「クニツ君は現役で入学したのかい?」
ナナモは東京での過ぎ去った出来事を思い出しかけていたのに、教授の声ですべてがかき消されてびくっとした。と同時に、ナナモはもしかしたら解剖の筆記試験の事ではなくあのことで呼ばれたのではないかと、急に冷汗が出た。
「いいえ」
ナナモは、二浪ですとも、電子工学部に在籍していたのですとも言えなかった。もしかしたら、中田教授が僕の救世主になってくれるかもしれない。その事が一瞬脳裏を横切ったが、事務の田中の顔が浮かんでやはりそれ以上何も言えなかった。
「どうしてそのようなことを聞かれたのですか?」
ナナモは意を決したように言った。
「僕の偏見だったら謝るしかないけど、浪人したってことは、どうしても医学部に来たかったんじゃあないのかなと思ったからね」
以前キガミにも同じようなことを言われたような気がする。しかし、全ての人がそうではあるとは限らない。
「僕の場合は先生のおっしゃられる通りです」
ナナモは、だったら、その登竜門である解剖学の試験を、それも二回続けて白紙回答で提出するなんて考えられないと伝わって来る。
ナナモはしかし、その理由がわからない。だから、なぜそのようにしたのか、いやしてしまったのかその理由が答えられなかった。
ナナモは黙っているしかなかった。
「クニツ君は何かクラブに入っているの?」
「はい。剣道部です」
「それでは、医学部体育大会があるね」
「ハイ。二日後です」
教授はナナモがそうはっきり言ったのに特に顔色を変えなかった。ただ、それでは大会が終わるまで追試験は受けないのかなという顔をしているだけだった。
「剣道大会に行かない方が良いですか?」
ナナモは唐突に尋ねた。
「行かなくて試験を受けたら今度は白紙ではなくきちんと解答を書けそうですか?」
教授からまた笑みが消えた。ナナモは質問にはすぐに答えることが出来ずにいた。そして、瞳をかぶせるように見つめて来る教授から視線を外すと、ペンを持つ右手を見つめた。
いいえ、何度受けても僕は白紙のままだと思います。
ナナモはじっと手を見つめたままそう言おうとした。しかし、誰かがナナモの顔を上げさせる。そして、身体を締め付け肺の空気を絞り出すように息を吐かせた。
「死者は蘇えると思いますか?」
ナナモの吐いた息はやんわりとした音をもたらした。
中田教授はナナモからの突然の問いかけに戸惑うどころか寄り添うように表情をやわらげた。
「クニツ君は解剖実習の手引書に書かれた言葉のことを気にしているのですか?」
「はい。あの言葉は先生が書かれたのでしょう」
ナナモが尋ねると、中田教授はしばらく考えこんでから、「いいえ」と、先ほどのナナモと同じようなトーンで答えてから言葉を継いだ。
「第一解剖学教室の初代教授の言葉だよ」
中田教授は教授室の天井近くにいくつか飾られている額縁の、ある人物の写真の方に視線を向けた。
「何か聞かれていますか?」
ナナモは教授だということを忘れてつい前のめりになった。
「先生は、もう、お亡くなりになっているからね」
「先生はどう思われますか?死者は蘇りますか?」
ナナモの改めての問いに教授はすぐには答えてはくれなかった。それでも一呼吸置くとゆっくりと口を開いた。
「クニツ君は解剖実習中、ご遺体に対してどう思われましたか?正直なところ申し訳ないと思われませんでしたか?どれだけまじめに実習を行っていても十分ではないと自分を責めておられませんでしたか?しかし、それは生者のおごりだと私は思っているのです。なぜなら、生者もいつか必ず死者になるということをご遺体は知っているからです」
「わかっています。でも、死者の作りだしたものが生者を励ますことがあるし、死者のために生者が頑張ることがあるんじゃないですか?」
「そうですね。でもそれも生者のおごりだと思います。なぜなら、死者は未来を創ることはできません。生者だけが未来を創れるからです」
でも、死者であるオンリョウは生者であるヒトの中に入り込んで未来を操作する。
ナナモはそう言いたかったが、むろん言えるはずもない。
「人類の肉体は無数の有機体の集合でありますが無限ではありません。なぜなら奇跡だと言われているその集合体でさえ宇宙を構成しているほんの些細な粒子から長い年月をかけて生み出されたものに過ぎないからです。クニツ君の答えになっているかどうかわかりませんが、死者は宇宙を構成している粒子に戻りその粒子が新しい生者を作る。つまり人類いや生者と死者は宇宙の粒子の交代に過ぎないのではないかと私は思っているのです」
「でもそれだったら、生者と死者は決して交わらないことになるし、死者は蘇えらないことになりますよね」
やはり現実と異世界の両方に存在することなど出来ないのかもしれない。でも僕は今異世界であろうが現実世界であろうが、生者として生きている。その事だけは信じよう。
ナナモは何かを教授に伝えなければと口を開きかけたが、突然頭痛がした。その痛みが周りの音を消し去り、ナナモから何かが抜け出ていく様に思えた。
この感覚、あの時に似ている。
僕はあの時蘇えったりしていないのだろうか?そうであるなら僕は自ら命を絶とうとしなかったんだろうか?だったら、どうして父と母は僕の目の前から僕のすべてを持って消えてしまったのだろう。
ナナモは自ら爆発しそうだと、頭を抱えて倒れそうになった時にスマホが鳴った。その音はいつもと違うようだったが、初めての音でもなかった。
グランストンベリーの鐘。
ナナモはまだはっきりとそう断定出来なかったが、続けて聞こえて来た歌が暗闇の視界からナナモを救いあげてくれた。
「クニツ君、大丈夫」
「あっ、すいません」
ナナモは青と緑が波打つ世界から飛びだし現実の世界に舞い戻っていた。
「懐かしいようなそうでないような。でも、いい曲ですね。クニツ君は音楽もされるのですか?」
目の前には中田教授の姿がくっきりと映っている。そして先ほどまで小難しい話しをしていたのに、まるでその会話がなかったかのように、スマホから流れ続けている曲に聞き入っていた。
ナナモはその音に耳を傾けた。
演奏だけだと思っていたのに声が聞こえる。
僕の声だ。僕が歌っている。
教授はその事にまだ気が付いていない。いや教授には歌は聞こえていないのかもしれない。
ナナモは慌ててスマホを取り出そうとした。しかし、リュックの中に入っているはずなのになかなか出てこない。
曲が鳴り終えた時、ナナモは、「やはり蘇りはあると僕は信じています」と、もう一度中田教授に尋ねようと思った。今なら教授は先ほどとは異なることを言ってくれると思ったからだ。
しかし、ナナモが声を掛けようと思った途端、教授はソファーから離れて自分のデスクに座り。用紙に何やら書きこむとナナモにもう一枚何も書かれていない用紙ととともに鉛筆を手渡した。
「三十分だ。いいね」
教授が持ってきた用紙には、解剖学の問題が英語で書かれてあった。
ナナモは書かれてある意味が直ぐに分かった。手指の筋腱の構造について知りうる限りの事を図示せよと、尿道の性差について論ぜよという内容だったからだ。
手の構造については細かいが、ナナモはなぜか実習の時に念入りに勉強していたし、尿道についてもご遺体に直接メスを入れなかったが、女性陣が行う解剖を注視していたし、教科書と照らし合わせて子細に勉強していた。
だからナナモは鉛筆を動かしさえすればよかった。でも、それなら、今までと同じだ。ナナモはだからここにきている。目の前にいるナナモが手も動かさず何も書かなかったら、教授はどう思うだろう。ここでも同じなのかと落胆するのかそれとも納得してくれるのだろうか。きっと、蘇りの質問をナナモがしたように、手を動かさないナナモに、どうしたんですか?と、単純な質問で尋ねて来るだろうか。問題が分からないわけでも、記憶がなくなっているわけでもない。ナナモはどう説明したらよいのだろうかと身体がより硬くなった。
「ジャスト、リラックス、ジェームズ」
自分のデスクに戻って腰掛けている教授の声なのかどうかわからなかったが、その声が身体の中の何かのスイッチを入れたようだ。
英語での質問なのだから英語で答えればいいのだ。
ナナモは鉛筆をしっかりと握ったが、その瞬間、また誰かが邪魔をするのではないかと。鉛筆が若干震えたが、手指が全く動かないことはなかった。
英語なら書ける。ジェームズとしてなら書ける。
ナナモがそう思った瞬間、それまでのことが嘘であったかのようにナナモはいやジェームズは鉛筆を音楽の楽譜のようにしならせながら質問に対する事柄を書きなぐった。
教授の、「時間です」という言葉すら聞こえなかったのか、いや、書きたくて書きたくて仕方がなかったのかもしれない。あれほど動かなかった手指なのに今度は自分で止められなかった。
「エクセレント」
中田教授はそう言わなかった。ただ、ナナモ、いやジェームズの答案を読みながらうんうんと頷くだけだった。
「まさかと思ったんだけど、骨学の口頭試問のときの事を思い出してね」
ナナモはジェームズとして英語で歌っていた。だから、教授はその音に導かれたのだと思ったのだが、やはり。教授はナナモのスマホから流れていたナナモの歌声が聞こえなかったようだ。
どうやら僕があの歌に導かれたようだ。
ジェームズから戻ったナナモは、心の中でつぶやいていた。
「クニツ君、英語だと答案が書けるんだね」
ナナモはハイともイエスとも答えられなかった。
僕はハーフで中学校から高校卒業するまでロンドンに居ましたが、イギリスではなく日本の大学を、それも医学部を受けるために帰ってきました。だから、いくら英語が得意でも僕が日本人として医者になるのなら日本語できちんと解答を書かないといけないと思うんです。だけど、僕が日本語で答案を書いて、試験に通って、医の扉を開けると、死者は僕に何かを語りかけてくれるはずです。それを、誰かが阻止しようとしています。蘇った死者に語らせないようにしています。でも、僕は医の扉を開けたい。どうしても医の扉の向こうを見てみたい。そして、役立ちたい。僕はどうしたら良いのですか?
ナナモは一生懸命日本語で教授に訴えていたが、教授は穏やかな微笑みでナナモを見ていただけだった。
「クニツ君はもう半分医の扉を開けたことになるね。きっと、もう一方の扉も自分で開けられると思うよ」
でも半分だけ開いても扉の向こうには行けないんじゃないのですか?
ナナモの訴えはまた空を飛ぶ。
「クニツ君、私は今君の書いた答案を見て、解剖学の筆記試験の合格を特別に与えることにすることに決めたよ。君はきちんと勉強しているし、きちんと記憶している。だからだ。でも皆には秘密だよ。教授室で二人だけの試験を行って合否を出したなんてわかったら問題だからね。これから医学部体育大会に行くのだろう。だったら、大会が終わって夏休みが終わるまでに、不合格者が受ける再試験を必ず受けに大学に戻ってください。もちろん日本語での出題になるが、クニツ君は特別に英語で答案を書く事を許可します。いいね」
教授は一瞬頬を緩めたが、すぐに表情を固めると言葉を継いだ。
「ただ、二回生の最終試験は、解剖学だけではなく、生理学や生化学などを合わせた複合問題なので、日本語の問題に日本語で答えてもらわなければならないよ。なぜなら、君が解剖したご遺体は日本人だからね。分かるだろう」
クニツ君、君はまだこれからも悩みが続くかもしれないだろうけど、これからは死者の事を考えるのではなく生者の事だけを考えなさい。そうすれば生者の中で蘇った死者がいつか何かを君に語りかけてくれるはずだ。その言葉で君はきっと守られる。いま君に立ちはだかる壁を打ち破ってくれる。私は信じていますから。
中田教授の最後の言葉も空を飛んでいた。ただ、ナナモと異なり雲一つない宇宙まで見渡せそうな真っ青な空だ。
ナナモは立ち上がり、「僕のために貴重な時間をありがとうございました」、と言って深々と頭を下げた。
中田教授も、僕こそと、相変わらずの笑みを添えてナナモに応えた。
ナナモは少しだけしか身体が軽くなってはいなかったが、以前より手指の動きがスムーズに動くようになったことで少しは前向きになれそうな気がした。
生者のおごりか?それでも、ハーフであるナナモは、ジェームズ・ナナモだからこそ、蘇りの道を歩けそうな気がした。
「私の英語はどうだったかな」、とナナモの帰り際に中田教授は教授らしかぬ茶目っ気でナナモに尋ねて来たので、合格ですと、ナナモも学生らしからぬ真面目さで答えた。
教授は一瞬顔が光ったようだった。
微笑みの教授。しかし、その穏やかさは、年に数回あるかないかの杵築の湖面のようにキラキラと太陽の光を反射させながら単色で全く動かなかったが、きっとあらゆるものと闘いながら、物凄いスピードで渦巻く湖底の生業をじっと見つめる力強さを持っていた。
「ところでクニツ君、さっきスマホから聞こえて来た曲はキミが作曲したのかい。もしそうなら、歌詞を付けたらいいよ。きっといい歌になるはずだから。もちろん日本語でね」
ナナモは失礼しますと、部屋を出た。もうだれもいないのではないかと思っていたが、教室員がくつろいでいたあの簡素なテーブルにまだ小谷がいた。小谷は、中田教授より、暗く鋭い表情でナナモに痛そうな視線を送ってきたように思った。その瞬間、ナナモは、そう言えばと、小谷にあのメスの事を聞こうと軽く頭を下げ、視線の交わりを一度切ってから、あのーと、口を開いた。しかし、ナナモの声が届く前に、小谷は素早く席を立ったのか、その後ろ姿だけが足早に遠のいていく。
ナナモは脚力には自信がある。だから、走れば追いつくだろうと思って両足に力を入れた。しかし、その刹那、ナナモのスマホが鳴った。
あの曲、いや、歌。
ナナモが、スマホに気をとられている間、小谷はナナモの前から完全に姿を消していたが、ナナモはそれどころでなく、スマホを探した。今日に限って、リュックの一番奥に沈んでいる。それでもさきほどと違って軽くなった手指のおかげでなんとか取りだせた。そして、ナナモはまだ鳴りやまないでくれと祈りながらスマホの画面を見た。
【キタジマソウイチロウ】
無言で映るその文字は黙ってナナモを見つめてくれているような心地良さをもたらしてくれる。
イチロウが僕の窮地を察して僕のスマホを遠隔操作しているのだろうか?
ナナモはまた受信できなかったと後悔しながら、いやまさかそんなことなどあり得ないと、その残像に呟きながら、そう言えばと、イチロウから送られてきたあるものの事を思い出していた。
実はイチロウからも春休みに東京で会おうと手紙が来ていた。イチロウもナナモも念願の学部で二回生に進級出来た。だから、その事が嬉しくて嬉しくてと、もはや隣に居てビールジョッキを片手にとろけるほどはしゃいでいる、というような手紙の内容だった。
ナナモはルーシーのことはまだイチロウには言えていない。だから、そのはしゃぎっぷりにどのように応えていいのか分からなかったが、骨学実習で春休みが無くなったことを幸いに大声で会えない理由を送り返すと、イチロウから今度は楽器が送られてきた。
確かに街でよく見かけるギターの形状を型どった真っ黒なケースだったが、そのサイズは少し小さい。ナナモはそのケースをすぐに開けようと思ったが、解剖実習が終わるまで開けられないとイチロウにメールしてから、しばらく部屋の隅に追いやっていた。もちろんナナモは誘惑にそれほど強いわけではない。だから、特に週末となると触手が行き来する。それでもナナモが開けなかったは、もし開けてしまったら、ナナモは医の扉を開けるどころか、そのままVRの世界へ連れて行かれて戻ってこられなくなるのでないかと思ったからだ。
「脳の解剖が残っているけど、やっと、解剖実習は終わったよ。筆記試験に合格すれば医学部剣道大会で鎌倉へ行く」
ナナモが緊張からの解放からつい送信したメールに、イチロウからの返信は早かった。
「ギターケースは開けてくれたかい?」
ナナモは筆記試験が終わったら開けるよとその時は軽く送信したのだが、筆記試験を二回とも白紙だったナナモは寮に戻るとついイチロウにリモートしていた。
「解剖の筆記試験ってそんなに難しいのかい?」
ナナモはもちろん問題の意味は分かるし、問題に対する記憶ははっきりと残っているけど、答案を書こうと思ったら手指が動かなくなるんだと、何度も言いそうになったが、言い訳としては幼稚に思えるかもしれないし、そう言ったところでたとえイチロウでも信じてもらえそうにないと思った。
「何か悩んでいる事でもあるのかい?」
なかなか口を開かないナナモを心配げにイチロウは待ってくれる。
「医学部を辞めようとか、電子工学基礎理論みたいに僕にとって解剖学が全く分からないとか、分からないから興味が薄れていくとか、そういうことは全くないんだ。ただね、こんなことイチロウに言ったら怒られるかもしれないけど、解剖学は人間を学ぶところでたとえ教科書通りだとしても機械じゃないんだ。だから、ご遺体は死者だから動かないし何も語ってはくれないはずなんだけど、何かを語りたくてしょうがないように思えるんだよ」
ナナモは解剖実習の手引き所に書かれてあるあの言葉を言ってから、イチロウにたずねた
「死者は蘇えると思うかい?」
ナナモはイチロウに直球で投げかけた。
「死者を蘇えらせることは物理的には出来ないけど、死者の過去をAIに出来るだけ覚えさせたら、死者はこう考えたのかもしれないって、本人ではないけれどもある程度は死者の考えを復元することが可能になるかもしれないな」
「本当かい?だったら、死者は過去ではなく未来のことも語ってくれるって事かい?」
ナナモの身体を熱いものが流れていく。
「そこが難しい所だし、恐い所でもあるんだよ」
「怖いところ?」
「そう。さっきナナモはご遺体は人間で機械じゃないって言っただろう。でもねAIは機械なんだけど、人間以上の所が一つだけあるんだ。何だと思う」
「さあ」
「AIは一度覚えたことは決して忘れないんだよ」
「それのどこが怖いんだい?」
「だって、人間って、忘れるからまた学ぼうとするんだけど、一度目と同じように学んだことを感じるかって言えばそうじゃない時だってあるだろう。それに覚えた時の感情が強すぎたら、間違っていてもうる覚えで前に進んでいくし、その時に大きな失敗をするかもしれないし、反対に思いがけない成功を勝ち取るかもしれないからね」
「だったら、僕が今一生懸命忘れないように覚えている解剖学は無駄だって言うのかい?」
「そうじゃないよ。だって、一足す一は二になることを覚えなきゃ数学は始まらないからね。でもさ、その事は何となく理解できるけど、それに慣れたからって三分の二かける二分の三が一になるって、計算上は出来るようになるけど理解できていると言えるかな」
イチロウはある例えをナナモに示そうとしているだけだ。しかし、確かにそうかもしれない。
「僕は答えはひとつじゃないし、そう単純じゃないてって言いたいだけなんだ。いくら解剖学を正確に覚えたって、もし、ナナモが医者を目指すんなら命を助けられなかったら意味がないだろう。だから、ナナモは解剖学の手引き所の事を気にしなくてもいいんだよ」
イチロウの言う通り、ナナモはその言葉にとらわれ続けていたのかもしれない。いや、自分の過去の出来事にがんじがらめに縛られていたのかもしれない。
「蘇りや死者の語りを気にしていたって言うことは、ナナモは解剖している間、怖くはなかったのかい?」
イチロウはドラマや映画などで解剖実習の映像をパソコン上で垣間見たのかもしれない。
「怖い、そんなこと思ってもみなかったよ」
「そうだろうな。僕は想像しただけでも怖いから到底解剖なんて出来ないよ」
イチロウの言葉が中田教授の言葉とリンクする。
「もし、ナナモが僕のように怖くなったらそのままドンドン深みにはまっていく様に思ったんで、気をまぎまわせるために楽器を送ったんだ。でもナナモは別なことに縛られているんだね。きっと、それは医学部生としてのナナモにしかわからないことかもしれないな。だから本当は気晴らしにVRの世界にナナモを連れていってあげようって思ったんだけど、ナナモはきっと心から楽しんではくれないようなきがしたんだ。だから、ちょっとした変化球を投げてみたんだけど」
「変化球?」
「やっぱり、あれは普通の楽器じゃないのかい?」
「ああ、でも、ナナモが楽器の構造をよく理解して、その機能を暗記すれば曲が奏でられるし、自分のオリジナルの曲も作れるんだよ」
「でも難しいんだろう。僕にはそんな才能はないから」
「電子工学基礎理論よりずいぶん易しいと思うし、楽器が自ら語ってくれるんだ」
以前より少しはこぎれいになったが、相変わらずの髪型で話すイチロウの声は弾んでいた。
ナナモはリモートを切ると、解剖学の筆記試験の事も、蘇りの事も、医の扉のことも忘れて、イチロウから送られてきたケースから楽器を取り出し、夜中に風呂場へ行った。トモナミは夏休みで実家に帰っていたし、先輩の真壁は音楽より最後になるかもしれないと医学部体育大会に夢中だったので、独占することが出来た。
朝方完成した曲は、ナナモがジェームズとして自然と口ずさんでいた曲だった。
ナナモはイチロウに聞かせようとスマホに録音したはずだったのに、参拝に行かねばと、一睡もしていないそのままの顔を清めてカンファレンスルームに向かったので、その曲をスマホに取り込んでイチロウからの着信音にしてしまったことをつい忘れてしまっていた。




