ヒルディスと母
刺繍の授業の先生は、聖教会の修道女だった。
名前はたしか、イーリス・レウィト。
レウィト先生と呼ぶように言われていたような気がする。
「まあ、ヴィオラさん、二年ぶりに参加してくださるなんて感心です!」
そんなに参加していなかったのか、子ども時代のわたしよ……と心の中で思う。
このときのわたしは怖いもの知らずで、贅沢な身の上をそうだと知らずに暮らしていたな、と改めて振り返ってしまった。
「ええっと、前回は、ああ、そう! 名前を刺そうとして一針目で指を刺して、暴れて終了と記録しています!」
酷い態度としか言いようがない。
こんな問題児が二年ぶりにやってきて喜んでくれるレウィト先生は、なんて心が広い女性なのか、としみじみ思ってしまった。
授業開始となる寸前に、扉が開く。
誰がやってきたのかと思って振り返ったら、ヒルディスの姿があった。
もしかしなくても、刺繍の授業はヒルディスと一緒なのだろう。
でないと、二年間も授業を受けていなかったのに、先生がいるわけないのだ。
ヒルディスは顔色を変えることなく部屋に入り、わたしの斜め前の長椅子に腰を下ろす。
「レウィト先生、本日もよろしくお願い致します」
「ええ、ヒルディスさんも頑張りましょうね」
ヒルディスが開いた大判の布には、精緻な聖教会の福音の紋章が刺されていた。
これを手で一針一針刺したなんて……。
たった二年で、ここまで差が開いたのだ。
「ヴィオラさんはまず、名前を刺しましょうね」
まずは白い布に下書きをして、その上から糸を縫い付けるのだ。
「全名は長いかもしれませんが」
そういえば、と思い出す。
二年前のわたしは〝ヴィオラ・フォン・シュヴァーベン〟と刺そうとして頭文字さえ縫うことができずに投げ出したのである。
思えば庶子であるわたしはシュヴァーベン公爵家の正式な子ではなく、シュヴァーベン公爵家の者だと名乗るなんておこがましい状態だったのだ。
二年前、シュヴァーベンを刺そうとしたわたしを、ヒルディスはよく思わなかっただろう。
裁縫用に使う白墨を手に取り、白い布に名前を書いた。
「ヴィオラ・ドライスっと!」
それを聞いたヒルディスは、刺繍を刺す手を止めた。
「えーっと、ヴィオラさん、そのお名前でよろしいのですか?」
「ええ。短くっていいでしょう?」
「そうですね」
ヒルディスがどんな顔でこの会話を聞いているのか気になったが、当てつけのように思われたくないので確認できなかった。
レウィト先生が優しく教えてくれるので、初めての刺繍だったが上手くできた。
時間が余ったので、ハンカチに部屋付きメイドのリナの名前を刺してみよう。
一生懸命取り組んだからか、あっという間に時間が過ぎていった。
「ヴィオラさん、次回は花や鳥などのモチーフを刺してみましょうね」
「ええ、わかったわ! 練習もしておくわね」
「まあまあ、なんていい子なんでしょう」
ヒルディスはレウィト先生に黙礼し、静かに去って行った。
午後の歴史学の授業も、当然ながらヒルディスと一緒である。
歴史学の先生も、わたしがやってきたことにいたく感心し、喜んでくれた。
わたしばかり褒めるので、ヒルディスは面白くないだろう。
そう思ってそっと顔をのぞき見るも、ヒルディスは無表情だった。
こんなに感情が読み取れない子だっただろうか?
大人になったヒルディスはもっとこう、慈愛に満ちた心優しい娘というイメージだったが。
まあ、いろいろあって大聖女に相応しい振る舞いを身につけたのかもしれない。
夕方になり、やっと母と会う時間ができたようだ。
「ヴィオラ、用事があったみたいだけれど、なんだったの?」
こうして母を前にすると、大人になったわたしそのもののようだった。
こんなにそっくりだったのか、と驚くくらいである。
「時間がないの。手短にして」
時間がないって、一日中ゴロゴロしているだけだった気がするのだが。
億劫そうにわたしを見下ろし、おまけにため息まで吐く。
「お母様、忙しいの?」
「ええ、そう。あなたなんかに構っている暇はないの」
わたし以上に性格が悪くないか、と大精霊ボルゾイに聞きたくなる。
シュヴァーベン公爵邸を追放され、性格が偏屈になったのだと思っていたが、それは記憶違いだったらしい。
追放関係なく、母はただただシンプルに性格が悪かったのだ。
「それでなんなの?」
「いえ、たまには一緒に夕食でもどうかと思って」
「無理よ。これからシュヴァーベン公爵と一緒に食事にでかけるの」
「え、そうなの?」
「そうなのって、彼が仕事が忙しくない日はほぼ毎日そうだったじゃない」
「わたしが生まれてから、ずっと?」
「生まれる前からよ」
驚いたことに、シュヴァーベン公爵は十年以上、朝も夜も母と過ごしていたという。
そこまで母に入れ込んでいたなんて、初めて知った。
シュヴァーベン公爵は十年以上、妻と娘を蔑ろにしていたことにもなる。
貴族同士の結婚に、愛なんてないと聞く。
けれども愛人を大事にして、家族に見向きもしないというのは酷いとしか言いようがない。
わたしを前にしたとき、ヒルディスの感情が無になるのも無理はないのだ。
娘でさえそんな感じなので、シュヴァーベン公爵夫人の気持ちなんて、想像もできない。
「悪いけれど、今日は一人で食べて」
わたしが不服そうに見えたからか、母は驚きの提案をする。
「寂しかったら、シュヴァーベン公爵夫人やヒルディスと一緒に食べたらいいじゃないの」
「お母様、それはないわ」
「どうして?」
「あの二人はわたし達母子を、少なくとも好いていないと思うの」
「そんなことないわよ。気のせいだわ」
母のあっけらかんとした物言いを聞いて、信じられない気持ちになる。
シュヴァーベン公爵夫人やヒルディスから、シュヴァーベン公爵を独占しているという自覚はこれっぽっちもないようだ。
「お母様、そんなふうに自分勝手でいたら、いつか立場を追われてしまうことになるわ」
「シュヴァーベン公爵夫人とヒルディスに?」
「ええ」
「そんなわけないじゃない! シュヴァーベン公爵は家族との関係なんて、冷え切っているっていつも言っているもの」
それはシュヴァーベン公爵側からの一方的な視点だろう。シュヴァーベン公爵夫人とヒルディスが同じ気持ちだと決めつけないでいただきたい。
「もういいでしょう。そろそろ準備をしなきゃ、間に合わないから」
母はわたしの背中をぐいぐい押して、部屋の外に追いやった。
ばたん! と拒絶するように強く締めたので、呆れて物も言えなくなる。
わたしの母はとてつもなく性格が悪い。
そんなことがわかっただけのやりとりだった。




