26 温度
校舎の外に出ると、風雨の強さを肌で感じた。時刻は午前2時。星も月も雨雲の向こうに押し込められている。目を凝らすと夜の闇に沈んだ山々の輪郭だけが、辛うじて認識できた。
結城は夜の闇と同じ色の全身スーツの着心地の悪さを感じながら、雨粒が顔を叩く中歩き出した。腰のベルトにぶら下げたヘルメットが足を進める度に太股にぶつかった。校庭の真ん中にキリンジとサミュエルが立っている。
小さなグラウンドは水浸しだった。結城はブーツでぬかるんだ地面を踏みしめて二人の元に辿り着いた。
キリンジは傘も差さずに両手を腰に当てて突っ立っている。その横にサミュエルが黒い傘を差して立っていた。余りにも真っ暗で二人の表情は分からなかった。
「似合うじゃないか」
サミュエルが近付いてきた結城に言った。
「貰っといて言うのもなんなんですけど、めっちゃ着心地悪いですね、これ」
「そう言うなよ。リナ・ホシノが着ていた対UMA戦闘服の廉価版みたいなものだが、シャツにスラックスよりはいいだろう。少なくとも、地面に転がったとしても怪我はしない」
結城は全身スーツの至る所に装着されたプロテクターをペタペタ触って確認した。これなら地面に這いつくばったとしても擦り傷や切り傷とは無縁だろう。
もっとも、ユニコーンのビームで焼かれれば、灰すら残らずこの世から消え失せるのだろうが。
「さっきは試すような真似をしてすまなかったな。これは腰のホルスターにそのまま突っ込んでおけ」
サミュエルが最後の切り札を結城に手渡した。対UMA弾発射装置『アンブレラ』。周囲を覆っていた樹脂の大半が取り除かれて、銃のシルエットが分かるようになっていた。真っ黒なリボルバー銃だった。
「撃鉄を起こした瞬間、そいつは完全に励起状態になる。そうすればあとは狙いをつけてトリガーを引くだけだ」
「狙いをつけてトリガーを引くだけ――っていうのが難しいんですよね」
言いながら結城は『アンブレラ』をホルスターに収めた。
「銃口をヤツの土手っ腹でも眉間でも――まあ、どこでもいいが、直接押し付けて撃ち込むんだな。そのためのエスコートはミスター・ニトベがやってくれるんだろう?」
キリンジはサミュエルの言葉には反応を示さず、ただ目的地のダムの方角をじっと見つめている。サミュエルは無視されても特に気を悪くした様子はなかった。
「ミスター・ユウキ、無責任だと思うかもしれんが、あとは任せた」
「無責任だなんて思いませんよ。助けてくれて、しかも武器まで用意してくれて、本当に感謝してます」
結城はそれらがただの善意によるものではないことは分かっていたが、サミュエルに頭を下げた。
「先程ミスター・ニトベには言われてしまったが、これは我々の後始末を君達に押し付けているようなものだ。軽蔑してくれて構わんよ」
結城は何と返せばいいのか分からず苦笑いを浮かべた。今サミュエルに恨み言をぶつけるのも違う気がした。アイを助けるための道具を手にできたのは、この男のおかげなのだから。
結城は自分の双肩にかかるものの大きさを感じようとした。岩田屋町の未来。あるいは人類の存亡? あまりにも大それている。自分にとって結局これは、アイを助け出すためのミッションなのだと結城は思った。
「ミスター・ユウキ、君はコーヒーショップ・香を知っているか?」
「えっ?」
突然、馴染みの喫茶店の名前が出てきて結城は目をしばたかせた。
「あの店のカレーは絶品だな。この一年、そんなに岩田屋を歩き回ることはできなかったが、あそこのカレーだけは何度もテイクアウトして食べたよ。私はあの店のカレーをまた食べたい」
夜闇の中で、サミュエルが微笑んでいる気配がした。これが彼なりの励ましの言葉なのだろう。結城はコーヒーショップ・香のカレーの味を思い返していた。いかにも喫茶店らしい、ドロっとした欧風カレーだ。フルーティーさとスパイシーさの塩梅がちょうどいい。付け合わせのラッキョウの浸かり具合も絶妙だ。トッピングはチーズでもいいし、目玉焼きでもいい。
あのカレーを最後に食べたのは、アイとだった。
それは初めて自宅で身体を重ねた夜だった。
「あの店のカレー、本当に美味しいですよね。次会った時におごってください」
「もちろん大盛りでな。ミスター・キリンジも来るだろう?」
「貴様に食わせるカレーなどない」
何故か店員目線のキリンジが、ぶっきらぼうに言った。
それを聞いたサミュエルはふっと息を吐き出した。笑ったのだろう。サミュエルは最後に「神のご加護があらんことを」と言い残してグラウンドから去っていった。
結城とキリンジだけが暗闇のグラウンドに取り残された。
「俺はあの店で時々バイトしてるからな。食べたかったらいつでも来るといい」
「――え?」
嘘か本当か分からないことを言ったキリンジの背後で、学校の駐車場から一台のバンが車道に出ていった。ライトが遠ざかっていく。サミュエルらは本当に岩田屋から撤退するのだ。
喫茶店でカレーを食べるというありふれた約束が、この状況の中ではあまりにもふわふわとしていて、まるで来世の話のようだった。その約束を完全に空虚なものにしないために結城ができることはただ一つだ。
ユニコーンを倒してアイを助け出す。
助け出されたアイがどんな反応をするのかは、結城には分からなかった。ありがとうと自分に抱きついてキスをしてくれるなどとは、今の結城には考えられない。
だが、たとえアイの目が自分に向いていないとしても、結城はただ、彼女に生きていてほしいのだ。彼女の描く未来図の中に、自分の姿がなかったとしても。
意図せず辿り着いた、この見返りを求めない献身こそが愛なのだろうかと結城はぼんやりと考えた。場末のソープの一室から始まったこの恋に、真実の愛などあるのだろうか。
結城はベルトにぶら下げていたヘルメットを被った。顎紐を締めると、頭の中から余計な考えが抜け出ていくような感覚があった。ハイエースでイエティを跳ね飛ばし、拳銃の暴力に酔っていた時とは違う感覚だった。
結城の頭の中で研ぎ澄まされたそれは、覚悟とか、使命感とか、そんな風に呼ばれるものなのかもしれない。
結城は泣いてもいなければ、笑ってもいない自分の顔に触れた。グローブ越しでは感触も温度も曖昧だったが。
できればもう一度この手で、アイに触れたい。
純粋な願いそのものが心の底から湧き上がる。フラッシュバックしたのは、イルミネーションの前で跳ね回るアイの姿だった。その無邪気な笑顔の裏側にあるものに、自分は触れられなかった。決定的な言葉を言わないまま、何もかもを曖昧にして、アイの優しさと身体に溺れた。そんな自分が今、純粋に願っている。彼女に未来があることを。
雨脚は弱まることがない。嵐はこの町に留まり続けている。
結城は夜の闇を吸い込むように大きく息を吸い、吐き出した。腰にぶら下がった『アンブレラ』の重みを感じる。
「行こう、キリンジさん」
「その言葉を待っていた」
キリンジは結城から二、三歩離れると、足を肩幅に開いて佇んだ。
その無言の後ろ姿を見て、結城はキリンジが極度の集中状態にあると悟った。キリンジの周囲にだけ雨が降っていないような、雨粒が避けていくような、そんな錯覚に結城は陥った。そしてそれが錯覚ではないと気付いたときには、キリンジの身体は黄金色に光り輝いていた。
「変身」
強く、深く、鋼鉄のような重みが乗った声だった。
次の瞬間、キリンジの身体は金色の炎に包まれた。巨大な火柱となったキリンジが夜闇の底に沈んでいたグラウンドを照らす。結城は呆然と火柱を見上げた。
天まで届くかと思われた炎の柱はやがて小さくなり、一つのかたちを作った。
炎が霧散したときにそこにいたのは、赤い毛並みと黄金のたてがみを持った、一頭の馬のような獣だった。
その豊かなたてがみは、どんな理屈かはわからないが、暗闇の中でも火炎のように発光していた。額には鹿のような角が一本だけ生えている。角の表面は薄い皮膚に覆われているようだった。
「名前がキリンジで麒麟に変身できる――なんてのは一発ギャグめいていて俺らしくない気がするが」
「いや、めっちゃキリンジさんらしいよ」
キリンジは麒麟とのハイブリッドだったのだ。
結城は麒麟そのものとなったキリンジの体躯を見上げた。美しい馬体だった。どこまででも走っていけそうな、そんな雰囲気だ。
「パドックにいたら◎をつけるな」
「なんだ、結城さんも競馬をやるのか」
結城さんも――ということはキリンジも競馬をするのだろう。そんな話をいつかこの男としてみたいと思った。キリンジは四肢を畳んでその場に伏せると、背中に乗れと促すように首を振った。結城はキリンジの背中に跳び乗り、首の後ろあたりに跨った。鞍も何もないが、案外安定している。
「しがみついていろよ――結城さんをダービー・ジョッキーにしてやるぜ」
軽口を叩くキリンジを結城は心強く思った。キリンジが見据えているのは岩田屋川ダムの方角だ。キリンジの輝くたてがみを、ひしと握りしめた結城も、同じ方向を見る。
「行くぞ」
キリンジが地を蹴る。とてつもない加速が結城の身体を襲う。夜の闇の中、全ての風景が凄まじいスピードで自分たちの背後に吹き飛んでいった。
速い。
あまりにも速い。
耳元で風が荒れ狂うゴォという音しか聞こえない。
自動車や原付の比ではない。ミサイルの先端にくくりつけられているかのような気分だった。蹄が地面を踏んでいる感触すらない。飛ぶように走るとはこのことか。舌を噛みそうで、口を開けることもできない。結城は身を低くしてたてがみを握る手に最大限の力を込めた。
結城を背中に乗せたキリンジは、道だとか、家だとか、川だとか、そういったものを完全に無視して最短距離で岩田屋川ダムに向かって突き進んでいった。
山の稜線をキリンジは駆け上がる。遮るものなど何も無い。まるで木々の方からキリンジを避けているかのようだった。
山の頂上付近でキリンジは空に向かって跳躍した。逆バンジーで打ち出されたように地上の風景が遠ざかる。背中がぞわっとする浮遊感。脳味噌が頭蓋骨の中で揺れている。
すると見えた。
長城のようなダムの向こうに、溢れんばかりの水を湛えた湖。そして、その湖の真ん中にいる巨大な黒い影。首だけを水上に出した黒いユニコーンだ。
「来るぞ」
結城は「何が?」とも問えぬまま、空中で急加速するキリンジの首に抱きついた。キリンジは空気を蹴って方向転換したのだ。そんなの馬鹿げてる――と思った瞬間、ユニコーンの角が煌めく。雨雲を割くように、ユニコーンの角から放たれた光の刃が空の向こう側に消えていった。一秒遅れて雷鳴のような破壊音と共に、光と衝撃が背中からキリンジと結城を押した。
「こちらに気付いて狙っていやがる」
キリンジは舌打ちすると、空気を蹴って一気に地表まで舞い降りた。ジェットコースターどころの話ではない。内臓がスムージーになりそうだった。
「だが、好都合だ。このままヤツをダムから引き離す……!」
キリンジは山中を加速する。背後で次々に爆発が起きる。ユニコーンの破壊光がこちらを狙い続けているのだ。数十本の杉の大木が、大量の土砂と共に空中に舞い上がる。まるで狂った砂場遊びのようだった。
キリンジはジャンプした。そのコースは、ユニコーンの鼻っ面。キリンジは一筋の光の矢となって、巨大な黒い馬の顔前、禍々しい角の根元を横切る。時間にすれば一瞬でしかない。だがその一瞬が結城の目に強烈に焼き付く。
ユニコーンは目を剥いてこちらを睨みつけていた。
震えが結城の総身を包んだ。
こいつは正真正銘の怪物だ。
ただの獣ではない。
知性と意志を持った生き物だ。
だが、これを倒さねばアイを取り戻すことは出来ない。
キリンジは着地すると再び走り始めた。挑発されたと取ったのかは分からないが、ユニコーンは大波を起こしながらダム湖から飛び出すと、その巨体を揺らしながらこちらを追いかけ始めた。
「いいぞ、こっちにこい」
その言葉通り、ユニコーンは地響きを立てながら猛進し、キリンジを追いかける。ユニコーンが蹴り上げる土が、山よりも高く舞い上がった。
一本角が光を放つのと、キリンジが方向転換するのは同時だった。爆炎をバックにキリンジが跳ねる。それが、二度、三度と続く。
「なんで避けられるの!?」
「勘だな!!」
最高の答えをキリンジが叫んだ。
キリンジがダムの下流の川沿いを疾走する。ユニコーンは高圧線を切断しながらこちらに突き進んでくる。飴細工のように巨大な鉄塔が一本、また一本とへし曲がる。火花が散って、闇の中、ユニコーンの巨体が照らしだされた。
ダムから引き離すというキリンジの狙いは実現されつつあるが、その代わり何の遮蔽物もない場所にキリンジと結城は身を置くこととなった。
ユニコーンが家屋を次々に蹴り壊しながら迫ってくる。結城はどうか住民たちが避難していてくれと願った。
ユニコーンが鳴いた。巨大なギロチン同士を擦り合わせるような、寒気のする終末の音が山間に木霊した。黒い角が輝く。結城らのすぐ側で爆発が起きる。間を置かずに、爆発は続く。熱と衝撃がすぐ後ろで荒れ狂う。
キリンジはスラロームを描いて疾駆し、死の光線を巧みに回避する。結城は必死にその身体にしがみついて耐えていた。口の中に血の味が広がっていく。鼻息が荒くなる。自分の吐き出す息で窒息しそうだった。
その時が訪れた。
もはや何十回目なのかは分からないが、ユニコーンの角から放たれたビームが地表をえぐった。土砂とコンクリート片が花火のように散った。
余波に巻き込まれたキリンジは遂に堪えきれず、つんのめるように前脚を畳んで転倒した。
結城はキリンジの背中から放り出され――空中できりもみ回転して地面に叩きつけられた。そのまま20メートルは転がり続ける。めちゃくちゃな衝撃が全身をくまなく凌辱していく。骨という骨、肉という肉。全てが痛めつけられた結城は、ボロキレのようになって、校舎の壁に激突して止まった。
気がつけば、例の廃校まで戻ってきていた。
意識があるのが、いや、生きているのが不思議だった。サミュエルにもらった全身スーツとヘルメットのおかげなのだろう。心臓が内側から肋骨を砕いて飛び出してきそうだった。耳の奥に金属の塊が詰まったような感覚があり、音は何も聞こえない。平衡感覚が失われていて、立ち上がるだけで何十秒も掛かった。頭の先から爪先まで、全身がジーンと鈍い痛み――いや、もはや痛みなのかもわからない――に襲われていた。血が身体を巡ることさえ苦痛に感じた。
むせるように口の中身を吐き出す。砕けた奥歯と一緒に、冗談だろと思うほどの量の血が、闇の中、地面にぶちまけられた。
ああ、今日、自分は死ぬのだ――そんな確信が結城の胸に湧き上がった。
イエティ。怪人。恐竜もどき。今までの戦いが全てお遊戯に思えた。
結城は見上げた。
校庭からはみ出すように、天を覆い隠すほど巨大な黒いユニコーンが立っている。
それは死の運命そのものだった。
ユニコーンの角が、結城の死を宣告するように闇の中で静かに屹立している。万事休すかと思ったその刹那、結城のすぐ隣で、ゆらめく炎のようなオーラが夜の闇を喰らって立ち昇った。キリンジだった。
「ここまで近付けたのは僥倖だ! この距離ならヤツはもう馬鹿げた威力のビームは撃てない! 自分も巻き添えになるからな!」
キリンジが放つ光に足元から照らされて、黒いユニコーンの山のような体躯が闇の中に浮かび上がった。
たとえ偽りのものだとしても――黒いユニコーンは神としか表現しようのない威厳を持っていた。人の手で生み出されたこの偽りの神は、既に――いや、最初から――人の手には余る存在だった。放っておけば、この獣はその炎で地球上を神話の世界に戻してしまうだろう。すなわちそれは、人が神の気まぐれの中で這いずり回って生きる世界だ。
結城はひれ伏してしまいそうになる自分を抑えることで精一杯だった。
「いいか、結城さん! 今から俺が最大加速でヤツの足元を走り抜ける! 結城さんはヤツの真下で飛び降りて、どてっぱらに例の『アンブレラ』をぶっ放せ!」
その声は自分自身を鼓舞するかのようだった。
――俺はただ敗北が怖いだけだ。自分より強い相手に出会うことを恐れている――
男の言葉が脳裏をかすめる。怖いのは、恐れているのは、自分だけではない。キリンジも弱い自分と戦っている。結城は全身の痛みを忘れ、最後に残った闘志を奮い立たせた。
結城はキリンジに飛び乗った。熱と衝撃で破壊されていたプロテクター類が、ボロボロと結城の全身スーツから剥がれ落ちた。
ユニコーンが目の前にいるということ。
それはアイが目の前にいるということだ。
結城はアイとの繋がりを感じようとした。細い一本の糸が、自分とあの黒い怪物の間に延びている気がした。微かに伝わってくる温もり、鼓動。アイは生きている。結城は目を見開いた。
アイ、そこにいるんだな。
「結城さん、俺が合図――――」
閃光。そしてバツンという音と共に、衝撃が結城を襲った。訳もわからずにまた地面に放り出され、ごろごろと転がって身を起こす。かろうじて機能していた全身スーツのおかげなのか意識を失うことはなかったが、目の前の光景は結城の頭の中を真っ白にした。
キリンジの右前足がちぎれて吹き飛んでいた。
黒いユニコーンは、あーあ首を狙ったのになとでも言いたげに、痛みに悶えるキリンジを見下ろしていた。ビームの威力を極小に絞って放射したのだ。ユニコーンの巨体から見れば、豆粒のような標的に対してなんという精度。しかし、ドローンを撃ち落とすぐらいなのだから、これぐらいのことはできて当然の芸当なのか。
「腕ぐらいくれてやる!!!! 結城さん、俺に掴まれ!!!!」
キリンジの鬼気迫る叫びが結城を衝き動かした。ダイブするようにキリンジの背中にしがみつく。その後ろで、結城が一秒前にいた場所が焼き払われていた。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおああああああ!!!!」
三本の足で地面を蹴ったキリンジは、一直線にユニコーンの足元を目指して走り出した。
ビームがキリンジの目の前で炸裂する。爆風でキリンジと結城は宙に舞った。一回転して地面に叩きつけられる。目の前に火花が散った。
「結城さん、行けええええええええええええええええええええええええええ!!!!」
身体を起こした結城の耳に、悲痛な残響だけを残して、キリンジは光の塊となってユニコーンの右前足に向かって突進――それもビームによって阻まれた。
――いや、爆炎の中から立ち上がったキリンジは、二度、三度と突進を繰り返す。ユニコーンはそれに釘付けとなる。ユニコーンから見ればあまりにも小さいキリンジだったが、それでもその攻撃を無視することができないようだった。キリンジは命の炎を燃やして全力で死に抗っていた。
キリンジさん、あんたは弱くなんかない。
誰よりも勇気を持った男だ。
結城は絶叫と共に走り出した。ユニコーンの腹の下までの数十メートルを、原始時代の戦士のように雄叫びを上げて駆け抜けた。熱と衝撃波が嵐のように渦巻く中、結城はスライディングをするように黒い獣の腹の下に潜り込んだ。見上げると夜空のような黒い天井。ユニコーンの腹の下だ。焦げ臭い――気がつけば結城の背中は燃えていた。地面に転がって水たまりの上でもがくように火を消す。着ていた全身スーツはグズグズに破れて、もう用を為さない。
視界の隅で、ビームを正面から受けたキリンジが校舎まで吹き飛ばされた。そして、そのまま校舎ごと爆発炎上する。ユニコーンの背丈よりも大きな火柱が上がり、轟音と熱風がユニコーンの四肢の真ん中にいる結城を襲った。立ち上がろうとしていた結城は再び前のめりに転倒する。
結城は、死神が己の首に手を掛けているのを感じた。
だが、不思議と怖くはない。波のような音が聞こえた。凄いスピードで自分の体から血が抜け出ているようだった。視界が狭まっていく。
ゆーきくん、と呼ぶ声が聞こえた気がした。
結城は地面に這いずったまま腰に手を回した。もはやグローブは破れて素手だった。そこには冷たく硬質な武器の感触があった。結城はホルスターからその武器を引き抜き、幽鬼のように身体を起こした。親指で撃鉄を起こす。
その瞬間、『アンブレラ』を覆っていた全ての樹脂が粉々に砕けて吹き飛び、銃本体が眩く発光した。結城を中心にして、空間にめちゃくちゃな虹色のラインが描かれる。それはユニコーンの巨体を絡め取る網のような形をとったあと、銃口を中心に開く巨大な傘のような形態へと変化した。それが対UMA弾発射装置『アンブレラ』の励起状態だった。
結城は『アンブレラ』のグリップを両手で握ろうとして――もはや左手の骨が砕けていてそんなことは不可能だと知った。右手だけで無理矢理『アンブレラ』を頭上に向かって構える。酷く重たく感じるのは、もはや自分の身体に残された力が僅かだということなのだろう。
生命そのものが、結城という器からこぼれ落ちていた。もはや空っぽに近い。結城の中に残されたのは、たった一つの願いだけだった。
その願いさえも、結城の口からこぼれ落ちる。
「――アイ、帰ってこい」
引き金を引くと、目の前の全てが白い光に包まれた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
気がつくと結城は草原に立っていた。
足元には瑞々しい草が生い茂り、その上を爽風が吹き抜けていく。遠くには山々の稜線。雲一つない空は、抜けるように青い。
初めて見る光景だった。
だが、結城はここがどこなのかを漠然と知っていた。
ここは、全ての命が長い長い旅を始める前に立ち寄る場所だった。
遠くに白いワンピースを着た少女がこちらに背を向けて立っていた。
結城はその少女の後ろまでゆっくりと歩を進めた。
「アイ」
栗色の髪の少女に呼びかける。
反応はない。
結城は静かに認めた。
自分はアイのことを求めながら、同時にアイの心に触れることを恐れていた。
そもそも――
「そうだよな、だからだ」
結城は我知らず呟いていた。
「アイ――じゃないんだ。名前も知らない君のことを、俺はずっとアイと呼び続けていたんだ」
少女の柔らかい髪が、風にそよいでいた。
「振り向いてくれないのも、無理ないよな」
本当の名前も知らない自分の最愛の人がそこにいる。
「でもいいんだ。俺はただ、君が生きていてくれれば。この地球のどこかに、君という存在がいてくれれば。暗闇の中で俺の名前を読んでくれた人が、どこかにいたんだと思えば、俺はきっとそれだけで生きていけるから――」
少女が振り返った。
呆然とした表情で結城の顔を見上げている
幼いが、それは自分の最愛の人に間違いなかった。
その少女の影に隠れるように、一頭の仔馬が立っていた。
黒い毛並みの痩せたその仔馬は、怯えたように結城を見ていた。
「――そうか、その子と一緒にいてあげてたのか」
「うん」
仔馬は鼻先を少女にこすりつけて甘えていた。
「この子は、なんで自分が生まれたのかわからなくて泣いてたの」
少女は仔馬の頭を優しく撫でた。
誰もがそうだ。なぜ自分が生まれたのか、何のために生きるのか、何もわからないまま生まれてくる。自分を生んでくれと頼んで、この世に生まれてきたものなどいない。
恐ろしく無防備なまま、この残酷な世界に生み落とされる。
「だから隣にいてあげてたんだな、君は」
「うん、私もこの子と一緒だから」
草原を風が渡っていく。
結城は、自分もかつてここにいたのだと思った。自分だけではなく、きっと誰もがここにいたのだ――いずれ忘れてしまうが。
何者でもなかった自分は、この草原から人生と言う名のレースに出走し、そこでひたすらあがき続けている。
「ずっといつまでもここにはいられないんだ、君も、その子も」
結城の言葉を聞いて、少女は少し悲しそうな顔をした。しかし、反論はしなかった。きっとわかっているのだろう。
少女は愛おしそうに仔馬の身体を撫でて、最後にその鼻面にキスをした。それは別れの挨拶だった。仔馬は悲しそうに鳴いた。
少女は後ずさるように仔馬から離れた。そして、結城の隣に立つ。結城は少女の手を取った。懐かしい温度がそこにはあった。
「行こうか」
名前も知らない少女はこくんと頷き、仔馬に手を振った。その小さなさよならの挨拶を、仔馬はじっとその目に焼き付けているようだった。
少女は仔馬に言った。
「――ばいばい、ゆーきくん」
◇◆◇◆◇◆◇◆
激痛。
それは自分が生きているということ。
結城は目を覚ました。
頭上には星空が広がっていた。雲は晴れ、雨は止んでいた。結城は今、グラウンドのぬかるんだ土の上に横たわっていた。
自分の身体の上に重みを感じた。結城の身体に重なるようにアイが倒れていた。
結城は動かない左手を右手で掴み、アイの身体の上に置いた。右手もその上に重ねる。
抱きしめたアイの身体から伝わる温もりが、ゆっくりと結城の中に溶けていった。
生きている。
自分も、アイも。
地響きを背中に感じた。顔を横に向けると、グラウンドの向こうにある水田地帯の真ん中で、黒いユニコーンが悶え苦しんでいた。アイとの繋がりを絶たれ、その顔は再び形を失っていた。
顔のない獣と化したユニコーンの角から、天に向かって幾筋もの光線が放たれる。狂ったように暴れ回り、慟哭するユニコーンをぼんやりと結城は眺めていた。獣の目から流れ落ちた不可視の涙が辺りに散らばって、結城の頬を濡らした。そんな気がした。
――そうだよな、寂しいよな、お前も。
視界の端を何か大きなものが横切った。
結城は空を見上げる。
晴れ渡った夜空に巨大な鳥のシルエットが舞っていた。何だろうと瞬きをした刹那、轟音と共に、空一面に無数の雷光が走った。そして、全てを引き裂くような、甲高い猛禽の鳴き声が響き渡った。
ああ、あれが本物の神様なのかと結城は思った。
結城の身体の上で、アイが身を捩る。全身の痛みさえも遠のき始めたことをぼんやりと認めながら、結城は目を閉じた。暗闇の中、そこには確かな温かさだけがあった。




