16 スペア
翌朝、教室での朝の支度が終わったタイミングで、リアがアロエットに話しかけてきた。
今朝は、片サイドにボルドーのリボンとともに編み込みをしていて、それもまたリアによく似合っていた。
「ごきげんよう。アロエット様。昨日は、大変お世話になりました! ありがとうございました」
リアが深くお辞儀をすると、編み込みも一緒にゆらんと揺れた。
「リア様、ごきげんよう。今日もとても素敵な髪型ですわね。昨日はとても有意義な時間を過ごせましたわ。ありがとうございます」
アロエットは、手本のような令嬢の笑みでリアを見た。
リアは軽く三つ編みの先に触れて「ありがとうございます」と、はにかんだ表情を見せた。
「……ところで、アロエット様は、体調はいかがですか?帰り道にご気分が優れないご様子でしたので……」
リアは声のトーンを落として、そっとアロエットに聞いた。
「ご心配ありがとう。少し立ちくらみしてしまっただけですの。リア様はお優しいですね」
アロエットが、ふわりと儚げな笑みを向けると、リアは驚いたように胸元に手を当てた。
「こ、光栄です……」
慌てて小さく答えた彼女の頬が、見る間に赤く染まっていった。
アロエットはそれを見て、悪戯が成功した子どものように、内心にっこりしていた。
「次の日曜のボランティアには、問題なく参加できると思いますので、またよろしくお願いしますわね」
あまり儚い素振りを見せると、リアがお誘いを遠慮するかもしれないと、アロエットは念を押すようにそう付け加えた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
勢いよく頭を下げ、予鈴とともに、リアは席に戻っていった。
♢
そして、日曜日――
「そなた! 生きておったか! ……リアンナ!」
二人が保養院の個室に入るなり、シスターアルバは椅子から立ち上がって叫んだ。
自分が呼ばれたと思って、体をこわばらせていたリアを素通りし、意外なほど素早い動きで紺のローブを着たアロエットを抱きしめ、全身真っ白な老女はおいおいと泣き出した。
驚いて固まった二人は、顔を見あわせた。
アロエットは、しばらくシスターアルバの気の済むように、されるがままになっていた。
先に硬直が解けたのはリアだった。
シスターアルバの座っていた椅子を、アロエットの椅子の横に引き寄せ、「座ってお話ししましょう」と笑顔で誘導する。そして、なぜかリア自身の椅子もアロエットの反対隣りに「よいしょ、よいしょ」と動かしていた。
丸い談話室のテーブルには、三脚の椅子がぴったりとくっついて並ぶことになった。
「お使いになって、シスターアルバ……」
「アルバ!」
アルバはハンカチを差し出すアロエットに、顔を向けて訂正を要求する。
「……お使いになって、アルバ」
アロエットは目を瞬かせたあと、すぐに令嬢の笑みを取り繕い、ハンカチをアルバに渡した。
アルバは素直にハンカチを受け取り、白いレースの目隠し越しに涙を拭く仕草をした。
リアは、こわごわとアルバに話しかける。
「えーと、ア、アルバ?」
「シスターアルバ!」
リアもまた、アルバから顔を向けられて訂正を促され、小さく首をすくめた。
「シスターアルバ……」
その顔には、「理不尽だわ!」という思いがありありと浮かんでいた。
アロエットは、リアになぐさめの目線を送ってから、口を開いた。
「アルバ。わたくしはこの通り、生きておりますわ。ご心配ありがとうございます」
アルバへと視線を向けたとき、アルバが突然、アロエットの目をその細い手で覆った。危害を加える様子ではなかったので、ここでもアロエットは、なすがままになっていた。
ざわり、と体内の『遍在の檻』が反応したような気がした。
リアは慌てて「シスターアルバ!」と声を上げたが、アロエットは手でリアを制して、アルバの様子をうかがった。
(目……? まぶたを閉じさせたい?)
アルバの細い手が顔から離れたとき、アロエットはまぶたを閉じて、アルバに向けて優しく微笑んでいた。
「……」
アルバはしばらくアロエットの顔を見つめていたが、やがて手を伸ばして、彼女の髪に触れた。その手は複雑に結い上げられた髪を、ほどこうとしているようだった。
「リア、アルバを手伝ってくださる?」
アロエットは、目を閉じたままリアにお願いした。
「は、はい。……でも」
心配ないと頷いてみせると、リアは立ち上がってアロエットの髪を丁寧にほどきはじめた。艶やかなライトグレーの髪を手櫛で整えながら、夜空色のローブの上に下ろしていく。
リアは、しばらくアルバとアロエットの近くに立っていたが、静かに席に戻った。
目を閉じたアロエットの手に、細く、乾いた冷たい指が触れる。
「リアンナ……わたくしは、わたくしは……。ごめんなさい……」
アルバの話し方が変わった。少し不安げな、少女のような話し方に思えた。
「わたくしは、あなたを教会に差し出して、生き延びてしまいました……」
テーブルの下、アロエットの膝の上で、アルバの手がアロエットの手を握りしめてぶるぶると震えている。
アロエットの『遍在の檻』は、その震えに呼応するかのように体内でざわめいていた。
リアの呼吸が、わずかに速くなった。
二人とも、口を挟まずにアルバの懺悔に耳を傾ける。
「あなたの後に、わたくしもそこに入る予定だった。覚悟をしていたの……いえ、本当は……とても怖かった! そこで、眠りにつくのは、怖い……!」
この線が細い老人の、どこにそんな力があるのだろうと不思議に思うほど、驚くような力を込めて、アルバはアロエットの手を握った。アロエットは微かに眉をひそめたが、穏やかな表情を崩さずに相槌を打つ。
「でも、わたくしは、色が薄かったから。あの人が代わりに、あなたの後に選ばれてっ」
アルバはうつむきながら、絞り出すようにそう言った。
困惑しながらアルバの話を聞いていたアロエットは、一つの事実に思い至った。
(白髪になる前の、この方の髪の色は……)
突然、アルバは勢いよく顔を上げて、アロエットと額を突きあわせるほどの距離に迫った。
「わたくしは、そのことに、……心の底から安堵してしまった! わたくしの番は来ない! わたくしは助かったって!」
アルバの血を吐くような叫びが、二人の耳朶を打った。
「あなたの名前は『彼紲』なんかじゃないのに! リアンナなのに! ……皆、忘れてしまった」
リアの椅子がガタリと音を立てた。
「リア?」
アロエットが小声で問いかけると、少しの間を置いて、
「大丈夫です。すみません」
動揺を隠すように、声の震えを抑えながらリアも小声で応えた。
二人は黙ってアルバの言葉を待った。
しかし、アルバはもう「ごめんなさい……ごめんなさい……」と小さく繰り返すだけだった。
防音がしっかりした個室だったことに、アロエットは感謝した。まさか、アルバの口からこのような驚くべき発言が出るとは……
コンコンコン!
突然ノックの音が響いた。
リアは椅子を倒さんばかりに慌てふためいて、「ひゃい!」と返事をして立ち上がる。
扉を開けると、施設長自らがお茶のトレーを持って立っていた。
「……この教会は、呪われておる」
いつの間にかアロエットの手を離し、テーブルへと体の向きを戻したアルバは、元の口調で吐き出すようにそう言って、背中を丸めていた。
♢
アロエットは、リアとともに学園への帰途についていた。今回は、行きも帰りも日差しを理由に路地を歩いていた。これならば、何かがあっても身を隠す場所は確保できる。
リアは、もともと白い顔をさらに白くして、アロエットの隣を口数少なく歩いていた。見かねたアロエットが「どこかで休みましょうか?」と声をかけるも、彼女は「大丈夫です」と小さく首を振るだけだった。
やがて、すれ違う人が途切れた瞬間にリアが口元に片手を添えて、アロエットに向けて囁いた。
「アロエット様は、『彼紲』……『彼紲の器』はご存じですか?」
何か重大な秘密を口にするような、緊張した声だった。
「……ええ、存じ上げています。確か、『聖唱の器』の前の『器』ですわね……?」
アロエットもリアに倣って、リアの耳元に近づき、手を添えて囁いた。
リアは頷いて話を続ける。
「シスターアルバは、アロエット様のことを……『彼紲の器』に成る前の、『移しの器』のリアンナ様だと思い込んでおいででした」
『移しの器』とは、その身に『遍在の檻』を宿す前の、『器』に成る資格を持つ人間のことだった。『器』に成れば、固有の名前を与えられ、死ぬまで祭壇の上に祀られる運命にあった。
「……そのようですわね」
アロエットは、アルバの魂の叫びを思い出して、沈んだ声を出した。
「私は、『器』に成ることは大変名誉なことで、その命が尽きるまで『遍在の檻』とともにあることができると、『器』に成る者はそのために生まれてきて、『器』に成ることこそが最上の幸せであると教わりました。でも、祭壇で穏やかに眠りについておられた『器』の方々は、本当は、恐怖の中で、苦しまれて、……っ、シ、シスターアルバは、一体何を、おっしゃって、いたんでしょう」
最後は囁き声を保てなくなり、リアはガタガタと体を震わせて口元を両手で覆った。
向かいから歩いてきた通行人が、リアの様子に心配そうに目を向けて通り過ぎていく。
アロエットはリアの肩を抱いて通路の端に寄せると、身長差を利用するように、彼女を自らのローブで包み込み、通りすがる人々の目から覆い隠した。
「……リア、息をゆっくり吸って。ゆーっくり吐いて。……そう、上手。もう一度……」
唇を震わせて深呼吸をするリアの頬は、涙で濡れていた。
アロエットは、混乱の中にあるこの教会の少女を憐れみ、この震えるほどの苦しみから、ただ救いたいと思った。
しばらくして、呼吸の仕方を思い出したように落ち着いたリアが、今度は慌てるようにアロエットを見上げてもぞもぞと動いた。
「取り乱してしまい、申し訳ございませんでした……もう、平気です」
小さな声でそう訴えるので、彼女を腕の中から解放する。
アロエットは、ローブのベルトループに下がっている時計を確認した。
「リア様。寮の門限が近くなって参りましたので、少しだけ急ぎ足で歩きましょう」
そう言ってリアに微笑むと、アロエットは流れるような所作で手を差し出した。
「申し訳ございません……アロエット様を巻き込んでしまいました」
リアは素直に差し出された手を取って、そう言った。
放心したようなリアの声からは、それが門限のことなのか、それともアルバのことを指しているのかはわからなかった。
二人は、手をつないで歩きだした。リアの手は、まだ先ほどの緊張が解けない様子で、少し冷たかった。
「わたくしから、本日のことを誰かに話すことはございません」
アロエットは歩みを止めずに、静かに、しかし、決意を感じさせる声でリアにそう伝えた。
「……ありがとうございます」
リアは、呟くようにそう返した。
「わたくしたちの身を守るためにも、他言無用ですわね」
路地を急ぎ足で進みながら、アロエットの言葉に、リアは「はい」と小さく頷いた。
間もなく夕暮れに染まる美しい教会都市、デーシデリア。
アロエットが路地を振り返ると大聖堂の尖った屋根が、空を黒く切り取っていた。
二人は手をつないだまま、それ以上言葉を交わすことなく、その長く伸びる影から抜け出すように、学園への道を急いだ。
お読みいただきありがとうございました。
各話の結末となるエピソードは、土曜日の午前10:00に更新予定です。
どうぞお楽しみに。




