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ジェームズ・ナナモと蘇りの輝跡  作者: まれ みまれ
19/30

(19)ナナモ走る

「汗が目に染みるな」

 もう立冬が過ぎているのに今年に限っては異常気温なのか、降り注ぐ太陽の陽射しこそもうすっかり影を潜めていたし、鉛色の雲から吹き付ける西風も時々顔を覗かしてはいたが、ナナモ達はまだ半袖でボートを漕いでいた。

 ナナモは日曜日だけのそれも毎週ではない数時間の練習が十分ではないことを知ってはいたし、OB戦は催しの色合いが強いと聞いていたが、それでも競技なので何とか良い成績を治めたいと、剣道とは違う、チームとして臨むボート競技に没頭していた。

 ナナモは正直、オオエに誘われたから始めたのだが、何が面白いのだろうと始めは思っていた。なぜなら、剣道と違って、相手との駆け引きがない。ただ、ボートを前に進ませるため、オールを水面下に入れると、思い切って後方に水を捕まえながら蹴るという、単純な行動に終始すれは良いだけだからだ。

しかし、スピードを出さなければそれなりにボートは進むが、スピードを出そうと思うと、ナナモだけが自分の役割だけはこなそうと力任せに漕いでみても、ボートはまっすぐ進まなかった。

「力強くオールで水を押し上げることは大事なんだけど、ボート競技は、バランスが大事だから、まっすぐ前に進むには他のメンバーと呼吸を合わせないと」

 オオエに言われてナナモは始めてコックスのキガミ妹を意識した。

 キガミ妹のキャッチ、ローの掛け声は、最初は控えめで優しい声だったので、ナナモの耳に直線的に入ってこなかったが、スピードを上げるとまっすぐ進まなくなってくるので、練習の回数が増えてきたことも相まって、次第にナナモだけでなく他のメンバーの漕ぎ方に容赦なく大声で注意してきた。キガミ妹の声質は双子なのでキガミと同じだ。ナナモは解剖学実習の時のキガミの声とついだぶらせてむず痒い思いだったし、またあの時のように不安な気持ちになるのではないかと耳を塞ぎたくなる時もあったが、そうするわけもいかないし、キガミ妹の声に従うと皆が他の漕ぎ手の事も考えるのか、四人の息が次第にあってきて、まっすぐに進みながらスピードを上げることが出来たので、ナナモは聞かざるを得なかった。

 キガミ妹は司令塔なのだ。ただがむしゃらにしてもきちんと前には進まない。だから、その指示に従わないといけない。勝手な行動は許されない。

 ナナモはオールをしっかりと掴みながら改めて他の三人の漕ぎ手の気持ちを察しようとした。

「もう残り数回の練習でOB戦だね」

 オオエの声は皆を鼓舞するように響いた。ナナモはいつもの悪い癖で自分が他のメンバーの足を引っ張っているんじゃないかと悩むこともあったが、個性や体力の異なる四人が集まってボートを操舵することにもボート競技の面白味があるし、ボートという船を漕ぐという本来の意味もあるのよと、キガミ妹の励ましで、ボート競技が面白くなってきた矢先だったので、あと数回しかないのかと、あの不安な気持ちもいつしかどこかへ消えていた。

 ナナモ達は練習が終わるとすぐに帰れるが、ボートのメンテナンスのため、いつもではないがキガミ妹とオオエは在校生に混じって居残ることもあったので、そういう時はナナモは小谷の運転で六原と三人で帰った。小谷は大学の教官だし、六原は大学の職員だしと、特にナナモは一番年下だったので、あの無言の取り決めがあったが、何か話さなければならないと、二人に興味があるかどうかは分からなかったが、経験したことがないだろうからとロンドンでの生活の事を話すことが多かった。お互い疲れていたので、逆質問は少なかったが、それなりに相槌は打ってくれたので、今回は何の話題で話そうかと思っていたら、いつもはあまり前に出てこない六原が珍しく話しかけてきた。

「オオエさんからOB戦はボート競技を広めることが目的だと聞いていたけど、きちんとタイムを競って順位を決めるらしいよ。それも二回行って良い方のタイムを採用してくれるそうだよ」

「そうなんですか?僕はてっきり何艘か並んで競争するんじゃないかと思ってましたよ」

 ナナモはテムズ川でのボート競技を思い出していた。

「昔はそうしていたんだけど、素人なのに熱くなってスピードを出し過ぎて、まっすぐ進まなくなって事故がおきたようなんだ」

 ナナモはありえることだと思った。でも、誰か相手がいないとどれだけスピードを出しているのか分からないし、競技としての醍醐味が半減する。きっと、相手のボートなど目に入る余裕などなくて、コックスの掛け声に合わせてオールを漕ぐことだけで精一杯なのだろうが、それでも他のボートと勝ち負けを競っているという気配が少しでもあれば張り合いになる。ナナモは少し愚痴をこぼした。

「一応、二艇で走るらしいよ。でも、事故を防ぐために十分な距離をとるらしい」

 六原はそうですよねと、運転している小谷に同意を求めた。

「ああ」

 小谷は、きっとオオエから聞いて知っているはずなのに、それ以上語ろうとしなかった。ナナモは初日に挨拶を受けた時の好印象が最近少しずつ薄れていっているように思えて、しばらく、小谷の後ろ姿をじっと見つめていた。

「今年だけなのかどうかわからないんだけど、OB戦という催しを超えた少し大きな大会になるらしいよ。だからボートも足りないから他から借りて来たって。それに順位によっては豪華な賞品も出るらしいって噂だよ」

 ナナモの視線に気が付いたわけではないのだろうが、小谷は前を向きながら、柔らかな口調で話しに加わって来た。

「その話し、やっぱり本当だったんですね」

 六原は、噂噺がなんとなく耳に入ってきただけですからと前置きしたうえで、いくつかの賞品名を挙げた。

「でも、そんな高価な賞品をどこが提供してくれるんですか?」

 まさかOBが?と、ナナモは寮のOBが援助している栄光寮のクラウドのことを考えた。

「ある企業が協賛してくれることになったんだ。そうですよね、小谷さん」

 小谷は、また、ああ、と曖昧に返事した。ナナモはそのことであの企業だと確信したがあえて言わなかった。

「だから、頑張りましょうね」

 六原はその事が言いたくてしょうがなかったのかもしれない。

 ナナモはボートに乗れてまっすぐ進めたことだけで最初は十分満足だったが、目的は共通しているが憂鬱な試験が付きまとう大学の実習とは違った、単純にボート競技を楽しもうとする仲間と過ごす時間が何より楽しかった。それでも、次第により早くよりスムーズにと欲が出て来る。OB戦だとしても催しだとしても競技だと聞かされればギアが一段階上がる。だから、六原の気持ちも分からないわけではない。

 でも、小谷を含めて他の三人はそれほどはしゃいでいなかった。オオエやキガミ妹は経験者なので何となくわかるが、小谷はどういうことだろうとナナモはオオエの幼馴染だと聞かされていたので、今まで何度かボート競技の試合につき合わされていたからだろうかと、また、黙って運転している小谷のことが気になった。

 もしかしたら、あの解剖実習の時に疑問に思ったメスのことと関係あるのだろうか?

 ナナモの脳裏をふとよぎったのはメスの柄に刻まれた印のことだった。刻印は確か医の扉だったはずなのに、今、映ったのはそうじゃなかった。いや、見間違えかもしれない。

 ナナモが心の中で葛藤していると、六原の声がナナモを再び連れ戻しに来た。

「オオエさんから真っ白な体操着を着て、ボート競技には出るって言われたんだけど、クニツ君はその理由を聞いているかい?」

 ナナモは当然初耳なので、いいえと答えた。

 着替えはまさかのために練習の度に持ってはいっていたが、いつもはジーパンを履いていたし、他のメンバーもそれぞれラフな格好だった

「でも、僕、真っ白な体操着なんてもっていませんよ」

「真っ白な体操着は支給されるんだって。だから、用意しなくてもいいんだよ」

 ナナモはそれも今年だけですかと尋ねたが、六原は例年そうらしいよと、答えた。

 先ほどまで良く晴れていたのに急に鉛色の雲が暗幕を張ったかと思うと、雷が鳴り響き、そして、大きな雨粒がポトリポトリからゴオーっと、連太鼓で車を叩き始めた。その音は完全に車内の音を遮断した。

小谷は先ほどよりも前かがみになってハンドルを握っている。六原は無言でしかし、眉間に皺を寄せながら平然としている。

 ナナモは二人を交互に見つめながら、なぜその事をオオエは教えてくれなかったのだろうと、「でも真っ白な羽織はかまを着て行うわけでもないし、体操着も支給されるんだったら、オオエ先生もあえて言うことはないか」と、つい、小岩に言われたことを思い出して深読みしてしまったと、轟音にも次第に慣れてきたこともあって、瞳を閉じた。

「神事なんだよ。だから、本当は、羽織はかまを着て行うべきなんだけど、それはね……」

 身体を縮こまらせながらも相変わらず前のめりにまっすぐに前を向いて運転している小谷から腹話術のような小さい声が聞こえてくる。

「神事って?」

 ナナモはその声にだけ反応した。

「OB戦と同じ週に、ある祭りが行われるんだ。もちろん、ここではないし、川ではなくて海で執り行われるんだけど、荒波に船を走らせるんだ。海の安全と豊漁をある神様に願う祭りなんだけど、その神様はオオヤシロの神様と関係があるんだ」

 ナナモは小谷の世界に吸い込まれて行く。

「どんな関係ですか?」

「子供だって言われているよ。でもその子はとても優しくてね、とても思慮深かったんだ。争い事が嫌いだけど、それは、ある世界を創ろうとしていたし、ある世界を残そうとしていたからかもしれない。なぜならある世界が全く残っていなければ未来永劫消えてしまうけど、少しでも残っていたらまた蘇るかもしれないからね。ただね、その子に弟がいてね、とても純粋で勇敢なんだけど、喧嘩早くてその上向こう見ずだったからね、だからある世界を残そうとなんてしなかったんだよ。だから、兄は一足先に船に乗って、諭しに行こうとしたらしいんだけどね、結局、弟は、ある場所に閉じ込められてしまったんだ」

「じゃあ、その世界は?」

「何とか残せたんだよ。偶然だけどね。もしかしたら、船に大事なものを隠しておいたからかもしれないね」

「大事なもの?」

「ある世界を蘇られせることが出来るものかもしれないね」

 ナナモは最後の言葉を聞いた途端意識を失った。しかし、小谷は疲れて眠り込んでしまったと思ったのか、それともそうしたかったのか分からないが、ナナモを起こすことも、車を止めようともしなかった。

相変わらず豪雨は止まなかった。車のワイパーだけが辛うじて前方の視界をもたらしていた。

 稲妻が光る。その一瞬、ワイパーで雨粒が薄くなったフロントグラスには小谷を見つめる六原の瞳が映っていたが、ナナモは当然見られなかった。


「ナナモ、また、意識を失ったそうじゃな」

 カタスクニの馬場に行く前に、ナナモは、苺院でカタリベに声を掛けられた。

「はい」

 ナナモは現実だったのが異世界だったのか、それとも思い過ごしなのか、想像なのか分からなかったが、意識を失う前に聞いた言葉を覚えている範囲でカタリベに話した。ナナモはでもそんなことはカタリベは知っているだろうと思ったが、カタリベはナナモの話に横やりを入れてきたり、怒鳴ったりしなかった。うんうんと、そうかそうかと、珍しく瞳を閉じて聞き入っていた。

 カタリベでもナナモが体験したことを全て把握することが出来ないのだ。

 ナナモは昨年もその事を感じたことがあったが、確か……と、それ以上は思い出せなかった。

「それで、ナナモはそのボート競技やらを続けるのじゃな?」

 カタリベにしては物腰の柔らかい聞き方だった。ナナモは続けるも何もあと数回でOB戦が行われ、どのような結果になろうと終わってしまうのだからと思って、続けますよと、これまで練習してきたし、OB戦に出場するメンバーは固定しているし、オールを漕ぐときの呼吸も合ってきたし、合わそうとも思うようになってきたし、そして何より、やっと、お互いが仲間として認め合ってきたことでボート競技が楽しくなってきていた。

「でも、ナナモよ。そんなに仲間のことを思っているのに、その仲間の本心など分からないだろう?」

 カタリベは嫌なことをいう。確かに同じ寮に居ながら、小岩が部屋で何をしているかなんて知らないし、今年から始まった様々な実習で知り合ったキガミ達の事も学校だけの付き合いだ。

「ほら、そうだろう」

 でも、そんなことを言い出したら、誰も信用できなくなる。

 タカヤマなら……と、ナナモが言いかけたが、カタリベの瞳が一瞬光ったようなので、それ以上言えなかった。きっと、それほどの仲なのに、どうしてマギーからの伝言をまだ話していないのかと言いたげだった。

 イチロウ?と、ナナモは「?」を少しでも抱いたことを悔やんだ。しかし、イチロウも、「ナナモのすべてを知っているわけじゃないからな」と、言っていたことを思いだした。

 僕は一人なのだろうか?いや、あの時の僕にもう戻らない。それに僕はあのときの僕ではない。そうだよね、ルー……。

 ごほんと咳払いがする。と同時に、誰かが、痛みを感じろとナナモの片耳を思い切り引っ張っている。

「ボート競技は辞められないのかのぉ」

 カタリベはそんなナナモの妄想に一石を投じてきた。相変わらずカタリベらしくない穏やかな物言いだ。

「でも、ボート競技はデヒラ師が言っておられた五つの修行のうちのひとつではないのですか?」

 素直に「ハイ」と、答えれば良かったのだろう。何故なら、カタリベはそんなまどろっこしい言い訳が嫌いだからだ。でもナナモはカタリベに怒鳴られるだろうと思いながらもあえてそう言った。そこまでカタリベが言う限り、何かナナモにとってよからぬことが起きるのかもしれないのにカタリベは何も言ってくれなかったからだ。

「じゃあ、乗馬の練習も終わりじゃな」

 カタリベの声はナナモのこころを揺さぶるほど寂し気だった。

「僕はもうカタスクニ来られないという意味ですか?」 

 ナナモは先ほどまでの強い決意が一瞬緩んだ。

「ほ~お、ゆらゆらじゃのお」

 カタリベのいつもの嫌味な笑い声が聞こえてくる。しかし、いつもと違って顔はぎゅっとしまっていて、却って険しさが際立っている。

「ボートでは誰もお前を守ってはくれないんじゃぞ」

 カタリベのこころの声が聞こえてくる。ナナモはそんなことはない。皆仲間だ。たとえ寄せ集めであったとしても今はお互いが助け合いながらボートを出来るだけ前に、そして出来るだけ早くと、それだけを願って一つになっている。

「そうかもしれん。しかし、あれは神事なのだ。クニツカミの神事なのだ」

「だったら、僕は蘇えられるかもしれない」

「いいか、ナナモ、蘇ることなど出来ないんだ。蘇ればそれはもはやナナモではなくなるのじゃ。それはどういう意味かわかるじゃろ。ナナモはオホナモチではなくなるのじゃよ」

「だからもうカタスクニには来られないんですか?それとも僕はオンリョウとなってしまうんですか!」

 ナナモは思わず叫んでいた。けれども、もし、そうであるなら、却ってボート競技には出なければならない。そして、何とか神事を全うしなければならない。

 クニツカミの神事といっても必ずオンリョウが出て来るとは限らないし、そもそもクニツカミはオンリョウではない!それに、僕は王家の継承者であるオホナモチ・ジェームズ・ナナモだ。

 ナナモがカタリベに向かってそう叫んだ瞬間、ナナモはカタスクニの馬場にいた。目の前にいるタイフが久しぶりに飼い主に会った飼い犬のように、尾っぽの代わりに鬣を何度も揺らしながらブルブルと激しい鼻息でナナモを迎えてくれる。

「ナナモさん、カタリベから選択を迫られたらしいですね」

 背筋をまっすぐ伸ばしたデヒラは少し険しい顔をしている。ナナモは当然聞いていないので、なんの事ですかと尋ねたが、デヒラは本当に何も聞いていないのですかと不安げな言葉をかけて来ることは一切なかった。もはや、何かをナナモは強いられているのだ。薬、注射、それとも、タイフに乗って、どこかの異世界にまた旅立つのだろうか?

「競馬です」

 もし勝てば、ボート競技を続けさせてやるが、負ければボート競技を止めろ。

 もちろんデヒラの声ではない。ナナモはもちろん誰かは分かっている。

「少しアップダウンはありますが、良いコースでしょう」

 今度はデヒラの声が聞こえた。と同時に目の前には、芝生が果てしなく拡がっている。遠くまで見えないが、きっと、陸上競技場のような縦長の輪状の競馬場なのだろう。

「四千メートルを一周。ナナモさん、ゲートに急いでください」

 タイフが珍しく前足を高々と上げると雄叫びを挙げた。

 タイフの背には何時もより立派な鞍が備え付けつけられていたし、手綱も新調されている。

 ナナモは確認しなかったが、競馬場を走る騎手のような洋装で帽子まで被っている。ただ、全てが真っ白だった。

「これも神事なのだ。ただし、ナナモよ、ここはどこだが分かるな。カタスクニなのだ。そして、ナナモは継承者として苦難の道を歩かなければならぬ。だから、ここからは平たんに見えるだろうがそうではないし、試練が必ず訪れる」

 ナナモがゲートに入ると競馬場に轟くアナウンスのように誰かの声が聞こえる。ナナモは、タイフの上に乗りながら初めての競馬に気分が高まり、胸の鼓動が激しく打ってくるのを抑えられなかった。

なんだこの香りは?

 ナナモはその香りを鼻の穴をひくひくと何度も動かしながら嗅いだ。

妙に懐かしい。そうだ、神木のタブレットに最初に触れた時の匂いだ。きっと、ゲートは神木で出来ているのだろう。

 ナナモはその香りを目一杯吸おうと胸を突きだして深呼吸した。すると妙に心が落ち着いてくる。タイフも先ほどまで小刻みに身体を動かしていたのに、どっしりと大地の上に立っている。そして、ゲートに入ったという興奮よりも、これから競技に臨めるという高鳴りで鬣の先まで血液が行き届き、その一本一本がピ―ンと固くなっていた。

 乗馬ではない。これから競馬が始まる。しかし、単に決められたコースを走り切るだけではないのだと、先ほどの声がのしかかる。

ナナモはゆっくりと左右を見た。確かにこれから競技が始まるのか両脇にはナナモと同じような出で立ちで騎手と馬が垣間見える。しかし、正面に回り込めるわけはないのではっきりと顔をとらえることができない。

 きっと王家の継承者であるオホナモチの候補生なのだろう。

 ナナモは、新たなる夏期講習以来、カタスクニで初めて仲間に会えたと、先ほどとは異なる胸の高まりを覚えた。

 でも、本当に仲間なのだろうかと、ナナモの脳裏を先ほどかわしたカタリベとの会話がかすめていく。

 いや、僕を悩ます幻影だとしても、視覚として両隣には少なくとも二人いる。 

 ナナモはやはり仲間だと思おうとした。そして、ナナモと同じようにカタスクニで、いや、異世界でこれまで色々と経験し、試練に打ち勝ってきた仲間だと思おうとした。そして、仲間だが負けられない。負けることが出来ないのだと、かすかにタイフの背中から湧き出る蒸気を吸って、身体中の気合を沸騰させながら身構えた。

「ヤオヨロズのカミガミよ。お待たせしました。これから、オホナモチ杯を行います。ここにいる騎手たちは、強い決意によって選ばれた者達です。どうか絶大なるご声援をお願いします」

 トランペットの高鳴るファンファーレの代わりに大太鼓が何度か大きな音の波で競馬場を駆け巡っていく。しかし、歓声は湧かない。いたるところからナナモの身体を神気が何度も通り過ぎて行く。

 どこからか柏手の音が聞こえてくる。ここはカタスクニだ。それにオホナモチ杯と言っていた。だから、ナナモはいつゲートが開くか分かっていた。そして最後の柏手の音が鳴る前に心の中で手を合わした。

「キュキュ」

 神木が擦れる音とともに目の前のゲートが開いた。


 ナナモはゲートを飛び出した。確かに競技者としての集団が移動する。だから、先ほどの思いとは異なりナナモは思わず両隣を交互に見た。先ほどと同じで真正面から顔をのぞけるわけはなかったが、それでも相手も気になってナナモの方を向いてくれるのではないかと思ったからだ。しかし、誰一人としてナナモに視線を向けてくるものはいなかった。

 もしかしたら彼らも僕と同じようにこの勝負に何かを課せられているかもしれない。

 ナナモはこれは勝負なのだと改めて思った。そして、とにもかくにも前だけに集中して少しでも早く駆け抜けてこの競馬に勝たなければならないと、わき目も降らず駆け始めてくれているタイフの手綱をしっかりと握り直した。

 四千メートルの距離がどれほどのものかわからない。やみくもに馬を走らせても途中でばててしまう。そのことをナナモはボート競技で知った。

 そうか、今度は僕がコックスになるのだ。

 ナナモはそう思うことで少し気が落ち着くのかと思ったが、コックスをやったことはない。それにボートと競馬は違う。そして何よりもここはカタスクニだ。現実とは異なる異世界だ。

 ナナモはしばらく周囲の馬と歩を同じくしようと思った。なぜなら、よほどぶっち切りで後続馬を引き離さないと風の影響をもろに受ける先頭馬は疲弊する。それも、単なる周回コースではなさそうだ。

 ゲートが空き一斉に馬が飛び出してから、ナナモは焦るタイフをできるだけなだめようと、手綱を少し硬くするが、タイフは一向に言うことを聞かなかった。

 タイフはこの競馬の意味がわかっているのだ。もしかして、これまでも誰かを乗せて競馬に出ていたのだろうか?

 ナナモはそれでもタイフに任せようと、自由にさせようとは思わなかった。この競馬はタイフの競馬ではない。僕の競馬だ。

 ナナモはそうタイフに語り掛ける代わりに手綱を少し緩めた。

 風の音がする。それも乾いた風の音だ。それまで砂塵が舞い上がり、馬の群れが蹄で大地を蹴る音が轟いていたのに、まるで嘘のようにナナモの周りから余計な音だけが消えていく。

 芝生?いや。足元が隠れるほど草の背は高い。それに先ほどまで平坦だった馬場は、波打つような起伏で連なっている。それでもまるで牧草地として作られた人里離れた山野を疾走しているかのようなすがすがしさを感じる。

 タイフもナナモと同じように思ったのだろうか、それとも、生まれ育った故郷を思いだしたのだろうか、ナナモの意図とは異なり、手綱を緩められたことで足取りが軽やかになる。もはや仔馬になったかのようにはしゃいでいる。

 ナナモは初めてタイフが緊張から解き放されたように思えた。たとえカタスクニでのこととはいえ、それまでナナモのためによほど神経をすり減らしながら従っていたに違いない。タイフがはしゃぎながら疾走する様にナナモもつい気が緩んでしまう。

 タイフが右へ左へと蛇行する。行先を見失っているのではない。楽しんでいるのだ。

 ナナモはカタスクニで乗馬が始まってから初めてタイフとの時間が楽しいと思った。このまま風にまみれて戯れたいと思った。

「継承者としての役割を果すのだ」

 急に風の音が消え、どこからか声がする。ずっしりと低く重い声だ。ナナモはその声にハッとした。あの声はもしかして、ツワモノ?

 ナナモは視線を現実に戻した。遥か前方に馬の集団が一直線に駆けている。

 ナナモは膝を閉めてタイフに合図を送った。すると、タイフもぶるぶると吐息で応えてくれた。

 タイフは急にスピードを上げ、ナナモも前傾姿勢になる。最後尾になってしまったが、タイフはこのまま引き離されるとはまったく思っていないようだ。なぜなら身体は固く引き締まってはいるが軽やかさが伝わってくる。

 ナナモ達はやっと最後尾の馬をとらえたとき、急に視界が変わった。それまで走りやすい草原だったのに全く手入れされていない森の中に入り込んだからだ。

 地面もぬかるんでいる。ビシャビシャと水のはじける音がする。

 馬の集団は急に減速した。あれほどナナモ達は離されていたのに、元の集団に戻っていた。

 ナナモは今度こそ仲間の顔が見られる。そう思った矢先、遥か彼方から光が射し込んできて、すべてを紅色に染めた。西日だ。きっと、あの方角に向かって走っていくのだ。

 ナナモだけがそう思ったわけではもちろんない。すべての騎手が西日に向かって走りはじめた。先ほどの草原では一塊になっていた集団も森の中で行き場が定まらないのかばらばらになっていた。だから、競馬として再開し始めた時には皆が同じ場所を歩んでいたわけではなかった。各馬は一斉にスピードを上げ始めたがその動きを邪魔するように森は動き、前の疾走馬に追随しようと思ってもいつのまにか大木に邪魔された。

 仲間を確認するどころじゃない。あの光の玉に向かって騎手は自らの判断でコースを決めなければならない。ナナモは生き物としての森を相手に木々の間をすり抜け、沼地に足をとらえないように、そして、転がる石につまずかないように、右に左に、上へ下へ、と障害物を潜り抜けながら光の玉へタイフとともに向かった。

 タイフの生まれ持った能力とナナモの勘が時には交互に、時には合わさりながら、森を駆け抜けていく。はじめは紅色一色だったのに、黄色に、そして深緑と、森は衣を変えていく。

 そうか時間制限があるのだ。あの光が少しでも輝いている間にこの森を駆け抜けなければならないのだ。

 ナナモは手綱を少し引くと同時に膝を狭めてタイフに合図した。タイフはすでに知っていたのかもしれない。両耳を立てると、かなり大きくなった光の玉に向かって鬣をしならせていた。

 それでも光の玉がついに消えた。ナナモは暗闇の中に放り出された。このままでは前に行けない。いくら夜陰に紛れてといっても先導や誘導灯なしで疾走するなどありえない。それに、ほかの集団はどこにいるのかさえ分からなかった。

 競馬はここで終わってしまうのか。ナナモはだったらいままではなんだったのだろうか。結局勝敗などつかないではないかと憤りが収まらなかった。

 ナナモは手綱を引いてタイフを立ち止ませようと思った。その刹那、急に目の前が明るくなったかと思うと、澄んだ空気に包まれた薄青色だけの世界が広がっていた。

 タイフはこの競馬が始まってから初めて立ち止まった。しかし、それはナナモが手綱を引いたからではない。自らの意志だ。ナナモは明るくなったことで再び競馬ができると思った。その喜びで思わずタイフの脇腹をつつくとさあ走りだそうと、タイフを鼓舞した。

 しかし、タイフは全く動かなった。ナナモはなぜだろうと、タイフの鬣を触ってみた。珍しく鬣は微妙に揺れていて、冷や汗をかいたかのようにほんのりと湿っている。

 どうしたというのだとナナモはもう一度脇腹を少しだけ突いてみる。するとタイフは急に首を前方に大きく曲げた。

 ナナモは思わず落ちそうになる。だから慌ててのけぞりながら姿勢を保とうとしたその時、タイフの首越しに見える光景に思わずぞっとした。

 小高い崖の上に立っていた。それもかなりの急こう配だ。こんなところからどうすればよいというのだ。

 ナナモは誰かいないのかと、左右を見た。するといつも間にかほかの騎手もいて、馬上でナナモと同じようにどうするべきかと思案している。

 馬は高いところが嫌いではない。しかし、その場所から駆け下りることを極度に嫌う。なぜなら馬は本来臆病なのだ。その上、蹄が割れていないために坂道でしっかり踏ん張れない。だから、草原を少しでも早く駆け巡り肉食動物から逃れてきた。ナナモはオオエからずいぶん前に聞いた馬の基礎知識を思い出した。

 今、馬たちは獣に崖っぷちに追い詰められているわけではない。だから引き返せばよいのだ。ただ、かろうじて競走馬としての本能がその行動を押しとどめている。そのことが伝わってくる。

 しかし、それはナナモも同じことだった。この崖からもし転げ落ちてしまったら人馬ともに命を失うことになる。ナナモは乗馬の訓練をしていただけだ。命を懸けて競馬をしに来たわけではない。

 ナナモはボート競技に出なくてもいいと思った。ここで命を失えば、ボート競技どころではない。万が一命を落とさなくとも大けがをすれば同じことだ。そうなれば、ボート競技どころか、医学部生としての実習も続けられなくなる。

 ナナモにカタリベの言葉が聞こえてくる。異世界でも、現実でもナナモの肉体は一つだ。傷を負えば傷が残り、命が消えれば死を迎える。

 ナナモは急に暗闇に引きずり込まれた。それはナナモが自らの命を自ら葬り去ろうとしたことだ。きっとその時は朦朧としていた。だから今のように意識がはっきりとした状況ではただただ恐怖としか映らなかった。

 でも、僕は本当に自ら命を絶とうとしたのだろうか?皆が死者は蘇えられないという。しかし、そうであるならナナモは蘇えっていないことになる。そしてここにはいない。

 ナナモは解剖学の実習中繰り返し思ったことを再び考えていた。そして、僕は王家の継承者であるオホナモチとして選ばれた男だ。そう簡単に死ぬわけはない。そして、オホナモチは蘇える。だから、僕は今生きている。

 ナナモは強く手綱を引き寄せた。

 横腹を突くのではなく強く蹴ろうとした時に、激しい頭痛に苛まれて思わず力が抜けていく。

「クニツカミの神事から逃れることなど出来ない。なぜなら、蘇りはクニツカミの宿命なのだ」

 ここはカタスクニだ。オンリョウの声が聞こえるわけはない。だったら、何者なのだろう。もしかしたら、先ほどオホナモチは蘇えると、死者となっても蘇ると思ったからだろうか?

 ナナモは怯えていた。現実からも、過去からも、そして、何よりも未来からも。

 ヒヒーンとタイフが鳴いたかと思うと前足を上げて立ち上がった。ナナモはさらに身体中の震えが止まらなかったが、タイフはそれらを祓いのけようとするかのような、覇気をみなぎらせると、なかなか一歩が踏み出せないナナモの臆病さを鼓舞させるかのように、そして、タイフを全く信じてくれないナナモをあざ笑うかのように崖の上から一気に駆け下りて行った。

 ナナモはただ振り落とされないようにしがみつくしかなかった。それでも次第にタイフの心根が染みて来る。そうだ、神事に出ることとかでないこととか関係ない。競馬に勝つのだ。そして、競馬には障害がつきものだし、駆け引きも必要だが、何よりここぞという時の勇気が必要なのだ。

 ナナモはタイフがバランスを崩さないように手綱をしっかりと持ち両腿をしっかりと馬体につけ、騎手としての役割を果たそうとした。

 タイフはこの急坂をきっと駆け降りてくれる。もはやそれは願いではなく確信となった。

 ナナモはこれまで一度も経験したことのない速さでタイフと一心同体となっていた。

 どれくらいの時間が経ったのか分からない。それでもナナモとタイフは崖から一気に全速力で駆け降りていてそのままの勢いで平地をも駆けていた。競馬が始まった時と同じように、砂地の馬場を懸命に駆けているためなのか、砂塵が舞いあがりあたり一面を灰色の世界で遮っている。

 それでも、もう少ししたらゴールのはずだ。そしてあの崖を駆け降りてきたのはナナモとタイフだけだ。その事実は大きな自信となった。

 勝てる。それはタイフが導いたもので、ナナモの決断ではない。しかし、今はもはやどうでもいい。一番を目指して人馬一体となるしかなかった。

 どこから、そしてどれだけの群衆からか分からなかったが、今まで全く聞こえてこなかったのに、大歓声のウェーブが起きている。あとはゴールを通過するだけだ。だからこのまま無理せずに流せばいい。ナナモも気のゆるみが少し手綱を弱めた。その瞬間、ナナモの両脇を物凄い速さで二頭の馬が追い越していく。出発ゲートでナナモの両隣にいた騎手だ。ナナモは思わず、あっと、声を上げた。

 あの崖を全速力で駆け降りていけたのはタイフだけだと思っていたが、一頭が駆け降りれば他の馬も追随する。馬は集団で移動する習性がある。また、オオエの言葉が蘇った。

 ナナモは手綱を握り直し、より膝を固め前傾姿勢になる。タイフは追いこされたことでナナモより早く臨戦態勢に入っていた。

 その刹那、急に砂塵が消えたかと思うと、前方を走っていた両馬の姿が消えた。

 ナナモはまたあっと声を上げようとした瞬間、誰かがナナモを横から物凄い力で馬から引きずり降ろそうとして来たかのように身体が大きく横ぶれする。もし、この時ナナモが瞬時の判断で、全ての筋力を反対側に集中させなかったら、きっとそのまま投げ出されていたに違いない。

 タイフはナナモの事を忘れたかのように本能で最後のカーブを曲がっていたのだ。

 ナナモは態勢を戻すとぎゅっと膝に力を入れて、ナナモの存在をタイフに伝えた。するとタイフは先ほどよりも足取りが軽やかになり、速度を増した。

後はタイフに賭けるしかないと一瞬思ったが、それでも騎手は僕だ、最後までタイフを導くと強い信念を持って、タイフの呼吸と身体の動きに合わせた。しかし、二頭は並走してナナモの行く手に立ちはだかる。だから、外をつこうとするが進路を妨げられ、内をつこうとするとまた進路を妨げられる。このままでは二頭の前には行けない。

 ナナモはどうしようか考えた。

 これは競馬だ。ナナモを妨げているだけではどちらかの勝利はない。だから、前を走る二頭もいつかは並走を止めるはずだ。その時が勝機だ。

 ナナモはでもこのまま二人が競馬を捨てて同時にゴール板を追加したらどうしようと不安が襲い掛かる。それでもナナモは大歓声に飲まれるかもしれないが、あらんかぎりの大声で、

「僕こそがはオホナモチだ!」と、叫んだ。

 その声はきっと二人に届いたのだろう、そして、いや、我こそがオホナモチだ、と思ったのだろう。二頭の足並みが乱れ、ちょっとした隙間が出来た。

 ナナモもタイフもその瞬間を見逃さなかった。ナナモは力強く手綱を引き、タイフは渾身の力でギアをあげた。

 一馬身、半馬身、頭ひとつと、やっとタイフが中に入り込むとついに三頭が並んだ。

 まるで大砲から発せられた弾丸のように、三頭から発せられる汗が大きな白い靄となって、高速で移動している。

 どの馬が抜け出すのかと、やきもきしながらも三頭の雄姿に再び大歓声が上がる。きっとゴールはまじかなのだろう。ナナモは手綱をさらに強く握り、タイフ、頑張ってくれ!と、祈ることしか出来なかった。

 いや、祈るのではない、何かしなければ三頭同時のゴールだ。それでは勝敗が付かない。ナナモは身体を出来るだけタイフに密着させた。そして、ナナモもタイフとともに走ろうとした。

 タイフに新しい燃料がチャージされたのかのように、白き靄の塊からタイフが頭ひとつ抜け出した。そして、半馬身、一馬身と飛び出た時に、大外からいつも間にやら、一頭が猛烈なスピードでタイフの横に並んだ。ナナモは思わずその馬を見てしまった。あれ、騎手がいない。しかし、ナナモはすぐにそれが見間違いであることを理解した。その騎手は馬に完全に身体を同化させていたからだ。

誰だ!

 ナナモがそう叫んだ時、まるで、馬体から顔が飛び出てきたようにナナモの方をその騎手は顔を向けた。

「キガミ……」

 タイフがゴール板を通過したとき、ナナモはまるで激しいイナズマに打たれたかのように完全に意識を失っていた。


「ジェームズ!ユー・キャン・ドゥー・イット」

 一本目を終え、二本目に臨もうとしていた時に、ナナモは小谷から突然声をかけられた。英語だったので少し驚いたが、もしかしたら解剖実習の試験のことを中田教授から聞いていたのかもしれない。ナナモはその声にすぐに答えられなかったので微笑むことしかできなかったが、それでも、そうだジェームズとして臨もう。ここはテムズ川だと、大きな深呼吸でもしたかのような落ち着きを取り戻すことができた。

 一本目、特にナナモに何か心の変化が生じることはなかった。だから、キャッチアンドローと、コックスであるキガミ妹の声にナナモの身体は忠実に上書きされていたはずだったが、ナナモのオールだけがなぜか気合の空回りを繰り返していた。それでも、オオエを含めて他の三人があからさまにナナモをしかりつけることはなかった。きっと、ナナモは人一倍負けたくないと思っていると皆が信じてくれていたからだろうし、実際ナナモもそういう気持ちを抱きながらオールで水を蹴っていた。

 ナナモは一本目のタイムをオオエから聞かされたが良いタイムなのかそうでないのか分からなかった。ただし、どの程度の実力なのかわからないが並走するボートの漕手が軽やかにオールを動かしているのに全く追い越すことが出来なかったことから、きっとそれほど良いタイムではなかったのだろうと察するしかなかった。

「今年ももうすぐ終わりですね」

 だから、後悔しないように最後の一本はぜひ頑張りましょう。景品もかかっていますからと、六原はそういう意味でつぶやいたのだろうが、十二月ではなく三月が学年の終業であるナナモにはピンとこなかった。六原も大学の職員なら同じ気持ちなんじゃないのかと最初は思ったが、師走は正月と同じくらい大切な時期なのだと、杵築の街で一年過ごしたナナモは、純粋に六原の鼓舞に従おうと思い直した。

 でも、この一年何があっただろう。もちろんもっとも印象深かったのは解剖学の実習だ。しかし、だからと言って、解剖用語は別にしてあの時こういうことやああいうことがあったと今でも詳細に覚えているわけではない。それに解剖実習中、幾度も考えさせられたり、悩まされたりしたが、それとて、つい忘れてしまうこともある。

 ()()()があって、それ以前の記憶がなくなったともがいていたナナモが、つい最近のことすらあやふやだ。

 大学での生活日記などつけていないナナモは、改めて過去を振り返ろうと頭の中を迷走する。

 記憶と記録。でもそれがすべて正しく結びついているとは限らない。嘗てナナモが自分なりに自分の存在を残そうとしてカタリベに怒られた異世界ノートもそれが全て事実だと証明できない。

 だったら、僕って何なんだろう?

 ナナモはもう少しでまた蘇りの世界に入り込みそうになったが、懸命に右手を伸ばして頬を思い切りつまむと、今度は実際に大きく深呼吸した。

「学生生活はこれからですが、せっかく誘っていただいたのですから、悔いのないように頑張ります」

 つい先日まで半袖でも汗ばんでいたのに、今年最初の寒気とともにやって来た師走の北風は、ナナモの頬をナイフのように切り刻んで行く。もちろん血はでない。しかし、それ以上の痛みをもたらしていく。それでもボートに乗り、オールをしっかり掴み、皆で呼吸を合わせて漕ぎだし、スムーズにボートが進み出すと忘れてしまう。それどころか、今が冬への入り口だとなどまったくおもえないようなくらいの熱気で、白かった頬がほのかに赤色付いていた。

 でもそれも過去のことだ。今こうやって二本目が始まるのを待つ間に、また、北風にさらされる。支給された長袖の真っ白な運動着から水分が消えていき、始まる前はちょうどよかったのに、少し肌寒さを覚えた。

 ナナモはまだ記憶にも記録にも残っていない未来を、そして何よりも今をまず見ようとした。

「ウィ・キャン・ドゥー・イット」

 なんか照れくさかったし、イギリス風ではないと思ったが、ラスト一本頑張ろうと、もうすぐ順番がくるのかオオエの掛け声が聞こえる。

 ナナモはスタート地点に向かい始めると、今しがたの今はもはや消えていた。気候の変動や周囲の光景など全く気にならなくなった。これからボートに乗って最後の一本を、いや優秀の美を飾るのだと、そればかり考えていたし、あれほど未来を向こうと意気込んでいたのに、そのためには過去を振り返らなければならないと、一本目でのキャッチ、ローの掛け声でただ懸命に漕いでいたオールの感触を思い出しながら、ナナモはボートに乗り込んだ。

 揺れるボートに身体を飲まれることはもはやない。ナナモはいつものように二番の位置に座るとオールをしっかりと握った。

 ナナモはキガ妹にだけ集中していれば良い。だから、これから、発せられるキガミ妹の、口元だけを見ていればよい。

「ナナモ、横を見て」

 オールメン、レディー ローという言葉だと思っていたのに、キガミ妹の声が聞こえる。でも口元は全く動いていない。

「横よ」

 また、同じように聞こえてくる。

 だから、ナナモは今から始まるのに、視線をつい横に向けてしまう。

 横には並走するボートが目に入る。特に変わったことはないと思っていたのに良く見ると、真っ白な体操着ではなく、羽織はかまを着ている。

「ナナモ、何してるの!」

 急に真正面から声が聞こえた。スタートのブザーが鳴り、ナナモ以外のメンバーはオールで水面をキャッチしようしている。

 ナナモはハッとして慌ててオールで水で掻こうとしたが、「イージー オール」というキガミ妹の声ではなく口元が見えて思いとどまった。スタートダッシュに掛けていたのにナナモのミスで一呼吸遅れてしまう。それでも、キガミ妹は冷静さを失わなかった、すぐにキャッチアンドローと、それもワン、ツー、スリーと、声を出して皆をコントロールし出す。其の掛け声は第一レースより鮮明に聞こえるし、他のメンバーの呼吸音も感じられる。だから、遅れはしたものの、次第にスピード―が出て来る。でもまだ出だしの遅れが響いている。

 ナナモは先ほどのことが気になって、横を見たかったがそれどころでない。ナナモだけではなく、他のメンバーも前の競技の時より力強く漕いでいる。もちろんナナモをカバーしようと思っているのだろうが、それよりも良いタイムを出したいと皆が一つになろうとしているという熱意が伝わって来る。

 その熱意がアンバランスにならないようにキガミ妹も必死だ。絶叫に近い音量で各人をコントロールする。

 スパート、スパート、ワン、ツー、スリー、キャッチアンドローと、もはや、ナナモ達漕手はコックスの声に身体が自然に動いている。

 ナナモの視界の隅っこに横を走るボートが垣間見える。ついに捉えたのだ。

皆の歓喜と気合の入り交じった声なき声がボートを包んでいる。キガミ妹の声がまた一オクターブ上がった様にも聞こえる。

 ナナモは先ほどのことがあったので、又、横を見たくなったが、あえて見ないようにと、わざと目をつぶった。それでもキガミ妹の声さえあれば、そしてオールを握る手が離れなければ、きっと、ボートはもっと早くもっとスムーズに前に進んで行く。

 ナナモはこの腕が悲鳴をあげても、この足が痙攣をおこそうとも、オールで掻き、ボートを蹴った。

「ウオー」と、キナミ妹でも、他のメンバーからでもない、大歓声が聞こえる。もうすぐゴールなのだ。ナナモはそう思った。よし、もう少しだ。ナナモはよりキガミ妹の声に集中した。

「やはり、お前はクニツカミなのだ。だから、王家として皇家とともにタミを助けると言いつつも、王家を蘇らそうとしている」

 キガミ妹ではない声が大歓声を搔い潜るようにナナモの耳に届いた。ナナモは思わず目を開こうとする。しかし、そうすることですべてが消え去ってしまいそうで、もっと強く瞼に力をいれ、そして、キガミ妹の声を探した。

 キャッチアンドローと、かすかに先ほどの声が少しずつ大きくなってきたかと思った矢先大太鼓が鳴り響き、その声を打ち消すと、ヤーヤーと掛け声が聞こえる。

「誰だ?何度も言うが僕はクニツカミではない」

「では、なぜ、モノノフ、いや朝臣がお前の船にはいるのだ。その者はツルギを奪おうとしている」

「ツルギ?」

「そうだ、そのツルギは、あるものを守る重要なものだ」

もしかして譲りのこと?ナナモは忘れよう、いや、忘れなくてはならないと、イナズマとともに消え去ったはずの記憶が急に蘇ってきてハッとする。

「あるものなどもはやない」

「ああ、そうだ。でもその者はその事をしらない」

ナナモは少し瞳を開けようとした途端、刃先が太陽に反射したような鋭い光が差し込んできて、また、瞳をギュッと閉じた。その瞬間ナナモの瞳に小谷の顔が映って、思わず唾を飲み込む。

「では、なぜ、僕の邪魔をする」

「クニツのカミよ。お前はイナサの出来事を。そして、その記録を届けに行くことを知っているだろう」

 ナナモはある神事を思い出した。

「お前はその記録がまだ正式な書となっていないことを知っている。だから、その前にその書を奪い、記録を書き換えようとしているのだろう」

「なぜ、僕がそんなことをする必要があるんだ。もし、あの書が書き替えられ蘇ったら、争いが起きる」

「だから、あの者を乗せている」

「僕は誰も利用しようとなんかしていない。それに争いが嫌いだ。そして何度も言うが僕はクニツカミではない。杵築医科大学の学生で仲間と同じ目標に突き進もうと、いま必死でボートを漕いでいるだけだ」

「では、どうしてお前は蘇りにこだわるのだ」

 それは……とナナモは全てを止めてその事だけに集中した。

「僕は僕を知りたいんだ」

 ナナモは無意識に語っていた。

「何度も言う。それはとても辛いことだ」

 先ほどまでと異なり急に穏やかな声が聞こえる。

「ナナモよ。ジェームズ・ナナモよ。いや、オホナモチの継承者よ。死者は蘇えられない。もし、死者が蘇ればそれはカミであれオンリョウであれ、地上の世界にはおられない。だから、蘇りなどせずとも今を精一杯生きればいいではないか。仲間もいる。もはや一人ではないだろう」

「でも、僕は一人で生まれてきたわけではありません。それに、なぜ、王家の継承者に選ばれたのかも知りません」

「過去は大切か?何も知らないという記録と記憶ではだめなのか?」

 最後の言葉はナナモに重くのしかかってくる。そして、その優しさの裏に幾重の織られたナナモへの想いが詰まっている。

「これは神事なのだ。それも王家の神事だ。わかるな。だから、並走する船を追い越してはいけない。そして、海の守り神に祈るのだ」

「海の守り神?それはヤオヨロズのカミガミの事ですか?」

「いや、違う。王家の守り神だ」

 ナナモはふと昔オンリョウが話していた言葉を思い出した。ただ、カミなのか、オンリョウなのか。それとも託宣なのか、事象なのか分からないが、オンリョウにとっては大切な言葉のように思えた。

 でも、海の守り神はそうではない。きっと王家にとってたいせつな一柱に違いない。

ナナモはつい先ほど交わした言葉を思い出した。記憶と記録は合っている。ならばその王家の神事はイナサから始まっている。そうであるなら、ナナモのこころを揺さぶってきたのはオンリョウではない。きっとあの方だ。あの方は僕を試しているのだ。でも何を?

 ツワモノ!と、ナナモがそう呼び掛けようとした時、急に並走していたボートの反対側に細長い木船が現れ、武具を纏って立ち上がった数人が今にも矢を放とうと構えていた。

 これは神事だ、誰にも邪魔はさせない。射るなら射ろ!僕が全て跳ね返してやる。

 誰かが放った矢が一瞬ピカッと光り、その矢先はひとつの大きな燃える玉となって物凄いスピードで近づいてきた。ナナモは大きく目を見開きすべての覇気で追い返そうとしたが、その矢の行き先はナナモではなく、船尾に向かっていた。

()ー、()―、()ー!」

 ナナモは天をも割れんばかりの声で叫んだが、その刹那、急に誰かが水の中から飛び出てきたかと思ったら、ナナモの胸ぐらをつかむかのように何かを押し付け、かまいたちのようにどこかへ消えてしまった。

 あっ、これは、とナナモが叫ぼうとした時、ナナモ!ピッチ合わせてと、キガミ妹の甲高い声が聞こえて来た。

「ラストスパート!」

 仲間全員のはちきれそうな心臓の鼓動が一つになっている。きっと、もはや、水面を走っているボートは、横揺れすることなく進むアメンボのように機敏に水面を滑走する。

 並走しているボートのコックスの叫び顔がかすかに視界に入る。もはや、白装束ではない、ナナモと同じ運動着を着た漕手のオールも垣間見える。

「勝つんだ」

 追い越してはいけない。それは争うことになるからだというナナモの記憶の記録を打ち消すような叫び声が仲間から聞こえる。ナナモはその言葉に抗おうとすればするほど反対に力が入る。

 ナナモはもはや何も考えないようにしよう。そして、何も聞かないようにしよう。今、僕はいない。僕の存在はない。そうすることで、もし、全ての力がなくなり、そして、このまま、別の世界に行ったとしても、構わないと思った。    

 それは僕自身の意志で決めたことだ。決められたことではないし、きちんと記憶している。だから蘇りなど必要ない。

 ナナモは仲間のために自分のすべてを出し切ろうと思った。

「イージー オール」

 ゴールを通過した時、記録より、勝敗より、ナナモにはキガミ妹の疲れ切った笑顔が眩しかった。



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