(1)クニツ・ジェームズ・ナナモ
ここ数日寝不足の日々が続いている。それでいて、嫌な気が全くしない。それどころか生きていると実感できている。ただ、それだけで今は良いと思っている。
ナナモは杵築医科大学に入学し、この一年間、結局退学させられることも退学することもなかった。それでもあのこともあって本当に二回生に進級できるのだろうかと不安な思いは消えなかった。
「どうしてナナモが目の下に隈を作って、欠伸を何度もするんや」
医科大学では、本試験のほかに再試験という制度があるにしろ、一年一年決められた単位が一つでも取れなかったら留年となる。だから、再試験を一つでも受けた者はその結果が発表されるまで悶々とした毎日を送る必要がある。だからと言って決められたカリキュラムがとん挫するわけはない。酷な話だが結果が発表されなくとも講義は続くのだ。だから、ナナモは、人体発生学の講義が終わった後でタカヤマに声を掛けられた。
実はナナモはすべての本試験で合格点を得ていた。ただし、それはまだ一年生で教養課程であったことと、電気工学基礎理論のように全く理解できない科目が不思議なことになかったことと、ほとんどの学生が多くの時間を費やさなければならない英語学に、ナナモは苦労することがなかっただけで、特別優秀だからということではなかった。だから、英語学で前期も後期も再試験を受けていて留年という文字に悩まされていたタカヤマが、珍しく揶揄するような言い方で話しかけてきたのも無理はなかった。
ナナモは寮の先輩たちからは一回生の時が一番暇だからなと歓迎会の時に呟かれたのだが、案外慌ただしい日々を過ごすことになった。もちろんその要因はもうひとつのあのことだが。むろんタカヤマに言えるはずがない。
「だって、カタスクニの補修授業が夜通し行われているんだぜ」
ナナモは先ほどの思いが強く身体を縛っていたはずなのに、なぜかまるで溜息でもつくように声に出してそうタカヤマに答えてから、ハッとした。いや、完全に目覚めたというか、それどころか違う意味で顔面蒼白となった。
「えっ?お前、酔っぱらってるんか!」
どうやら、ナナモはまるで寝言のように意味不明なことを話していたようだ。
「実は、ロンドンの友達と夜にリモートしているんだ」
ナナモの声は今度は消されていなかった。
「ロンドン?リモート?ホンマか?」
酒好きのタカヤマはナナモが夜な夜な気楽に飲み歩いているのではないかという目で睨み付けて来る。
「だって、寮はWiFi使い放題だから」
ナナモは答えになっているかどうかは分からなかったが、即答した。ロンドンとは時差がある。だから、昼夜が逆転する。もちろんタカヤマはナナモがジェームズ・ナナモであることを十分知っている。
「ええ身分やな」
今日のタカヤマは妙に絡んでくる。
「ところで、ジェームズ先生、来週から何が始まるかわかっていますか?」
ナナモは、恐ろしく無表情で抑揚の全くない標準語でタカヤマに話しかけられてびくっとする。ナナモがタカヤマに英語のヒアリングの個人レッスンを数回行ったことがあったが、これまで一度も先生などと呼ばれたことはない。
「なに?」
ナナモは全く分からなかった。
「これだから優等生は困るわ」
タカヤマからため息が聞こえて来る。
「実習が始まるんや」
「実習って?」
「解剖学に決まっているやろ。骨学やけどな」
もちろんナナモは実習が始まることを知っている。しかし、それは二回生に進学してからだと思っていたし、実際そう説明されたように思う。
「でも、まだ、四月になっていないだろう。それともタカヤマ、再試験に通ったのかい。おめでとう」
タカヤマからは今度は溜息は聞こえてこなかった。その代わり、目じりがつり上がり、電線がショートしたようなパチパチとした火の粉が降り注いでくる。
「ナナモ先生のおかげで、早まったんだよ」
タカヤマは大きく深呼吸をしながら自分で何とか回線を復旧させようとしてくれている。
「僕の?」
ナナモには全く心あたりはない。
「そう。ナナモが、ナナモ・ジェームズではなくて、クニツ・ジェームズ・ナナモだっていうから、学年の席順が変わったんや」
タカヤマは関西弁にやっと戻った。
「初耳だけど」
「リモートってパソコンでするんやんな。学内メールを見なかったんか?」
すべてがメールで伝達されるわけではない。一応大学にもむかしながらの掲示板があって、特に重要なことがらは印刷された紙として貼りだされる。ナナモは再試験を受けることがなかったから、あまり注意して見ていなかった。
「ナナモ、ホンマにリモートしてたんか?」
ナナモは確かにリモートをしていたのだ。しかし、それは寮ではなく苺院のタブレットでだ。あの時、ナナモはカタスクニに直接出向いて特別授業を受けさせてもらっていたのに、あれは臨時だったからと、カタリベはまた無味乾燥なリモート授業をナナモに強いてきたのだ。それにもちろん倍速だ。きっと、ナナモが再試験を受けていないことを知っているからそうしたのに違いなかったが、それでも、昼間の授業もあるのに、ずいぶん無茶をする。そして、何よりやっかいなことに、遠隔操作なのか、月が出ていなくても、ネコマネキは作動した。むろんそのことを知っている者はいない。何故ならナナモの部屋の同居人だった耳鼻科医であるオオトシはいなくなっていたからだ。それでもナナモは一度寮から夜に苺院へ出かけようとしたところを小岩に出くわした。ナナモは一瞬息が詰まりそうだったが、まるで透明人間であるかのように無視された。当たり前だといえば当たり前だが、二十四時間出入り自由の寮生活で、もはや成人のナナモが、夜に出かけて行ったとしても不思議ではないし、たとえ剣道部の先輩であるといっても常にナナモを気にかけているわけでもない。
「でも、僕の席順と実習が早まったことと、タカヤマがイライラしていることとどんな関係があるんだい?」
ナナモは一瞬気が飛んでいだが、こういうことは長続きはしない。だから、ナナモのずいぶんはっきりしてきた意識はタカヤマにきちんと質問することが出来た。
「二回生に上がれるかどうかまだわからんのに実習が始まるってことがどういうことが分かるか?」
ナナモは少しだけ強気に言ったはずだが逆質問でかわされる。
「さあ」
ナナモはとぼけるしかない。
「やっと、医学部生として初めの一歩が踏み出せると思ったのに、実習の途中で強制終了させられるんやぞ」
二回生に上がれない学生はもちろん骨学実習を受けられない。いくら、途中でもそういう規則だ。
「でもそんなことするかな?実習標本は人骨だから、きちんと進級しないと受けられないって寮の先輩が話していたけど」
「今年は例外なんや」
「例外?」
「それも知らんのか?」
ナナモは頷かざるを得ない。
「第一解剖学の教授が去年退官したやろ。もちろん、新しい教授選考が行われたんやけど。まだ、着任してないんや」
「着任してないって?」
「海外の大学に居た先生みたいなんやけど、手続きに戸惑っているみたいなんや」
タカヤマがなぜそのあたりの事情に詳しいのか不思議だったが、あえて尋ねなかった。
「だったら、着任してから始めればいいんじゃないの?」
ナナモは当たり前だという顔で言った。
「そうしたら実習のスケジュールが遅れるらしい」
「どうして?」
「発生学、骨学、人体解剖は第一解剖学教室が、組織学と神経解剖学は第二解剖学教室が担当しているのは知ってるやろ。でも、第一解剖学の教授が着任するまでは第二解剖学の教授が兼任することになったんや。だから、出来れば早めに始めたいって希望が……。でもナナモの事で学年名簿の再作成の件があって、はじめは難しいって学生課の事務方から連絡があったそうなんやけど、ナナモ、いや、ジェームズ先生は全て一発で試験に合格したものだから、事務にいるある職員の方が急に大丈夫ですなんて言いだして、それで、結局、学生名簿も正式に作り直せたからって……」
学生課?ナナモはある人物の名前が浮かびあがった。そう言えばあれからずいぶん会っていない。
「その代わり、前倒しになったから春休みが無くなったんや」
「えっ」
ナナモは春休みの間にある計画があったのだ。
「どうしてそんな大事なこと言ってくれなかったんだい」
ナナモは少し語気を荒げた。
「だから、さっきも言ったやろ、メールや掲示板を見なかったんか?」
ナナモはそう言われれば言い返せず、しばらくどうしようと頭の中で目まぐるしく走り回っていたが、誰かが微動だにしない水面に小石を放り投げてきた。
「でも、そんな裏事情までメールで送られてこないだろう」
ナナモは急に身体から何かが抜けていくと、その矛先をタカヤマに集中させた。
「そうやな、気付くやんな。だから、俺は嫌やって言ったんや」
いつしかナナモの周りに学年の仲間が数人集まっていた。みんなにやにやしている。
「実はな。ナナモのおかげで全員二回生に上がれることになったんや」
ナナモは急にタカヤマに言われて驚いた。
俺はまたVRの世界に居るのだろうかと何度か頬をつねったが、何度つねっても痛みを覚えたし、ナナモのそんな行動に周りの誰からかの笑い声が確かに聞こえてくる。
「どういうこと?」
「早く実習を始めなあかんようになったんはホンマの事なんやけど、実習は学生名簿で実習のグループ分けするから、学生名簿ができへんと前に進まれへんということになって、ナナモの事もあったし、留年者を確定してからやと遅いからって、今年はいつもより合格ラインを下げてくれたらしいんや」
ナナモはそんな偶然なんてあるだろうかともう一度頬をつねろうと思ったが、視界に捉えられる仲間は皆無言でうんうんと頷いているので、たとえそれがナナモとは本当は関係ないことであったとしても、皆が喜んでくれているのならいいかなと思い直した。
まだ、やっと一回生が終わったばっかりなのに、共通の何かでつながっている。
ナナモはそのつながりで急にナナモの根源であるあのことが思い出されて胸が苦しくなったが、それはほんの一瞬のことで、あの時出来るだけ遠ざけようとあれだけ嫌がっていたあのことを今は忘れようと思った。それどころか生きていて本当に良かったと笑みさえ出た。
ナナモは一日の講義が終わったあと、剣道の稽古に付き合ってくれと、執拗にタカヤマに誘われたがその前に田中に会いに行こうと学生課を訪れた。
「こんにちは」
ナナモは入学式以来、学生課には足を運ばなかった。何となくすれ違ったことはあったが、お互いが立ち止まって会話することはなかった。ナナモは田中を見るとあのことが思い出されてまた憂鬱になるだろうし、反対に田中もナナモと会いたがらないどころか視線を合わしたくないだろうと思えたからだ。しかし、ナナモがナナモ・ジェームズではなく、クニツ・ジェームズ・ナナモとして二回生になったとしても、あのことは何も解決されないし、解決される見込みもなかった。
しかし、その全ての原因はナナモにある。それなのに田中は家庭の事情があるとはいえナナモとの約束を守っている。ナナモの穢れを田中が清めてくれようとしている。そして、たとえ大学側の手違いとはいえ学生名簿を再作成してくれた。だからいくらナナモが会いたくないと思っても本当はナナモから声を掛け、会いに行かなければならないし、感謝しなくてはならない。
ナナモは始めてこの場所を訪れた時の緊張感を思い出しながら、大きく深呼吸し、学生課の扉をノックしてから中に入った。あの時よりは時期は早いが、学生課の人達は机に座ってしかめ面でパソコンと格闘している。
「何か御用ですか?」
あの時と同じように忙しいはずなのに一人の女性事務員が席を立ちカウンター越しにナナモに問いかけてくれる。作り笑いだがそれだけで十分だ。
「田中さんは居られますか?」
ナナモは何度かあたりを見渡して、田中が居ないことを確認してから尋ねた。
「学生さん?」
「はい、今度二回生になるクニツです」
今度二回生になると、なぜ付け足したのだろうと思いながらも、ナナモは一度も嚙むことなくすんなりと答えた。もしかしたらタカヤマ達の笑顔がそうさせたのかもしれない。
「田中は今別室で面会中なのですが……」
事務員の方から作り笑いが消えていたが、ほっとしたような穏やかさが伝わってくる。
「あっ、そうですか。お忙しいですよね。また、後日来ます」
ナナモはそう答えると頭を下げた。事務の女性は、それ以上ナナモに寄り添うことはなく、忙しいのかそそくさと席に戻った。
ナナモも急に緊張感が途切れたというか、会えなかったことに多少の言い訳が出来て、すぐにでも踵を返そうと思ったが、あの部屋だと、学生課の奥にある扉を見つめた。きっと、タカヤマは一度も訪れたことはないはずだ。
ナナモは二度も訪れている。
ナナモはまるで時間を巻き戻されたような感覚の中、しばらくなんてことはないその扉に視線を釘付けにされていた。
ギギ―ッっと、きっとそんな音など実際は発していないはずなのにゆっくりと扉が開き、一人の男子が出て来た。ナナモの顔を見ると一瞬驚いたようだったが、急に真顔になり、そして、ナナモに会釈だけすると、ゆっくりとナナモの横を通り過ぎて行った。
彼はナナモのことを知っている。だからきっとナナモに挨拶してきたのだろう。それなのに、ナナモは声を出さないばかりか同じように頭さえ下げられなかった。
もしかして、デジャヴ?と一瞬思ったのかもしれない。しかし、彼はあのときのナナモと違って微笑んでいたように思った。いや、何か生き生きと前を向いているようにさえ思えた。
その上……、彼を見た事がある。そう、きっとそうだ。
「クニツさん……」
ナナモが振り返り彼に声を掛けようとした時に目の前に田中が立っていて、ナナモを誘うようなまるで彼から引き離さそうとするかのような呼び声がした。
「お久しぶりです。田中さんのおかげで二回生になることができました」
ナナモは素直な気持ちで感謝の言葉を掛け、頭を下げた。そして、それに……と、再び頭を持ち上げてその続きを話そうと思ったのに、先ほどより顔色をこわばらせた田中にぐいと腕を掴まれて引っ張られた。ナナモは、あっと声を出しそうだったが、「こちらに入って下さい」と言われ、その声を飲み込み、誘われるままに先ほど彼が出て来た部屋に田中とともに入って行った。
バタンとまたそんな音など出ていないのに無理やり扉を閉めたような気ぜわしさが田中から伝わってくる。
「田中さんのおかげで僕達全員二回生になることができました。それに、きちんとクニツ・ジェームズ・ナナモとして登録していただいたのですね」
ナナモは無理はないなと思いながら、ナナモにまるで寄り添うような表情を見せてくれない田中にあえてもう一度感謝の言葉を掛けた。
「いえ、仕事ですから」
やはり田中は何かをまだ引きずっている。それとも、二回生に上がれたことでナナモのあの件はナナモの問題なのにナナモがもはや全くその事を気にせず勝手に解決されたのだと早合点してのんきに学生課にやって来たことを怒っているのだろうかと、ナナモも急に表情を押さえ、伏し目がちに、「あの件はあのままですか?」と、遠慮気味に尋ねた。
「はい」
田中はそのことはあの時に全て説明したはずだという顔をしている。そして、その事はナナモも受け入れたはずだ。それでも……と、ナナモはもう一度、田中とあの件について話し合いたかった。
「全員二回生になれたわけではありません」
田中はナナモの思いをかき消すようにはっきりと言った。
ナナモは息が詰まって、目が開き、顔が紅潮しているのだろうと思うほど、驚いた。もしかして試験には全て通っていたのにナナモだけはあの件で二回生になれなかったのだろうかと思ったからだ。だから、田中はナナモを他の職員がいるあの場所からこの部屋に強引に連れてきたのだろうかと、急に冷凍庫に入れられたかのように身体中が氷気で覆われて身動きできなくなった。
「まあ、お座り下さい」
田中はあのときと同じように急に穏やかな笑みを持った。しかし、ナナモはその急激な変態にあの時の様な心の落ち着きではなくより緊張が増していくのを覚えた。
この部屋は相談室ではなくやはり刑事ドラマのような取調室なのだ。
ナナモはしかしどんなことを言われようと、どんな結果が待っていようと、素直に受け入れるしかないのだと、腹を括った。
「私のせいでクニツさんにはつらい一年を過ごさせてしまいました。こちらこそ申し訳ありません」
田中は急にかしこまってナナモに頭を下げた。ナナモは突然のお詫びの言葉だったので驚いたが、「いや、もともとは僕が悪いんですから」と、慌てて田中を制した。
「ナナモさんは一度も再試験を受けられませんでした。見事一発で本試験に合格されていました。実は私にはそのことが少なからずプレッシャーになっていたんです」
田中からまた微笑みが消えた。
「たまたまです。なぜか全く理解できない科目がなかったし、それに友達が出来たし、先輩がいたので、色々と相談できたし、教えてもらえたからです」
ナナモは田中にそう言いながら、確かにこの一年、自分ひとりの殻に閉じこもることはなかったし、反対に英語学などはアドバイスさえすることが出来た。
そう言えば同じ大学生活の一年とは思えないと、忘れかけていたこの一年をナナモはフラシュバックさせた。
「でも、その事がどうして田中さんのプレッシャーになったのですか?」
「私はそんなナナモさんのお力に何一つ役だてなかったからです。それにもし退学すると言ってこられたらどうしようと、そのこともありましたし……」
田中はナナモの事を気遣ってくれていたのだ。ナナモはそう思うとこれまで田中を避けようとしていた自分が恥ずかしくなった。
「やはり、あの件はあのままですか?」
ナナモは負の緊張を悟られたくはなかったので、少し張りつめた声で静かに尋ねた。
「はい」
田中のデジャブのような声はまるで水面に降り立ったトンボのような波紋となって部屋全体に拡がっていく。
そうか。やはり。でも仕方がない。田中は田中なりに悩んでくれていたのだ。ナナモは自分に言い聞かせるように呟くとそれでもその波紋に揺られて吐きそうになるのを必死でこらえた。
「じゃあ、先ほど全員二回生には進級出来なかったと、田中さんが言われましたが、やはりそれは僕の事ですか?」
本来ならもう少し話し合い、時間をかけながら田中の心情をいたわらなければならない。ナナモはまた自分の事だけしか考えなかったのかと、本来ならそのことに最も気が付かないといけないのに、もはや遠回りする必要はないと勝手に結論づけて尋ねていた。
ナナモは大きく目を見開いていたのだろう。いや、多分鬼気迫る表情をしていたのかもしれない。田中はそんなナナモの豹変に驚いている。いや、戸惑っている。
「もしかして……」
田中からなぜかかすかに笑みがこぼれている。ナナモは先ほどの思いが裏切られたように思った。
「クニツさんの事ではないですよ。クニツさんは、クニツ・ジェームズ・ナナモさんとして正式に二回生に進級出来たことは紛れもなく本学の決定です」
田中はまた真剣な顔つきに戻って、言葉を続けた。
「しかし、あの件は今後解決されるかもしれませんし、解決されないままかもしれません。その責任の一端は私にも在ります。でも、どうかこらえてください」
ナナモは田中から正式に二回生に進級出来た事を伝えられ、ジェットコースターの頂点から降りて行くときの歓喜の声をまさに上げようと思っていたのに、田中の続きの言葉が耳に残って、悲鳴のようなため息しか出なかった。
「じゃあ、誰が留年することになったのですか?」
ナナモは複雑な感情を抑えきれなかったので、自分以外の事を尋ねたのだが、ナナモの問いには個人情報が含まれている。だから、田中は教えてはくれないだろうとナナモは思ったが、いずれわかることですかすからと前置きされた後に在る男性の名前を言った。
ナナモはすぐにその名前に具体性を結び付けられなかった。それでも、「先ほど僕がすれ違った男性ですか?」と、自然と口が開けていた。
ナナモがあの時ふと視覚が反応したのは、同じ学年で同じ教室に居て見かけたことがあったからだ。しかし、ナナモは彼と面と向かって話したことなどない。いや、ナナモがこの一年百人もいる同級生すべてとじっくりと話しとは言えない。先ほどタカヤマの掛け声で集まってくれたのはほんの一握りしかいない。だから彼は一年間ナナモとともに医学部という狭い空間で供に生活していたのに、ナナモの記憶にはほとんど残らなかった。
でも彼はナナモがナナモ・ジェームズであることを知っている。英語が得意で、剣道部で 寮に住んでいることさえ知っているのかもしれない。
それはナナモがきっとハーフだからだろう。
「はい。でも、彼は留年するのではありません。本学を辞めることにしたのです。それに彼の名誉のために言いますが、彼はナナモさんとおなじように本試験で全て合格されています」
「だったら……」
ナナモは思わず呟いた。
「実は彼からも色々と相談されていたんです」
僕の事だけじゃなかったんだ。
ナナモは田中が単なる大学の事務員でなくいくつかの学生の相談案件に関わっていたことを今更ながら考えさせられた。
「彼はどんな悩みが……」
ナナモはまた自分と重ねていた。しかし、田中は、今度は具体的なことは私からはお話しできませんと、きっぱりとした口調で言った。
ナナモはもちろん具体的な理由を興味本位で尋ねようとは思ったわけではない。ただ、もし、自分と同じように再受験しようと思っていたのなら、今更ながらかもしれないが何らかのアドバイスが出来ると思ったのだ。
田中が先ほど話してくれた名前をナナモはすでに忘れてしまっている。彼は現役生なのか浪人生なのか、自分の意志で医学部を受験したのか、誰かに言われて受験したのか分からない。それでも、彼は彼なりに一生懸命勉強して医学部合格を勝ち得たはずだ。そして、この一年がたとえ医学に直接結びつかない講義が主だったとしても、本試験ですべて合格できるほど勉強したのだ。
これからやっと本格的に医学の専門分野が始まる。それなのに……。
「もしかして彼も他の大学へ再受験していたのですか?」
ナナモはきっと答えてくれないだろうと思いながらなぜか無性にそのことが気になった。
「さあ」
田中はあっさりとそう短く答えただけだった。
そうか、そうだよなと思いながらも、ナナモは同級生なら直接彼に尋ねれば良いはずなのに、その理由をナナモは彼を追いかけてまでもはや聞く事はないだろうし、もし尋ねて、彼が話してくれたとしても彼を引き止める熱意を持てないだろうと思った。
彼は大学を辞めた。それは事実なのだろう。しかし、その事を伝えてくれた田中の表情からは春の穏やかさを感じた。別の大学の医学部を受け直したのかもしれないし、全く違う学部を受け直したのかもしれないし、大学へは行かずに何かやりたいことが出来たのかもしれない。けれどあの時彼の顔は生き生きとしていて後ろを振り返るそぶりさえなかったし、ナナモを見ても項垂れることは一切なかったし、何かに向かってこれから前へ前へと一生懸命生きようとする覇気があった。
ナナモはもう一度田中から聞いた彼の名前を思い出そうとした。しかし、やはり思い出せなかった。
でもなんだか悲しい。
ナナモも同じようにあの時、一生懸命だったのだ。それでも黙って関東西部大学をナナモは辞めた。そのあとの教室で誰かがナナモの事を思い出してくれたのだろうか。
ナナモはこの一年生きていた。しかし、関東西部大学の電子工学部に居たナナモはもはや生きてはいないように思えたし、もちろん死者ではないのに蘇ってほしいとも思わなかった。
ナナモは彼の名前をもう一度田中に尋ねようと思ったが思いとどまった。なぜなら、もはやそのことに意味を持たないと思ったし、彼のことは視覚としてナナモとともに生き続けるだろうと思ったからだ。
ナナモはこの場所に、そして田中に会いに来て良かった。
「クニツさんはまだあのことを気にされていますか?」
田中が突然尋ねて来たのでナナモは折角ふんわりとした気持ちになっていたのにあたふたして今度は即答できなかった。
「彼が退学しても当然今年度の入学定員が増えるわけではありませんし、昨年不合格になった方が繰り上げ合格することもありません」
田中はきっと、ナナモがもし自分が入学しなければとその悩みを打ちあけたことを覚えていてくれたのだろう。
ナナモは、田中の気遣いには感謝したが、それでもやはりわだかまりが消えていなかった。それでもその事はナナモの問題だ。そして、この一年その事をふと忘れたこともあるし、実際二回生に進級できるとさっきタカヤマから聞いた時には、その呪縛から解き放されたと思った。
しかし、そうではない。あのことは先ほどの彼以上に視覚ではない第六感としてナナモと生き続けることになる。それでもナナモは前に向かって歩くしかないのだと、あのことを断ち切るように、椅子から立ち上がると深々と田中に向かって頭を下げてから、驚いて慌てて立ち上がる田中に向かって、「僕からは辞めませんし、六年間頑張ります」と、はっきりした声で言ってから微笑んだ。
田中は恐縮したような苦笑いだったし、何か言いたげだったように思えたが、ぐっと唾をのみこむような仕草のあとで、頑張って下さいと、初めて満面の笑みを添えて励ましてくれた。
ナナモはもう一度頭を下げると失礼しますと、相談室の扉を開けて先ほど事務の方が接してくれたカウンターを通って学生課を後にした。
ナナモを振り向く事務の方は一人もいなかったし、ナナモは誰ともすれ違わなかった。
学生課の建物から出ると、西日と西風がナナモに容赦なくぶつかってきた。それでもナナモは両足で踏ん張るとその全てを跳ね返すのではなく取り入れながら前に進んだ。あれほど眠かったのに頭は冴え、身体中から精気が湧きだしてくるような気分だった。
ナナモは大声で叫びたくなった。生きていることを確かめたくなった。もしかしたら、ナナモの原点であるあの言葉を意識ではなく感情として想いだしたのかもしれない。
もう少しであの言葉が声帯を揺らしそうになった時にナナモのスマホが鳴った。その音は短かったのでまさしくあの言葉の様だった。
ナナモのスマホにはタカヤマから剣道の練習に行くか、飲みに行くかの二択を迫るメッセージだったが、ナナモのスマホは寮に戻ると言う第三の選択をした。
「なぜかナナモが来てから不思議なことがよくおこるよね」
寮の扉を開けて中に入るとまるで待ち構えていたかのようにカンファレンスルームにいる小岩から声を掛けられた。小岩が何を知っているのか分からなかったが、剣道部の先輩だし話し易いのに、時折見せるその不気味さには、もう慣れたというか気にならなくなっていた。
それでも小岩さんは侮れないし、この寮には僕の知らないことがまだまだある。
ナナモはそれでもきっと小岩は進級のことを祝ってくれているのだろうと素直になって、笑顔であいさつすると、自分の部屋に戻った。タカヤマに声を掛けられるまでは眠たくてうつらうつら拝聴していた発生学の講義ノートを復習しながらも、あっ、そうだとスマホを取り出した。相手はもちろんタカヤマではない。マギーだ。しかし、マギーは電話に出てくれなかった。
ナナモは大きな溜息とともに、メールを送った。
「良かったね。頑張りな」
珍しくすぐにマギーから返信があった。ナナモはなぜか嬉しくてしばらくその画面に見入っていたが、その後に続いて、キリさんからも祝いのメールが届いたので恐縮した。ナナモはありがとうございますと、丁寧な英語の文面で返信したが、もっと色々と書き足せば良かったのにと反省するべきなのに、部屋をキョロキョロと何度か見渡していた。
ナナモは食堂へ行った。寮母のヌノさんは相変わらず忙しそうに夕食の準備に追われている。ナナモはヌノさんにも進級したことを伝えようと思ったが、きっと小岩が枝葉を付けて教えているだろうし、ヌノさんもその事で一喜一憂することはないと思った。
暫くしてわかったのだが、卒業して杵築から離れた志村以外誰も寮のメンツは変わらなかった。寮の学生は誰一人として進級出来なかったものはいなかったし、現役生なのでナナモよりひとつ年下の岸も相変わらず口癖のように東大の医学部を受験しなおすと言っていたが、辞めずにさらに留年することもなく大学生活を送っている。それでも食堂でナナモに会うと、決まって東大ってどんな建物なんだって聞いてくる。
ナナモは東京に住んでいたが東大には行ったことがない。だからさあと答えると、いつも不服そうな溜息が漏れて来る。
きっとスマホを見れば分かるはずだ。けれども視覚だけではない。もっと別な感情を聞きたがっているのだろう。でもそれは、建物の視覚だ。東大そのものではない。その事を言おうとしたがナナモは止めた。きっと岸はそんなこと百も承知なのだろうと思ったし、半ばオウムの様な繰り返しの会話が、楽しみにも思えていたからだ。
ナナモはナナモ・ジェームズではなくクニツ・ジェームズ・ナナモとしてこれから医学の専門分野を学んでいく。その登竜門は解剖学だ。ナナモは最近買った骨学の本をぱらぱらとめくりながら、教科者はどうしてもというなら譲ることは可能だけれど、出来れば自分用として買った方がいいし、特に解剖学は一生ものだからと卒業して寮を出た志村から言われたことを思い出して、パラパラと何気なくページをめくるのを止めた。そして、おそらくもっと多くの事をこれから学ばなければならないのに、カタスクニの事もある。剣道部の事もある。と、本当にやっていけるだろうかと不安になった。
ナナモは珍しく思い切って肺に空気を送り込んで目一杯膨らませたい気持ちに駆られて、自室の窓を開けた。
杵築の春はまだ遠い。しかし、どこからか打ち出の小槌の音がする。それにあれだけ夜になってもどんよりとしていたのにまったく雲がなく珍しくくっきりとした満月がその光の粒子を生への息吹きに変えてナナモを鼓舞してくれている。
ナナモはこれから苺院へ進級出来た事を伝えへ行こうと思った。コトシロであるアヤベにこの一年医学部を辞めなかったことを伝えたかったからだ。しかし、苺院で必ずアヤベに会えるとは限らない。それどころかまだ補修授業中であるにもかかわらずスキップしているナナモの姿を見て、カタリベが怒鳴って来るのではないかと思って、急に身震いした。
きっとカタリベやコトシロはナナモが進級出来た事をもうすでに知っているはずだ。
ナナモは神木のタブレットをリックの中に忍ばせ苺院へ行く準備を整えていたのに、リュックを部屋の扉の傍らに置くと、踵を返し、椅子に座ると机の上に置かれてあるナナモのパソコンを起動させた。
イチロウではない。ルーシーへ伝えなくては。
ナナモは大きく深呼吸して自らを落ち着かせたのに、それでもいくら頑張っても人差し指は微動だにしなかった。
生きているからつらいこともある。ナナモはそれでも良いと今だけは思えなかった。