(10)医学部剣道大会
「ナナモが再試験を何度も受けるって思わへんかったわ。でも晴れて大会に行けるってことは……」
皆が道場に集まって大会前の最後の練習が終わり、新しく主将になった六回生のヒライの大会への決意の言葉を聞いた後に、タカヤマが話しかけてきた。ナナモはタカヤマの言葉が終わりきらないうちに、大会が終わったらもう一度再試験を受けることに決まったよと遮ったために、タカヤマだけでなく、フジオカやサクラギも止まらない汗を拭う手を思わず止めたほどだった。
「ホンマか?」
一番先に大声を上げたのはタカヤマだった。なぜなら、医学部体育大会中は試験がないとはいえ、タカヤマはあれほど練習していたのに、不合格だったら試合に集中できないと、団体戦への出場をあきらめるべきなのではないかと悩んでいたのに、本人は、奇跡の気合だ、と言っているが、ナナモが白紙で答案用紙を出した二回目の再試験で合格していたのだ。サクラギは追試一回、フジオカはタカヤマと同じ時期に合格していたし、ナナモが道場で気落ちした様子を全く見せていなかったので、てっきり合格したと三人は思い込んでいた。
「ああ」
「ナナモが試験に合格せえへんかったなんて初めての事と違うか」
ナナモは中田教授に会った事は言えなかったし、英語では完璧に書くことができた解答を日本語でもきちんとかけるだろうかという一抹の不安があったが、イチロウから届いた楽器のおかげでずいぶん気が楽になったし、一端解剖学から離れることで、何か解決策が浮かぶのではないかと、それも学年末までだしだと、夏休みが終わるまでは何度も試験をしてくれるし、最終的には全員合格させるって、教授は言っていたんだから、そんな顔をするなよと、カラ元気ではなかったが、そう見えるように大げさに答えた。
「必ず合格する試験には一発で合格しないんですね」
タカヤマではなく、サクラギが笑いながら言った。一瞬、タカヤマとフジオカは口をあけて、サクラギの方を見たが、ナナモがひどいなあと言ったものだから、三人は久しぶりに剣道部の仲間としてひとつの輪となった。
ナナモはもはやその「わ」に気づくこともなく、着替えると久しぶりに三人でいつもの喫茶店ではなく、フジオカの車で最近やっとできた国道沿いにあるチェーン経営の喫茶店へ行った。
「なんか久しぶりに会ったんだけどうれしそうだね。もしかして今年は個人戦に出られるようになったのかい」
現役で入学したサクラギが解剖実習を終えてから、妙に大人っぽくなったように思えたナナモだったが、そうは言えないので、まさかと思いながらもナナモはサクラギに訊いた。
「えっ、ナナさんまだ知らないんですか?」
フジオカが驚いたように尋ねて来た。ナナモはなんのことか分からなかったが、フジオカが明らかに慌てているのが見て取れた。
「今年、新入生が三人入部してくれたんです」
サクラギが静かに言った。
そういえば、今年はナナモ達の授業は変則だったし、骨学実習が終わったあと、ナナモは謎の失踪をしていたし、そのうち解剖実習が始まったりで、歓迎会にナナモは出席しなかったのだ。
「フジオカは参加したの」
「はい。でも今年も焼き肉だったし、僕もちょっとと思ったんですが……」
フジオカの顔を見るまでもなく、タカヤマだけでなくサクラギまでがナナモからすーっと視線を外す。だから、またナナモだけかとため息が出た。
「小岩さんがナナさんは出席しないから歓迎会のことはナナさんには言うなって」
「どうして?」
フジオカはタカヤマとサクラギに助けを求めている。しかし、相変わらず二人は視線をはずしたままだ。
「僕がそう思ったわけじゃないですからね」
フジオカはやけにかしこまっていた。それでも、この中で自分が言うしかないのかと覚悟を決めた顔付きになった。
「三人は全て女性なんです」
そうか、だからサクラギはうれしそうなんだと、ナナモは悟った。でも、それとそのことを秘密にしなければならないってどういうことだろうと思った。
「全員経験者なんや」
タカヤマがいてもたってもいられないとでも思ったのか口をはさんだ。ナナモはどういう意味だろうかとタカヤマの方を見たが、タカヤマは無表情だった。
「どういうこと?」
ナナモはタカヤマではなくサクラギに訊いた。しかし、サクラギはこまったような顔でフジオカを見たが、フジオカもおなじような顔でタカヤマを見ている。
「ナナモ、新人戦のこと覚えてるか?」
ナナモは始めての対外試合で一度も竹刀を交わることがなく意識を失った。しかし、それよりも、三人には言えないが、ナナモはあの時異世界へ行っていたのだ。
「京都の試合じゃないで。杵築で行われた大会の事や」
ナナモはタカヤマに言われて、また、あの時の事を思い出しそうになったが、杵築での試合だとわかりほっとした。それに、ナナモが初めて一本取ることが出来た記念すべき大会だ。ただ、ナナモは結局その後二本目を取られ、オンリョウの声に惑わさながら、意識を失った。もし、あの声さえなければ勝てたかもと思いながらも、相手は女性で、後でソフィアだとわかったのだ。
「と、言うことは……」
ナナモはフジオカとサクラギがナナモからスーッと視線をはずしたことで何となく理解した。
「そうや、残念やけど、今のナナモはどの新入生にも勝たれへんやろな」
タカヤマは顔色ひとつ変えないで、サクラギの方を向いた。ナナモから視線を外していたサクラギだったが、タカヤマに向けた視線がそうねと頷いている。
「小岩先輩がどうして詳しく知っているのか分からないんですけど、歓迎会の間中その話ばっかりで……」
フジオカは腹が立ったのかつい口走ってしまったようで、慌てたサクラギが顔を覆っていた。
「でも、なんかよう練られた漫談みたいで、俺は思わず笑ってもうたけどな」
タカヤマは、そうやろ、お前らもやな、という顔で二人を見てたが、二人は困った顔をするしかなかった。
それって軽いいじめ。それに、その事を黙っているってそれもいじめ。
ナナモは先ほどの久しぶりの「わ」を喜んだ自分を後悔した。それでも、だからと言って、何が寮の規則だ。そんなの関係ありません。僕は剣道を金輪際しません。退部しますとは言えなかった。
何故なら、タカヤマと同じように小岩からも、関西弁で「悔しないんか」と、言われているように思えたからだ。
「そんなに強いの?」
今のナナモにはサマーアイズに来たばかりの時のような孤高な強がりなど微塵もなかった。それにルーシーがいるわけもない。自分の身の丈は自分で測るしかないのだ。
「詳しいことは良く分からんけど、もちろん有段者やし、現役で合格したらしいし、受験の時もバリバリクラブ活動をしていたらしいでえ」
タカヤマは決して思っていないのにわざと言っているのか、タカヤマの事なのでこと剣道に関して冗談は言わないので本当なのか分からないが、俺も負けるかもしれへんなあと、偉くまじめな顔でサクラギの方を見ていた。
「まあ、心配せんでもええよ。ナナモが出る個人戦にはうちの新入生は出えへんから」
サクラギは、タカヤマ……君と、ついに声に出して、タカヤマを諫めていたが、タカヤマは小岩とおなじような薄笑いを浮かべながら、小岩と同じように心の奥底で何かを考え、ナナモに伝えようとしているように思えて仕方がなかった。
その証拠にタカヤマの瞳が一瞬ナナモに刃を向けているように光った。
ナナモは一瞬びくっとしたが、もしタカヤマの視線がなければ、「でも新入生ってどんな女性なのだろう」と、大会前で男女別に稽古していたので気付かなかっただけで、ナナモを見て軽く会釈してくれたようなと、今までなら決して思わなかった妄想で、ナナモはタカヤマと同じように薄ら笑いを自然とこぼしていたかもしれない。
「ところで今年はどこで大会が行われるんだっけ」
ナナモは話題を変えるためにわざととぼけるしかなかった。
「それ何回目。鎌倉です、鎌倉。ナナさんは東京人ですよね。鎌倉を知らないんですか」
フジオカは真面目だ。それでも神奈川出身ということもあって珍しく声をワントーン上げていた。
ナナモは東京人だが、ロンドンから戻って来たから二年間だけ東京に住んでいた東京人だ。もちろんロンドンに行く前にも東京に住んでいたはずだが、あのことがあって以来、ナナモから記憶が薄れている。それでも鎌倉のことは歴史の教科書から知らないことはない。だから、鎌倉は知っているよと言いながらも、教科書に載っている事以外、観光ガイド的なことは何も思い浮かんでこなかった。
「まさか鎌倉に行ったことがないってことはないですよね」
フジオカがナナモに尋ねた。
ナナモはもちろんロンドンから帰ってきてからは鎌倉に行ったことはない。というか、マギーの家と予備校と関東西部大学以外の東京自体もあまり知らない。だから、スカイツリーどころか東京タワーで集合だと言われても、スマホがなければとりあえずどの方向に歩き出せばよいのかさっぱりわからなかった。
「行ったことはないんだ。たぶん……」
ナナモはあいまいに答えた。タカヤマはたぶんってどういうことやとすぐに突っ込んできたが、子供のころのことってうる覚えだろうと、ごまかした。
「始めて武士が幕府を開いた場所よ」
サクラギは単に歴史の事実を言ったわけではないということだけはナナモにも感じられた。
「タカヤマは行ったことがあるのかい?」
だから、あえて大阪人であるタカヤマにナナモは振った。
「いいや、でも、ある意味、剣道家にとってはあこがれの地やからな。ワクワクするわ」
サクラギはタカヤマが言ったことにうんうんと満足そうにうなずいていた。フジオカは、歴史だけじゃないんですけどと、口の中でもごもごと言葉を転がしていたが、今はそれ以上のことを言うべきではないのではと思ったのかしゃしゃり出てこなかった。
「夏の京都の話を去年はしてくれたけど、鎌倉はどうなんだい?」
タカヤマはナナモが蒸し暑さであの時意識を失ったんやないんやけどなあと、すかさず突っ込んできたが、ほかの二人はナナモいじりに加わってこなかった。
「京都のように蒸し暑くはないですよ。ただ、今年の開催大学は武士の聖地だという意識を前面に出したくて、わざわざ歴史建造物のような古びた体育館を借りたようです」
「木造なの。それにクーラーがないのよ」
サクラギはフジオカの説明につけ加えたのだが、表情は明るかった。
「今時の医学部生の発想とは思えませんがね」
フジオカはサクラギの顔色を見なかったのか、はあーとため息顔で言うと、タカヤマとサクラギは、すぐに武道とは本来そういうものだと、フジオカに詰め寄った。ナナモは当然フジオカ派だったが、また意識が飛んだ時には言い訳ができるだろうと黙っていた。
「お前、クーラーのせいにするんちゃうよな」
スルーすればいい話なのにタカヤマが妙に絡んでくる。
「そうよ、ナナさん今年こそ一本取らないと」
サクラギはナナモが杵築で行われた新人戦でソフィアから一本取ったことを完全に忘れている。だから、ナナモはすぐに言い返そうと思ったが、記憶とはそういうものかもしれないと思いなおして苦笑いした。
「ナナモはこと剣道に対しては言い訳が多いからな」
そんな言い方はないだろうと思いながらも半分以上タカヤマの言うことは当たっている。解剖実習中も寮で小岩に会っていたのに、小岩から何も言われなかったことと、小岩に寮のおきてだと言われたことをまだひきづっていたというか言い訳にして道場に行かなかったのは事実だ。
それでもタカヤマに悔しくないんかと言われて、久しぶりに奮起したのは、解剖実習の時のご遺体がまだまだ生きたかったんではないかと思ったからだ。
「でも、相手によるだろう」
「そういうとおもとったわ」
タカヤマがにやりとする。
「ナナさん、聞いてなかったんですが、ヒライ主将が今年から個人戦はシード方式になるって」
ナナモは団体戦に出るわけではなかったし、練習量が少なかったしで、とにかく試合にでてなんとか一本取りたいとそればかり考えていた。もちろんあの時、ナナモが意識をなくしたのはそれだけではない。ただし、穢れは払しょくできたと思っているし、新たな懸念がないことはなかったが、明確な理由はなかったがなんとなく打ち勝てそうな気がしていた。そのためにできるだけ邪念は捨てたいと思っていたのだが、主将の言葉に耳を貸さなかったのはうかつだった。
「だから、大いにチャンスありです」
フジオカはナナモの今度は顔色を見逃さなかったようで、まるでこぶしを握っているかのように付け足した。
「でも、クニツ君、わざと去年負けた学生もいてるし、同じように解剖実習や試験で練習不足やったりしたやつもおるからな」
シードの選定は一年生を除いては前年度の大会の結果による。だから当然ナナモはシードされていない。でもその事をわかったうえでタカヤマは、ねっとりと、クニツ君と、ニヤリとしながら丁寧に話しかけて来る。
「珍しくナナモさんより試験に早く通ったんでしょう。もっと優しい言い方できないの」
こと剣道に対する姿勢においてはいつもタカヤマ寄りなサクラギが珍しくナナモをかばってくれた。しかし、ナナモはタカヤマの優しさを十分に理解している。ナナモは多少どころかかなりお尻を叩かないと発奮しないのだ。
「武士は言い訳なんかせえへん。それに、練習量は大切やけど、それだけで勝ち負けが決まるわけやない。命がかかっている。そう思えばたとえいきなり本番やっても今までにない力を発揮することかってあるからな」
タカヤマは勝てると思っていた相手に去年の出会いがしらの一本を取られたことをまだ忘れていない。いや、だから、勝負事は難しいし、万全の準備が必要だとも思っている。
ナナモは、漫画のように燃える瞳をタカヤマから久しぶりに感じた。と同時に「やはりお前は剣をにぎるのだな」というあの声が聞こえてきても後ずさりしなかった。
夏の鎌倉はフジオカの言う通り京都のような身体を地面に押し付けられるような蒸し暑さはなかった。それでもそれなりに暑い。ただ、太平洋に面した海岸線からは、古の人々の生業が香る少し霊気を含んだ潮風が、上昇気流となって幾分太陽光を押し返すとともに、今から始まる医学部剣道大会を鼓舞するような気合をもたらしてくれる。だからなのか、確かに会場の体育館は古い田舎の木造の校舎の様な佇まいであったが、鎌倉市内から少し離れた山間にあったことも相まって、意外に涼しく風通しが良かった。
ナナモは二回生に上がってから今日まで色々なことがあったし、それらはまだ解決されていないし、これから解決されるのだろうかという不安がぬぐい切れてはいなかったし、また剣道の試合が始まったらオンリョウの声に惑わされ、異世界に連れて行かれるのではないかと、鎌倉に着くまでは色々な思いに押しつぶされそうだったが、それよりも、気になることがあって、気合十分で会場入りしたかったのに、新たに噴出した思いが強烈すぎて、せっかくイチロウの楽器でスマホに録音した歌を聞いて深い眠りにつこうと思っていたのに、何度も寝返りを打ったということを覚えている眠りだった。
実は昨日は鎌倉市内のホテルで例年のように前日祭が行われた。ただ、東京からは日帰りでやってきていた大学が多く、到着順に大会委員が運営していた。
「K大学はまだか」
K大学が日帰りと言うわけはない。それでもまだ到着していなかった。ナナモはその事を別段気にすることはなく各大学のプレゼンテーションを去年より楽しんでいたが、どうやら、タカヤマはK大学のことよりカリンがいないか遠回しに気になるようだ。しかし、カリンは本来剣道部ではない。だから唯一の可能性はソフィアの応援だ。でも、ナナモはあの時以来会ってもいないし、連絡もしていない。それにソフィアにはタカヤマの方が連絡しやすいはずだ。何と言ってもナナモを抜きにして三人で食事に行ったのだから。
ナナモはその事をタカヤマに言った。すると、ちょっと苦手やねんと、タカヤマらしからぬ返事が戻って来た。その上、ナナモにソフィアを探すようにあまり見たくもないが、罰が悪そうなしかめっ面で両手を合わせてくる。
「そんなに気になるんだったらどうして連絡しなかったんだい」
ナナモがタカヤマに強く迫ったのは、タカヤマには言えないし、言いたくもない異世界での出来事がオーバーラップして今年は二人に会いたくなかったからだ。それにソフィアがナナモを見つけると、きっとソフィアはタカヤマの前でも平気でナナモにハグして来るような気もしたのだ。
「俺からできへんよな」
何を言っているのだと思ったし、いつも前に前にと、だから京都まで押し掛けたタカヤマが気持ち悪いほどうじうじしている。
「どうして?」
「だって、春休みに京都に行くって言ったのに行かれへんようになったからな」
タカヤマはうじうじなんてしていない。やはり、男前だ。
「仕方ないだろう。だって、骨学実習が始まったんだから」
「一発で合格するからって大見得はったんや」
ナナモはタカヤマがあの時ナナモに冷たかった理由をやっと理解した。
「タカヤマも小さい所があるんだな」
ナナモが正直に言ったらよかったのにと笑うと、タカヤマは拳こそ握って突き上げなかったが、バキバキの瞳でナナモを睨み付けて来た。
「しかたがないよ」
ナナモは慌てて緩んでいる頬をもとに戻したが、タカヤマが今度は自分の頬を緩めたので、無言であったが、一杯食わせたタカヤマの胸を軽く突いた。
「暴力はダメだよ。クニツ君」
何がクニツ君だと思いながらも、それでもタカヤマの素知らぬ顔につい笑ってしまう。
「ホンマは解剖実習中何度か、カリンさんやソフィアさんに連絡したんやけど、返事がなかったんや。それで、ナナモに聞きたかったんやけど、なんか聞きづらかったからな」
タカヤマはなんか聞いていないかと、ナナモに続けて尋ねてきたが、どうして僕がと言い返すと、ナナモはカリンって呼び捨てやからなと、案外タカヤマは根に持つタイプなんだと先ほどの吹きだしを返してほしいと後悔した。
タカヤマは自分で言っておきながら、全く気にしていないどころか、「分かるよな、ナナモ」と、今度は無言の圧を掛けて来る。ナナモは何の圧だろうとしばらく考えたが、さっぱり分からないし、早くこの場から離れたかったので、言いたいことがあればさっさと言ったらと、つい言葉をこぼした。
タカヤマの顔は急に明るくなる。
「それやったら、遠慮なく」
それだけ言うと、しかし、遠慮気味に音になるかならないかの声で、「御婆さん」と、だけ言った。
ナナモは急にびくっとした。御婆さんと言われて、解剖実習の時のご遺体の御爺さんの事を思い出したからだ。
「やっぱりあかんか?」
タカヤマのいかつい両肩がそれでも少し下がっている。でも、どうしてご遺体の、いや、解剖実習のことをナナモにこの場で急に話しかけてきたのだろう。もしかしたら筆記試験に合格したタカヤマは医の扉の向こうでご遺体からなにか語りかけられたのではないかと、ナナモはどこかに連れて行かれそうになった。
「タカヤマは、蘇ったご遺体から何を聞いたんだい」
ナナモはタカヤマからの相談事など忘れて、真面目な声で尋ねていた。
「なんのことや。ナナモ、マーガレット先生は元気なんやろ」
「マーガレット先生?」
ナナモは強烈な頭痛とともに意識を失ってこの場に倒れたかった。しかし、冷汗がどっとからだから噴き出し、口の中を酸っぱい液体が湧き出て来るのに、頭痛どころかより意識は鮮明になって来る。
「マーガレット先生って、僕の祖母のことだよね」
ナナモはまだ酸っぱい唾液が残っていたが、軽く手で口元を押さえながらタカヤマに訊いた。
「祖母ってかしこまってどうしたんや。御婆さんや、ジェームズ君」
ナナモは吐きそうになって口元に手を置いたまま思わず後ろを向いた。もちろん汚物を実際吐いたわけではない。しかし、何か反射的な行動を起こさないと、久しぶりにナナモ以外の人からマギーの名前が出て来たので、その驚きに対処できないと思ったのかもしれない。
「顔色悪いな」
タカヤマはナナモがマギーを苦手としている事を知っている。だから、振り返ったナナモに半分は面白がって声を掛けて来る。
「で、僕にどうしろって」
ナナモはきっと青白くはない。むしろ、顔を真っ赤にしているはずだ。もちろん、興奮しているのではない、怒っている。
「だからカリンさんに連絡してほしいって言ってるやろ」
タカヤマの眼球に血管が浮き出ている。
ナナモはその瞳を見て、タカヤマが連絡してもカリンに繋がらないので、マギーを経由してカリンに連絡しようとしていることがやっとわかった。ただ、マギーの連絡先をタカヤマは知らない。だからクニツ君ではなく今度はジェームズ君と言ったのだ。
マギーからの連絡ならカリンが電話に出ないわけにはいかない。そんな打算が見え見えなのに、タカヤマはあえてナナモに言ってくる。でも、ある意味タカヤマはそれほど情熱的なのだ。ナナモはルーシーのことを思って、自分が情けなくなった。
本当はもっと早くナナモに頼もうと思っていたんやけど解剖実習中やったからなと、留年したらどうしようと、再試験を受けるたびに叫んでいたタカヤマだが、解剖実習、剣道の稽古、そしてカリンへの努力と、より多くのことをタカヤマはこの期間に行っていたと思うと、苺院への出入りが止められていたナナモは、案外自分よりもタカヤマの方が忙しいし、大変なのではないかと、先ほど抱いた怒りは消えて、本当に僕は王家の継承者なのだろうかと、心配になった。
「わかったよ」
ナナモは先ほどよりも落ち着いたので冷静になれた。それでも、そう気軽に返事できたのは、冷静さだけではなく、きっとナナモが電話を掛けてもマギーは出てくれないだろうという計算もあったからだ。
後でと言おうとしたが、瞳の血管が幾分太くなっている様に思えて、ナナモはポケットからスマホを出して、タカヤの目の前で電話した。
何時もならすぐに切れるのに、電話の呼び出し音がなかなか終わらない。それでもナナモはのんきにタカヤマの前で構えていた。
「何だい。なんの用事だい」
マギーの声だ。ナナモの緩んだ身体は一瞬にして凍り付く。
ナナモはこういう時には反射的に一度電話を切る。しかし、その前にタカヤマにスマホをとられ、素早くスピーカーに切り替えられた。
「御婆さん、お久しぶりです。タカヤマです」
どこから出る声色で、どうして関西弁でないんだろうと思うことなくナナモはもはや何もできないでいる。
「ナナモのお友達だね」
マギーは英語から日本語にスイッチを変えた。マギーが日本語も流暢に話せることは知っていたが、カリンに京都駅で話していた時以来なので妙な違和感を覚える。
「はい」
タカヤマの標準語も同じだ。
「わたしに何か用かね」
マギーはかなりトーンを下げてはいたが、口調は相変わらずだ。
「あの~御婆さん」
「マギーでいいよ」
「ではマギーさん、単刀直入に言うんですけど、カリンさんは京都に今おれますか」
タカヤマの気味の悪い標準語が続いている。
「さあ、知らないよ。最近会ってないからね」
「でも、カリンさんは、マギーさんから色々と教わっているって、先生だとおっしゃっておれましたよ」
タカヤマはたぶん三人で食事に行った時に聞いたのだろう。
「タカヤマ君だったね。カリンから何を聞いたのか知らないけど、私は先生なんかじゃないからね。ただ、少し困った事があったから相談というか、私の考えを伝えただけだよ」
ナナモは異世界の事とまたオーバーラップする。
「困った事……ですか?」
タカヤマはスマホに向かって話していたのに急にナナモの方に視線を向けた。
「それは……?」
「ナナモに聞いておくれ、私は知らないから」
ナナモはえっーと思わず叫びそうになった。そして、タカヤマの瞳から飛び出る何千何百もの刃をもはや避けることは出来ないのだと思わず目を閉じた。
「それに、カリンは今は京都にいないんだよ」
マギーが継いだ言葉でタカヤマの刃は急に撓ったようだ。だからナナモはゆっくりと目を開けた。タカヤマは相変わらずナナにも瞳を向けていたが、両耳はマギーの言葉でピーンと立っている。
「それではやはりソフィアさんの応援のために鎌倉に来られているんですか?」
「鎌倉?どうして、カリンが鎌倉に居るんだい」
「今年の医学部剣道大会は鎌倉で開かれるんですよ。だからソフィアさんが大会に出られることがあるから、その応援に来られると思ったんですけど」
「反対さ、ソフィアがカリンの国際相撲大会の応援についていったはずだよ」
「国際相撲大会?」
カリンはタカヤマに相撲をしていることを多分隠していたようだ。
「ああ」
「どこで、その大会は……」
「さあ、私は知らないね。ナナモに聞きな」
タカヤマの瞳から刃は完全に消えていた。そのかわり、ナナモだけが知っているカリンの秘密がもっとあるのではないかと、友達のはずなのにと、今にもナナモの首根っこを掴もうとしている。
「ホンマですか?ホンマにカリンさんは鎌倉にきてないんですか?」
関西弁に戻ったタカヤマはもはや疑心暗鬼のスパイラルに嵌っていて、マギーのことすら疑い始めている。
「ああ、だって、カリンが鎌倉に居るんだったら私が知らないはずはないからね」
「どうしてだい?」
意識消沈しているタカヤマに代わってナナモが英語で尋ねた。
「だって、私は今鎌倉にいるんだよ」
折角日本語でマギーが返事してくれたのに、タカヤマはマギーのことなどもはや興味が無くなっているのかナナモがしばらく口をあけたままにしなければならない程驚かなかった。カリンが来ないという事実と、タカヤマの知らないカリンをナナモが知っているということで、もうこれ以上マギーと話したくないと、もはや、タカヤマはスマホのスピーカーをOffにして、ナナモから離れようとさえしている。
ナナモはタカヤマに何か言葉を投げかけなければと思ったが、それ以上になぜあんなことを言ったんだとマギーに腹を立てた。
「本当に鎌倉にいるのかい?」
ナナモはマギーがすぐ横から現れるような気分に苛まれながらも少し語気を荒げて言った。
「どうして私がナナモに嘘をつかなきゃならないんだい」
マギーのいつもの声がいつもより低く聞こえてくる。こっちが怒っているのに怒られているように急にナナモはしゅんとなる。
「ちゃんと、毎朝参拝してるんだろうね」
ナナモは一瞬ドキッとする。なぜなら、マギーが参拝の事を尋ねて来たときはいつも何かあるからだ。きっとそんなどぎまぎしているナナモの気配をマギーは感じとっているのだろうが、いつものように一切そのことには触れなかった。
ナナモは解剖実習中もどんなに疲れていても六時前におきてカンファレンスルームの神棚に参拝していた。一度、本当なんですねと、トモナミに言われたが、小岩さんから聞いたのかいと、気にしなかった。
杵築から離れるときはスマホに取り込んでいる神社の写真に参拝している。京都にいるときに京都の神社に行けばと危うく参拝することを忘れかけていた時にマギーに怒られてから、そのことは続けている。
「ああ」
だから、自信をもって答えることができた。ただ、イエスと言えばいいのにああと答えたナナモをマギーは見逃してはくれない。
「ずいぶんえらくなったんだね。それとも、なぞのアルバイトで稼いでいるからかい?」
どうしてマギーがイチロウの事をと思いながら、ナナモから無言で去っていくタカヤマの背中を見て、きっと何がしらの事をタカヤマから聞いたのかもしれないとあえて言わなかった。
「マギーに負担ばかりかけられないからね」
ナナモは言い返すつもりではなく本心で言った。本来なら剣道大会に来るお金があれば寮費や授業料に回せば、マギーの負担も軽くなるからだ。それでも、武道をすることを拒まなかったどころか薦めたのはマギーだし、解剖実習中は、アルバイトは出来なかったが、遠征費は確かにイチロウが斡旋してくれたバイト代の貯金で賄えたしと、あえて具体的なことは言わなかった。
「あんなこと言ったらタカヤマがかわいそうだよ」
もしかしてタカヤマの独りよがりなのかもしれないが、ナナモの言える範囲でタカヤマの想いとタカヤマの男気を交えてマギーに説明した。
「そうだったのかい。そりゃ悪かったね。でも、あの男子はそんなことで落ち込まないよ。ナナモと違って剣道は真剣だから」
ナナモも最初はそう思っていた。しかし、一年以上もタカヤマと一緒にいる。タカヤマはそういつも気丈ではないし、むろん冷徹でもない。
「マギー元気かい?」
ナナモは改めてマギーに尋ねた。こういう時はマギーは必ずどうかしたのかいと尋ねて来るのだが、ああ、と、短いがきちんと応えてくれた。だから、二回生に進級できたし、専門科目が始まってと、早口で、でも詰まらないように、春からの出来事を矢継ぎ早に話していた。
ナナモが電話でこんなにマギーと話したのは久しぶりだ。というより始めてかもしれない。それでもマギーはナナモの言葉を遮らなかった。
「ナナモが大学の事を話すなんてはじめてだね」
ナナモが一区切り終えたタイミングでマギーが言った。ナナモは解剖実習の話しもしたかったのだが、それだけは出来ないと、急に口を閉ざした。
「どうかしたのかい?」
マギーはそんなナナモにすぐに気が付く。そして、なんでも話すんだよ。ひとりで考えちゃだめだよと、言葉ではないが、ほんの一瞬の沈黙から伝わってくる。だからナナモはもう少しで口から出そうであったが、もう大人だし、一人じゃないからと、カラ元気を装うことなく普通に言った。
「そうかい、それならいいんだ」
マギーはきっとそう思っていないだろうが、それ以上、訊いてこなかった。
「ねえ、マギーは古い日本について勉強しているんだろう」
以前同室していた耳鼻科医であるオオトシからマギーが古文にも造詣が深いということを聞いていたので尋ねた。マギーは、私は日本人でもハーフでもないからねと、はぐらかすのかと思ったが、だったらどうなんだい?と、尋ねて来た。
「蘇りってあるのかなって思ったんだ。つまり、日本の歴史を勉強していると、昔の人が蘇ってマギーに話しかけてくるような気分になったりしなかったかって」
ナナモは死者とは言えなかった。
「私はいつも英語で考えているからね。だから、そんなことはないよ。ただね、楽しかったり、悲しかったり、きれいだったり、きたなかったり、うれしかったり、恐かったり、感情は伝わって来るような気はするよ」
五感。ナナモはカタスクニの授業のことをふと思い出した。
「それがどうかしたのかい?」
「いや、ただね、僕の記憶がないだろう。だからね、ちょっとね」
ナナモは特に感情を込めたわけではなかったが、マギーはきっとナナモの両親の事だろうと思ったのだろう。だから、何も言わなかったし、何も言えなかったのか、急に、「ナナモの試合は何時どこで行われるんだい?」と、訊いてきた。
ナナモはえっと思わず日本語で漏らすと、特に隠すつもりはなかったし、言ったところでマギーは興味を持たないだろうと思ったので、大会の場所と日時をスラスラと答えた。
「それじゃあ、応援にいくよ」
ナナモは、ああと、先ほどマギーに指摘されたのに気のない返事をしてから思わず、「冗談だよね」と、しっかりとした発音で訊いた。
「だって去年は試合中に倒されて意識を失ったんだろう」
ソフィアが言うわけはなかったので、もはや両肩を落としながらナナモから遠ざかっているタカヤマをナナモは睨むしかなかった。
「去年は真夏の京都だったし、初めてだったから緊張しただけさ。それに、大学から始めたからまだまだマギーに来てもらうほどの実力なんてないさ」
ナナモは謙遜ではなく正直に言った。
「でも、ソフィアさんから一本取ったんだろう。その時はものすごく早かったて、言ってたよ」
ソフィアは悔しかったに違いない。でもそれはなぜか知らないがあの時ソフィアが一瞬身体を止めたからだ。
ソフィアは大げさなんだよと、ナナモが言おうとしたら、マギーは、鎌倉だからねと、唐突に呟いたあと、蘇りがあるかもしれないねと、続けた。
「えっ、どういうこと?」
ナナモはマギーにしてはかなりの小声だったので、空耳かもしれないと尋ねたのだが、マギーからは続きはなかった。だからか、ナナモは、「ねえ、父さんと僕は鎌倉に来たことがあるのかな」と、別にとぼけたわけではなかったが尋ねた。しかし、マギーはすぐに、「そんなこと私に聞いてどうなるんだい?」と、突き放すように言ってきた。きっとあえて口調をきつくしたのだろうが、その変化が却って不自然に思えた。ナナモはだからもう一度訊こうと思ったが、「ナナモ、いいかい?蘇りに惑わせられるんじゃないよ」と、マギーは先ほどの確かに自ら呟いた言葉を否定するようにナナモにぴしゃりと言った。
ナナモはきっとマギーは何かを知っていると思いたかったが、そのことを言い出せないで黙ってしまった。まるでラジオの放送事故のような時間が流れる。
「ところで国際相撲大会はどこで行われるの?」
マギーの沈黙よりもマギーの続きの言葉が聞きたくなくてナナモはそう言っていた。もちろん、タカヤマにカリンの情報を伝えなければならないということではなく、ルーシーが出場するか知りたかったからだ。
「さあね」
マギーのいつもの声が聞こえてきてナナモは今までのモヤモヤがスーッと消えていく。そして、その声はナナモからすべての五感を奪って行ったが、ナナモは却って心地よかった。
「マギー、元気でいてよ」
ナナモの無の境地から湧き出た言葉は、ナナモ自身の蘇りの声だったのかもしれない。