母親
部屋に戻り、寝台にダイブする。
そして、枕を拳でどかん! と殴ってしまった。
「あああああ~~~、なんなの!!」
怒りの矛先はもちろん母である。
「ねえ、ボルゾイ、うちの母親って、性格悪いわよね?」
『そ、それは……なんと申せばよいのか』
はっきり言ってくれてもよかったのだが、お上品な大精霊ボルゾイは言葉を濁し、母の悪口についての言及は回避していた。
「わたし、あんな母親のために二回目の人生は奔走して、挙げ句の果てに助けることもできないまま死んだのよ。馬鹿みたい」
『そんなことありませんわ。母親を大事に思い、頑張る姿はとてもご立派でした』
大精霊ボルゾイの言葉で、少しだけ怒りが収まる。
「でも、本当に酷いわ」
あんな態度でシュヴァーベン公爵夫人やヒルディスにも接していたとしたら、失礼にも程があるだろう。
「あの性格、たぶん一回酷い目に遭って死なないと治らないわ」
追放されても、気にするどころかすぐに他の男を見つけて新生活を始めるくらいである。
「母を更生させるなんて無理よ」
『そうかもしれませんが、このままだと同じように追放されてしまうでしょう』
「わたしがどれだけいい子を演じていても、母が何か問題を起こしたら一緒に追いだされるだろうし」
『難しい問題ですわね……』
「いっそのこと、ここを抜け出して、聖教会の修道女になろうかしら?」
衣食住、保証されるだろうし、今から出て行けば母のことを見捨てることにもならない。
『わたくしはどこへでもご一緒いたしますが』
「ありがとう」
ただ、ここで諦めたら、二回目の人生でやろうとしていたことがすべて無駄に思えてしまう。
まだ、ここでどうにかできないか抗いたい。
会話が途切れたタイミングで、リナが夕食を運んできてくれた。
夕食はビーフシチューの包みパイに、温野菜と貝柱のマリネ、エビのソテーに鶏肉のコンフィ。どれもおいしくって、感激しながら完食する。
食後のデザートであるチョコレートタルトを運んできてくれたリナに、授業で作った刺繍入りのハンカチをあげた。
「ねえ、これ、お近づきの印にあなたの名前を刺したの。受け取ってくれる?」
「わ、私にこちらをくださるというのですか?」
「ええ、そうよ。今日、初めて刺繍をしたから、あまり上手にできていないけれど」
「いえいえ、お上手です! ありがとうございます!」
遠慮されたらどうしよう、なんて思ったが、リナは快く受け取ってくれた。
「こんなお品物をいただけるなんて……。ただ働くだけで、お返しできるかどうか」
「いいのよ、気にしなくて。これから迷惑をかけるだろうし」
主に母が……。
この先、母が何か大きな問題を起こすことはわかりきっている。
その騒動が原因で、シュヴァーベン公爵の気持ちが離れてしまい、酒と賭博に走ってしまうのだ。
わたしが追放されたら、部屋付きのリナは職にあぶれてしまうだろう。
酷い扱いを受けないといいのだが……。
なんて考えていたら、だんだん不安になってくる。
「どうかなさったのですか?」
「いえ、わたしとお母様が嫌われているせいで、あなたにも何か影響があったら……なんて考えてしまったの」
「ヴィオラお嬢様はお優しいのですね。私については心配なく。このお屋敷へは行儀見習いでやってきておりまして、何かあったらすぐに戻るように、両親から言われておりますので」
「だったらよかったわ」
貴族の家で働く使用人の多くは、実家から独立して生涯仕えるような人達である。
中には帰る家さえないという人もいると聞いた。
とりあえず、リナはその類いの使用人ではないと聞いてホッと胸をなで下ろした。
「実は、ヒルディスお嬢様のご友人になるか、メイドとして働くか、父に選ぶように言われたんです」
「あら、そうなの?」
なんでもヒルディスの取り巻きは、シュヴァーベン公爵と関係が深い貴族の娘もいるようだが、大半はお金で雇われた娘達だという。
「私はその、気が利かず、どんくさいところがあるので、ヒルディスお嬢様のご友人には相応しくないと思って、メイドの仕事を選びました」
取り巻きの面々は大聖女であるヒルディスを慕って集まってきた娘達だと思っていたが、そうではなかったらしい。
すべてシュヴァーベン公爵の取り計らいだろうが、そういうのもヒルディスは反感を抱いていそうだ。
思いがけず、ハンカチ一枚で貴重な情報を聞き出せた。
まあ、知っているからといって、何かできるわけでもないのだが。
◇◇◇
ある日の午後、裏庭を見渡せる窓の外から、声が聞こえてきたので歩みを止める。
「あなた、生意気よ! これ以上、ヒルディス様に近づくようであれば、許さないんだから!」
この声はエマである。いったい何をしているのか覗き込むと、先日廊下で見かけた、銀髪の美少女を数名で取り囲んでいたのだ。
ここで記憶が甦る。
そういえば、一回目の人生でもエマはあの子にケンカを売っていたな、と。
エマとの騒動をシュヴァーベン公爵から叱られ、むしゃくしゃしていたわたしは、いい機会だと思って彼女を成敗してしまったのだ。
エマをこてんぱんにやっつけたので、地下に閉じ込められて食事を二回抜かれる以上のおしおきを、命じられたのである。
何をされたのか、ああ、そう。
嵐の夜なのに外に放置され、一晩中泣き叫んでいたのだ。
シュヴァーベン公爵は子ども相手にも容赦ない。
今回も、おしおきなんか受けたくない。
けれどもいじめられる美少女を見て見ぬ振りもできなかった。
こうなったら、と〝虎の威を借る狐〟作戦に出てみた。
「ねえ、ヒルディス、来て! あなたのお友達が、楽しそうに遊んでいるわよ」
窓の外に向かってそう叫ぶと、エマはわかりやすいくらい顔色を青くし、わたしをジロリと睨む。
「早く、早く来て! 面白そうなことをしているから」
エマは銀髪の美少女の頬を叩いたのだろう。赤く腫れていた。
面白いことをしていないのは明白だった。
「ヒルディス、あなたも仲間に入れてもらいなさいよ!」
ここでエマは舌打ちをし、この場を去る。エマを囲んでいた者達も、慌てた様子であとを追っていった。
残された銀髪の美少女は、不思議そうな顔でわたしを見つめる。
「大丈夫よ、ヒルディスはいないわ」
「どうして?」
「平和的に解決するために、嘘を吐いたのよ」
一回目の人生同様、銀髪の美少女を助けることができた。
シュヴァーベン公爵のおしおき抜きで達成できたので、我ながら優秀だと思ってしまう。
せっかくなので、裏庭にぽつんと残された銀髪美少女に名前を聞いてみる。
「あなた、なんていうの?」
「アイスコレッタ」
まさかの家名に、一瞬息を呑む。
アイスコレッタ卿の親戚の子だろうか?
「ふうん、アイスコレッタ、ね。名前は?」
「ここでは本名とは、違う名前を名乗るように言われているの」
「わたしにだけ、本当の名前を教えなさいよ」
そんなことを言えば、彼女は少し躊躇う様子を見せながらも、本当の名前を教えてくれた。
「ケレン。ケレン・アイスコレッタ」
「なっ――!?」
ケレン・アイスコレッタだって!?
驚きのあまり、大きな声で叫ばなかったわたしを誰か褒めてほしい。




