26+1 夏の終わり
槻本病院は県南で最も大きな総合病院だった。
結城はその待合室のソファに腰掛けて、ぼんやりとテレビを眺めていた。
画面の中ではアナウンサーとどこかの大学教授が、岩田屋豪雨災害の全容について語り合っている。東京オリンピックの裏で起きた激甚災害。集中豪雨。河川の氾濫。地すべり。落雷。山火事。突風。竜巻。ダウンバースト。空前絶後の被害。
その中では一言も、UMAの存在については触れられなかった。
無理もないだろう。
あの怪物たちは何の痕跡も残さずに消滅してしまったのだから。
事件後、いくつか写真や動画が出回ったようだが、それらは結局くだらないフェイクとして扱われてネットの海を漂っている。
結城は左腕に巻かれたギプスを見た。それは結城にとって、この夏出会った出来事が現実であることを示す証拠だった。だが、もしかすると、この傷が癒えてしまえば全てがなかったことになってしまうのかもしれない。
結城はくだらない妄想を振り払って、ソファから腰を上げ、待合室を後にした。
結城がその病室を訪れるのは初めてだった。入口のドアの名札には「大野まゆみ」と書かれている。
「意識が戻られたそうですね」
若い看護師が、すれ違いざまにこちらににっこりと微笑んだ。結城はそれに曖昧な笑顔を返した。
ユニコーンから助け出して以来、ずっと眠っていたアイの意識が戻った。
サミュエルからの電話でその知らせを聞いた結城は、病み上がりの重い身体を引きずって、つい最近まで自分も入院していた槻本病院を訪れたのだった。
半開きになった病室の扉の前で、結城は立ち尽くす。
中には先客がいる様子だった。
そんなつもりはなくても、聞き耳を立てることになってしまう。
「――ほんと、まゆみが入院してるってこの病院から連絡があった時は、何がどうなってるのかと思ったよ。一回も見たことない市外局番から突然電話が掛かってくるんだもんな」
男の声だった。
「ごめんごめん、でも、私もなんにも覚えてなくってさ。なんで自分がここにいて、なんでこんな大怪我したのか、全然わかんないんだよ」
一ヶ月ぶりに聞いたアイの柔らかな声に、結城は息を呑んだ。本当に意識を取り戻したのだと安堵する。
「強く頭を打ったからだろうって医者は言ってたよ。前後のことも、何も覚えてないんだよな?」
「そうそう。しかし、自分がまさか記憶喪失になるなんてねえ」
「俺のこと忘れてたらどうしようって思ってたよ」
「忘れるわけないじゃん」
ケラケラと笑うその声は、結城がこの世界で一番好きなものだった。
「でもさ、ほんとひたすら寝てたんだけど、その間、誰かがずっと私の名前を呼んでた気がするんだよね。真っ暗闇の中で」
その言葉を聞いた途端、結城の身体は石のように硬直した。アイと出会ってからの全ての出来事の記憶が、濁流のようになって結城の頭の中を通過していった。
「もしかしてさ、コウちゃんが私を呼んでてくれたの?」
男――コウちゃんは答える。
「そうだよ、まゆみ」
「ほんとにぃ」
「いなくなってから、ずっとまゆみのこと探してた。俺、これからはもっとちゃんとまゆみのこと考える。今回のことは、神様がくれたチャンスだと思う。もっと結婚相手のことを真面目に考えろって」
「――コウちゃん」
二人の間に柔らかな空気が流れるのを感じて、結城は病室の前から立ち去った。
結城は病院の正面玄関から外に出た。もう九月だというのに、あいかわらずの猛暑だった。セミはむしろ、八月の頃よりも元気なのではないかと思うほどやかましかった。
結城は強烈な直射日光を浴びて、思わず立ち眩みを起こしそうになった。身体がじっとりと汗ばんでいく。そして、考えざるを得ないことを、改めて考える。
自分がやったことは、一体何だったのだろう。
結局アイの人生の中に、自分の席は最初からなかったのだなと結城は感じていた。北村の「その人の人生を背負う覚悟はあるのか」という言葉を思い出すまでもない。アイにとって自分は逃避先の一つであり、それ以上のものではなかったのだろう。女の性を買うことに良心の呵責を感じなかった自分は、きっとスタート地点にさえ立てていなかったのだ。人生を背負うとか背負わないとか、そんな次元ですらなかった。
ただ、その肌の温かさだけを追い求めて突っ走った。
そして今、彼女の人生の舞台から、役目を終えた自分は蹴り出されたのだ。
何も覚えていないアイの前に出ていって、あのコウちゃんとやらとの関係にヒビを入れるのも、結城が望むところではない。彼女が生きていて、この世界のどこかで幸せに暮らしていてくれるのならそれでいい。ユニコーンからアイを助け出した時に願ったその望みは、嘘ではなかった。
結城はこの失恋でさえない感情を、全身で味わっていた。一言で言えばそれは惨めさだったし、もっと言えば自分という存在を根幹から打ちのめす空虚さだった。
こんなに暑いのに、結城は思わずにはいられなかった。
夏が終わったのだ。
バス停に向かってとぼとぼと歩いていると、一台の白いランドクルーザーが後ろから結城をゆっくりと追い抜いていった。そして、停車する。
「久しぶりやなぁ」
運転席から顔を覗かせたのは見知った顔だった。
「里菜さん」
星野里菜だった。相変わらずの金髪とビキニトップ姿の里菜は、イエティを狙撃した時のように車窓から半身を乗り出した。
「なんていうかその――ご迷惑をおかけしました」
結城は里菜に拳銃を突きつけた時のことを思い出して、気まずくなっていた。次の瞬間、里菜は拳銃を取り出して結城の眉間を撃ち抜くかもしれない。
「迷惑? ああ、あの時のあれな。全然気にすることやない」
里菜は快活に笑う。本当に気にしていない様子だった。
「怪我はもう大丈夫なんですか?」
里菜は自分なんかよりも余程重症だったはずだ。あのパワードスーツとやらのせいで。
「大丈夫大丈夫。うちは不死身やで」
にっと口角を上げる里菜。実際その顔には傷一つ残っていなかった。
「ほんま、結城も大変やったよな――落ち着いたらキリンジの墓に、花でも供えたってくれよ」
少し寂しそうな顔で里菜が言うのと、後部座席で誰かがバタバタと暴れ出すのは同時だった。
「いやいやいやいやいやいやいや!! 姐さん!! 俺、死んでないです!!」
「なんや、生きとったんか。後部座席で黙っとるから死んだんかと思ったわ」
運転席と助手席の間から顔を突き出したキリンジは、そんなぁとしょぼくれた顔をした。
不死身というならキリンジこそ不死身だった。見ればキリンジは五体満足で、ユニコーンとの死闘が嘘のようだった。
ともあれ、生死不明だと思っていたキリンジが生きていたことに結城は安心した。この男がいなければ、自分はあの湖岸で野垂れ死んでいたのだから。
「とりあえず家まで送ったるわ」
里菜がくりくりとした目でこちらを見つめる。その後ろではキリンジも白い歯を見せている。
結城はその誘いをありがたく受けようと、一瞬は考えたのだが。
「気持ちは嬉しいですが、遠慮しときます」
一人になりたいという気持ちのほうが今は勝った。
「さよか」
里菜も何かを察したのか、あっさりと引き下がった。里菜は身体を車内に引っ込めてハンドルを握ると、
「なあ結城、もしどこにも行くところがないんやったら、うちらのところで働かへんか?」
と思いも寄らない言葉を投げかけてきた。
里菜達と働くということは、あの非日常の世界にまた戻るということだ。怪物との戦いと冒険。スリルと高揚感。濃密な死の予感と、強烈な生の実感。そんな世界で生きることになる。それは、今の空っぽになった結城にとっては、甘い誘惑のように聞こえた。自分の安い命の使い所は、そこなのかもしれない――と。
だが、結城は首を横に振った。
「俺は――俺の場所でもうちょっと頑張ってみます」
それを聞いた里菜は、何故か少し満足そうな顔をした。もしかしたら、里菜はその言葉を結城から聞きたかったのかもしれない。
「ほな、ひとまずお別れやな。狭い町やし、また会うこともあるんやろうけど」
「――はい」
後部座席のキリンジは、心配そうに結城の表情をうかがっている。もし次に会うことがあれば、キリンジとは趣味の話をしてみたいと思った。アメカジファッションの話でもいいし、競馬の話でもいい。きっとそれは楽しい時間になるだろう。
里菜は最後に結城の目をじっと見ると、バチッと決まったウィンクをして、車の窓を閉めて走り去っていった。
結城は白いランドクルーザーが角を曲がって視界から消えるまで、それを見送り続けた。
結城はねっとりとした灼熱の空気の中に取り残される。
胸の中には、やるせない感情の巨大な残骸が居座っていた。
それの後始末をしなければならない。だが、そうやって、後始末をし続けた先にしか自分の本当の人生はないのだと結城は感じていた。
惨めで馬鹿な自分を見つめて、その弱さを受け入れることで、自分はいつか本当の意味で誰かの人生と向き合うことができるのかもしれない。
結城はまだどこにもない秋の気配を探しながらバス停の方へ歩き始めた。




