(8)悩むナナモ
幾重にもバーベルを付けたように重い南風が、高級ステーキ店でしか味わうことのない分厚い雨雲を蹴散らし、強大な虫メガネを通した太陽が、地下数十メートルまで浸み込んでいた雨水を分厚いスト―ローで一気に吸い込んでいる。
例年よりずいぶん遅い梅雨が明け、脳の解剖を除いて三か月以上続いた御遺体の解剖実習が終了した。
真夏の芽生えが甘美な香りで学生達を誘ってきていたが、ナナモ達二回生の学生は、まるで季節の移り変わりを全く感じさせない初冬のような閉鎖された空間で、週末を除いて、午後から夜遅くまで解剖実習を行っていたので、まだ体温調節に戸惑っていたし、なによりも解剖実習後の試験が足枷となって、夏空に向かってスキップを踏みながら駆け出すなんて気分に全くなれなかった。
それでも、解剖実習を終えたことで、皆、以前よりは顔つきが厳しくなっている。それは、実習疲れという側面がないわけではないが、やはり、医師への第一歩を踏めたという自信の表れだと、各々が少し背筋を伸ばしたような気分になっていることで伝わって来る。
「なんか久しぶりにごはんがおいしいって思えたよ」
グループの中には定期的に親睦会のような食事会をしていたようだが、ナナモ達は解剖実習中一度もそういう食事会を行ったことはなかった。
解剖実習は週末にはない。だから土曜日の夜だけは予習、復習を必ずしなければならないということはない。それでも、ナナモ達は、解剖実習のスケジュールから遅れていたので、つい時間超過で実習を行わなければならなくなっていたので、折角の週末は、疲れて外出などしたくないという本音もあった。
しかし、解剖実習が一区切りついた今は特別だ。だから、ナナモ達はキガミの車で湖畔のイタリアンに出かけた。
「そうね、それに頑張って来たみんなとだと、余計にそう思えるわ」
生ハムのサラダ、ピザ、牛カツレツ、そして、パスタと、特別わあーと驚くようなメニューではなかったが、はちみつ色のレンガでしっかりとした造りの内装はイタリアからイメージする派手さはなかったが、そのメニューとともに家庭的な雰囲気が店全体を暖かく包んでいた。
「ありがとう。キガミ」
地元のキガミが、ガツンと食べたいなあというキナミのリクエストに応えて、チョイスした店だったが、肉ってと、解剖実習が終わったばかりのことに少しは躊躇したらしい。けれどもクツオキが、私、実はこっそりと焼肉を食べに女子だけで行っていたの。だって、やっぱり、女子には少しきつかったし、キナミはしつこい性格でしょう、と、笑いながら言ってくれたので、キガミは、本当は教えたくなかったの、と、ちょっとほっとした表情を添えて、だからこの店を最終的に決めたの、と、話してくれた。
ナナモも実を言うと、タカヤマと飲みに行くこともなかったので、寮の御飯だけの連続で、きっとマギーが聞いたら怒鳴られるだろうが、少し変化が欲しいと思っていた。だから、たとえキガミのチョイスがベジタブルオンリーだったり、地元そばの山盛りだったりであろうが、きっとありがとうと、言っていたに違いない。
振り返るとあっという間の実習だったが、もちろん順調にいったわけではない。それに、全く雑談なしに実習だけに集中していたわけではない。もちろん、ご遺体に対して決して失礼なことはしていないが、取り出した心臓の右左が分からなくなってあたふたしたり、思ったより長かった腸管をまるで蛇やウナギのように扱っていたり、男性器の解剖では男性陣は何度も躊躇したりと、内臓系の解剖の時はそれなりのエピソードが多かった。それでも、今は過ぎさった時だ。そして、二度と解剖実習は出来ない。だから、思い出のアルバムをめくるようにいくつかのエピソード噺で盛り上がってはいたが、各人が話す言葉の裏には、各人が言葉にできない思いが重く連なっていた。
「なんとか終えることが出来ましたね」
「キナミが言うことじゃないでしょう。ナナさんに一番迷惑かけていたのはキナミなんだから」
キガミが前もって話してくれていたのかもしれないが、マスターがサービスしてくれているのは明らかで、皆お腹が一杯だった。その上、キガミ以外、二十歳になっている三人は少しほろ酔いだ。だからもうすぐデザートだという時に何気なく言ったキナミの呟きにクツオキは水を差してきた。
「でもそのおかげで口頭試問の時に答えられたのは誰のおかげだった?」
「キナミだって言うの?それ本気?ナナさんやキガミが手伝ってくれなかったら、口頭試問どころじゃなかったのよ」
「俺はナナさんやキガミの事を言っているんじゃないよ」
「だったら、私?よく言うわ。私がいつキナミに助けられたっていうの」
クツオキは口をとんがらせるような勢いだった。ナナモは二人の相変わらずの言い合いに、でも、結構うまくやっていたんだよなと、ため息が出た。だからこっそりと一度キガミに二人は付き合っているの?と尋ねたのだが、私、そう言うことに興味はないのと、あの自動販売機の夜のようにつれない返事が返って来ただけだった。
「でも、僕は一生懸命やっていたけど、全て僕のために実習をしていたんだよ」
キナミがクツオキにだけではなく皆に向かって呟いた。
「どういうこと?」
「だって最初はご遺体から色々と教わるんだという気持ちが強かったんだけど、途中から解剖の教科書を確認することに追われることになって、それでも教科書通りだと分かると、解剖の教科書だけでわかりにくい立体的な構造や機能を自分なりに理解してやろうと、そのことばかり考えていたからね」
キナミは身を正しながら、それでもやや伏し目がちに視線をはずしてから言った。
「そのことが悪いの?」
クツオキが応じた。
「いいや、そんなことはないよ。ただ、僕は自分の事ばっかりで、御遺体の尊厳なんて考えなくなっていたから」
「一生懸命ご遺体の解剖をすることが御遺体の尊厳をもっとも守ることだと思うわ」
今度はキガミが応じた。
「そうかもしれない。けれど実際、まるで時計を分解するみたいな作業に没頭していたんだよ」
「解剖はある意味機械の部品を覚える学問かもしれないわ」
またキガミが応じた。
「でも、人間は機械じゃないだろ。それとも、ご遺体は死者だからもはや機械と同じだと言うのかい?」
いつの間にかクツオキはキガミ側に立って相槌を打っていた。
「ある意味そうかもしれないわね」
キガミがさらっと言った。
「どういうこと?」
クツオキが尋ねた。
「私も最初、私たちのご遺体だけは何か特別なことがあるんじゃないかって思ったの。でも、実習を進めていくうちに、キナミ君の言う通り、解剖の教科書通りだったの。きっと、大きい小さいや、長い短いはあるとは思うんだけど、ほとんど教科書と変わりがなかったから」
「で、どう思ったんだい」
「人間って死ねば同じなんだって思ったわ」
キガミの言葉にキナミとクツオキは、キガミがそんな冷めた言い方するとは思ってもみなかったと言わんばかりに顔をこわばらせている。だから、ティラミスとエプスレッソが運ばれてきてもしばらく誰も口にしなかった。
「それって、なんか悲しくない?だって、キガミとクツオキはこんな言い方したら悪いけれど見た目も性格も違うだろう。だからもし死んだとしても同じとは到底思えないよ」
「そうよ。ほかのご遺体の顔を見に行ったわけじゃないけど、皆が皆、私たちのご遺体のように安らかな顔をしていたわけじゃないと思うし、もしそうなら、やっぱり同じとは思えないわ」
「それに、ご遺体のおかげで僕たちは勉強させてもらったんたんだよ。死者、つまり、故人がいたから、私たちはその思いを受け継いだり、医学は発展したんじゃないの?」
キナミとクツオキはお互い視線を時々合わせた。
「そうかもしれないわね。でもそれは死の対極として生を考えているからでしょう。私はそんなことは言っていないのよ」
キガミは語気が強くなった二人とは対照的にあくまでおなじようなトーンで言った。
「もしかしたら、解剖実習って、人間の肉体を勉強するんじゃなくて、人間の死を徹底的に考える時なんじゃないかって言うのかい?」
キガミの言おうとしていることがなんとなくわかりかけてきたキナミは、自分に尋ねるように言った。
「そうかもしれないわね。ただし、それは私たちが生きているから言えることなのよ」
キガミはやっと目の前のデザートをゆっくりと口に入れ、その味を確かめてから言った。
「生と死は、生きている人だけが考えられるってことかい?」
「そう。そして、私たちはきっとその最前線に立つことになると思うの」
キガミの言葉は重かった。
「生きているってある意味無限なところがあるじゃない。私たちは医者になるのよね。だから、その生きているっていう意味をこれから考えなくてはならなくなるよね。でもそれって物凄く大変なことよ。だから、その対極に死があり、死というものが無限ではないと知ることで、生きているって事を少しでも単純に考えられるんじゃないのかって私は思うの」
「話しが矛盾していない。だって、生きているって無限なんでしょう。それなのに単純に考えるってどういうこと」
キガミの言っていることにまだクツオキは納得できないようだ。
「キガミは、死んだら終わりだって言おうとしているんだ。だから、医者はあれこれ考える前にまず単純に命を救わないといけないって、言ってるんだよ。但し、それは医者だけじゃないけどな」
キナミは、まだ、納得していないクツオキに向かって言うと、キガミは、私はそんな大きな事を考えているんじゃないわよと、さきほどよりは声を大きくしたので、わかっていると、制しながら言葉を継いだ。
「解剖学の手引書に、「医の扉を自ら開けた者のみに、ご遺体は一度だけ蘇り語りかける」って、書いてあるよね。もし、キガミの言う通りだったら、死者は僕たちに何も語りかけてくれないことになるよね」
「そうね」
「でもキガミは医の扉を開けられたような気がするって、ナナさんから聞いたよ。だからご遺体が蘇って何か語りかけてくれたって」
「決して蘇らないって私には聞こえてきたの」
随分混んできた店の中では、互いのテーブルから沸き起こる雑談が不規則に反響しながら絡んでいた。ただナナモ達のテーブルからは、デザートの皿とナイフやスプーンがすれる金属音とエスプレッソのカップと皿が触れる陶器音だけが、規則的に発し続けているだけで、別に誰かに注意されたわけでもないのに声が消えていた。
「そんなことはない!」
今までテーブルに横顔を伏せて今にも涎が口元からこぼれでてくるような、状態で微動だにしなかったナナモが急にむくっと顔を挙げると、意識的なのかどうかはわからないほどうつろな顔でそれでも明らかにキガミに向かって大声で叫んだ。
「ナナさん大丈夫ですか?」
今まで冷静だったのに驚きを隠せないキガミに代わってキナミがナナモに向かって言ったが、その時にはナナモは何事もなかったかのように、元通りまた机に顔を伏せていた。
「ナナさん今日は上機嫌だったし、結構ピッチが速かったからな」
途中からナナモが居なくなったわけではない。先ほどからナナモは会話の中にいた。ただし、意識の外にいただけだ。
「もしかしたら、ナナさん私たちに相当気を使っていたのかもしれないわね」
「キガミ。ナナさん、僕達のこと何か言ってた?」
キナミとクツオキは実習が遅れているばかりか、実習の進行に対して言い合いが多くて、その度にナナモが仲裁や手助けしてくれた事をずっと気にしていた。
「別にふたりのことは。ただね、ナナさんって少し変なところにこだわるのよ」
キガミはナナモとしたメスの柄の話しをした。でも、だからと言って、それでナナモの何かを知り得る理由にはならなかった。
「ナナさんってなんか不思議だと思わない?」
キガミだけは説明できない何かを感じている。
「イギリス人とのダブルだから?」
「まさか?キナミ君ってそう言う目でナナさんのこと見ているだったら良くないよ」
クツオキが睨んだ。
「ナナさん、キガミとバディだから余計にそう思ったのかもしれないけど、実習中は無言で淡々としている割には、僕らの事も気にかけてくれているだろう。それなのにいつも実習中の口頭試問は完璧だったから、どんな頭しているんだろうって、ふと思って」
「それとダブルと関係ないじゃない。もしかして、ナナさん格好いいから嫉妬しているの?」
「それは俺がイケてないって事かい?それこそ偏見だぞ」
三人は同時にナナモを見ながら、自然と笑みがこぼれていた。
「ナナさんを解剖したくなった?」
キガミが先ほどよりもずいぶん暖かくなったテーブルで、珍しくより大きく見開いた瞳をキナミに向けた。
「冗談だろう。それにさっきの話じゃないけどきっと僕達と同じはずさ」
キナミは、ナナさん、本当に寝てるんだろなと、言いながら、髪を不必要に何度も掻いていた。
「このままのメンツで実習は続けたいな」
キナミを女性陣がしばらくからかっていたが、キナミが言った言葉に互いが視線だけで頷きながら、最後にはナナモをいたわるように、キガミはぽんぽんと二度ナナモの背中を叩いた
「ナナさん、聞いてるのかしら」
クツオキの独り言にもナナモは相変わらず無言だったが、生者であるナナモの背中はかすかであったが動き続けていた。
ナナモの大学では解剖学、組織学、生理学、生化学と正常人体学の構造と機能を二学年で学ぶ。もちろんそれぞれに試験があって、再試験がある。一応合否が発表されるが、全て合格していても進級出来ない。何故なら最終的にはそれらを複合的に考えさせる正常人体解剖機能学の試験が学年末にあるからだ。もちろんそれまでの試験の結果は重要だが、正常人体解剖機能学の試験のウエイトが大きく。それまでの試験で不合格をもらっていても十分逆転できる。だから少しは安心なのだが、それでも、やはり、不合格な科目が多いと心配だ。だから、皆何とか再試験では合格したいと思っている。
その第一段階が解剖学だ。そして、正常人体解剖機能学の試験は解剖学を基本に出題されることが多い。だから、この試験だけはぜひとも合格したいと学生は皆思っているが、これまではもっとも合格するのが難しい学科だった。
脳の解剖は夏休み明けから人体の組織学と平行して第二解剖学の教室が担当になっていたため、解剖実習の一区切りとして第一解剖学教室による口頭試問と筆記試験が始まることになった。口頭試問は実習中にも行われていたし、新教授の方針で、例年より多く行われていたために、形式的な色合いが強いが、筆記試験は、夏休み前の試験なので一発合格したらそのまま夏休みに突入するが、合格しなければ夏休みが削られていく。
先輩達からいまどきなので理不尽だと思うかもしれないけど、仕方がないからと、二回生の夏休みが一番短いということは皆が何となくであったが納得するしかなかった。
中田教授が教壇に立ちマイクを持つ。中田教授は新しく赴任した教授として何かまた特別な事を言うのではないかと皆緊張していた。
「解剖学は、人体の部位を正確に覚えていかなければなりませんが、せっかく覚えたのにすぐに忘れられても困ります。だから、ある意味実習は動機付けという意味で重要です。なぜなら実習によって教科書のように平面ではなく立体で捉えることによってより深く理解できるようになるからです」
中田教授は咳払いひとつしてから、話を続けた。
「だから、今までの慣例として筆記試験は本試験と再試験しか行わなかったのですが、君たちが望むのであれば再試験は夏休み中なら何度でも行ってあげます。いいですか、覚えることも大切ですが忘れないというのはもっと大切なのです」
学生たちからざわざわと声が漏れて来る。
「私は試験であなた方を落とそうとは思っていません。しかし、先ほども言いましたが、解剖学は基本ですし、出来るだけ長く記憶にとどめて頂きたいのです。だから、どうか頑張って下さい。決して無駄にはならないと私は信じています」
中田教授は学生に向かって話しているあいだいつものように終始穏やかな表情をしていた。しかし、その笑顔には中田教授の信念が垣間見られた。だから、今年は例年より実習中の口頭試問が多いんじゃないかと、学生の間では、新教授だから張り切っているだけなんじゃない、とその予習復習で辟易していた学生の愚痴も実は意味があったんだと改めて中田教授の熱意を知ることになった。
寮ではめったに話すことはなかった大学院生のサカイが、卒業してわかったんだけど、学生も大変だろうけど今どきの教官はもっと大変なんだよと、食堂で小岩に話していた意味をナナモは少しわかったような気がした。
「ではこれから口頭試問を始めます」
各グループは講義室から呼ばれると実習と同じように着替え、自ら行った解剖実習のご遺体の前で教授自らの口頭試問を受けた。
解剖学教室の教員達は解剖実習中、指導という名目で何度も口頭試問を行ってくれていたので、ナナモは一抹の不安がなかったわけではなかったが、教授も基本的なことを聞いてきたし、不思議だったが口頭試問という言葉がナナモにスイッチを入れてくれたのか、ナナモ達のグループは皆それなりに答えられていた。もちろん、試験なので緊張しないわけはなかったし、あれだけ丁寧に粘り強く実習を行ってきたキナミが、一瞬すべてが無になり固まってしまって、中田教授の助け舟がきっかけで、すべてを思い出したのか、時間をオーバーするくらい説明し続けたエピソードはあった。
一応採点はされたが、口頭試問の再試験はない。だから、すべてのグループが口頭試問を終えた後に、ご遺体はまたビニールシートに包まれ、ご遺体がもともと安置されていた場所に戻された。
夏休み明けに始まる脳実習が終わった段階でご遺体は丁寧に葬られる。学生は立ち会えないがそのことを皆知っているので、ご遺体に対して深々と首を垂れたあと、しばらく手を合わせ拝んでいた。
ナナモも同じように手を合わせた。その時に、どこからか声が聞こえてくる。
「まだ、死者の蘇りに惑わされているのかい?」
ナナモははっとした。そして、走馬灯のように食事会の会話が蘇ってくる。
ナナモはあの時酔っぱらって気を失ってなんていなかったのだ。ナナモは異世界にいた。そして、誰かとしきりに話し込んでいた。もちろん年老いた人ではない。ただ、ずいぶん小さかったが、きりっとした瞳をもった青年だった。ナナモは以前どこかで会ったことがあるように思ったのだが、どうしても思い出せなかった。ただし、聞き覚えのある声はナナモをなぜか奮い立たせる。
「君はクニツカミの末裔ではないのかい?」
「僕はクニツのカミではない。ヒトだ」
「ではなぜ君はあのとき命を失ったのに蘇ったんだい。ヒトは一度死ぬと蘇えりはしないだろう」
「それは肉体の事だ。確かにヒトは死者となれは何も語れない。しかし、死者はもとは生者だった。生者が語った多くのことは他の生者に引き継がれて行く。そして新たな語りがはじまることになる。だからヒトも蘇るのだ」
「では、君は今肉体を持っていないのかい?キミは誰かの肉体を借りているというのかい?」
「そんなことはない。そうなら僕はオンリョウとして蘇ったことになる」
「だからクニツカミなのだろ」
「クニツのカミはオンリョウではない」
「ならばなぜ君は王家の継承者だと、それもオホナモチだと自らを名乗るんだい」
「……」
「良いかい。クニツカミの末裔だけは蘇えることが出来るんだよ。それは肉体という意味であり、魂という意味だよ。そうでなければ、王家など存在しないからね」
「僕はヒトだ。それに僕は命を失ってはいない」
ナナモはつい声を荒げた。なぜなら、あのとき自らの命を絶とうとしたことをまだ受け入れられていなし、そうしないように守られていたように信じているからだ。
でも本当にそうなのだろうか?この青年の言葉が正しいのではないのだろうか?
「ねえ、君は一体誰?」
ナナモはしばらくその青年の顔が脳裏から消えなかったが、最後にその青年から逃げるようにつぶやいた時、何事もなかったかのようにご遺体が治められている安置所の前で、グループの皆と手を合わせて拝んでいた。
「なあ、キガミ。これから筆記試験が始まるけど。もし、僕が合格出来たら、それはご遺体が蘇って僕の代わりに何かを語ってくれたからだと思ってもいいかな」
キナミの声がする。
「医の扉は自らが明けるのよ。ご遺体は助けてくれないし、何も語ってくれないわ」
クツオキが珍しくきっぱりと言い切った。
「キナミ君がどう思うと私は構わないと思うの。だってあれだけご遺体に向き合ったんだから。確かに死者は過去を語ってくるわ。でもね、やっぱり、死者は蘇えらないと思うの。だって、医の扉を開けた向こうには死者はいないはずよ。そうじゃなければ私たち生者を助けられないでしょう」
「ねえ、そう思わない」
一呼吸置いてからキガミは最後のことばをナナモに向けて言った。
ナナモはキガミの言葉を聞いた途端。急に身体が震え、汗が出て来た。そして、今まで手を合わせ、ご遺体に向かってじっと手を合わせていたその手をゆっくりと放した途端そのまま崩れ落ちるように尻餅をついていた。
意識がなくなったわけではない。だから皆が真っ青に変色したナナモを囲んでくれていたが、ナナモはその声も動きもはっきりとわかっていた。ただし、身体がうまく反応しない。意識が肉体に支配されているのなら、ナナモは今負の作用で意識がコントロールされている。それでも、僕の身体だと、振り絞るように大丈夫だと声を出した。
キナミが身体を支えてくれた。クツオキは解剖学教室の教員に声を掛けている。キガミはしきりにナナモの前で手を振って、大丈夫、見える?って、声を掛けてくれている。
ナナモはその光景を先ほどから変わらずに意識として理解している。それなのに肉体が……。
やはり僕は誰かの肉体を借りているだけなのだろうか?現実の僕は魂だけなのだろうか?
でも、アヤベさんは僕に言った。異世界のナナモも現実のナナモさんも同じですと。そして同じ肉体を持っていると。だったら……。
誰かの泣き声がする。もしかして先ほどの青年なのかもしれない。でもなぜ泣いているのだろう?僕にはわからない。
でも助けたい。そして、蘇らせたい。
「そんなことはない!」
ナナモはキガミに向かってはっきりとした意識で肉体を支配したあと、せっかく蘇りかけた肉体に今度は完全に意識を支配されていた。
「夏風邪やってなあ」
ナナモが解剖の口頭試問が終わった後に倒れたのは、あの日、ナナモは肉体に支配されていたからだ。
体温計など持っていなかったが、大学病院の救急センターに運ばれた時の体温は三十九度近くだったらしい。解熱剤を処方され、寝ていなさいと救急担当の先生に言われたようだったが、ナナモはあまりよく覚えていない。ただし、寒気で身体が小刻みに震えているのに、身体に力が入らない。それに、何かを考えようとしても何も考えられない。そんな最低な状態だったのに、僕は肉体に支配されている、と、ナナモは嬉しさに包まれていた。
だから、どのように寮に帰ったのか分からなかったし、寮では誰かにうつす可能性があったので、ほぼ部屋に閉じこもっていたが、全く辛いとも思わなかったし、相変わらずニヤニヤと頬が緩みっぱなしだった。
剣道部の仲間や実習メンバーからメールが届いたが、返す気力もなく、やっと熱が三十六度台に下がって来たとメールすることが出来た瞬間に、タカヤマからスマホに直に電話がかかってきた。
「ああ、やっと熱が下がって、少しは頭が働くようになったよ」
ヌノさんが何がしかの飲み物や食べ物を部屋に運んでくれていたようだが、ナナモは一度だけトイレに行き、水をいっき飲みすると、ほぼ二十四時間寝続けていた。そして、こういう時は異世界に行くこともあるのだがナナモはどこかに居たという記憶も実感もなく、本当に意識が飛んで肉体だけがナナモの存在を辛うじて維持していた。
「解剖の筆記試験はどうだった?」
タカヤマとは解剖実習が始まってからあまり話さなかった。もちろん、飲みに行かないかとか、剣道の練習に行かないかと、何度か誘われたが、ナナモが断ると、いつものように、「ええやんか」とは執拗にはかぶせてこなかった。きっと、解剖実習への何らかの思いはタカヤマにもあったのだと思う。しかし、解剖実習が終わり、病み上がりで少し心寂しいときの初めてがタカヤマだったことはナナモには単純に嬉しかった。
「あれは反則や」
ナナモは倒れた翌日に行われた筆記試験を受けることができなかった。解剖の筆記試験は重要だったが、ナナモは本試験を受けられなかったことがあまり気にならならなかった。それどころか、なぜペンを持っていざ文字にしようとすると解剖学だけ記憶に刻印されないのかという不安から一時的にせよ逃避できて、寝っぱなしで関節のあちこちが痛かったが、熱が下がったということもあって、気分は爽快だった。それでも、解剖実習をさせていただいたご遺体に対する報いだと思うと、やはり筆記試験は気になった。だから、タカヤマが、反則やと意外なこと言ってきたので驚いた。
「タカヤマのことだから過去問の情報は入手していたんだろう?」
中田教授の初めての試験だったので案外過去問はあてにならなかったのかもしれないと思いながらナナモはタカヤマに尋ねた。
「過去問の集大成みたいな問題や」
「どういうこと?」
「だから、俺が集めた過去の問題をほぼすべて集めたような問題やったんや」
「だったら、ラッキーだったんだ」
ナナモは思わず声を弾ませた。
「それがな、図で示すのは別として、問題がめっちゃあったんや。もちろんマークシートやないで、すべて記述や」
「でも、過去問だったんだろう」
「ナナモ、俺はかつて剣道の達人といわれた男や、それでも機械やない。だから、たった一時間ですべて答案を書きあげるなんて無理や」
タカヤマは、ある臓器をターゲットにしぼった試験ではなく、重要臓器はすべて出題されており、それらについて到底すべて回答できない時間で答えさせようと出題されたとやや怒気を含んで説明してくれた。
「じゃあ」
「そう、全員不合格。全員再試や」
ナナモは中田教授が話していたことを思い出した。確か、覚えることより忘れないことが大切だと言っていた。
「あの教授、ホンマに夏休み中解剖学の試験をする気らしい」
タカヤマは、今度は溜息交じりで言った。
「でもそれで解剖学が記憶に残り続ければ僕達にとっていいことかもしれないよ」
実際の試験を体験していないナナモは何気に話した。
「アホか。なんぼ教授が忘れないようにって言っても、人間忘れてしまうんや。そやから、また新しいことが覚えられる」
確かにそうかもしれない。けれども暗記が苦手なタカヤマの言い訳にも思える。ナナモが黙っているとタカヤマが言葉を継いだ。
「心臓外科医になったら、心臓の事をもう一度徹底的に勉強するし、脳外科や整形外科もおんなじや。それに内科医も実際の臓器に触れへんでも、解剖はもう一度見直すはずや。だから、忘れんようにって、夏休みを削ってまで受けさすっておかしいやろ」
タカヤマは口調を荒げた。
「でも、仕方ないだろう。それに、教授は不合格にはさせないって言っていたし」
「ナナモ、お前、本気で言っているんか?」
ここ一番の声の大きさでナナモの鼓膜が揺れた。
「……」
「医学部剣道大会。まさか、ナナモ忘れてたわけやないやろな」
今度は低音だが蜘蛛の巣のような粘り気でまとわりついてくる。
ナナモは二回生に進級してからあまり道場に顔を出していなかった。解剖実習中であるということで二回生に対して先輩も強くは強制しなかったからだ。それに夏に行われる医学部剣道大会は団体戦と個人戦がある。団体戦は練習していないとそれなりの結果になるので、十分な練習が出来ていない二回生はほぼ個人戦にエントリーするしかなかった。ナナモが団体戦に選ばれるわけはないが、それでも小岩から一応希望を聞かれた時は個人戦にエントリーすると即答していた。
「タカヤマ……、もしかして」
「そうや。俺は今回団体戦に出るんや」
タカヤマが解剖実習中も出来るだけ道場に顔を出していたとフジオカから聞いていたナナモだったが、まさか、タカヤマが団体戦に出場するとは思ってもみなかった。もちろんタカヤマが解剖実習をおろそかにしていたとは思えない。
タカヤマの剣道に対する思いを知って、ナナモは別な意味で顔が赤くなったし、寮の掟で武道をしなければならないと小岩に言われたのに、道場に顔をださなかったナナモは寒くもないのに蒲団の中にまた入り込みたかった。
「剣道大会はいつから始まるんだい?」
ナナモはつい軽口を吐いた。
「ナナモ、本気で言っているんか?まあ、まだ熱がさがったところやなから強くは言わんけど……」
「ごめん」
ナナモはタカヤマのため息に謝るしかなかった。
「ナナモが謝ることはあらへん。ただ、いつも言っているけどナナモは悔しないんかって。骨学実習の時も一発で合格したのに、道場に来なかったやろ。ナナモは去年の事忘れたんか」
タカヤマに言われてナナモは改めて昨年の事を思い出した。ナナモは杵築で行われた新人戦は別として、夏に京都で行われた個人戦では相手に竹刀を打ち込むどころか秒殺で意識を失ったのだ。
タカヤマの言う通り、あれだけナナモには衝撃的な惨敗だったのに、目の前に新しい魅力的なことが出来るとその記憶は薄れてしまう。
「十日後や」
「それじゃあ、それまでに合格しないと……」
ナナモはタカヤマを気遣って言ったつもりだったが、それはナナモも一緒や、と、喝を入れて来た。
「でも、どれだけ頑張っても時間内に答案用紙を埋めることは出来ないんだろう」
ナナモは改めてタカヤマが「反則や」と呟いた意味を理解した。
「ナナモ、俺が電話したのは解剖学の試験のためだけやないで。試合まで十日しかないってことや。分かるか?さっきも言ったけど悔しかったら練習せんと。それも十日しかないんやで」
ナナモは何も言い返せなかった。
「きっともう忘れてると思うから、言うとくけど今年は鎌倉であるんや」
「鎌倉?」
ナナモはまたタカヤマに怒られるとは思わず、本当に忘れていたので、復唱していた。
「ナナモ、ひよっとして……。鎌倉って知ってるよな」
タカヤマの問いかけにナナモはすぐに、「No」と、なぜか英語で答えていた。そして、自分の言葉として「KAMAKURA」と、つぶやいた瞬間、ナナモから全身のだるさや関節痛は消え、微熱を追い出すような新たな闘志が火種になって身体の奥底から沸き起こっていた。
蘇りの声が聞こえくる。
無造作にスマホのボタンを押していたナナモは二段ベッドから慌てて飛び起きると、風呂場へ行った。そして、着替えるとカンファレンスルームの神棚に参拝したあと、剣道着と竹刀を持って寮を飛び出していた。




