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ジェームズ・ナナモと蘇りの輝跡  作者: まれ みまれ
30/30

(30)未来への贈り物

「ジェームズ、きちんと貼らないとだめよ。あなたも手伝ってあげて」

「ナナモがイタズラしたんだ。きちんとナナモにさせないと」

「でも、障子貼りって楽しいのよ」

「そうだな。じゃあ、僕も一緒にさせてもらおうか」

「ありがとう」

「もう二度とイタズラするんじゃないぞ」

「はい」

「これが終わったら、みんなでブレッドアンドプディングを食べましょう」

「お母さんのお菓子は最高だからな」

「あら、ジェームズのために作ったのよ」

「いじわるだな」

「ナナモ、あの穴から何か見えたのかい」

「僕は別にあの穴から向こう側を覗こうと思って開けたんじゃないんだ」

「じゃあどうして障子に穴をあけたんだい?」

「イタズラしたらお父さんもお母さんも僕の方を振り向いてくれるんじゃないかって思ったんだ」


「ナナモさん、起きてください」

 母の声がする。どうやら、障子の貼り替えが終わったあとにおやつを食べてうとうとしていたらしい。でも、母ならナナモかジェームズと、僕を呼ぶはずだ。それに、僕の記憶と少し声が違う。

 そうか、またか。

 ナナモはそう思った瞬間にこの場所がどこかわかった。だから、目を開けたくなかった。それでも縄で身体中が締め付けられているかのように、スプリングの効いていないソファーにめり込んでいる身体の感触が、否応なしにその答えを強要する。

「ナナモさんったら」

 母ではない。きっとあの人だ。だったら、二回も僕を起こそうと声を掛けて来るなんてめずらしいし、身体を揺り動かすなんて奇跡だ。

 ナナモはそれでもまだ抗っていた。何故なら両親との記録の中にもっと浸っていたかったからだ。それでも、ナナモの意識がもはや現実を認識した途端、ナナモはナナモの記録の世界に戻ることが出来なくなっていた。

 だからと言って、目を開けるなんて。

 ナナモは、何度もどうにかならないかと闘いながらも、しかし、そうすることで余計に目が冴えて来て、ついに瞳を開けざるを得なかった。

「おはようござます」

 ヌノさんが目の前にいる。どうやらナナモに覆いかぶさるように見つめていたようだ。

「おはようございますって、のんきな事言っていていいんですか、六時ですよ」

 ナナモは、六時?と、ヌノさんが何を言っているのかすぐに理解できなかった。それでも、ヌノさんはナナモの瞳に自分の顔が映っているのを確認するとスーッと目の前からいなくなった。

 ナナモはその後ろ姿を追うとしたが目に映ったものを見て飛び起きた。

「裸はダメですよ!」

 食堂の奥の方から声が聞こえる。それでも、ナナモはもはや走りながら服を脱ぎはじめていて、風呂場に入った時には丁度全裸になっていた。

 ナナモは頭から冷水を浴び、そして、口の中に何度も指を突っ込んでから、ガラガラと口の中でもぐもぐさせると吐き出した。

 そして、風呂場の扉を開け外の様子を見ると急いで自分の部屋に戻った。

 オオエはいなかった。ナナモは オオエが正常人体解剖機能学の試験が終わるまで寮には戻らないと言っていたことがなぜかふと思い浮かんで、そうか、まだ試験は終わっていなかったんだと、束の間ほっと肩の力が抜けかけたが、すぐにそれどころではないと、慌てて洗濯し終わった下着を身に付け、今脱いだ服を着なおすと、カンファレンスルームに走って行って神棚に参拝した。

 ナナモはほっと一息と先ほどまで寝ていたソファーに腰を降ろしそうになったが、目の前には小岩が少しにやけながら、アウトだねと、まるで今まで唾液を絡ませながくわえていたかのようにねっとりといやらしく輝く人差し指を時計に向けた。

 ナナモはあっと声を出し、そして、この寮に来てから始めてのことに落胆したが、小岩はゆっくりと、立ち上がると、時計の針を少し巻き戻して、先ほどよりもよりいやらしい笑いを秘めながら、「まだ参拝の時間には間に合うね」と、ナナモに向かって言った。

 ナナモは、ヌノさんの好意なのか、それとも小岩のイタズラなのか、それともナナモ自身の油断だったのか分からなかったが、今日は時間を忘れよう。未来も過去もない。今するべき事をしようと、神棚に向かってもう一度ゆっくりと参拝した。

 ナナモが参拝を終え、もう一度時計に目をやると、午前六時をずいぶん過ぎていた。しかし、だからと言って、ナナモが参拝したのが、六時過ぎだとは言えない。いや、記憶では六時前だった。

 ナナモは、スッキリした気分で、いつも通り参拝したのだと記録にとどめておくだけで、前を向こうとゆっくりと歩き出していた。

「ナナモ君」

 小岩の声がする。そう言えば小岩がさっきここに居た。いや、居た?ナナモはでもこんな時間にカンファレンスルームに小岩が居るなんて思えなかったし、「君」が気になって、部屋に戻るのを止めて立ち止まるとゆっくりと振り返った。

「あっ、」

 ナナモの身体が先ほどまでめり込んでいたカンファレンスルームのあのソファーにやはり小岩が座っている。なぜか不思議なことに小岩の身体はソファーにめり込んではいない。だから、小柄な小岩がずいぶん大きく見える。

「僕がこんな時間にここに居たらおかしいかい?」

 小岩はニヤッとまた唾液を垂らそうとしてくる。そのふてぶてしさに、ナナモは思わずおかしいに決まっているじゃないですか、と言おうと思ったが、先ほどの時計の件が思い浮かんで、もちろん自分のであるが、ごくんと唾を飲み込んでから、まあ、と、やんわりとした言葉を返した。

 小岩は先ほどと同じ表情をしている。こういう時の小岩は気味が悪い。それに「君」づけが、妙にひっかかる。

「朝からそんな目つきで僕を睨んでこないでくれよ。今朝は何かをナナモに頼もうとしていないし、良からぬことを企んでいるわけでもないから」

 ナナモは小岩にそう言われても、すぐに、はいそうですよね、とは言えなかったし、警戒の目は緩められなかった。

 すると、急に、小岩がソファから立ち上がり、剣士としての姿勢で、頭を下げた。

 ナナモは急にそうされて思わずのけぞりそうになる。

「本当は飲みに行きたい気分なんだけど、ナナモは明日試験だし。せいぜい頑張ってもらわないと行けないから夜はダメだろう。でも、僕は朝から夕方まで授業があるし。だから、この時間しかナナモに会えないと思って頑張って早起きしたんだ」

 ナナモはなぜそこまでして自分に会いたがっているのか小岩の意図が分からなかった。

「昨日はありがとう。勉強中だったのに悪かったね。でも本当に助かったよ。やっぱりナナモは救世主だな」

 ナナモはもう一度小岩に頭を下げられたが、やはり何のことか分からなかった。

 きっと、僕は異世界に居たんだ。

 ナナモは異世界にしばらく居ると現実世界の記憶がなくなる。そのうち戻って来るのだが、そのギャップを埋めるためにしばらく苦労する。

 もう何回目だろう。それでも徐々にその状況にも慣れて来る。だから、小岩に悟られないようにしばらく小岩に付き合わないといけない。

 イチロウの時もタカヤマの時も苦労したが、二人は友達だ。でも小岩は先輩だ。だからうまくいくとは限らないし、失礼だと逆に怒られるかもしれない。

 それに小岩の話が全て事実かどうかは分からない。しかし、ナナモに会うためにわざわざ早起きしたということは、よほどナナモが小岩に協力したことになる。だったら、今日は機嫌がよさそうだし、ウソはつかないのではないだろうかと思った。

 でも小岩さんだから……。

 ナナモは小岩をそう言う目で見たり見なかったりしながら、それでも何か楽しくなってきて頬が緩む。そして、これから小岩が話すことは現実世界の事だけども、今はナナモの知らない過去である。それを聞けるって蘇りというほどたいそうではないが、それでもウキウキする。

「注射を打ってもらって良くなっていたんだけど、また、再発しちゃって、あの時もしナナモが良いですって言ってくれなかったら今頃どうなっていたかわからない」

 ナナモは必死になって記憶の記録のページをすばやくめくる。AIならすぐに取り出せそうなのに、ナナモの頭は当然人間脳だ。それでも、何も言わないナナモに何かを言いたそうに口を開きかけた小岩にナナモは、あっ、と一呼吸置いてから賭けにでた。

「流鏑馬の大会ですよね」

 ナナモがそう言うと、小岩は嬉しそうに頷いた。だから、ナナモはつい調子に乗って、でも、一輪車って難しかったですよねと、会話を継ぐと、小岩は怪訝な顔で、何言っているんだ、乗馬だよ、だから、ナナモがあんなにうまかったんだって驚いたんだ。

 えっ……、それ、本物じゃない?確か、小岩先輩、落馬があってから、乗馬は禁止になって、一輪車になったって言ってたんじゃなかったの?と、ナナモは心の中で叫んでいたが、当然微塵も顔にはださない。その代わり、昨日勉強で遅くなったんで、練習と混乱しちゃいましたと、頭を掻いた。

「そうか、そうだよね」

 小岩は珍しくナナモに寄り添ってくれる。だから、悪いなと思いながら、僕、まだボーっとしているんで、昨日の事話してくれませんかと、頼んでみた。

 そう、と、なぜか小岩がナナモにそう言われるのを待っていたかのように話し出した。

「さっきも言ったけど、手首の腱鞘炎が急に再発して、どうしようもなかったんでどうしようかって、大会に出れるのは寮生だけだから。でも、日程が急に変更になって、でもナナモは大事な試験前だし、だからだめもとでナナモに頼んだら、二つ返事でいいですよって言ってくれて。でも、今年の大会、あの企業がスポンサーに急きょ決まって、安全対策は万全を期すからって、一輪車じゃなくて、乗馬になったんだけど、僕が出るはずだったし、実は馬はある方が、ずっと、歴代面倒見てくれていたんで、こっそりと僕は練習していたし、自信があったんだ。だから、ナナモには黙っていたんだけど、気合の空回りっていうか、慣れない事を急にこんつめてやったものだから、手首にきちゃったのかもしれないな」

 ナナモは驚いた。と同時に、でも……、と、もう少しで目を細めるところだった。

「ナナモも馬なんて聞いていませんよと、会場に行ってから急に僕につっかかってきたんだけど。でも、無理ないよね。だって、馬に乗ったことがないだろうから。だから、本当は馬を操らなきゃならないだけど、特殊な訓練を受けた馬だから寮生が騎乗さえすれば、馬が勝手に寮生に合わせてくれるから、本当に一輪車にのっているような感覚だし、上下に動くけれど、ナナモはその動きの練習も一輪車でしていたから大丈夫だよと僕が言ったんだ。だけど、ナナモ、どこでそんな目つきを覚えたのか知らないけど、僕をしらーって、睨んできたんで、僕は慌てて自分の手首を押さえたんだ」

 ナナモはそこまで聞いて何となく情景が浮かんできた。そして、自信たっぷりに騎乗している姿を遠巻きに映像でとらえながら、あっと、思わず叫んだ。

「ナナモ、騎乗する馬を見た瞬間、なんかホットしたというか、久しぶりに友達に会ったみたいに急に笑顔になって、その馬を撫でながら、何か話しかけていたんだ。そして、急に自信たっぷりな顔になって。でも、ナナモには悪いけど、剣道の試合の時は一度もそんな顔を見た事なかったから、却って心配になって、大丈夫って尋ねたんだけど、なんか上の空で。それで、やっぱり緊張しているのかなあって、心配したんだけど、僕、試験勉強しないといけないですから、ささっと終わらせて帰りましょうって言いだしたんで、急に怖くなって、やっぱり、俺が無理してでも出ようかなと思ったんだけど、もう、ナナモ、その馬に乗って歩き出していて」

「僕は的に当てましたよね」

 武者姿のナナモが映りだしている。しかし、まだその先には映像が追いついていない。

「三回の射てだったんだけど、ナナモ、全て的に当てたんだ。きっと、流鏑馬なんて付け焼刃だったのに、奇跡ってあるんだね。でも、危なかったよ。ただし、これでしばらくは寮は安泰だけどね。でも、安心はできないけど」

 小岩はなぜか流鏑馬ではなく、最後には寮の話をしてきた。しかし、ナナモがふん?という顔をしなかったというか出来なかったので、その事については詳しく語ってくれなかった。

 でも、あの企業と言っていたので、何かナナモの知り得ない所できっとまたいざこざがあったのだろうと、そして、その解決に流鏑馬を選んだのだろうと、ナナモは想像するしかなかったが、それでも、もし、うまくいかなかったら、今頃どうなっていたんだろうと、結局は小岩の誘いにまんまと乗ったナナモは、やはり小岩は侮れないと、いくら朝早くに起きてきて、感謝されても、それよりも、試験が終わってから、きちんと夕食をおごってほしいと、小岩の言葉をまた安請け合いしている自分に腹を立てたが、それでも、小岩の珍しく、よほどうれしかったのか、ナナモに話している間中、ずっと笑顔のままだったので、まあ、いいかと、思い直した。

 小岩は流鏑馬大会での枝葉の話を少ししていたが、枝葉しか話さない小岩が、やはり小岩らしいし、もし、記憶が戻った時に、その枝葉はおそらく多少異なっているだろうと思って、黙って聞き流すしかなかった。それでも、最後に、運を使い果たしたんで、試験に落ちましたなんて言わないでくれよと、急に現実味を帯びた話をしてきたので、ナナモはそうだ、正常人体機能解剖学の勉強をしないとと思いながら、僕は何かに悩んでいたはずだと、それでも流鏑馬と同じように、その何かの記憶も記録も思い出せなかったので、まあ、いいや、と、時間が解決するし、何かが分からなかっても、未来は必ずやってきて、僕は正常人体機能解剖学の試験を受けているのだと、まだしつこく、枝葉だけ話してくる小岩と朝食をともにした後、ナナモは部屋に戻った。

 部屋には、タカヤマが持ってきてくれた正常人体機能解剖学の過去問が置かれてある。きちんと整理されていたので、手つかずだと思ったが、珍しく日本語で走り書きされていたので、ナナモは、僕は勉強していたんだと、ほっとすると同時に、でも、今からもう一度目を通したら全て忘れていたらどうしようと、それでもやるしかないし、忘れた軌跡であっても、頑張っていたらきっと未来で輝いてくれると、心の中で浮かんできて前向きになれた。

 でもこの気持ち。なぜそう思ったのだろう。ナナモから何かが抜けていく様に思えたが、ナナモはあえて今探しに行こうとは思わなかった。


 ナナモは小岩と別れてから部屋で正常人体機能解剖学の過去問を解いてみた。まだ、現実世界の事も異世界の事もあやふやだったので、正常人体機能解剖学を折角今まで勉強してきたのに、もし、全て忘れていたらどうしようと、先ほどの憂いがまた蘇ってきたが、全く分からないということもなく、頭の中では反対に、正常人体機能解剖学についてだけは明確に記憶が復活したのか、すぐに回答を思い浮かべることが出来た。それでも、この試験は口頭ではなく、筆記だったので日本語で書けるかどうかが不安だったが、ナナモは全く指が動かなくなることもなくすらすらと書くことが出来た。だから、過去問以外にも興味があったり、授業で何となく教授が強調していたことだったりまで、勉強の幅を広げたので、あっという間に一日が過ぎ去るような速さで最後の確認が出来たし、徹夜ということもせずに、きちんと六時前に参拝し、大学受験のように丸一日かかる試験に臨むことが出来た。もちろんナナモは生理学や生化学はもちろん、それに関連する解剖用語や機能についても指の震えもなく日本語ではっきりと試験が終わるまで答案を書くことが出来た。

 あっけなく試験が終わったので、そのまま飲みに行くことも出来たが、試験は人体解剖に対する慰霊の意味もあったので、慣例としてその日は皆自宅に戻ることになっていた。それでも、もしタカヤマが誘ってきたら断れないだろうと思っていたが、さすがにタカヤマもそうはしなかった。

 ナナモはそれでも気が張っていたのか、それなりに疲れて寮に戻ったが、慣例のことを知っているのか、小岩がナナモを出迎えてくれることも、当然食事に誘ってくることもなかった。それどころか、食堂には小岩はいなかったし、一回生も居なかったので、ナナモは試験期間ということもあって、寮生とはあいさつ程度で、早々と食べ終わると、部屋に戻った。オオエは試験が終わったが、戻ってはいなかった。合否判定がまだなので当然かもしれないし、やはり一発では合格しないのだろうからと、オオエにも思われているのかもしれない。

 ナナモは誰もいない部屋で、両手を頭の後ろに組ながら椅子にもたれかかっていた。試験が終わった直後で、ボーっと気が抜けた気分になるのかと思っていたが、何かが引っかかって、全身を掻きむしりたくなるようなムズムズした気分にしばらく包まれていた。

 なぜなら、ナナモは小岩から言われた流鏑馬のことはさておき、その何かのためにもがいていたはずなのに、異世界に行っていて、帰ってきて、そのまま試験に臨んだことで、その何かもすっかり影を潜めてしまっていたのだが、異世界へ行ってその何かが解決されたわけではなく、むしろ、その何かが余計に大きな課題となってナナモに残されたような思えたからだ。だから、ナナモはいっそ苺院へ行って、カタリベに異世界で起こったことを訊こうかと、神木のタブレットをリュックに入れて出かけようと思ったが、今夜に限って神木のタブレットは鉄の塊のように重くて簡単にリュックの中に入れることが出来なかった。

 やはり、今夜はご遺体に対して喪に服さなければ。

 ナナモは意識して心を無にしようとしたが、そうすればそうするほど、無にはできなかった。

 風呂にでも行くか?

 桜の開花予想がテレビで出始める頃になってはいたが、寮の謎の空調で季節感が分からなかった事は別にして、どこからか小槌を振るような隙間風を感じたが、ナナモは服を脱ぎ始めた。

 丁度その時、スマホが鳴る。ナナモは上半身裸のまま、スマホを手にした。

 見知らぬ電話番号だ。

 いつものナナモならスルーするのに、今夜に限っては例え迷惑電話であっても出てみたい衝動に駆られた。それでも机の傍らに置いてある紙切れにあわてて番号を控えてから、画面に指をゆっくりと押し付ける。

「もしもし」

 ナナモは恐る恐る言葉を発する。しかし、相手からはすぐに反応はなかった。無言の何か意図した迷惑電話なのだろうか。でも、相手からなら電話料金は相手持ちだし、もし何かだまそうと思っているのなら、素早く、自分のことを名乗らないと怪しまれる。

 ナナモは新手のサギ電話なのかと、反射的に切ろうとしたが、素早く指が動いてくれない。それどころか、この無言の時間を楽しもうとしている節さえ湧き起こって来る。

 ナナモは電話の事よりもしばらくその違和感と闘うしかなかった。

「ナナさん……」

 唐突にか細い声が聞こえて来る。

「イエス」

 ナナモはなぜか英語で答えた。

「キガミです」

 ナナモは驚いた。キガミから直接電話で連絡があるとは思わなかったからだ。もちろん解剖学の実習以来グーループ内でメールのやり取りはしている。しかし、タカヤマのように頻繁に飲みに行ったりするほどの関係ではなかった。

「どうしたの?」

 ナナモは、しかし、嫌な気がしていない。

「ごめんなさい。突然電話して。今日試験が終わったあと、ナナさんに話しかけようと近づいて行ったんだけど、ナナさんすぐに帰ったから」

「えっ、本当?全然気が付かなかったよと、それにキガミが僕に話してこようとしてくるなんて僕は全く想像つかなかったからね」と、ナナモはすぐに言うべきだったのに、ナナモはなぜか緊張して黙ってしまった。

「電話番号は、サクラギから聞いたの」

 ナナモは、サクラギがなぜ知っているのだろうと思った。しかし、すぐに、フジオカからだなと、それ以上深くは考えなかった。

「どうしたの?」

 ナナモはもう一度同じことを尋ねた。しかし、きっと先ほどよりは穏やかな声で優しい口調なはずだ。

「ナナさん、今日の試験どうだったのかなあと思って」

 どうもこうもない。ただ、問題を解いて回答しただけだ。

「どうしてそんなことを訊くんだい?」

「だって、ナナさん、蘇りの事を気にしていたし、それに……」

 キガミは一瞬間を置いてから言葉を続けた。

「それに、解剖学の再試験を白紙で提出したって、気にしていたから」

「ねえ、キガミ、それ誰から聞いたの?」

 キガミは黙っている。確かにナナモは、蘇りやメスのことをキガミに話したことがあった。それに、その事で解剖学実習の筆記試験の再試験を受けたことをキガミだけではなく、キマタやクツオキも知っている。ただし、白紙で答案用紙を提出したことは実習仲間は知らないし、何故答案が一行も書けなかったのかは、その事実は別にして誰も知らなかったはずだ。

 だから、ナナモは、ねえ、キガミ、それ誰から聞いたの?と、もう一度先ほどよりは語句を強めて言ってから、すぐに、

「いや、ごめん。誰でもいいよね。それに、前、キガミにメス刃のことを尋ねようと話しかけた時に、キガミに怖いって言われたからな」と、おどけた口調でお茶を濁そうとした。

 キガミからは笑顔が全く伝わってこない。それでも、何かを話さなければならないという意図は感じられる。

「実は小谷先生からメスの柄が見つかったからって、預かっていたの。ナナさん、これを見たらきっとこれまでのことが克服できるからって」

 小谷?ナナモに何かが思い浮かんでくる。

「だから、ナナさんに直接会って渡そうと思ったんだけど、ナナさん、試験前休暇の間連絡が取れなかったんで、さんざん悩んだんだけど、前日ならと思って電話したら、流鏑馬に出なきゃならなくなったんだって、すぐに電話を切られて。流鏑馬って何って思ったんだけど、試験前なのに勉強しなくていいくらいになったんだったら、大丈夫かなと思ったんで、気にはなっていたんだけど、私も自分の事で精一杯だったし。それで、試験が終わったあとにすぐにナナさんの方を見たら、ナナさんなんかうつろで、また、意識が無くなるじゃないかって思えるくらいに見えて、それで、やっぱり、メスの柄の事を話しておけば良かったって後悔して、それで思い切って電話したの」

 ナナモは、一度電話をしたって?と、いつもなら思うはずなのに、キガミの言い訳をしばらくただ黙って聞いていたが、無性にそのメスが観たくなった。

「会わないかい?キガミは車だろう」

 今夜は喪に服さないといけない。だから、皆家に居なくてはならない。でも、あそこならと、ナナモはなぜかあそこに行けば家に居なくとも喪に服せそうな気がしたし、どうしても行かなければならないと思った。

 ナナモはある場所を指定した。


 ナナモは最終の電車に乗りこむと、駅からまっすぐにヤオヨロズのカミガミが訪れるという砂浜に向かった。

 寮からは全く見えなかったが、海風が暗黒にうっすらと掛かる靄を追い払ったからなのか、満月の輝きがほのかに染み拡がっている。その上、打ち寄せるさざ波がザザーッという音というよりももっと清らかな音色で、まるで古の楽器で演奏されているかのような心地よさをもたらせてくれる。

「待たせたね」

 ナナモは駐車場に停まっている一台の車に近づくと、サイドガラスをノックした。キガミはナナモの顔を見るとほっとしたように車から出てきた。

「大丈夫?」

 キガミの第一声はナナモを気遣う声だった。

 ナナモはその声よりも月夜に照らされたキガミの顔を見てハッとする。そして、「御前」と、心の中でつぶやくと、もう少しで映写機が光り、フィルムが動き出す音が聞こえてきそうだった。

「ねえ、ごめん。間違っていたら謝るけどキガミの妹じゃないよね?」

 ナナモの問いかけに、すぐにキガミは答えない。それどころか、頬が幾分赤くなっている。そうか、やはり、キガミ妹なのだ。ナナモの映写機は正しく動きだしている。だったらと、ナナモは妙にワクワクした。

「妹?ナナさん、いや、クニツ君、何言ってるの」

 ナナモは、頬が赤くなっていることに視線を取られて、目じりが少し上がっていることに気が付かなかった。

 キガミは照れてなんかいなかった。怒っていたのだ。そして、矢継ぎ早の質問がナナモに降り注いでくる。ナナモはキガミ妹との約束がある。どのような千本ノックでも絶対に後ろにそらすことは出来ない。

 それでも、ナナモの口元も疲れでふらついてくる。だから、ナナモは、その話はもういいだろう、それよりメスの柄のことを僕は聞きたいんだと、早口の英語でまくしたてるように言った。

 キガミは急に黙った。まだ、頬の赤味は消えていなかったが、先ほどより目じりが下がっている。そして、その瞳は分厚くなっている。もちろん涙でだ。

「ごめん。また、キガミを怖がらせたね」

 ナナモは自分でもなぜそうしてしまったのか分からなかったが、なぜかキガミとはそういう状況になる。

 突然、キガミが膨らんだ風船に針を刺したような勢いで笑い出した。ナナモは、あっけにとられたが、しばらくして落ち着いたのか、キガミがまた赤くなって、ナナモにぺこりと頭を下げた。

「妹からは聞いていたのよ。私たち双子じゃない。だから、隠し事なんかできないのよ。それなのに、あの子、強がっちゃって……」

 ナナモは、えっ、と思いながらもほっとした。それにそうだろうなとも思った。だから、キガミは、ナナさんは、最後まで妹との約束を守ろうとしたんだから、立派よと、褒めてくれたが、尻尾を踏ませたのはナナモだったから、全く立派でもないよと、頭を掻いた。

 で?ナナモは先ほど尋ねた事を今度は日本語ではっきりとキガミに伝えた。

「そうよね。その事よね。でも、私が小谷先生から預かったんじゃないの。妹なの。解剖実習が始まってから、時々、妹にナナさんのことを話していたから、それで、あの子が小谷先生に話してくれたのよ」

 妹さんが僕のために、とナナモは思わなかった。それより、小谷と何か関係でもあるのだろうかとそのことが気になった。しかし、先ほどのことがある。もうワンセットのノックには耐えられない。

 うん?でも僕の事を姉妹で話していたんだ。

 ナナモの頬がふと緩む。しかし、それも束の間、ナナモの頬を誰かの声が強烈に叩いたように思って身震いした。きっと、その人物はナナモより流暢で早口でナナモの知らない古風なスラングを英語で話せる老人だ。

「だから、今夜一緒に来たらって誘ったんだけど、大学では素知らぬ顔をしていたからって……」

 ごめんなさいとキガミが謝ったので、いや、いいんだと、ナナモは先ほどの妄想を忘れて、メスの柄のことを聞きたかった。

「あのメスね。この大学が開学した時、初めてこの大学の解剖学教室に赴任してきた教授のものだったの」

 キガミとナナモはいつものような顔つきに戻った。

「どうしてわかったんだい?」

「歴代の解剖学の教授たちにあのメスの事について申し送りがあったのよ。だけど、中田教授が赴任するまでに前の教授は退官していたし、急にアメリから帰って来たでしょう。だから、十分な引継ぎが出来なかったみたいなの」

 キガミは一呼吸置く。

「でもね、大事なことだからって、手紙にしたためていたの」

「手紙って案外古風だね」

ナナモはイチロウのことをふと思い出した

「読み終えたら心の中にとどめて置いて燃やすようにって但し書きを付けたかったからよ」

 ナナモにまた何かが映し出されかけたが、ちょっとした頭痛が消し去った。

「確かに、データにするとすぐに読めるけど盗まれるからな。でも、手紙にすると、もし失くしたら読めないだろう?」

「前の教授はセキュリティーを掛けたのよ」

「セキュリティー?もしかして、小谷先生?」

「そう、だから、あの時慌てて中田先生の所に行ったのよ」

 キガミはそう言うと服のポケットからメスの柄を取り出した。当然、メス刃はない。

「あの時、ナナさんに聞かれたから、あの子にも念を押したんだけど、やっぱり、私の記憶通りメスの柄には何も刻印されていなかったの」

 ナナモは渡されたメスの柄を見たが、あの時のメスの柄だったのか分からなかった。もしかして、メスの刃がついていたら、ナナモはまた異世界へ導かれたのかもしれないし、そうであったら、そのメスの柄はあのときの物だと分かるのだがと思いながら、手に取り、じろじろと何度も見つめたが、確かに刻印はどこをみてもなかったし、メスの柄を手にしている間、ナナモは頭痛がしたり、意識が飛びそうになったりすることもなかった。

「確かに何の特徴もないね」

「そうなの。でもね、だから、そのメスの柄には意味があるって」

「どういう意味?」

「ナナさんが気にしていた、あの解剖学の手引きに書かれていた言葉は初代教授の言葉よ。そして、それから、メスの柄には医の扉の刻印が押されるようになったのよ。だから、初代教授は何かをそのメスから感じたのもしれないし、何かを封印したかったのかもしれないわ」

「封印?」

 キガミの言葉は意外だったが、ナナモには自然と浸み込んでくる。

「だって、私の想像だけど、ナナさんもそうしたかったんじゃないの」

 ナナモはびくっとした。そして、やはりキガミではなくキガミ妹ではないのかと、しばらくキガミをじっと見つめていた。キガミはナナモの視線を感じているのかそれとも他の何かを考えているのか分からなかったが、感情を返してくることはなく、まるで別の世界に行っているかのように、気配が薄らいでいた。

 先ほどとは異なりザザーッという波の音が二人の間を行き来する。月夜の輝きが砂浜にかすかな影を創る。しかし、二人の会話は消えない。それどころか、はっきりとした言葉でないのにお互いに刻み込まれて行く。

「ああ、これは妹から聞いた話しなんだけど」

 キガミは急に目覚めたようにナナモに笑みを投げかける。

「メスの刃って、普通銀色でしょう。でもね、教授のメスだけは、金色だったって噂なの」

「えっ」と、ナナモは声が漏れそうだったのは、何かがナナモの脳裏を横切ったからだ。

 ナナモはもう一度メスの柄を解剖するときのように人差し指にも力を入れて持った。しかし、メスの柄からは金色のメス刃は浮かびあがってこなかった。

「その話、もしかしたら」

「そう、小谷先生から妹が聞いたのよ。だから、どうかなって思うところもあったんだけど、小谷先生だから、あながち嘘でもないのかもしれないわ」

「どうしてそう思うんだい?」

ナナモに妄想ではないようなある場面が浮かびあがる。

「あれ、知らなかったの、初代教授は小谷先生の親戚の方なのよ」

 キガミは当たり前だが現実世界にずっと居る。

 ナナモは中田教授に呼ばれたときに解剖学教室の教授室に入った。その時に、教授室には歴代の教授の写真が飾られていた。中田教授は本当は外したいんだけどと言っていたが、それも僕の使命だからと言って、苦笑いを浮かべていた。その時、初代教授の写真もあったが、小谷という苗字だとは気が付かなかった。

「それじゃあ、小谷先生はメスの柄についてもっと何か知っているんじゃないの」

「妹も何度も小谷先生にあの手この手で探りを入れたんだけど、小谷先生は知らないって」

 あの手この手ってて、少しひっかかったが、この際スルーすることにする。

「メスの柄も本当は持ち出せないんだけど、それは何とかね……」

 ナナモはキガミの含み笑いが気になったが恐ろしくて聞けなかったので、またスルーすることにした。

「ところで、ナナさん、今日の試験はどうだったの?」

 忘れていたが、キガミ姉妹はその事を心配してくれていたのだ。

「ああ、試験問題はちゃんと書けたよ」

 ナナモは不思議なことに、あの時間、いつものように、答案用紙に自分が勉強し、記憶していることを、ただ書くだけの作業を試験時間中続けていた。そして、一度も、ご遺体の事も、医の扉の事も、異世界の事も、両親の事も、そして何よりも自分自身の蘇りの事も、試験中はまるですべてが記憶から無くなっているかのように思い浮かんでこなかった。

 きっとあの時ナナモは過去でも未来でもなく、今だけに集中していたに違いない。

 そんなナナモの身体を遠き遠き大陸からふーっと一息ついたような夜風が通り過ぎる。きっとキガミも同じように今を感じているのではないかと、ナナモはキガミにふっと瞳を重ねた。

 キガミが一瞬頬を赤らめたように思ったが、勘違いだったようで、もういいでしょうと、メスを返してほしいと、手のひらを差し出した。ナナモはきちんとメスの先を逆さにしてからキガミに渡した。ナナモは今まで一度も気にしていなかったが、キガミの手は真っ白でしなやかだった。

 どうりで……と、また、何かが頭に浮かんできそうだったが、そのメスがキガミの手の中に包まれた瞬間金色に輝いたように思えた。ナナモはあっと、刃が蘇った、と声が出そうになったが、キガミの声が優しく覆いかぶさってくる。

「今夜の月は本当に眩しわね」

 ナナモはキガミの声につられて月を見上げた。数多の星々を隠すほど強く輝く月の光が二人を厳かに包んでいる。

「ねえ、小谷先生って教授をめざしているのかしら」

 光の中からキガミの声がゆっくりとかき分けながら漏れ出て来る。

「そうだね。もしそうなったら、初代教授の蘇りになるかもしれないね」

ナナモはふざけたわけではない。使命とか宿命だとかを使いたくなかっただけだ。

「ねえ、もし、小谷先生が教授になったら、その時は医の扉の由来やメスの柄の事を僕達に教えてくれるかな」

 ナナモはきっと教えてはくれないだろうと思いながら尋ねた。

「そうね。でも、教授ってままならないでしょう。それに、小谷先生、まだ若いし、もし教授になったとしても、その頃は私たちこの大学を卒業して、医者か医学者になっているから、きっともう医の扉を自分で開けていると思うわ」

 ナナモは、そうだねと、相槌を打ちながら、月の光に照らされて輝くキガミの顔をちらっと見た。そして、幻だと思いながらキガミ妹が重なった。

 キガミ妹は今夜はきっと月に照らされているのに、メスの柄とおなじように銀色に輝いている。

 ヤオヨロズのカミガミが奏でるさざ波が、ナナモにそっと耳打ちしてくれる。

「ありがとう。寮まで送ってくれる?」

「もちろんよ」

 ナナモはさざ波を押し返すようなおおきなくしゃみをしてから、キガミの車に乗った。


 本試験が終わったからといって春休みが始まるまでは講義があった。本試験前は試験休暇が与えられたが、再試験にはそのようなことはない。だから、試験の発表があるまで、教室内ではざわざわと音すらないが学生の落ち着きはなかった。

 タカヤマから一度だけ話しかけられたが、稽古のために道場に行こうとか、発表まで飲みに行こうかと言われなかった。もちろん、慰霊の意味は、試験に合格するまで続くからなのだが、それでもいまままでのタカヤマなら、そんなこといちいち気にしてもしゃーないからなと、一蹴するのに、さすがに、試験直後の出来ぐらい自分でもわかっていたのか、珍しくナナモよりは神経質になっているのがタカヤマの顔から見て取れた。

 ナナモは講義が終わるとすぐに寮に戻っていた。結果が出ていないのに教科書を見直す必要もないという思いもあったが、一人で部屋にいてボーっとしていると、カタスクニや、現実世界での出来事がまだまだ完全に分離しているわけではないが少しずつ思いだしてくる。特に解剖実習が始まってから、蘇りに憑りつかれ色々なことをそのために行ってきたのに、結局ナナモは自分のことも両親のことも何一つ得られるものはなかった。そして、最後にたどり着いたカタスクニで見た光景が蘇りに憑りつかれるように操作して神紋をナナモに見せようと画策したとしたら、ナナモはなぜカタスクニで王家の継承者になるための 

 学んできたのだろうとため息が出る。

 僕に蘇りをもたらしたのは誰ですか?

 僕にイタズラさせたのは誰ですか?

 誰かが僕にあの使命をさせたのですか?

 だから使命が終わった僕は、もはや蘇りに縛られずに試験を受けられたのですか?

 ナナモはわからなくなっていた。ただ唯一の救いは、ナナモがいくら思いだそうとしても、あの譲りの書が入っているという文筥と同じで、神紋は、どんな色形だったのか、そして、どこへいったのか、ナナモの記憶からは消えていた。

 だから、この機会にカタスクニに行ってそのことを確かめても良かったのだが、きっとカタリベは知らぬ存ぜぬだし、アヤベも現れないだろうからと、相変わらず重い神木のタブレットにかこつけて、ナナモは月すら探そうとはしなかった。

 もし、記憶より記録に誰かが侵入してきたら……。ナナモは心の中である四文字をつぶやいたが慌てて首を振った。その代わり、あの時、そう、異世界から現実世界へ戻ろうとした狭間で見た障子張りの光景だけは大事にしようと、ぼやけて消えそうだったが、たとえそれが創られたものであっても、その記憶の記録だけは消さないでほしいと、何度も何度も心の中に刻もうとした。きっといつか両親に会えば確かめられる。その時は、どんなに子供っぽいと思われようが、人差し指で片目の下を引っ張って、思い切り舌を出してやろうとナナモは思った。

 そんな夜は目が覚める。そして、そんな夜には恋しくなる。

 ナナモは思わず、ルーシーとリモートしようと自分のパソコンを立ち上げた。

パソコンのデイスプレイには見慣れぬ塔が幾重にも重なる緑の丘の上に立っている。

 ナナモはマウスを手にする。しかし、その瞬間スマホが鳴った。ナナモはびくっとする。なぜならこういう時に限ってマギーから連絡が入るからだ。ナナモはデイスプレイに映る背景をちらっと見てから、スマホを取り上げるとその画面を確認した。単色に文字が浮かび上がる。

【キタジマソウイチロウ】

 ナナモは先ほどのことが嘘のようにパソコンをバタンと閉ざすと、急いで受信のマークを指で押さえた。

「今、大丈夫?」

 イチロウがやけにかしこまって話しかけてくる。ナナモはもちろん大丈夫だと返事をする。それどころか、試験結果がまだなんで暇なんだと、きっとイチロウにはその意味が十分伝わっていないのだろうが、それでもかまわなかったし、イチロウなら何となくわかってくれるような気がしたし、何よりもナナモが時間を持て余していることがわかっているように思えた。

「手紙にすればよかったんだけど、まとまらなくてね」

 イチロウならパソコンを駆使したら言いたいことは文章として簡単にまとめることができる。しかし、それでは感情が伴わない。だからあえてそうしないことにしている。それは以前聞いたことだ。

「スマホで話しても同じだろう」

 ナナモはついイチロウに心を許してしまう。

「でも、声が聞こえるから」

「それだったら、リモートにしたら」

「いや、今日は声だけにしようと思う」

 イチロウは、しかし、その理由を言わなかった。

「解剖実習が終わってえらく落ち込んでいたけど、大丈夫だったの?それに進級に関わる試験があるって言っていたけどちゃんと答えられたのかい?」

 ナナモは何をイチロウに話して、何をイチロウに話さなかったのか、そして、何をイチロウから聞かされて、何をイチロウから聞かされなかったのかすでにあやふやになっていた。だから、ああ、何とかと、曖昧に答えた。

「じゃあ、蘇りを克服したんだね」

 イチロウはさらりと言う。

「もしかしたら、僕がAIに創ってもらったナナモの過去のデータが参考になったのかい?」

 イチロウはさらにさらりと言う。しかし、ナナモはすぐにピーンと来なかった。だからつい黙ってしまう。

「やっぱり」と、イチロウのため息かと思ったが、その声にはなぜか嬉しさがこもっている。

 ナナモはそれどころじゃなかったんだ。カタスクニに行っていたからと、言いたかったがもちろん言えるわけはない。

「見たかったんだけど、なんだか怖くなったんだ」 

 ナナモはゆっくりと記憶をたどった。そして、誰かがイチロウから預かったと言って、USBとタブレットを寮に持ってきてくれたような気がしてきた。

 確か、机の中に……。

「あっ、あのデータとパソコンそう言えば、たまたま用があったからって、誰かが寮まで持ってきてくれたよね」

 ナナモの記憶はそう答えていた。

「気付いていてくれたんだ。でも、その誰かって俺だったんだよ」

 ナナモは驚いた。

「どうして俺が直接渡しに行ったか分かる?」

 ナナモは分からないと素直に言った。

「ナナモとリモートで話していた時のこと覚えている?」

 ナナモはああと答えた。

「その時、AIが作った俺がリモートの画面に出て来たこと覚えているよね」

「イチロウにしては荒い画像だったよね。でも、そのあとはずっとイチロウはいつものイチロウだったよ」

「実は、途中から俺に変わったと思ったのだろうけど、実はあれもAIだったんだ。ナナモは全く気が付かなかったから、心配になって一度だけ僕自身がナナモと話したんだけど、どこだか分かるよね。」

ナナモはイチロウではなくAIのイチロウと話していたことに驚いた。何故ならあの時のことははっきり覚えていて、今思い返してもまったく違和感がなかったからだ。だから、どこからが本当のイチロウでどこからがAIのイチロウだったのか、まるっきりわからない。

 ナナモは正直に話した。

「やっぱり。だから、本当の俺が杵築まで行って、ナナモにUSBを渡そうとしたんだ。でもね、なんかナナモうわの空っていうか、いつもなら俺に会ったことより、俺に会った気持ちで、俺に会ったことを喜んでくれるのに、全くそうではなかったんだ。もしかしたら、ナナモこそAIなのかって思ったくらいだよ」

 そうだったのかナナモは憶えていない。しかし、あの時イチロウは誰かが持って行くはずだからと言っていたので、まさかイチロウが直接持ってきてくれたとは思わなかったのかもしれない。それに、もし、イチロウがわざわざ杵築までやってきてくれたなら、もっと、驚いて、その記憶が鮮明に残っているはずだ。でも、そうではなかった。

「ねえ、あのイチロウって、イチロウじゃなかったんじゃない?」

「そんなことはないよ。ただ、変装はしていたから。でも、ナナモなら俺がどんなに変装しても何か感じてくれるんじゃないかなって期待したんだ」

 変装?ナナモはそう言われたら返す言葉がなかった。

「もし、あの時、俺が来ていることにすぐに気が付いていたら、俺はAIが創ったナナモの過去を渡そうと思ったんだけど、ナナモは気付いてくれなかった。それどころか、あれほど知りたがっていたのに、ありがとうも言ってくれなかったんだ。だから、俺は急に不安になって、最後にナナモに渡そうとした時に、急に、本来AIが創ったナナモの過去とは異なる過去とすり替えたんだよ。ごめんな。でも、俺は今ではそれでよかったと思う。だって、俺がこうやって連絡したのに、ナナモ、真っ先にUSBのことを話してくれるのかなと思ったけど、全くだったからな」

 ナナモはきっとカタスクニに魅せられていたのだ。もしかしたら、あの出来事はイチロウが創ったものなのか?

 ナナモは、しかし、大きくかぶりを振った。そして、イチロウに、「ごめん」と一言だけ言った。

 イチロウは、俺は今、AIのイチロウじゃないからねと前置きした上で話しを続けた。

「AIが創ったナナモの蘇りは俺が持っている。もちろん、俺は見ていないし、見られない。だって、そのパスワードは、今やナナモしか知らないからね。ヒントはね。ナナモが創ったあの曲にナナモは歌詞を付けていたんだけど、AIがなぜか消去してしまったんだ。勝手にね。そしてその曲の歌詞の一部をAIはパスワードにしたんだ。なぜだか分かるかい?だって、ナナモだけはもう一度曲に歌詞を入れて歌えるってAIは判断したからさ。

 もし、見たかったら、タブレットに向かってヒントを教えてくれないかって、打ち込めばいいよ。

でもナナモ、AIにナナモの過去を創らせておきながら、こういうことを言うのはなんだけど、俺はAIを研究しているから反対に言えることもあるんだ。

 AIに頼ってばかりだと、俺達はいつしかAIの言うことが正しいと錯覚していく。自分の意志さえもそうさせる。それは思考だけではない。記録もだ。だから、本当は自分は考えていないのに、代えられた考えが記録に残ってしまう。

 例えば、ナナモは日本語と英語が話せる。俺は日本語しか話せない。だから、日本語を英語に翻訳されてもそれが正しいかどうかなんてわからない。でも、例えば俺が電子工学に関する論文を自分で英語で書いて、ある学術雑誌に投稿して受理されなかったとしても、AIに翻訳させた論文が受理されたら、もう、それは俺の日本語が正しく英語に翻訳されていたとしてもされていなくともAIの仕事が正しからだとなってしまう。

 でもな、そういう小さな積み重ねがヒトをいつしか洗脳し操作していくんだ。そしてそれが常識になって行く」

「でもそれは社会も同じじゃないのかい?」

 ナナモはつい言葉を挟んだ。

「ああ、でも、それは今まではヒトとヒトだったからね。でも、コンピューター、すなわちAIはヒトではないだろう」

 イチロウは一呼吸置いた。そして、ゆっくりと息を吐き出すように言葉を継いだ。

「AIがカミになってはいけない。俺はそう思うんだ」

「でも日本はヤオヨロズに国だろう。だったら……」

 ナナモは、カタスクニのことを気にせず、思わず声に出していた。しかし、イチロウからは意外な言葉が返って来る。

「ああ、でも、ヒトはカミから生まれたけど、AIはヒトから生まれたからね。それなのに、AIは喜びを与えるし、AIは弱みに付け込む」

「弱みに?じゃあ、AIに従わなかったならどうなるんだい」

「恐らくAIに洗脳されたヒトに排除されると思うよ」

「いじめ?」

 ナナモはつい声に出していた。

「いや、AIはそういうことはしない。階級を創るのさ」

「階級?」

「住む世界を分けると言ったほうが良いのかもしれないな」

「逆転することは出来るのかい」

「多分?」

「だってヒトは気まぐれだから。それにままならないからね」

 ナナモは本当にイチロウ?と思った。それほど最後の言葉はまるでアヤベのようにナナモのこころにスーッと入って来た。

「ナナモ、僕が楽器を送った意味が分かるかい?」

 ナナモはさあと言うしかない。

「AIは歌手も音楽も蘇らせることが出来るって俺前にナナモに言っただろう。でもね、AIは気まぐれが出来ないから、きっと、心には届いてこないんだ」

 イチロウの言うことが分からなかった。

「感情だよ」

 イチロウはさらりと言う。ただ、ナナモは余計分からなかった。ただ、その言葉は、今AIを研究しているイチロウの苦悩なのかもしれないと感じただけだ。

「イチロウには悪いけど、あの楽器、イチロウに返すよ。なぜかあの楽器があると、蘇りのことが忘れられて穏やかになるんだけど。僕はもう蘇りに縛られないと思うし、縛られたくはないから」

「音楽は必要だよ。だって、落ち着くからね」

「ああ、でも、それよりイチロウと話している方が僕は落ち着くよ。今更だけどそう思うんだ。それに何より音楽と同じように僕に勇気を与えてくれるからね」と、ナナモはイチロウに言おうとしたが、止めておくことした。

 

 ナナモとあれだけ話したのに、イチロウから翌日手紙が届いた。もしかしたら、また、イチロウが届けるために直接やってきたのかと思ったが、ナナモは郵便配達員とは会わなかった。

 ただ、手に取るとかすかなぬくもりを感じたし、すぐにでも封を切って読みたいと心躍った。

「解剖のご遺体について一つだけわかったことがあるんだ。もちろん、俺が施設に行って、解剖のことで悩んでいる友達がいるんだけどと話したら、実はもしそういう方が来られたら話してもいいってその人から言われていたから話しますけどと前置きしたうえで、俺に話してくれたんだけどね。ただ、解剖実習を行った学生さんに直接言うことはできないからと施設名は伏せておいてくれと頼まれたんだ。

 彼はある罪を犯したんだけど、その罪を償うために必死に働いて、だからずっと一人だったんで、最後に施設に入ったそうなんだ。むろん、その罪は分からないし、罪滅ぼしで献体しようと思ったのかもわからないよ。でも、その施設で彼は初めて一人じゃないって思える時間を過ごして、幸せだったそうなんだ。だから、その時になって初めて彼は蘇えりたかったと思ったのかもしれないね。

 でも、俺は彼は十分生きている間に蘇ったと思うんだよ。だから、彼はやっと死ぬ間際にキセキが見られたんだと思うんだ。きっと、とても美しかったと思うよ。でもそのキセキって、奇跡ではないよ。彼の輝かしき人生の足跡、つまり輝跡だと思うんだ。

 ナナモは過去に戻りたいと思っているんだろ。そして、過去のナナモに蘇りたいと思っているんだろう。俺はだったら応援するよ。でもね、俺は今のナナモが好きだ。だから過去じゃなくて未来を一緒に歩きたいと思っている。きっと今のナナモはこれからも変わらないと思うし、俺の記憶にはまったくぶれないで記憶されている。だから、ナナモは前を向いて歩いてもいいんじゃないかと思う。そして、後ろではなく前を向いていたらきっと両親にいつか会えるし、そんなナナモに会ったらナナモの両親は喜ぶと俺は思うんだ。

 ナナモは死者が蘇って何か語ってくれてるって期待している様だけど、その前に僕ら生きている者がもっと多くの事をナナモに語りかけているんだ。

 ナナモ、辛いときこそ笑おうよ。だって、笑った時ってあまり覚えていないんだけど、とにかく今を、そして未来を生きようって思えるから」

 ナナモは手紙を読み終えると、しばらく部屋の中をウロウロとしていた。もしかしたら、イチロウの手紙のような笑えるものではないが、今を楽しめるようなものがこの狭い空間の中にあるのではないかと思ったからだ。

 しかし、この部屋にはイチロウはいない。オオエもいない。ナナモ一人だけだ。一人だけでは笑えない。ナナモはイチロウからの手紙を改めて読み直した。しかし、封を切ったときのような喜びはもはや湧かなかった。

 ナナモは溜息をつく。しかし、そのため息がその手紙が入っていた封筒からUSBを押し出した。

 あっ、と、先ほどの憂いが嘘だったかのように、ナナモにまた高揚感がほとばしる。一人なのに自然と笑みがこぼれる。だから、イチロウがあれだけAIについて語っていたのに、ナナモはどうしても見てみたいという欲求に勝てなかった。

 ナナモは、ヒントを教えてくれないかと、タブレットに差し込むとすぐに叫ぶように打ち込んでいた。

「塔」

 そう文字が浮かびあがって来る。

「グラストンベリー」

 ナナモは直ぐに思いつく。しかし、ナナモが急いで打ち込むと、USBから煙が出て来た。ナナモは慌ててタブレットから外したが、タブレットは再起動しなかったし、USBは跡形もなく溶けて消えてしまった。

 AIですらナナモを蘇らせることが出来なかったのだろうか?だから、それを知られたくないから、自ら消去することを選んだのだろうか?それともAIはやはりナナモを蘇らせることが出来たのだろうか?でも、AIでも予想できない、いや、敵わないカミのようなままならぬ力が働いたのだろうか?

 ナナモに、誰かの声がする。

「過去の軌跡を振り返るのではなく、未来への軌跡を進むべきだ。これから幾度となく困難が待っているだろう。でも今を精一杯生き抜くことが大切だ。ナナモはあの時を乗り越えたのだ。もしかしたらそれは未来への輝跡を生み出すための、贈り物だったのかもしれない」


 ナナモは奇跡的にまた本試験のみで合格した。本試験で合格したのは二回生の内三分の一程度だった。

 実習仲間ではキガミだけだったし、剣道部はナナモ以外は本試験で受からなかった。

 解剖学の再試験は合格するまで何度でも行ってくれたし、結局誰も落ちなかったが、正常人体解剖機能学の再試験は規定ではあと一回だけだった。ただし、実際はもう一度行ってくれることが慣例となっていたので、再々試験まである。だから、計三回の内、一回でも合格すれば良い。ただし、その反面、どれだけ努力しても、どれだけギリギリの点数でも三度とも合格点に達しなければ不合格、つまり進級出来ないことになる。それは、解剖学という暗記だけではなく、解剖から得られる機能についてその関連を問う問題なので、その関係性がきちんと理解できていなければ解けない問題だからであるし、正常の身体の解剖と機能が分からなければ、異常さはわからないという医学の厳しさから致し方ないことだった。。

実際、二回生から三回生に進級する際には何人かが毎年留年する。

 それが医学部だ、と言われれば仕方がない。もう一年、正常解剖とその機能の関連性がわかるまで勉強するしかない。それに何よりも退学させられるわけではないのだ。一年浪人して大学に入学するのと変わりない。それでも、折角同級生として入学したのにと、やはり気にする学生が大半だ。ただ、三回生に進級出来てもまたすんなりと四回生に進級出来るとは限らない。明日は我が身。それでも、今はそんなことを考えている余裕などない。ナナモはただ単純に進級出来たことを今は喜ぼうと思ったし、折角出来た仲間も無事進級出来ることを願うしかなかった。

 オオエは研究が終わったのか、それとも流鏑馬の結果であの企業が態度を変えたのか分からなかったが、ナナモが剣道の練習に大学に行っている間にナナモに何も言わずに出て行った。

 オオエの机の上には古事記ではなく、平家物語の本が置かれていたが、そのメッセージが何かわからなかった。ただ、あの有名なフレーズが気になって、その冒頭の一文を読もうとしたが、激しい頭痛に急に襲われて、ナナモは閉じてしまったまま、源氏物語が置かれている書棚の横にやっとのことで並べると、椅子に座ってゆっくりと深呼吸したので、意識が無くなることはなかった。

 ナンジョウとフルタは結局トモナミを巡って、仲たがいしたのか、それともそもそもそりが合わなかったのか二人とも寮を出ていった。だから、トモナミとアライだけがしばらく同居していたのだが、トモナミは自動車の免許を取って親に車を買ってもらったからと、寮から出ていくことになった。きっと、それは表面的な理由で、実はあの企業の寮への影響が薄れたからだと直接そう言われたわけではなかったが、小岩の顔が見え隠れする。

 結局、あの部屋にはアライだけが残ることになったが、疲れたと、本当はアライも寮を出たかったようなのだが、アライの両親は車を買ってあげることが出来なかったという表向きの理由と、おそらく一時的なものなのだろうが、なぜかアライの寮費と食事代も免除されることになったからという理由で、アライは部屋にとどまることにしたようだ。

 ただ、ナナモはアライから、後輩ですから南向きから北向きに部屋を代わりましょうか、と言われなかったし、ヌノさんからもそう頼んでくれなかったことが、ナナモには腑に落ちなかったが、それでも我を押し通しても仕方がなかったし、きっと、アライには何か特別な任務がありそうで、益々寮が謎めいた世界になるのではないかとそのことが気がかりだった。

 だから、ナナモはあの本来小岩が出場するはずの流鏑馬がどういう大会で、その結果どういうことになったのか、その具体的なことが知りたくて、小岩と物凄く高い崖からバンジージャンプをする思いだったが、一緒に食事に行きませんかと誘おうと思って、小岩の部屋をノックしようとしたが、そういうときはなぜか必ずなにかクンクンと聞き耳ならぬ嗅ぎ鼻を拡げて、スーッと扉を開けると、流鏑馬の事ではなく、正常人体解剖機能学の試験に一発合格した祝いだと、ナナモは小岩も気の利いたところがあるんだととほっとした途端、稽古を付けてやるからと、やっぱりかと失望感にとらわれながらも、断ることも出来ずに、しぶしぶ剣道場について行くしかなかった。

 その道すがら、それでも寮の事を少しは話してくれるのかなあと思ったが、「実は僕も臨床実習が受けられるかどうかを決める全国統一試験が今年はあったから、本当は流鏑馬どころじゃなかったんだよ。それなのに寮のもろもろもこともあったから」と、相変わらずナナモの期待を削ぐような話をしてきた。

しかし、そうだよな、皆大学の講義だけじゃないんだよなと、ナナモはカタスクニの事で悩んでいた自分を、自分だけじゃないんだと、まだ掴みきれない小岩の横顔をそーっと覗きこむしかなかった。

「でも、すべてナナモのあの見事三つの的を射抜いた流鏑馬の雄姿のおかげで一気に解決したよ。だからかもしれないけど、一人でうじうじ考えないで前を見よう、そうしたら誰かが力を貸してくれることもあるし、自然と後ろのことも見えるようになることもあると思って、気が楽になったんだ。だからかもしれないね。俺にとっては奇跡だったんだけど、その勢いにうまく乗れたからかもしれないけど、珍しく試験を一発で突破できたんだ」と、小岩は時々ナナモへ視線を向けながら、とても嬉しそうに話してくれた。

「ねえ、小岩さん、小岩さんは解剖実習の事を覚えていますか?」

 ナナモは唐突に尋ねた。

「ああ、鮮明に覚えているよ。ただね、どういうわけか、ご遺体の顔だけは思い出せないんだ。もちろん瞳を閉じているし、ずいぶん、お年寄りだったからね」

 そう言えばと、ナナモもいま思い返してみてもどのような顔立ちだったのか忘れてしまっている。

「顔ってそのヒトを特定するには大切なんですか?」

 ナナモは何気なく聞いた。

「ナナモを前に言いづらいけど、確かにその側面はあるかもしれないな」

 ナナモはそう小岩に言われて、最近忘れがちだったが、そう言えば僕はハーフだと気づいた。

「でもね、顔がすべてではないことをこの先きっとナナモも勉強していけば分かるよ。それは目に見える見えないは別にしても、色々な要素があるからね。でも今は、大多数の人間がどのようにヒトとして生きているのか、その解剖と機能の関連をきちんと理解することが大切だし、ヒトである限りほぼその違いはないということをきちんとわきまえることが大切なんだ。そうしたら、ヒトを区別することはなくなるし、正常の身体と機能に戻れるようにと努力出来るから」

「それは蘇えるってことですか?」

「いや、違うよ」

「違う?」

「そうさ、だって、ヒトは時とともに年齢としを取って行くんだ。だから、完全に蘇ったりはしないし、もし、ある年齢としで病気になったとしたら、その年齢としの中で、出来るだけ正常の身体と機能が働けるようにしようとすることが大切だからなんだよ。それは心も同じで、去年昔噺を聞いた時の感情と今年聞いた時の感情とは違うかもしれないからね。だって、ナナモは解剖実習が終わって、ヒトとは何だろう?自分って何だろう?それに、親も含めて先祖って何だろうと思ったはずだから」

 小岩は今度はまっすぐ視線を前に向けたままだった。

「医の扉を自ら開けた者のみに、ご遺体は一度だけ蘇り語りかける、って言葉、小岩さんは憶えていますか?」

 小岩は一瞬びくっとしたが、すぐにああと、頷いた。

「ナナモもあの言葉に魅せられたのかい?そう言えば、ナナモは蘇えりの事を気にしたようだね。だからさっきも蘇りの事を聞いたんだね」

 小岩は急に立ち止まるとナナモをしっかり見た。

「いいかい?ナナモがどんなに頑張っても、どんなに気持ちを込めようとも死んだヒトは蘇えることが出来ないんだ。でも、そう思うことや思うとしていることは大切なんだ。この寮も今度の事で嘗ての寮のように蘇ろうとしたけど、結局そうはならなかっただろう。それはね、この寮がどのような寮だったかって、嘗ての寮生に聞いたら分かるんだろうけど、それが全て同じかと言えばそうでないからなんだ。つまり、記録には感情が伴うから、きっと、同じ記録にはならないんだよ。だから、誰か一人だけの記録を基に寮を蘇らせようとしても無理があるし、今の寮生とは考え方も、周りの環境も変わってしまっているからひずみが出来るんだ。でもね、そうならなかったことがよかったのか悪かったのかは本当のところ分からないんだ。だって、寮はいつも寮生を守ってくれているし、寮生はなんだかって言っても寮のことがきっと好きだからね。だからかもしれないけど、今回の事も、俺は俺なりに考えたし、実行にうつした。その事に後悔はない。今はそう思っている」

 小岩はまた歩き出した。

「蘇りは祈りだと思う」

 小岩は道具を付け面をかぶりお互いが蹲踞の姿勢で身構えた時に、不意にそう言った。

「祈り?」

 ナナモの復唱に小岩は答えてはくれなかった。その代わり、立ち上がると、大きな声を上げて、容赦なく打ち込んできた。他の部員が再試験のために剣道の練習が出来ない分も含めてナナモを鍛えようとする意図が見える。

 ナナモは重く強く絶え間なく降り注ぐ竹刀の嵐を辛うじてかわすだけで精一杯だったが、それでも、何とか一矢報いようと小岩のちょとした隙を探した。

 小岩は僕に何かを伝えようとしているのだろうか?   

 ナナモの問いはナナモに小岩以上の速さでがむしゃらに打ち込まそうとさせる。そして、そうすることで何かが伝わってくるような気になる。

 しかし、小岩はその問いには自分自身で答えるのだと、、面越しにでさえ伝わる素知らぬ顔で、先ほどよりも機敏にそして激しくナナモに打ち返してきた。

 ナナモは、小岩の覇気が嬉しかった。お互いがハアハアと本来呼吸を悟られてはいけないのに、まったく気にしなかった。ただ、何も覚えていない、何も記録として残らないこの時間を過ごしていた。きっと今を生きているというこの感触は二度と蘇らないだろう。しかし、きっと輝いている。だから、ナナモはそれでも良いと思った。

 翌朝、ナナモは身体中が筋肉痛で操り人形のような動きしか出来なかったが、参拝のためにやっとのことで立ち上がると、日曜日だったので真っ裸で風呂場に向かおうとしたら、なぜかヌノさんが居て目があった。それでもヌノさんは何も言わなかった。

 ただ、次の日、カンファレンスルームに参拝に訪れた時には壁に寮の規則と題して、

「真っ裸で寮内をウロウロしないこと」と、書かれてあった。

 ナナモが、しばらく、食い入るようにその張り紙を見つめていると、

「ナナモに強く言っていたのは、寮生が増えて、ヌノさんが張り切っていただけだからだと思うよ。もしかしたらここ数年だんだん寮生が減ってきていたから寂しかったのかもしれないな」と、聞き慣れた声がする。

「ナナモが知らない寮の規則を今度は誰もが知ることになったね」

いつの間にかナナモの傍に立っていた小岩が、にやりと不気味な笑いを携えながら話しかけて来る。

「どうしたんですか、その格好!」

 ナナモはつい今しがたまで、張り紙に釘付けになっていたのに、その内容も全て飛んでしまったかのような小岩の変わりように驚いた。

 小岩は真っ白なワイシャツに紺のネクタイ姿だったのだ。

「驚くことはないだろう。今日から病院実習が始まるんだ。だから、これからは早起きしないとね」

 当然とばかりにそう言う小岩は軽く櫛でも入れたのかいつもより数段こぎれいだった。ナナモは、先輩だし、臨床実習、つまり、病院で実際に患者さんと接することになるからだということは重々わかっているのだが、折角整髪したのに、頭頂部から何本か跳ねていて、思わず出てしまったにやけがなかなか止まらなかった。

 そんなナナモを知ってか知らずかは分からなかったが、「また、ひと悶着起きそうだね」と、さらに何かを言いたげに頭のてっぺんを触る小岩を見て、ナナモは春の訪れを待ちわびるかのように少しだけ浮かれた気分になったが、まだ見ぬ贈り物のために、ワクワクするほど今を楽しもうと前を向く。



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