12
エミリー・クローデルは体の弱い子供だった。
誓って嘘ではない。
赤ん坊の頃はよく熱を出し、生死の境を彷徨ったのも一度や二度ではない。
だがそれはあくまで3歳までの話。
年齢とともに体は丈夫になっていき、あの病弱さはどこへ、いうのが本当のところなのだが――
『あ……すみません、少しめまいが……。……先生、申し訳ありません、少し休んでも大丈夫ですか?』
――エミリー・クローデルは、姉の姿を見てこう思っていた。
――お姉様のように勉強漬けの日々なんて嫌。私は公爵令嬢なのよ。ちやほやされて当然の存在。どうして私が学ぶ必要があるの?
だからエミリーは利用しようと思った。
――礼儀作法なんて自然に覚えられるわ。難しい勉強なんて夫に全て押し付ければいいのよ。
――だから、仮病のふりして、お勉強なんかさぼっちゃえ。
『病弱』だった自分。立ちくらみや眩暈がすると言えば、両親は一も二もなくエミリーを心配してくれる。たとえそれが授業中であろうと、なにひとつ疑うことなく授業を中断させるよう教師たちにも命じていた。
だからエミリーは、なにかにつけて仮病を使い、ひたすらに学びの場を回避していたのだ。
そして同時に、姉の存在が煩わしくてならなかった。
自分が嫌な勉強をこなす姉が。自分の面倒なことをこなす姉が。姉も公爵令嬢らしく、傲慢に、不遜に、振る舞っていればいいものを。『お前はこんなこともできないの?』と暗に言われているようで、目障りでしかなかったのだ。
そこで『私もお姉様のように努力しよう!』とならなかったのが悲しいところだ。
そして不思議なことに、姉の婚約者であるセルゲイ。彼が、なにかにつけてエミリーに構いだすようになった。
セルゲイがエミリーに構うと、ナタリアは嫌そうな表情をする。当然の話だ。そしてこれは、エミリーの歪んだ自尊心をおおいに満たした。
――馬鹿ねぇお姉様。勉強ばかりにかまけているから婚約者から蔑ろにされるのよ。
エミリーはセルゲイに対して、これといって特別な感情は持ち合わせていなかった。
ただ、姉の憂いた顔が見れる。それだけを理由に、セルゲイと懇意になったふりをしていたのだ。
そして仮病の演技も相まり、エミリーの身を案じた両親は、彼女の婚約者を積極的に作ることはしなかった。
セルゲイとも仲が良いし、ゆくゆくはナタリアとセルゲイ、エミリーの3人で仲良く暮らしてはくれないかと、お花畑な思考になっていたのだ。
*
「エミリー……。……なんの用? 私は貴方と話すことなんてなにもないわ」
「そう? でも私はお姉様とお話しすることがあるの」
お付きの侍女は気まずそうにナタリアの身の回りを整え始めた。
侍女も侍女で断りはしたのだろう。だがあまりに押されて――というのがことの顛末のはずだ。
「ねぇお姉様。セルゲイ様がいるのに、どうしてあんな鼠に構ってるの?」
「……セルゲイ様は私に婚約破棄を突きつけたじゃない」
「えっ!? あんなの鵜呑みにしてたの!? お姉様って子供なんだから! あんなの夜会の余興に決まってるじゃない!」
――アレクセイ様の言っていたように、もしかしてこの二人、本当に私を馬鹿にするためだけにあんなことをしでかしたのかしら。
あからさまに驚くエミリー様子に、ナタリアの胸中には黒いものが渦巻いていく。
――だとしたら、これまで夜会の場でないがしろにされ、セルゲイ様はエミリーのことが好きだから、と思っていた私の気持ちはどうなるの?
だがここで感情的になっては相手の思うツボだ。
自分を宥めるように、アレクセイと交換した指輪を、そっと撫でる。
そしてエミリーは、反論しない姉に、さらに言葉を捲し立てていく。
「ねぇお姉様。私って今、婚約者いないじゃない? だからね、アレクセイ様と私、ぜひ婚約を結ぶべきだと思うの!」
唐突すぎるエミリーの発言にナタリアは言葉を失った。
「王妃様って贅沢な暮らしができそうじゃない! 私は人間だから鼠の政治ごとなんてわからないし、それを理由に面倒なことはぜーんぶアレクセイ様にやってもらうの! だからアレクセイ様のお妃様になれたら楽しそうだと思わない?」
「……貴方ねぇ……。……でも貴方、今日、市場で、アレクセイ様に酷い言われようだったじゃない……?」
「それがどうしたの? あんなの私の魅力にまだ気づいてないからうっかり言っただけでしょ? それに、私は間違ったことなにも言ってないじゃない。屋台の下を走り回る鼠なんて、汚くて当然でしょ。お姉様ったらこんなこともわからないの?」
……ひどい。あまりにもひどい。
反論の言葉も見つからず、ナタリアは口を噤む。どう言ったところで、全てエミリーの都合のいいように解釈されるということが、長年の経験でわかっていたからだ。
侍女もそれを理解してか、いつもより手早くナタリアの身支度を解いていく。
さすがのエミリーとて風呂にまではついてこないはずだ。だから少しでも早く入浴させようと動いてくれることに、ナタリアは感謝しきりだ。
「あら……? お姉様、そんな指輪持っていらしたの?」
と、エミリーがナタリアの指で輝くルビーの指輪に気づいた。
慌てて隠そうとして、ナタリアは寸前で抑える。下手に隠せば怪しまれるだけだ。
「……えぇ。ずっと昔に買ってもらって、でも似合わないからってしまいっぱなしだったものなの」
「ふぅん? あ、アレクセイ様の目と同じ色。お姉様も色目なんて使うのね。気持ちわる〜」
――さすがにカッとなりかけて、言い返そうとしと。でも、やはり指輪がそれを宥めてくれた。
影が落ちてくすんでみえる赤色。これは奪われてはだめだ。アレクセイ様と交換したものだもの。大丈夫、耐えるのよ、ナタリアは必死になって己に言い聞かせる。
「……つまんなーいの。反論ぐらいしたらいいのに。だからお姉様ってセルゲイ様にもそっぽ向かれるのよ」
捨て台詞のように吐き捨てて、エミリーは部屋を出て行った。
それでようやく、ナタリアもほっと一息つく。
「……お嬢様。僭越ながらその指輪、お嬢様のものではありませんよね?」
エミリーの気配が完全になくなってから、侍女の一人がこっそり耳打ちしてきた。
彼女は侍女の中でももっとも信頼のおける者だった。なにかにつけて、エミリーの動向を把握してくれている――数日前、ナタリアを迎えにきたアレクセイの前に、エミリーが意気揚々と現れたあの日。夜明けと共に準備していたのですよ、と教えてくれたのもこの人物だった。
「……そうなの。みんなには内緒にしてくれる?」
「もちろんですとも。お嬢様はそういった指輪を持っていなかったはずなのに、と不思議だったのですよ」
こそこそ話しながら、流れるように侍女はこう続けた。
「……お嬢様がどういったお考えか定かではありませんが……、……私めは、アレクセイ様とお嬢様はとてもお似合いだと思っておりますよ」
「! 冗談はやめてくれる? そんな関係じゃ……」
「ですが……迎えに来るや否やお嬢様の手を取り、跪くのを見ましたし……大量のお花もプレゼントされていたではありませんか。指輪だってアレクセイ様からの贈り物ですよね?」
「うっ……」
これまたデジャヴだ。
なにか上手い言い訳……と考えるのになにも思い浮かばない。
「正直申しますと、お嬢様にセルゲイ様は勿体無いかと……あのお方のほうがよほどお嬢様のことを寵愛しているように見えますし」
『寵愛』。なにも知らない第三者から見たなら、アレクセイとナタリアはそういうふうに見えるのだ。
その事実にナタリアの体は熱くなるばかりだ。
――うぅ……、アレクセイ様は、本当にどうして指輪なんか贈ってくれたのかしら……。
きらきら光る指輪ごとぎゅっと手を握りしめる。
胸の鼓動はいつまでも落ち着くことなく、ナタリアは悶々とした夜を過ごすハメになったのだった。




