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神恵の子ら  作者: 琴原 宰
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神恵の子ら 第三章

 <第三章  おとずれる黒雲>





 早朝の草原を流れるように移動する。

 足跡は、残らない。

 草を撫でる風のように、そのときだけ、私の存在は平野に認識される。それは、私の中にある意図も同じだ。あとをつけられないよう、独特の余韻を残さないように、痕跡をかき消している。

 意図は、同族との邂逅を望んでいない。その方が、お互いのためになる。出会ってしまえば、どちらかが倒れるまで死力を尽くすしかないのだ。一つの領域に、二つの意図は存在できない。特に、自然にやってきたものと、意図的に呼びよせられたもの同士は、橇が合わず、お互いを消滅させにかかる。詳しい理由など判るはずもないが、それは太古の昔から、決まっていることなのだろう。あるいは、この世界の調和を考慮した結果なのかもしれない。

 私の中に、あの意図が降りてきたのは、森と霧のなかにいるときだった。

 そのとき、ある事情で、私は死のうと思っていた。同時に、殺してやりたいほどこの世界を、国を憎んでいた。私の心には、人を超えた感情が渦巻いていたのだ。そして、それに耐えきれず、私の身体は崩壊を選ぼうとしていた。

 人が抱え切れない憎悪が、あの意図を呼び寄せることになる。それは、ほんの偶然だったのかもしれない。しかし、確かにその瞬間、その場に、現実世界への吸着を求める意図と、それに見合った憎悪が、それぞれ存在していた。これは、啓示なのだろうか。意図は、私の中に居場所を見つけ、憎悪と私の主従関係は、逆転する。

 ただ、声が聞こえた。

 ――息を吹きかけるのだ。さすれば、お前の懸念は去るだろう。

 何の暗示かは、脳ではなく身体が理解する。私は、媒介すればよいだけなのだ。息は、私の権能ではない。息吹は、あくまで意図のもので、私はその息を下界へ漏れさせぬ、最後の砦だ。そういう役なのである。そして、誰もがやらない砦の破戒を、誰もが抱かない憎悪を持って、達成することを、望まれている。

 無論、私に躊躇などない。全てに、私は逆らわない。そして、逆らえもしない。だからこそ、私は選ばれた。私が、選ばれた。

 唇を、ゆっくりと開く。重く、湿った意図の吐息が、口内から溢れてくる。全てを奪い去る、始まりの息吹だ。

 滑り続ける視界に、人の群れが移る。たった数名ではなく、数十人はいるだろう。前線へ送られる、勇猛で悲愴な兵士たち。

意図の権能を試すには、彼らはもってこいだろう。口角が自然と上がる。私ではなく、獲物を前にした意図が、吊り上げている。

 さあ、始めよう。

 私は、相対的な神になる。





   ◆◆◆(場面転換)◆◆◆







「ジラード。ともに旅をして三日目になるが、あとこれが丸々二日もあるのか」

 狼の襲撃から、二日ほどたった平原の昼下がり、小隊の先頭を行くジャン小隊長が、退屈そうに国境警備隊員に尋ねる。五人は、例の襲撃のあと、大きな戦闘に巻き込まれることもなく、ただただ平原を歩き続けていた。

「仕方がありますまい。我々は馬も鉄道切符も持っていないのです。この平らで障害物のない草原を、目的地へ進むしかありません」

 ジラード隊員は、クルス衛生兵が捲いてくれた包帯の具合を確かめながら返した。幸い、傷口が化膿することもなく、回復は順調のようだ。

「平和ボケが怖いのだ、俺は。初日の夜は狼に襲われたものの、二日目と三日目は、まるで何もない。のどかで快適なピクニックをしているだけだ。平和すぎて、困る。前線へ向けて、気持ちを高ぶらせたままの自分が、愚かだと思えてくる」

「まあまあ、小隊長殿。よく見ておかれませ。これが、我らが人生、今生の牧歌的な風景ですぞ。前線に行けば、いやでも悲惨な光景を目にします」

 複雑な表情のジャン隊長を、メリル副隊長が慰める。とはいえ、初日に持っていた緊張感を維持することに、彼も苦心しているようだった。人当たりが良いので表にはださないが、その分裏で迷っているに違いない。

 クルスとケイズも会話には加わらないものの、胸中はさほど変わらないようである。

「では、昔話をしましょう」

 四人の退屈を紛らわせるため、ジラード隊員は、気を利かせることにした。

「昔話?」

 ジャン隊長が、ジラード隊員の横顔を眺める。どうやら、彼の興味を引けたらしい。

「なんですか、その昔話とは」

「気になりますね」

 メリル副隊長と、クルス衛生兵も乗ってくる。ケイズ士官候補生も、こちらに視線を向けていた。

 周囲を警戒してみるが、水平線まで以上はない。長話をできる用意は、整っているようだった。

「十五で入隊したとき、兵士としての人生が、始まった。軍にはいった理由は簡単だった。それ以外にできる仕事が、私にはなかった。畑も持っていないし、僧侶にも向いていない。狩人は、年中稼げる仕事ではない。消去法で残ったのが、兵隊という稼ぎ口だった」

 無論、ジラード隊員の現在の経歴は、虚偽のものである。したがって、細部は巧妙なフィクションとなるが、今からの話は、大筋では彼の過去になる。

「最初は、だれもがそうであるように、厳しい訓練に明け暮れ、ただ疲弊して泥のように眠る毎日を、最初の数カ月は過ごしているだけだった。そのうちに身体がついてくるようになると、より実践的な訓練が始まり、私を本物の兵士へと、鍛え上げた。そういった期間が長くなればなるほど、自分が兵士という生物に生まれ変わっていく感触……手ごたえのようなものを掴んだ。それは、自信となって、まだ少年だった私の強い基軸となったように、今では振りかえることができる。私は、うれしかったのかもしれない。何者かになれた。共通点も依然として多いものの、他とは違った部分をもった存在になれたことが、喜ばしいことだと、思っていた」

「訓練での成績は、優秀だったのでしょう? 

 ジラード隊員のことですし」

 クルスが、そう間の手を入れる。

 フェイは、少しだけ微笑を浮かべた。

「否定はしない。いつも、一番か二番だった。私を負かす奴は、一人だけだ。そいつが、ライバルだったのかもしれないな。お互いに、橇が合わず、言葉を交わしたことは、ほとんどないが……」

「その好敵手殿は、今どちらに?」と、メリル。

「北東の前線にいる。数々の武功を立てているようだ。まあ、優秀な奴だったから、当然かもしれない」

 その好敵手こそ、ミリアの氷熊、カッセルプライムである。だが、この名は伏せたほうがよいだろう。

「そうですか、北東の前線といえば、カッセルプライムが駐屯しているところですね。好敵手殿が、あの方に氷漬けにされねば、良いのですが……」

「私もそう願っている、メリル副隊長」

 そうはいったが、フェイは全く心配していない。メリル副隊長の懸念が当たるには、カッセルプライムがあの氷熊自身を、氷漬けにする必要があるからだ。奴は、そんな滑稽な真似は死んでもしない。

「そうして、好敵手とともに、実戦訓練に明け暮れていた頃、我々は一足早く戦地へ送られることになった。隣国と、戦争が始まったからだ。もともと、我々の年代は、開戦を見越して多めに採用され、そして通常よりも早めに育成されるよう、国王の命で決まっていた。無論、これはあとで知ったことだ。軍の採用試験のときに、開戦のことなど、一言も知らされなかった。それを知れば、志願者が皆辞退するからだ。おそらく、私もそうしていたと思う。しかし、現実には、我々は伏せられていた事実を唐突に突き付けられ、そして、その濁流の中へ、突き落とされた。ついこの間まで訓練生だった我々は、国家の戦略によって、あっというまに、戦地へ赴いていた。そして、そこで知ることになる。自分がやっていたのは、兵士のままごとだったと。痛感することになる、無力さを」

「……戦地では、それほど激しい戦いを?」

 ケイズが静かに尋ねる。

 フェイは、平原の地平線をにらんだ。まるで、その先に当時の地獄があるかのように。

「戦場は、私の想像を超えていた。むごく、救いのない殺し合いが、延々と続く。味方の血を、敵の鮮血で洗い、そしてまた、別の味方の血で汚す。そんなことが、気の遠くなるくらい、続いた。訓練期に知り合った多くの仲間が、一度目の戦いで三分の一ほど命を落とし、戦う回数が増えるごとに、旧い知り合いの顔は減っていった。私を含むそういった新兵達は、位も低い雑兵だから、司令官にとっては、単なる消耗品でしかない。殺されれば、次の補充でまたくる。それくらいの感覚で、我々は使い捨てにされた。君達士官学校でのエリートとは違って、私は一兵卒だから、そういう扱いが、戦場での自分の価値だった」

 士官学校に在籍する四人は、衝撃と罰の悪さから、頭を垂れた。士官と一兵卒の命の格差については、四人とも知ってはいたことなのだろうが、やはり実体験を目の前で放されると、考えてしまうものがあるらしい。

 だが、真剣に悩んでくれる四人の態度が、フェイにはうれしかった。当時の指揮官よりも、彼らには尊敬され、優秀な士官となってほしいと、フェイは思う。

「最初の激戦期が過ぎて、お互い睨みあいの時期になったとき、私は既に戦場に嫌気がさしていた。こんなことをいうと、諸君らの非難をかいそうだが、私は戦争に疲弊し、うんざりしていた。死ぬために不当な命令に従い、いつか自分の番がくる現実から、どうにかして抜けだしたかったのだ。そして、そのとき、幸運にも私にある機会がやってきた」

「どういうチャンスだったのです?」

「一つ前の戦闘で、国境警備隊が、著しい被害をこうむった。彼らは、どちらかというと偵察を主な任務としているが、そのときは運悪く、国境の丘陵地帯から侵入してくる敵の主力部隊と遭遇、やむなく交戦となり、ほとんど隊が全滅にまで追いやられた。それの補充要員を、私のいた部隊からも募った。当然、私は手を上げた」

「それで。今に至るというわけか」

「その通りだ、ジャン小隊長」

「しかし、今の話で一つ腑に落ちないことがある」

 鋭いジャンに、何か感づかれたのかと、フェイは心中警戒していた。

「なぜ、国境警備隊にはいったはずのお前が、国境沿いでもない森林地帯にいたのだ? 国境を警備する任務につきそうなものを。何か、特別の事情でもあったのか」

 さて、なんとごまかせばいいのか。

 そう思案しかけたが、悩むほどでもなかった。こういう場合の回答は、すでに用意してある。

「最初に出会ったときにも言ったが、機密事項だ。だが、私のいた前線にヒントがあるといっておこう。これ以上の質問には、申し訳ないが答える権限が、私にはない」

 四人は、考え込んで推理した。

 やがて、フェイが用意していたダミーの答えに辿り着く。

「……なるほど。つまり、人探しだな。前線から消えた奴を追って、あんなところにいたのか」

 ジャン隊長は、とても鋭い。しかし、これは初めから本当の正解には辿りつけないクイズなのだ。

「これ以上は、いえませんな」

 意味ありげな微笑を残して、このダミーの回答は完成する。

「奴を知っているのか。見たことは? どんな顔だ? 男か? それとも女?」

 微笑でお茶を濁したのにも関わらず、話題が例の脱走兵と定まるや否や、ジャン小隊長は矢継ぎ早に質問を繰り出した。よほど、興味があるのだろう。

 わざと勿体つけて、ジラード隊員は応対する。

「誰のことかは存じませんが、私の闘っていた前線で、一人の勇猛果敢な兵士の噂は、良く耳にしました。何度か、彼の稲妻が光るのも、遠目に目撃したことがあります」

「そいつは、どんな風貌だったのだ、ジラード隊員!」

「落ち着かれませ、小隊長殿。ジラード隊員にも、立場があるのですぞ。ずけずけと尋ねてばかりいては失礼です」

 熱を上げるジャンを、メリルがなだめた。副隊長は、やれやれといった仕種をする。

「仕方ないだろう。気になるのだ」

「彼の風貌に関しては、私もよく知らない。彼の存在は勿論、彼に関する全ての情報が、最上級の軍事機密だった。噂で聞いた話だが、なんでも戦場に出るときですら、仮面とマントをつけて、性別も顔立ちも背丈も、良く分からないようにしていたとか。それもある意味、当然の話だろう。彼の素性がしれれば、彼の強大な力に悩まされている敵軍は、すぐさま彼を暗殺しようとする。もし、そういった事態が現実になれば、ミリア軍は最高戦力を危険にさらすことになる。そんな愚の骨頂を、上層部が許すはずがない」

 話を聞き終えたジャンは、少し不服そうだった。失望しているのかもしれない。

「ふむ。そうか。奴がどんな見ためをしているかわかれば、俺が探しだして前線へ引きずっていってやるものを」

「勇ましいですな、小隊長殿は」とケイズ。

「まあ、無理でしょうがね」と、メリル。

「そうだよ、ジャン。もし運よく発見できても、どうやって取り押さえるのさ。あいてはミリア軍の最高戦力なんだよ。君が一生涯をかけて打ち取る数の敵兵を、たった一撃で葬り去る存在なんだ」と、クルス。

「十中の、十。つまり、一縷の望みもなく、消し炭にされて終わりでしょう。何か特別に有利な状況下であるなら、話しは別ですが」

 と、最後にジラード隊員が締めくくる。ジャン小隊長は、反論の総攻撃を受けて、むっつりと黙りこんでしまった。不機嫌になってしまったらしい。

「俺は、諦めんぞ。可能性が一縷でもあるなら、奴を捕まえてみせる」

「まあ、それがミリアにとっては、一番いいかもしれませんがね。しかし、隊長殿。我々には、もっと至近の課題が存在しますぞ。いち早く前線に付くことです」

「そして、そこで名誉を挽回する必要がある。優先順位は、そちらだ」

 一発逆転の夢を諦めきれない自分たちの隊長を、副隊長とケイズがなだめる。

「さて、昔話は終わりです。日が暮れるまで、もう少し進みましょう。そうすれば、あと二日後には、前線に到着できます」

 水先案内人のジラード隊員は、そう言い残して、隊の先頭へ進み出る。そのまま、有無を言わせぬ歩調で、ずんずんと平原を進んだ。彼の歩く速度は、常人の倍速はある。ほとんど小走りに近い速さで、士官候補四人は、その後を追いかけた。もう一度遭難するのは、四人ともご免なのだろう。

 時刻は、まだ昼下がりといったところだった。再び、平坦な旅路との戦いが、始まる。









 ◆◆◆(場面転換)◆◆◆










「このペースでいけば、西の前線へは予定通りにつけそうか、クレメンツ」

 その日の夜、最後の不寝番を引き受けたフェイは、小さな焚火のそばで右肩の赤毛栗鼠に話しかけた。

「順調といってよいだろう。すこし予定よりも早く着きそうなくらいだ」

「そうかい。早いに越したことはないんだ。彼女が犠牲者をださなくてすむ」

「その者のことだが、私には気がかりなことがある」

「痕跡がないこと?」

「ああ、そうだ。静かすぎる」

「変な話だ。普段の世界は、静かなのが当然なのに。それが、どうして変なんだい?」

「お前は、アニマの静けさについて、一通りの様態しか知らないのだろう。だが、私には、数百通りの静けさがある」

 赤毛栗鼠の教授は、無知な脱走兵に夜の補修を始めた。

「静けさ、という単語一つにまとめられてはいるだけだ。一つの単語しか、結びつく記号がないからといって、実際にある事物が、一つの事態とは、限らない。それくらいは、ジゴレイドのつきあいから、分かるであろう」

「クレメンツ。僕は身体で覚える性質なんだ。神経信号で、記憶するのさ。こと、あれとの関係を、言葉に出来るほど、僕は賢くない」

 あまり優秀でない教え子に、森の教授はため息をつく。

「やれやれ。よくそれで、あれほど神聖で複雑な存在と付き合えるものだ。いいや、もしかすると、これほど馬鹿正直で直線的にカミを捉えているからこそ、ジゴレイドはお前を選んだのか……」

「クレメンツ。話題がずれてるよ」

「そうであった。さっきまでの話をまとめれば、正常な静けさもあれば、異常な静けさもあるということだ。静けさがあるからといって、それがすぐに正常という意味をさすのではない。私がさっき言いたかったのは、そういうことだ」

「つまり、この平原には、異常な静けさが満ちていると」

「そういうことになる。初日の夜にもいったが、平坦すぎる。まるで、殲滅したかのように一つの窪みもない、面の上を歩かされているようだ。ここまで平坦なアニマは感じたことがない。寒気がするほどだ。何か巨大で、邪悪な視線が、どこかから、こちらを見ているような、気味の悪さを感じる。お前は、何か感じぬのか」

 フェイは、無念そうに首を横に振った。

「僕が認識できるのは、ジゴレイドのものだけだ。それ以外の存在は、感知することができない。もともと、動物と違って、人間にそういった存在は感じられないんだ」

「そうであったか。だからこそ、一つでもカミを感知できれば、お前たち人間のなかでは、かなり優れた部類になるのだったな」

「君みたいには、いかないよ。でも、他の存在も、ジゴレイドが気づけば、間接的に僕にも分かる。あれの異変を僕は感知できるから。でも、ジゴレイドを通り越して、僕が他のカミを直接感知することは、できない」

「ジゴレイドからお前が情報をとりだすことはあっても、その逆はない」

「そう。なぜなら、僕は人間で、ジゴレイドはカミだから。その立場が覆ることは、永遠にない」

「自然の摂理だ」

「そう思うよ」

 一人と一匹は、今は現われぬ雷の化身に、想像を膨らませた。あの存在は、脱走兵と赤毛栗鼠の会話を、どう思っているのだろうか。いや、そもそも、ああいった存在には、感情や興味がないのかもしれない。小川のせせらぎが、ただ少し流れを変えたくらいにしか、感知していないのだろう。あの存在にとっては、脱走兵と赤毛栗鼠は、自らが具現する世界の一部でしかない。つまり、特別な思い入れはないということだ。

「そういえば、クレメンツ。奴の正体は、分かったのかい」

 孤独な思案に飽きて、フェイは再び右肩の相棒に話題を振る。

「まだ、わからぬ。ここ数日、森で目撃した奴の特徴と、私の知識を照合しているが、残念ながら一つには絞れない」

「候補は、いくつかあるんだね?」

「ああ。だが、どの候補も極めて危険な存在だ。具現すれば最期、それらが去るまで、暗雲がそれらの領土に立ちこめる」

 この場合、領土とはそれらのカミが影響力を及ぼせる地域のことである。カミの性質によっても違いがあるが、広いもので大陸一つ分は優に支配できるものも、なかには存在する。

「……、そういう存在が、彼女に――シエルに、とりついた」

「何度も同じことを言いたくはないが、諦めることだ。憑かれた媒体は、すでにもとの本人とは、別の存在になっている。カミを取り除くことが――そんなことができればの話だが――できたとしても、その彼女は、以前の彼女ではない。お前の知るその少女は、すでに失われてしまっている」

「僕がもし、奴をシエルから取り除けば、彼女は一体どうなる?」

「分からぬ。無理矢理カミを引き剥がされた事例など、私も遭遇したことがない。一つ言えるのは、カミを分離する瞬間、拒否反応のような作用がおこることだ」

「拒否反応? まさか、命に危険が!」

「落ち着け。話を最後まで聴くのだ。詳細を断言するには、前例がなさすぎる。一つだけいえることは、もとの彼女の記憶や性質が、分離させたカミの方に持っていかれてしまう可能性を無視できない、ということだ。そもそも、カミが自主的に媒体から分離する事例だけが、正当な分離なのだ。一つが二つに分かれる方法は、それしかない。それ以外の分離は、認められていない。我らは、決して許されぬ法を侵して、禁忌に手をかけるようとしている。故に相応のリスクは、払わねばなるまい」

「そうだな」

 フェイの短い返答。彼は苦悩していた。この選択について、脱走兵は常に歯切れが悪い。

「迷うな。選べるのは一つだけだ。見捨てるか、危害を与えて引き剥がすか。どちらかしか選べぬ。見捨てるならば、お前はここにはいない。お前は、すでに選んでいる。ならば、その道を進むのだ。それしか、お前にはできぬ。中途半端な覚悟で、この世の理に逆らうことは、できぬ」

「分かってる。奴は、俺だけではとても逆らえない。強大過ぎる相手だ。勝てる見込みはどう転んでもないけれど、迷っていれば、引き分けの可能性すら、こぼれおちてしまう」

「選択は、常に残酷だ。切り捨てることを余儀なくされる。だがそうしなければ、事物は前へ進めぬ。これは――」

「――摂理だ。カミが定めた、摂理」

「生きとし生けるもの全て、この不条理からは逃れられぬ。私も。彼女も。そして、お前も」

 ぱちぱちと、焚火の小枝が爆ぜる。ほとんど、灰になろうとしていた。夜が終わろうとしている。新しい一日が、やってくるのだ。

 フェイは、固まった筋肉を刺激しないよう、ゆっくりと立ち上がる。ズボンの土ぼこりを入念に払ってから、四人の士官候補生を起こしに向かう。

 平原の境界線へ、視線を向けた。黄金鏡の上端が、世界の一日を創造し始めている。

 今日も、長い旅路が始まる。










 ◆◆◆(場面転換)◆◆◆











「ジラード隊員は、前線におつきになったら、どうなさるのですか」

「同じ文言の繰り返しになるが、詳しいことは話せない。まあ、とりあえずは上層部へ詳しい報告をすることになるだろう。諸君らは、どうするのだ」

 四日目の明け方。五人は野営地を出発し、前線への長い行軍を再開した。身体は動いてはいるが、ジラード隊員以外の四人は、未だに眠そうな顔をしている。ついさっき起きたばかりなので、まだまだ意識が完全に覚醒しないのだろう。

 そんな眠気を追い払うためか、クルス衛生兵が先頭を行くジラード隊員に尋ねる。会話をしていれば、立ったまま居眠りすることを、防げると考えたのかもしれない。

「どうするもこうするも、まずは無事を報告することになるでしょう。その後は……ああ、嫌だなあ。張り倒されるくらいで済めばいいけれど」

 前線に到着し、中隊から逸れた失態を自分の口で上官に報告する場面を想像したのだろう。クルス士官候補は、明らかに怯えた表情を浮かべる。彼らの上官は、恐らく鬼のように容赦がないのだろう。

「ふん、張り倒されるぐらいで済むものか。楽観論を簡単に持ち出すな、クルス。何の解決にもならん」

 そういうジャン小隊長の表情も、少し固い。彼は根が真面目だから、人一倍中隊からはぐれてしまった責任を痛感しているのかもしれない。

「おやおや。お暗いことですな、隊長殿。さしもの勇猛果敢なジャン隊長殿も、鬼教官の前では震えてしまうのですか?」

 唯一、四人の中で表情に変化がないメリル副隊長が、おどけた調子でジャンをからかう。

「メリル! 先に釘をさしておくが、教官から罰を受けているとき、余計なことをいうなよ。クーロロ湖のようなことは、俺はもうごめんだ」

 どうやら二人の間で、教官に叱られたときに、何かあったらしい。

「何をしでかしたんだ。メリル副隊長」

 少し興味が沸いたので、フェイは副隊長に訊いてみる。

 メリル副隊長は、笑顔で答えた。

「いえ、大したことではありません。少しの失敗で、蛇のようにねちねちと嫌みを言われましてね。それで、少し言い返しました。それだけですよ」

「少しなものか! 確かにあの教官は、のろまの馬鹿野郎で、主席と次席の俺達を、目の敵にしていた。だが、奥さんの不倫をからかうことはなかったろう。お陰で、俺まで巻き添えだ」

「どういう目にあったのだ?」

 メリル副隊長は、笑みを絶やさず返答する。

「いえなに。たいしたことではありません。怒られている場所が、湖を横断する橋の上だったので、そこから突き落とされました」

「……よく生きているな」

ちなみに、フェイは内陸の生まれなので、泳ぐのは得意ではない。フェイならば、その状況下では溺れるしかないだろう。

「とんでもない。春先だったので、いい水練になりましたよ」

 しかし、メリルは人を、とりわけ女性を引き付けそうな笑顔を浮かべている。

 その微笑に、当然ジャンは抗議した。

「ほとんどまだ冬だったろう! その時期に、三十キロも岸まで泳いだんだぞ! おまけに、兵舎に返ればすでに朝だ。一睡もせずにその日の訓練をやらされた。あんな地獄は二度とご免だ」

「隊長殿、前線はそれよりも地獄です。今のうちに、なつかしく愛おしい極寒の湖と闇夜を思い出そうではありませんか。まあ、あれもかなり刺激的ではありましたがね」

「お前は、いつか他人を巻き込んで不幸にするぞ、メリル。最終的には、女に刺されて死ぬ最期がお似合いだ」

「いつか? おや、隊長殿。あの事案は、不幸には含まれぬのですね」

「そんなわけがあるか! 今後も、という意味だ。ふん、そのうちお前に恋焦がれる思い込みの激しい女に、ぐさりとやられてしまえばいい。そうすれば、俺は巻き込まれずに済む」

「あいにくですが、隊長殿。その点では、隊長殿は私と同じ穴の狢です。先に刺されるのは、あなたの方かも知れませんぞ」

「なに。知らんぞ、そんな噂は。だいたい、女など、誰も俺に話しかけてこないではないか」

 朴念仁の対応をする自分たちの隊長を、三人は白い眼でみた。フェイの目から見ても、ジャン小隊長はそこそこ見てくれがいい。かつ、主席だ。たぶん、同世代の女子に人気があるのだろう。本人以外には、周知の事実のようである。

「本当に、我らが隊長はすごいねえ、ケイズ。士官学校を出立するとき、あれだけの異性に囲まれていながら、『知らんぞ、そんな噂は』だってさ」

「ああ。なんというか。もう、救いようがないな」

「刺さればいいのに。十回くらい」

「いや、十五回だ」

「なんだ。クルス、ケイズ。よく聞えんぞ」

「何でもありませんよ、我らが隊長。どうぞ引き続き、周囲を警戒してください。君を追いかけてきた女性が方々にいないか、よく確認してください」

「そんな者いるか!」

 クルスとケイズは白い眼でジャン小隊長を見続け、メリル副隊長は、やれやれといった感じで呆れている。

 今日も、行軍は平和だった。

(だが、この平和も、そう長くは続かない。前線に着けば、いやでもこの瞬間のありがたみが、分かる)

 だが、平和を維持するのは難しい。国の歴史においても、個人的な営みにおいても。

(見送り、か。そういえば、昔……)

 彼らの騒ぎが呼び水となって、フェイは過去に思いを馳せた。特別な兵士として、試験を受けるわけでもなく、拒否も認められないあの状況下で、一人だけいつもと同じように接してくれた存在……。

「ジラード隊員、ジラード隊員!」

 そのとき、背後から大きな声で呼ばれたことに気がつく。儚い記憶は、あっけなく霧散してしまった。

「なんだね。メリル副隊長」

「ジラード隊員は、誰かに見送ってもらわなかったのですか」

 丁度、今思い出していたところである。本当に、この副隊長は人の心が読めるのではないのだろうか。いや、フェイの心中よりも、これ以上ジャンとクルスがいがみ合わないように、国境警備隊員に話題を振ったのかもしれない。だぶん、そちらの方の意図だろう。

「見送ってくれた相手か……。生憎、私は天涯孤独の身でな。肉親はおろか、親戚すらいない」

「では、一人で出立したのか。ジラード」

 ジャン隊長が興味を持つ。メリルの企みは成功したようだ。

「いや。私は教会に預けられていた。そこで一緒に暮らしていたものが、私を送り出してくれた。彼らの心遣いは、温かかった」

「そうだったのか。苦労しているようだな。その教会のものたちは、元気か」

 ジャンに、悪意があってその質問をしたはずがない。旅路の退屈を遠ざける、いわば世間話をする感覚で、彼は尋ねたに違いない。

 しかし、国境警備隊のジラード隊員を語る脱走兵フェイにとっては、そうではなかった。

「死んだ」

「なに、亡くなったのか……?」

「そうだ。私の村は丁度、西の前線付近にあった。最前線ではなく、少し北へそれたところにあったのだが……」

「まさか、敵軍の襲撃を?」

メリル副隊長が、厳しい表情になってジャン隊長のあとを引き受ける。

「ある夜半、敵軍は前線を迂回して、首都へ急襲をかける作戦を、思いついた。そして、計画通りに、実行した」

「僕、知ってます。たしか、敵軍は北部の森林地帯を少数精鋭の隠密行動で進み、我々の首都で破壊工作をしようと画策していたはずでは」

「だいたいクルス士官候補のいうとおりで、間違っていない。しかし、その計画には誤算があった。一つだけな」

「その誤算とは、何です?」

「連中が通る北部の森林地帯には、人里離れた村があった」

「ジラード隊員の故郷ですね」

 そうケイズが指摘する。

 フェイは頷いた。

「通り道に、村一つあるだけならば、たいした問題ではない。大事なのは、運の悪いことに、その時、その村に、数名の国境警備隊員がいたことだ」

「そういえば、お前が国境警備隊に転官できた理由が、もともとの人員が交戦で失われたからだったな。なにか、関係があるのか」

 鋭いジャン隊長が、この前の話を思い出す。彼は記憶力がとてもいいようだ。

 フェイは、またしても頷く。

「その通り。大いに関係がある。そのとき、運悪く俺の故郷にいた数名の国境警備隊員は、先の戦闘で壊滅的な被害から、辛くも逃れたものたちだった」

「なるほど。話が読めたぞ、ジラード。このあいだ話した国境・丘陵地帯の敵主力部隊は、国境警備隊や前線のミリア軍を欺くための、囮だ。そうして国境付近で陽動しているうちに、少数精鋭の敵部隊が、首都で破壊工作を実行する。そういう作戦だったのだな」

「流石ですな、隊長殿。そのとおりだ」

 少し戸惑ったように、クルスが話を整理する。

「ええと、まず初めに敵の主力が国境付近で陽動を起こし、ミリア軍の注目を集める。注目を集めている間に、発見されにくい少数編成の部隊で、隠れやすい森林地帯を、首都へ行軍。そして、目的地についたら、破壊工作で敵の中心地域を、動揺させる。こういうことでしょうか」

 最後列から、腕組みしたケイズが参加する。

「敵軍の目論見は、だいたいにおいて成功した。唯一の誤算は、国境警備隊と偶発的に遭遇したこと……」

「要は、発見されるのが早すぎた。想定はしていたでしょうが、敵の主力と工作部隊が同時に国境を越えたとすると、向こうの指揮官は少し厄介だと思ったでしょう。国境警備隊がすぐに国境侵犯を前線のミリア軍に報告すれば、工作部隊が発見される危険が増えます。工作部隊の存在が知られてしまえば、この作戦は台無し。陽動の意味もなくなります。この場合、あなたならどうします、小隊長殿?」

 メリルに水を向けられたジャンは、少し考え込んでからこう言った。

「決まっているだろう。早すぎる段階の目撃者がいては困るのだ。戦力もこちらが圧倒的。国境警備隊を壊滅させればいい。一人残らず。あとでそれが明るみになったとしても、ミリア軍主力の注意を引ける。そのときには、工作部隊は深い森の中だ」

 フェイは感心した。細かい部分に差異はあるものの、実際に起こった(であろう)出来事と、ほとんど同じような推理である。やはり、主席と次席は伊達ではないのかもしれない。学のないフェイとしては、少しそれが嫌みでもあるが。

「大方、それであっている。この作戦を考えた敵軍の司令官は、圧倒的な戦力差で、運悪く彼らと遭遇してしまったミリアの国境警備隊を、壊滅させにかかった。だが、偶然レンジャー部隊と遭遇してしまったことに続いて、次の偶然が更なる事態を引き起こす」

 話を区切るために、一呼吸おくジラード隊員。

「壊滅させにかかった国境警備隊の中から、何名かの生存者を、敵軍はだしてしまった。そして、傷ついた彼らが奥深い森林地帯に逃げ込み、人里離れた集落に辿り着いてしまう」

「その人里離れた集落が、ジラード隊員の故郷だったのですね。そして、陽動によりミリアに侵入した別動隊である少数の工作部隊も、その集落を見つけた」

 ケイズが、雲行きが怪しくなる話に、眉を顰める。

「そうだ。ただ発見し、素通りするならば、悲劇は起きずに済んだ。しかし、残念なことに、連中は目撃者を一人も残すつもりはなかった」

「なぜです?」と、メリル。

「さあ。私にも分からない。今の時点で断言できることは、二つだ。一つ目は、敵の工作部隊が目撃者を初めから出すつもりがなかったということ。もう一つは、連中がその要望を叶えるだけの戦力を有していたこと。私に推測できるのは、その二つだけだ」

 本当は、敵軍の工作部隊が、集落を全滅させる意志決定をしたのには、ある理由が存在する。ジラード隊員及び脱走兵フェイは、その核心を直に体験していた。そして、わざわざ敵の工作部隊が、素通りせずに集落を全滅させた訳を、悟ったのだ。

だが、その理由を話すことはできない。この事実は、ミリア国の中で、フェイのような人間だけにしか、理解できない問題をはらんでいるからだ。その理由に言及すれば、四人の士官候補生は、この事実を知るジラード隊員と、ある特殊なことがらとの関係性に、感づいてしまうかもしれない。更に、脱走兵フェイの真相に辿り着く危険もある。そうなれば、深刻な事態になってしまう。最悪の場合は、口封じのために、四人を手にかけることになるかもしれないのだ。

それに四人の中には、頭の切れるジャンとメリルがいる。この二人は危険だ。気付かなくていいことに、とりわけ嗅覚が強い類の少年たちである。迂闊に情報を与え過ぎない方がいいだろう。口は災いのもとだ。慎重に管理する必要がある。

「それで。お前の故郷は、壊滅させられたのか。もし、話したくなければ、無理はしなくていい」

 さすがのジャン小隊長も、この質問をするときは、かなり遠慮気味な口調だった。普段は高慢で思い込みの激しい一面もあるが、案外こういった礼節の面では、小隊長は人並み以上の気づかいをみせる。ジラード隊員が負傷したときも、同じような気づかいがみられたので、これが彼の平常なのだろう。彼は全く自分の出自に触れないが、そういった天から考察するに、やはり彼はかなりの名家の出身なのかもしれない。

「いや。私が始めた物語だ。きちんと、諸君らには最後まで訊いて頂きたい。

 ジャン小隊長の指摘するとおり、私の故郷は壊滅した。集落の人口は、多くて三十人ほどだったし、その大半は女性や子供、老人が占めていた。夜半の寝静まった時間帯に、騒ぎにならぬよう、一軒一件襲撃すれば、夜が明けるまでには、大半を殺害できたはずだ。精鋭部隊ならば、なおさら滞りなく実行できたはずだ」

「くそ! 卑劣な奴らめ。やらずに済んだ殺戮をわざわざ実行するとは。相手は民間人だぞ! 奴らに軍属の誇りはないのか!」

 事務的な話すジラード隊員とは対照的に、ジャン小隊長は激しく憤っていた。彼は人一倍、軍属としての正義感と責任感が強いのだろう。ジラード隊員は、ジャン隊長のそういうところは、彼の美点であると感じていた。

「私の故郷は、全滅した。絶命の叫び声一つ看取られることなく、突如とした人災の犠牲となった。生存者は誰もいない。だが、奇妙なことに、村を襲撃したはずの工作部隊も皆、村人たちと一緒に息絶えていた」

「妙ですね。その村落に逃げ込んだ国境警備隊員たちが、敵工作部隊を迎え撃ち、同士うちになったと考えるのが、普通なのでしょうが……。手負いの国境警備隊員が、精鋭の特殊部隊に、どれだけ太刀打ちできるでしょうか。勝率は、遺憾ながらそれほど高くはないかもしれませんね」

 メリル副隊長が、考え込むように顎を撫でる。

「確かに、妙だ。勝率が圧倒的に高いと判断したからこそ、敵の工作部隊は集落を襲ったはず。だというのに、集落を全滅させておいたうえで、敵にも生存者がいないとは。生き残りは、本当にいなかったのですか。敵のミスリードでは?」

 ケイズも、神妙に頷いてからジラード隊員の方へ視線をよこす。

「敵味方共に、生存者はいない状況だった。集落の人間に、一人だけ行方不明者がいる。だが、敵部隊にはいない。

集落付近の足跡などを、軍が調べた結果、敵軍の足跡の数と、死体の数が一致した。それに、生き残りがいれば、その集落から首都へ移動した際の痕跡が残るはずだ。当時、軍がかなり詳細に周囲の森を調べ歩いたが、足跡などの痕跡は発見されなかった。この事実から考えても、敵の工作部隊は、一人残らず集落で息絶えたという結論が、軍の出した答えだった。集落では犠牲となった村人の葬儀が軍によって執り行われ、逆に敵兵の遺体は、服・身体・所持品など全てが組まなく調べられた」

「何か、敵兵の遺体を調べてわかったことはあるんですか? 死因が、気になります」

「村人は、みな刃物で喉を裂かれていた。拳銃を使うよりも、周囲に音が漏れないうえに、弾を無駄にしないですむと、連中は判断したのだろう。ほとんどが、寝込みを一刺しで仕留められていた」

 それをきいて、ジャン小隊長が再び厳しい顔つきになった。ミリア軍人として、守るべきミリア国民の惨状をきかされることが、残念でならないのだろう。

「まあ、先程のジラード隊員のお話と、ほとんど同じようなものですな……。

 ……敵工作部隊の死因は、何だったのです?」

 岩のように黙してしまったジャン隊長と、その雰囲気に呑まれたクルス衛生兵のかわりに、メリル副隊長が先を促した。

 ジラード隊員は、答えるまえに一呼吸置いた。深く、長く、息を吸い込む。吐き出す。

 ジラード隊員は、最後まで迷っていた。この事実を四人に教えるべきかどうか。この上方から、全ての真相に辿りつけるはずもないが、万が一ということもある。

(しかし、できるだけ、僕は彼らに嘘をつきたくないと思っている)

 フェイは、話そうと決心した。

「病死だ」

 短いその一言に、四人は一瞬、凪すらない湖面のように言葉を失った。

「もう一度いう。敵工作部隊の死因は、全員が同じ。その死因は――」

「――あり得ません!」

 かなり狼狽した叫びだった。医学の知識が最も豊富なクルス衛生兵が、信じられない様子でジラード隊員に抗議する。

「病死ですって? 人間が病死するには、細菌などに感染し、ある一定の潜伏期間を経て発病した後に、免疫が病原菌に敗北して体が機能不全に陥らなければなりません。もし、敵の工作部隊がミリア国内の森林地帯で、凶悪な伝染病に集団感染したとしても、一斉に死亡するとは到底思えません。それに、感染した病気にもよりますが、潜伏期間すらその仮定では経過しない可能性だって大いにあります。どう考えてもありえません」

「クルス。俺には畑違いだが、敵が国境を超える前から、病気に感染していたとは考えられないか? それなら、辻褄があう」

「いいや、ケイズ。その説も苦しいぞ。重要な作戦の実行部隊なのだ。作戦を開始する前に、なんらかの形でメディカルチェックのようなものを受けていた可能性が高いと思う。そこで異常がなかったからこそ、奴らは国境を超えることができたんだ。それに、検査で発見できない強力な未知の病に、もし奴らがかかっていたとすれば、もっと他の場所でも感染の被害が報告されるはずではないか。にもかかわらず、そんな凶悪な伝染病の噂は聞いたことがない。ミリアでも、隣国でもだ」

「私も、隊長殿と同じ考えですな。現在、ミリアでも隣国でも伝染病の蔓延が起こっていない事実を鑑みれば、ケイズの説は少し不自然です。まあ、だからといって、国境を越えてから謎の病に、敵兵だけが都合よく侵されたという事実も、にわかには信じがたいですが」

 ちょうど発言の順が一周したところで、再びジラード隊員に注目が集まる。

「先にいっておく。これは事実だ。私が上官に直接問いただして、訊きだした。公式の報告書もそのとき読んだが、記録にはそう書いてあった。嘘ではない。冗談でもない。幻でもない。今でも、その事実を私に伝える上官の顔に浮かぶ、表現しようのない畏怖を、私はありありと思い出すことができる。何か、遭遇してはいけないものに出会ってしまったような、恐怖を」

 一同は、黙りこんだ。

 最も納得していないのは、クルス衛生兵のようだ。

「……その後、ミリア軍の中で二次感染者はでなかったのですか?」

「それも上官に問い詰めたが、でなかったという返答だった。事件があってから、もう二カ月近くになるが、西の前線で正体不明の伝染病が流行している事実は、確認されていない。少なくとも、私がそこを離れるまではの話だが」

「奇怪な話だな。にわかには、信じがたい。だが、ジラードが嘘をつくとも思えない。病死ではなく、外傷を与えずに誰かが殺したのではないか?」

「暗殺術というのは、公には知られていないものもある。だが、その筋でいっても疑問は残るな」

 ケイズのあとを、メリル副隊長が引き継ぐ。

「誰が、敵工作部隊を殺したのか……」

「国境警備隊に、そんな代物を扱える人物がいたとは思えないし……。ジラード隊員、集落の人達は?」

「ありえない。彼らは、善良で非力な農夫たちだった。そんな危険なものが、私の故郷で伝承されるはずもない」

 今の返答には、少しばかりニュアンスの異なる嘘が、混ざっている。ただ、暗殺術などフェイは故郷で習ったことはない。彼が故郷の教会で教わったのは、信仰だからだ。

「まあ、そうですよね」

「それに、ジラード隊員の動きや戦闘方も、優れているとはいえ、ある程度教科書通りの動きです。暗殺者のそれとは異っていました」

 メリル副隊長も、暗殺術の説には否定的だった。というより、狼と戦闘しているとき、他人を観察する暇があったとは、器用な奴である。

「まったく。謎が多いからといって、名探偵ごっこを始めるな。この平原には獣や夜盗だっているのだぞ。きちんと周囲を警戒し……。

――――おや。何だ、あれは」

 そういって、ジャン隊長が視線を平原の彼方に移す。皆の視線も、それを追った。

 平原の先に待ち受けていたのは、濃霧のような黒雲だった。ある地点から、草原を黒く染めている。黒雲の下だけが、別の条理に支配された土地のようだった。しかも、その黒雲は、ちょうど五人の進行方向で待ちかまえている。

「すごいですな。昼と夜が混在しているようです」

 いつもは表情を変えないメリル副隊長も、頬の筋肉を引きつらせる。

「不気味だ」

 ケイズも、かなり警戒した声音である。

「今晩はひどい豪雨になるかもしれんな。体力を奪われないように、しなければ」

「ザックの雨具を、いまから身につけた方がいいかもしれないよ、ジャン」

「いいや、必要ない。良く見ろ、クルス。雲の下で雨は、まだ降っていない。ただ黒雲がそこにあるだけだ」

「良く見えるね。僕にはよくわからないよ」

「地面の色が、黒い雲の内と外で変わっていないだろう。影以外は。俺だって、ここから雨粒は見えないぞ、さすがに。まあ、合羽は降ってきてからでいいさ。歩きづらいしな」

 四人は、あの黒雲をただの自然現象だとおもっているらしい。確かに不気味な黒雲だが、特別な感覚を持つことはないのだろう。彼らには、そういった第六感の神経が存在しないのだ。

 だが、神恵の子であるフェイは違う。

「クレメンツ。あれは、そうか」

 黒雲を目の当たりにした瞬間、彼の動悸は高まった。彼の内部に存在する、彼ではない部分が、あの黒雲の中に自分と対等の存在を、感じ取っている。

「気配を感じる。追いついたようだ」

 クレメンツは、フェイよりも直接的に彼女と意図の存在を感じているようだった。いつもは落ち着いて構えている右肩の赤毛栗鼠が、震えている。

「やっと、見つけたぞ!」

「え? ジラード隊員!」

「どこにいくのです!」

 駆けだしたフェイの背中に、クルスとメリルが声をかけた。が、黒雲へ疾走する彼には、届かない。振り返ることもなく、国境警備隊員の青い制服が遠ざかる。

「なにをとぼけている。追うぞ!」

 最初に、ジャン小隊長が後を追った。残りの三人も、次々に続く。

 ジラード隊員は、風のように速かった。みるみるうちに四人は置き去りにされる。

「しかし、どうしてジラード隊員は急に我々を置いて駆けだしたのです?」

「分からん。火急の事態であることは、確かだ。だから、追っている」

 四人の中で先頭を並走するジャンとメリルが言葉を交わし合う。

「説明すらしないなんて、どういう事態なんだろう。よっぽどあの黒雲が危険なのかな」

「それなら、正反対の方向へ、俺達は走っているはずだ」

「ぜえ、ふう。それもそうだね」

 先頭の二人に続いて、ケイズとクルスがジラード隊員の唐突な行動について意見を交わし合う。クルスは既にかなりばてていたが、ケイズはかなり余裕があるようだった。クルスが一人で置いていかれないよう、ペースを調整しているのかもしれない。

「それに、信じがたいことですが……。ジラード隊員は、彼の右肩にいる赤毛栗鼠と喋っていませんでしたか、隊長殿?」

「ああ。俺も訊いた。栗鼠がミリア語を喋ることができるとは。到底信じがたいが、お前も訊いていたのであれば、幻聴ではあるまい。率直にいって、驚いている」

「やっぱり、あの栗鼠はただの野栗鼠じゃなかったんだね。本当の相棒だったんだよ。ああ、解剖してみたいなあ」

「やめておいたほうがいい、クルス。噛まれる」

「噛まれたのかい、メリル?」

「一回やれた。すごく痛い」

「栗鼠に噛まれた話なんてどうでもいい! 問題は、会話の内容だ。誰か、覚えていないか」

 皆、ジャンの問いかけに口を閉ざして記憶を掘り起こした。

 ケイズが最初に口を開く。

「確か、最初にジラード隊員が、赤毛栗鼠に話しかけた。『クレメンツ。あれは、そうか』と」

「私も訊きました。クレメンツというのは、あの栗鼠の名前です。ケイズのいった内容で、間違いないでしょう」

 ケイズとメリルの報告を訊いて、ジャン小隊長は頷いた。

「ふむ。そういえば、初日に栗鼠の名前を呼んでいたな。そのときも、あの栗鼠はクレメンツと呼ばれていた。二人の記憶に誤りはあるまい。信用できそうだ。次は、たしか――」

「――そのクレメンツが、『気配』と『追いついた』という言葉を口にしていたよ。流石にそのときは、栗鼠が喋ったとは思わなくて、風の音かと思ったけど」

 クルスが答える。その声音は喋る赤毛栗鼠への好奇心に満ちていた。

「俺の耳も、だいたい似たような単語を拾った。『気配』と『追いついた』……。しかし、これはどういう意味なのだ。何か思いつかないか、メリル?」

「ふうむ。そうですな、隊長殿。判断するにはまだ、情報が少なすぎます。ですが、ジラード隊員は、何かを追跡していたのではないでしょうか。だからこそ、最後に『やっと見つけた』と言い残し、我々を置き去りにしたのです」

「やはり、その線が妥当か。俺も、同じようなことを考えていた。発言から考えても、ジラードは何かを追跡していたのだろう。そして、あの黒雲のところに、その対象がいる。だから、一目散に駆けだした」

「では、なにがあそこにいると思いますか、隊長殿」

「わからん。追いついてみるしかなかろう。行くぞ! もっと足を動かせ!」

 おう、とメリルとケイズは威勢よく応じる。だが、クルスだけはうんざりした表情を浮かべ、ジャン隊長に叱責された。

 黒雲の領域は、いよいよ四人に接近してきている。

 ジラード隊員は、すでに黒雲の下付近にまで到達していた。











 ◆◆◆(場面転換)◆◆◆












 彼が、私の領域に足を踏み入れる。

 勿論、別の意図を通して、より遠くにいるときから、彼の存在を感じては、いた。しかし、私の内部の意図、その領域に踏み込んだとき、彼が警告を無視して此処にいるのだと理解する。彼は、私の意志を踏みにじったのだ。私の内部で、理解されない苦しみと怒りが絡みあう。

「なぜ、わかってくれないの。フェイ」

 黒いものが渦巻く心の底から、声が聞こえてくる。

 ――さあ、殺せ。

 地の底から響くような、意図の声。私を激しい衝動に駆りたてる。

 ――お前には、息吹を授けてある。

 声に対して首を横に振ることはできない。たが、縦にも降らなかった。

 ――迷うな。あれは、お前の報復すべき一部だ。お前の憎しみで、燃やされるべき一部に、過ぎない。

「もう、後戻りは、できない?」

 ――そうだ。お前と私が邂逅してしまったときから、この運命は定められていた。私とお前のさだめは、一通りだけだ。

「そうかもしれない。私は、すでに戻れない道へ、足を踏み入れた。つい、さきほども」

 黒雲の中心に、私はいる。しかし、そこに、私だけいるわけではない。

 何十人もの骸が、地面に崩れ落ちている。誰も息をしていない。冷たい肉の塊だった。全員に、外傷一つないが、みな息絶えている。

――戦場へ向かう、憐れな兵士よ。どの道、遅いか早いかの違いでしかない。

「本当に、そうね」

 まだ幼さの残る彼らの死に顔を眺めて、私は肯定する。彼らは、自分が死ぬことを予感できただろうか? いや、恐らくできぬまま、死の瞬間まで、そんなこと信じられず、理不尽な焦燥の中、還らぬものになったはずだ。

その心情に思いを巡らせる。口角が吊りあがってくる。心底、可笑しい。

 ――さあ、決断のときだ。奴を、亡きものにしろ。足元の骸に加えるのだ。

「今度こそ、私が……」

 ――そうだ。恐れることはない。奴は、お前の忠告を無視した。忠告という、お前の愛情を踏みにじったのだ。許すな。慈悲を与えてはならない。呪い殺せ。

「もっともね」

 ――病ませるのだ。国を、大陸を。お前の報復する対象が、そこにはある。

 彼がいよいよ、私のいる中心地まで、到達しようとしている。可哀想なフェイ。実現もできないことに、必死になるピエロ。彼の誠意が報われることは、永遠にない。

 このままでは、彼が、あまりにも報われない。

「だから、送りましょう。彼を。冥府へ」

 私の敵意が凝固したとき、黒い濃霧が周囲に立ち込める。










 ◆◆◆(場面転換)◆◆◆













 フェイは、黒雲の下にある影の世界へ侵入し、その中枢部へ辿り着いた。この世界では、足元の草原も圧殺されたように生気がなく、太陽の光は一辺も届かないように感じられる。世界の様相が違うのだ。

 その原因は、目前の彼女にある。

 だが、彼女の周囲にも、フェイは呆気にとられていた。

(なんだ、これは……。まさか)

 鼻をつく、強烈な腐臭。死体の山だ。それも、若い兵隊ばかりである。みな、同じ緑の制服を身につけていた。彼は皆、同じような帽子も頭に被っている。その正面に、枝にとまった鷲を確認することができた。

「素敵でしょう、フェイ」

 彼女はおだやかにいった。

「皆に、私が息を吹きかけたの。穏やかに、眠れたはずよ」

 その笑みは、慈悲深い。聖母のようである。

(息? つまりそれで、病にしたわけか)

 もう一度、知っているはずの彼女をじっくりと観察する。以前の彼女ではない点は、三つ。一つ、髪が黒く染まっている。二つ、表情に穏やかな狂気が存在する。三つ、周囲に黒い濃霧が立ち込めている。それ以外は、以前の彼女と変わらない。しかし、目の前にいる少女は、すでにフェイの知る彼女ではない。全く別個の存在へと、すでに変貌していた。

「あの霧に触れてはならぬ。触れれば、助からぬぞ」

 クレメンツが、右肩から注意を促す。

「シエルの周りにある、霧のことか。一度経験済みだ。同じ手は、くわないさ」

 フェイは、目前の少女――シエルと対峙した瞬間から、両腕に眠っていた意図が目覚めるのを、感じ取っていた。フェイの体の中で、両腕だけが別の部位のように、迸るような熱をもつ。その熱は、静かにフェイに忍び寄ろうとしていた、黒い粒子すら跳ね返した。黒い霧が、フェイの周囲だけを避けて、流れていく。

「ついに、起きたな」

 クレメンツが確信する。

 ジゴレイドが、彼の中で目覚めたのだ。別の意図との邂逅に、フェイの内部の存在が、鼓動を高めている。

「シエル。君に帰ってきて欲しい。俺達の故郷のことは、残念だった。だが、僕にはまだ、君が生きていてくれている。頼む、一緒に帰ろう」

「どこに帰ればいいの、フェイ。私達の村には、もう誰もいないわ。殺されてしまったの。残虐な兵隊たちに」

「君の苦しみも、悲しみも、激しい怒りすら、僕にはわかるよ。シエル。だって、僕達は同じ教会で育てられたんだ。同じ親を持ち、同じ隣人をもっていた。同じ痛みを、僕達は抱えている」

「違うわ。初めから、私達は全く相いれない存在。あなたは強靭な兵隊で、私は無力な修道女。そして、あの意図たちと、お互いがであってから、私達は決定的に変わったの。もう、あのころには戻れない」

「戻れないものか! 何が違うというんだ。こうしてお互いの深い記憶を意識して話せる相手は、もう君だけになった。僕には、どんな違いよりも、それが君と僕を繋ぎとめてくれているように、思える。僕達は、何も変わっちゃいない。少なくとも、その部分だけは」

「どうかしら」

 彼女の周囲で、黒い霧が渦巻く。その動きは、鎌首をもたげる蛇のようだ。あきらかな敵意を、感じることができた。

「やめるんだ、シエル。最後の家族に、敵意を向けさせないでくれ」

「そうね。村では、皆が家族だった。でも、あなたはもう、そうじゃないわ。だって、私の家族を奪った兵隊と同じ存在ですもの。あなたはね」

(衝突は避けられないか……)

 フェイの両腕に宿るジゴレイドが、今にも具現して牙をむきそうだ。それくらい、シエルに憑りついたカミが、絶対的な姿で具現できるらしい。カミの間に優劣はないが、この世界に具現できる部位の数で、その影響力は決定する。例えば、氷熊のカッセルプライムは鼻先から喉元まで。雷の巨人ジゴレイドは、両方の指先から肩まで。一部しか具現していないにも関わらず、人の世に圧倒的な影響を与えられるのが、カミである。

「なんという凶事だ。あのカミは、ほとんど全身を、この世に顕わすことができている」

 赤毛栗鼠のクレメンツは、フェイよりもその事実にいち早く気づいた。沈着で重厚な声音が、震えている。よほど、恐ろしいものを目の当たりにしたのだろう。

 フェイの目にも、ジゴレイドの感性を通して、徐々にその全貌が浮かびあがってくる。黒い霧の向こうから、こちらを大蛇の眼で睨む、巨大な六枚の翼をもった姿。尾は二股に分かれ、全身をぼろ布のような皮膚が覆っている。色はほとんど黒褐色だが、眼だけが白く、黒眼も存在しない。こちらを認識しているはずの両目は、焦点が合っていなかった。強靭な後ろ脚は認められるのだが、前足だけが不自然に華奢で、小さい。

「クレメンツ。あれは……」

 フェイの膝が震える。想像よりもはるかに巨大で、禍々しい。ジゴレイドの威厳ある両腕を初めて見たときとは違う、死の静寂が支配する神々しさに、フェイは圧倒された。

「リュウの一種だ。カミの中でも、太古から生きているものだろう。世界の創造から、現在までを生き続けてきた古参のカミだ」

「ほとんど、全身が見えるぞ。なぜ、あれほど完全態に近い。普通、不可能ではないのか」

「完全態に近いのではなく、完全態そのものなのだろう。恐らく、お前のような人工的プロセスではなく、ごく『自然』なプロセスを経て、あの少女に、カミが宿ったのだ。奇跡に近い偶然と、いっていいだろう。数世紀に一度の凶事かもしれぬ」

「これほど困難な運命とは……。覚悟を、決めるべきだな」

 引き分けるという目論見すら、甘かったようだ。フェイは、その太古の存在の前で、死を覚悟させられている。この存在の前では、自分は儚い虫にすぎない。たとえ、ジゴレイドの存在がともにあったとしても、あれほど完全に具現しているカミの前では、一呼吸ぶんの生存すら難しいかもしれない。

 そういった絶対性をもつ存在こそ、カミの本来の姿なのだろう。

「フェイ。いま立ち去るのならば、逃げ出す一瞬の隙を、あなたにつくってあげられる。もう、無傷で還すことはできないけれど、それでも、ほんの少しだけなら、あなたが生き残る可能性を、私が慈悲として差し出すわ」

 強張るフェイとは対照的に、シエルの表情は、穏やかなままだ。二人の上下関係が、如実に現われている。

「さあ、受け取りなさい。私の慈悲を。逃げるのよ。一度も振り返らずに、私のうちなる存在に恐怖して、立ち去りなさい」

「――いやだ」

 思案するよりも先に、口が動いていた。

「生きるのは、もう諦めた。でも、その化け物を、君から引き剥がすことだけは、譲れない。その化け物は、僕の最後の生きた証を、なかったことにするつもりだ。そんなこと、死ぬよりもつらい。だから、逃げない」

 返答を口にした刹那、濃霧が彼に殺到する。黒い瘴気が、フェイを取り囲み、一斉に牙をむいた。

 フェイは、両腕を霧へ放った。無論、自分の両腕ではない。いかずちの巨人、その両腕を濃霧へ放ったのである。

 眩い閃光ともに、轟音が水平に駆けた。稲穂色のいかずちが、肉薄する霧を切り裂く。切り裂いたかと思えば、今度は黒い霧に閃光が呑みこまれ、その次は濃霧の腹が割かれ閃光が再び襲いかかる。

(やはり、直接的な力量に、さほど差はない)

 瘴気と雷の激突によって、激しい風が吹き抜ける。その強さに目を細めながら、フェイは相手の意図の出方を探った。

 決着のつかぬまま、二つの勢力は霧散した。あとには、少年と少女だけが残される。

「その化け物だけは、君の中から追い出してみせる」

「愚かな人。私の慈悲を、拒むのね」

 シエルは氷のような表情を浮かべ、顔を近づけてきたカミの鼻先を、撫でた。その指先には、母性すら感じられる。

「私とこの意図は、一心同体。あなたが割って入る余地など、ないわ」

 禍々しいカミに向けられる情のこもった眼差しとは正反対の蔑視が、フェイに向けられる。

 その凍てつく視線に、フェイの心は痛んだ。

「気をつけるがいい、フェイ。あの少女とリュウの姿をしたカミは、魚が水を欲するように、お互いを求めあっている」

「どういうことだ。それだけ、結びつきが強いのか」

「あの二つの要素を離れさせるには、憑いているカミをこの世から追い払うしかない。この世にいる限り、あのカミは少女が死ぬまで、彼女のもとに居続けるだろう」

「そうか。わかった」

 短く返答したが、フェイは更に落胆した。心が折れてしまいそうだ。カミをこの世から追い出すなど、とても独りの人間にできる業ではない。新たな状況が判明するたびに、彼はより出口のない窮地へと、追いやられていっている気がした。

 そのときである。聞き覚えのある声がした。

「ジラード! なんなのだ、いまの光は!」

 バタバタと、四人分の足音が近づいてくる。今まで忘れていたが、恐らく例の士官候補生たちだろう。

 振り向いて声の主を確認したかったが、生憎、余所見をするほど余裕のある相手ではない。というより、問いかけに応える隙すら惜しい状況だ。

「現在、立て込んでいる。お前たちに指示を与えよう。清聴しろ」

 フェイの意志を察したクレメンツが、彼の右肩を蹴って、別の場所へ跳び移る。恐らく、先頭にいるジャン小隊長のどこかだろう。

「驚いた。本当に、赤毛栗鼠が話すのだな」

「以後、私のことはクレメンツと呼べ。早速だが、お前たちに注意すべき点と、具体的な指示を与える」

「指示だと? 隊長は俺――」

「――黙れ。いうことを訊かなければ、ここを生きて出られんぞ。それでもいいなら、私の言葉を無視するがいい。隊長はお前だ。部下を犬死させるもさせないも、お前の好きにするがいい。さあ、選べ」

「……おい、メリル。ペットは飼い主に似るという言葉が、あったな」

「そのようですな、隊長殿。ご明察です。しかし、今回ばかりは、クレメンツ殿の助言を訊いた方が、よろしいかもしれませんな。ただならぬ事態のようです。この黒い霧。夜のような世界。我々の知恵だけでは、残念ながら乗り切れぬかと。ミリア軍属の名折れでは、ありますが……」

「僕もそう思うよ、ジャン。僕達だけじゃ、切り抜けられないような気がする。さっきから、寒気に襲われてるんだ。酷い気分だよ」

「俺も、鳥肌が治らない。ここは、不気味すぎる。言葉では表現できない、危機のようなものを感じる」

 部下三人と、一人ずつアイコンコンタクトをとり、ジャン小隊長はため息をついた。そして、決断した眼差しで、彼の右肩に乗るクレメンツに問う。

「教えてくれ。どうすればいい」

「答えよう。初めに――――」

 クレメンツが、四人に具体的な指示を与え始めた。これで、瘴気の餌食になる心配は、少しばかり軽くなる。

 栗鼠の講義をきいている暇は、フェイにはない。目前のカミが、再び濃霧をけしかけようとしていた。

(さっきのは、牽制だ。翼二枚だけだった)

 先程の一撃は、向こうにとって小手調べに過ぎない。相手のカミは、翼六枚・尾二股・頭部一つという兵器を所持している。その中で、たった翼二枚を使っただけなのだ。全力には、程遠い。

 対して、こちらは既に右と左両方の腕を、使役したのだ。それで互角である。彼我の戦力差は圧倒的だ。

「お友達が多いのね、フェイ。それも、私の嫌いな兵隊のお友達が」

 シエルの碧眼には、露骨な敵意が宿り始めていた。ジゴレイドの反撃と、彼女の忌み嫌う四人の兵隊が現われたことによって、彼女の向けるまなざしに、残虐な光がこもり始める。全てを消すつもりだ。

(まずいな。クレメンツが、四人を逃がしてくれればいいけど……)

 懸念するが、そもそも他人の心配をする余裕はない。彼らは今、限りなく服従する側なのだ。

「安心して。皆を私が葬ってあげる。そうすれば、独りにならずに済むわ。この兵隊たちのように」

 シエルは、凍てついた視線を、足元の骸達に向ける。彼らの遺体は、すでに黒い霧にほとんど呑まれていた。辛うじて、遮られた天に伸ばされた手が、数本確認できる。自らの遠くない未来を暗示されているようで、フェイの背筋がぞっとする。

「私は、あなた達の前で、」

 瘴気が、再び好戦的に鎌首をもたげる。今度は翼四枚だ。

「相対的な神へと、」

 フェイは後ろを振り返らず叫んだ。

「クレメンツ! 四人を守れ!」

「昇華する!」

 四つの黒流が、フェイを呑み下そうとする。フェイの両腕が、帯電するように凄まじい熱を帯びた。彼に憑いた内なる存在が、危機をとり去ろうと活動する。

 フェイはその意図に促されるまま、手の平を黒い槍へ素早く突き出した。その両腕を中心に、周囲でも大気が脈動し、霊峰すら動かせるであろう両腕が具現する。

 二本の雷柱は、全ての音と視界を奪い、黒流に殺到した。一度目より遥かに大きい地鳴りがする。余波だけで、地震のような災害を思わせた。衝撃が、地を、上空の黒雲を突きぬけ、揺るがせる。

 目は飛び散る黄金の光で覆われ、耳は落雷の轟音で遮られた。しばし、五感はその二つだけで、塗りつぶされる。他の一切は、感知できない。

 永久に思えるほどの、長い膠着がとかれる。雷光が失せ、地響きもやむ。

 かわりに、瘴気がフェイたちの周囲を、隙を窺うように徘徊した。大蛇のトグロのように、五人の周りを、濃霧が囲い込む。

 衝突で舞い上がった土ぼこりの向こうに、一糸乱れぬ姿の彼女が存在している。無論、その背後にそびえ立つリュウの姿にも、なんら変化はない。

(まったく、効いちゃいない)

 フェイは、その場に片膝をついた。かなり消耗している。右腕を怪我していたせいもあるが、カミを具現させるのは、人の子には重労働なのだ。一瞬で負荷の蓄積する苦役といってもいい。自分の身体と精神の一部が、どこか遠くへ持ち去られた心地すらする。

 一撃目で一個中隊、ニ撃目で一個大隊を、半壊させるほどのいかずちだった。それでも、あのカミを傷つけるどころか、動かすことすらできないのである。

「これが、私とあなたの隔たりよ、フェイ。もう、お互い別個の世界に身を置いていることが、良く分かったでしょう。あなたと私の関係性は、限りなく、神と人のそれに、類似したもの」

(……もう、ジゴレイドは顕わせない。シエルとあの化け物には、消耗の予兆すらない……。南無、三)

「――あなたの、負けよ」

 その声は、唐突に背後から聞えた。フェイの視界から、彼女とあの意図が消えている。

 シエルは、フェイの背後から囁いた。

「もう、これで」

 フェイの背筋に、シエルの細い人差し指が這う。制服の上から、それはちょうど心臓の位置を、軽く突いた。

 直後、フェイの胸に、心臓を生でにぎりつぶされているような激痛が走る。肺が不自然に空気を吸い込み、そして活動を極端に鈍化させた。フェイの顔色が、みるみる死人の色へと劣化していく。

「心筋梗塞よ。苦しいでしょう?」

 何も言葉を紡げない。嘔吐するような柄付きの音が、喉の奥から漏れるだけだ。空いたままの口から、涎が流れ出る。それを気にする余裕すらない。

 フェイは、意識を手放した。もう、繊維どころか生気もほとんど残されていない。木偶のように、草原へ崩れ、倒れ込む。その後は、微動だにしない。

「今度こそ、さようなら。私の家族だった人」

 彼女の別れの言葉は、闇へと沈んだフェイの意識には、届かない。










 ◆◆◆(場面転換)◆◆◆













「ジラード! おい、どうした!」

 ジャン隊長は目を見張った。瞬きをしている間に、少女が突然、ジラード隊員の背後に現われたかと思うと、次の瞬間には、彼が崩れ落ちていた。

「あの媒体、心筋梗塞といっていたな。心臓を止められたのだ」

 ジャンの右肩に乗る赤毛栗鼠が、状況を諭すが、簡単に信じることも難しい。

(指で触れただけだぞ? 可能なのか……)

 しかし、考えている暇はない。フェイを片づけた少女が、こちらに標的を切り替えたのだ。

 それほど、ジャンと歳は変わらないだろう。少し、年上かもしれない。漆のような黒髪に、虚ろな碧眼。はっとするほどの美少女だが、それ以上に得体の知れない不吉さを纏っている。

「なんだ、貴様は」

 安全装置を外し、ピストルの銃口を少女に向ける。背後で、部下の三人もそれに倣った。しかし、四人の標準は定まっていない。皆、人知を超えた存在に、怯えているのだ。全体像すら、掴めぬ恐怖。それに、少年たちは呑まれていた。

「フェイのお友達。仲良く、冥府へおくってあげる」

 拳銃の引き金を引こうとする。だが、指が凍りついたように動かない。自分以外の強大な意図に、束縛されたような違和感だった。自分の意志で、息をすることも許されないような、心地になる。

「でも、私が直接するまでもないわ。彼らに、頼みましょう」

「……彼ら、とは。……誰だ」

 辛うじて、ジャンはそれだけ舌を動かすことができた。だが、痺れ薬でも盛られたかのように、意志がうまく筋肉に伝達しない。

 無表情のまま、黒髪の少女は返答する。

「兵隊よ。あなたと同じだわ。似たような帽子を被っているから」

(なに、まさか……)

 鈍い反応に焦りながら、視線を僅かにずらす。いままで黒い霧とジラード隊員の後ろ姿に隠されて見えなかったものが、見えた。

 死体だ。それも、数十人はくだらない。みな若く、同じような恰好をしている。この人数、この恰好、記憶に新しかった。

(まさか、逸れた中隊の皆が……)

 記憶が、鮮明に一致した。同時に、絶句する。あの死体は、四人が逸れた士官学校の仲間たちだ。

「な、なんと…………」

 となりのメリルも言葉を失っている。手の持った拳銃こそ落としていないが、絶望的な表情だった。いつも飄々としている副隊長がここまで動揺しているのは、ジャンにとっても初めての出来事だ。背後でクルスとケイズも、息を呑んでいる。

 ジャンは、ただ硬直し震えていた。しかし、すぐに激昂が涙とともに湧きあがる。

「貴様! 貴様、よくも同胞を!」

 殺気だった四人分の視線を向けられても、黒髪の少女は歯牙にもかけない。脅威だと感じていないだけではなく、その感情の原因すら、理解できないといった顔をしている。

 四人の叫びに反応は示さず、少女はただ、自らの意志だけに従った。

「――愚者の骸よ。深淵の眠りにつくものたちよ。投げ捨てられ、腐敗を待つだけの肉よ。我に仇なす存在を、汝らの輪に引き込み給え」

(何をいっている。遺体に、命じているのか)

 命を下したあと、シエルはジャンへ視線を移した。正確には、その右肩を凝視した。

「人でないあなたには、カミが見えるのね。逃げるといいわ。私の仇敵は、戦争だもの」

 クレメンツは、ジャンの右肩から応じる。

「私にもカミが憑いている。メティスという名だ。私の意図に目的があるように、そなたのカミにも、目的があるはずだ。それは、なんなのだ」

「病理の蔓延よ。私とアルムタットを止めることは、誰にもできない」

「アルムタット……」

 強い風が吹く。四人と一匹は、たまらず目を閉じた。瞼を開けた跡には、もう少女はいなくなっている。空の黒雲はなくなっていないが、地上の黒い霧は晴れていた。

 呆気にとられたジャンだったが、すぐに倒れ込んだジラード隊員に駆け寄る。早く応急手当しないと、命が危ない。

「ジラード! 息はあるか。おい、クルス!急げ!」

「わかってるよ! 気道を確保し脈をとって!」

 全員が、うつぶせに倒れたジラード隊員の元に駆け寄り、応急処置を始める。まずは、処置がしやすいよう、全員で患者の身体を慎重に裏返す。

「外傷はない。病状はいったいなんなの」

「心筋梗塞だ。彼女がそういっていた」と、クレメンツ。

「心筋梗塞! もしそれで重症なら、オペをしないと助からない。平原の中心でそんな専門的装備は……」

「なんとかしろクルス! このままではジラード隊員が……」

 ケイズの語尾が不自然に萎んだ。四人に沈黙が訪れる。

「蘇生法を試すしかないのでは、クルス?」メリルが提案する。

「たが、もう脈は……。脈が……」と、ジャンがジラード隊員の右手首をとって呟いた。

 絶望的な雰囲気に、四人は突き落とされた。

 そんな中、クレメンツがジャンの右肩からフェイの胸に飛び降りる。それから、匂いを嗅いだ。

「アニマが著しく欠けている。先の戦闘のせいだ。すこしならば、私のものを、分け与えられるだろうか……」

「何をしているのだ、クレメンツ」

「説明している暇はない。集中させてくれ。繊細な作業が必要なのだ」

 四人の士官候補生は、赤毛栗鼠に全てをかけることにした。息を殺して、小さな詩を囁くクレメンツを、見守る。徐々に、赤毛栗鼠が青白い光に包まれ、それがジラード隊員の胸へ流れ込み始めた。

 一言一言が、血色の失われた肉体に沁み込むように、クレメンツは言葉を織り込んでいく。長い忍耐の時間が過ぎたあと、赤毛栗鼠は彼の身体からおりた。

 しかし、ジラード隊員の死相は消えない。

「おい、クレメンツ。どうなっている」

「拳で奴の心臓を殴れ」

「なんだと」

「軽くでいい。早くしろ」

 ジャン隊長は、覚悟を決めた。扉を強くノックするくらいの力加減で、右手の拳を振り下ろす。

 その瞬間、ジラード隊員の全身が、黄金色の光に包まれた。その光は、ジラード隊員の血管から漏れている。特に、胸元から強い光が漏れていた。

「がは、おえっ」

 永遠の眠りにつきかけていたジラード隊員が、えづきながら上体を起こす。左手で強く心臓のあたりをかきむしり、荒い息を肩でついていた。

「助かったか。悪運の強い奴め」と、クレメンツは草の上に倒れ込んだ。

「ジラード! 平気なのか」

 ジャン隊長は、蘇生した彼の肩を抱き、迎え入れた。

「ごほ、ごほっ。俺は……?」

「心臓が止まっていたんです」と、ケイズが安堵した様子で知らせる。

「とにかく、脈をとらせてください」

 呆気にとられていたクルスも、素早く患者の元に駆け寄り、彼の脈を測った。

「いや、はや。神の奇跡ですな。どうなるかと……」

 メリル副隊長も、疲弊しきった様子で、その場に腰を降ろした。

 遠ざかっていた生の実感を取り戻すように、フェイはしばらく荒い呼吸を続けた。肺に酸素を送り込み、正常な身体の新陳代謝を取り戻そうとする。

「脳や身体に麻痺はありませんか」

 脈をとりながら、クルスが問診してくれる。

「今のところないようだ。ありがとう、クルス衛生兵。

ところで、クレメンツ。どうやって、助かった。それと、彼女は?」

「ジゴレイドが、停止した心臓に雷を流して、蘇生させた。微量の雷によるショックを起こして、心臓の不具合をもとにもどしたのだろう」

「僕は医療に詳しくないが、そんなこと可能なのかい?」

「純粋な医療ならば、私にも分からぬ。ただ、お前の意図のものならば、可能であったということだろう。だからこそ、お前は生きている」

「そうか。ジゴレイドには、感謝のしようがないな。本当に、幸運だった」

 フェイは、大の字に地面へ倒れる。もう、指先すら動かない。これ以上ないほど疲弊していた。

 しかし、彼は油断していた。人にきかれてはならない言葉を、口にしていたのだ。

「ジゴレイド? ジラード隊員、たったいま、ジゴレイドと……」

 メリル副隊長の一言で、歓喜に沸いた五人に、水を打ったような静寂が訪れる。

 士官候補生の四人が、気づいていないはずがない。先の戦闘での雷光、フェイを蘇生させた黄金のいかずち……。実際に目にしたことがなくても、一度でも目にすれば、それが何なのか、容易く理解できるはずだ。

「さきの出来事から考えても、可能性は否定できなかった。だが、自分の口からその名が出るということは、やはりそうなのか」

 ジャン小隊長が、大の字に寝そべるフェイの顔を見つめる。静かな表情で、フェイはその鋭く、まやかしの利かない視線に対応した。

「ジラード。お前が、ジゴレイドか」

 一瞬の空白。

「そうだ」

 短い返答を聞いた後、四人は少なからぬ衝撃をもって、脱走兵フェイを眺めた。

「なんと……本物か」

ケイズは畏怖と敬意の念を込めてフェイを見る。

「いやあ、驚いたね……」

 クルスは、新種の珍獣を見るようだ。

「雷を見たとき、他に選択はないと思いましたがね。私よりも先に確信したはずでは、隊長殿?」

「ああ。ミリア軍報告書の通りだった。水平に奔る、稲穂色のいかずち。まさか、前線から、こんなところに、逃げてきていたとはな」

 驚愕から一辺、軽蔑の混じった視線で、ジャンは神恵の子を射る。無理もない。フェイは、前線からの脱走兵なのである。彼が脱走したせいで、彼らは士官学校から前線に呼びつけられ、仲間たちは無残な骸となったのだ。つまり、彼らの戦端が開かれた原因が、目の前に倒れているのだ。

「おい、ジラード。いや、ジゴレイド。前線からの脱走は、銃殺刑および馬裂きに処せられると、知っているのだろうな」

 ジャン小隊長が、こちらにピストルの銃口を向ける。撃鉄を、彼はゆっくりと起こした。

「ジャン!」「何してる!」

 止めに入ろうとしたクルスとケイズは、副隊長に手で制された。

「二人とも、ジャンに任せるんだ」

 メリル副隊長が、横目でジャン隊長に合図をおくる。ジャンは、フェイを問いただした。

「お前は……貴公は、我々を騙していた」

「そうだ、ジャン隊長。世間知らずな君を騙すのは、造作もないことだった。国境警備隊の、ジラード隊員。よく、その役を演じていたと、思わないかね」

 撃鉄をもう一つ起こす音が聞こえた。メリル副隊長だった。

「立場がお分かりでないようですな。私たちの隊長を愚弄するのは、止めて頂きましょう。例え、あなたがどれだけ強くとも、あなたはジャンのような誇れるミリア軍属ではありません。ジゴレイド殿」

 確かにその通りだと、フェイは内心思った。勇敢で誠実な彼らと比べ、脱走兵の自分には、誇れることなど、ほとんどない。

「……撃つなら、撃てばいいだろう。だが、そのまえに、僕の話を聞いてくれないか」

「話だと」

「僕が脱走兵になった理由だ。シエルと――さっきまでいた黒髪の少女と、関係がある。聞いてくれないか」

 四人は顔を見合わせた。やがて、メリル副隊長がジャン隊長に尋ねる。

「どうするのです、隊長殿」

「聞こう。話せ、ジラード」

 まだ充分に動かない身体で一呼吸ついてから、フェイは要点だけを話した。故郷が工作部隊に襲われたこと。その故郷が、シエルの故郷でもあったこと。その後、彼女にカミが憑いたこと。そのカミが、ミリア国とミリア軍に壊滅的な影響を与える蓋然性。そして、唯一の家族である彼女を取り戻すために、前線を脱走したこと。

「以上で、話しは終わりだ。さあ、煮るなり焼くなり、好きにするがいい」

「そうしてやるさ。だが、一つだけ気になることがある。何故、彼女にカミが憑いたのだ? 俺は専門家ではないから、その仮定が呑みこめん。容易に人と交わる存在ではないのだろう」

 この質問には、草原にねそべっていたクレメンツが、髭を動かした。興味を持ったらしい。今までことの成り行きを見守っていただけだったが、カミについての講義ならば、この教授の右に出るものはいない。

「その問題については、こいつの方が詳しい。クレメンツ、頼む」

 気を利かせたフェイが、森の教授に解説を委託する。かなり多くのことを喋ったので、少し休みたかった。

「端的にいえば、カミが人間と関わる方法には、二種類ある。人工的な方法と、自然発生的な方法だ。後者には、方法という言葉よりも、事例という言葉の方が適切かもしれない」

「それで、クレメンツ殿。ジラード隊員のご家族は、どちらだったのです?」

他の三人が回りくどい話し方に辟易するなか、メリルだけはいたって冷静である。

「自然発生的な事案だ。より詳細にいえば、具現化を望むカミの前に、適切な媒体が偶然現われるという経緯によって、あの少女は、カミに憑かれた」

「つまり、ジラード隊員のご家族は、その媒体としての適性をもち、その役割を果たした、と……」

「おい、栗鼠」

「栗鼠ではない。クレメンツだ」

 光の速さで、ジャン小隊長の呼び方を赤毛栗鼠が訂正した。

「……クレメンツ。二つだけ色の違う砂粒が、広大な砂漠の中で、偶然一つになってしまうようなことが、そんなことがあり得るのか? はっきりいえば、俺には信じがたい」

「まあ、私も始めそう思いましたが……。隊長殿、考えてもみてください。件のその女性は、ジゴレイド殿の家族なのです。血縁関係がないとはいえ、幼少期から共に育った仲だということ。そういった人物ならば、可能性はあるのでは?」

「その澄まし顔の言う通りだ」

 クレメンツは、メリル副隊長の方を向いていった。澄まし顔とは、メリルのことらしい。

「彼女には、素質があった。だが、人工的な鍛錬をしていないため、人工的なカミとの交流をする術がなく、いままでカミとは関わりのない人生を送っていたのだ」

「そして、その人生を変えたのが、敵工作部隊による、村落襲撃事件だった。ということですね?」

 クルスが口をはさむ。クレメンツは首肯する。

「そうだ。カミとの交流は、人工的な方法ではなく、自然発生的な『事件』により、引き起こされた。そして、その邂逅の仕方こそ、彼女と彼女に憑いたカミを、この世界で凶悪にした」

「どういうことだ? 自然に結びついた方が、何か都合がいいのか?」

 ケイズも腕組みをして尋ねる。

「そうだ。人工的な交流は、本来の摂理を歪め、無理矢理邂逅を果たすやり方のため、カミの具現が不完全なのだ。具体的にいえば、身体の一部分しか、この世に具現することはできない。

 それに対して、自然発生的な事案は、ほぼ全身を完全な形で具現できる。この差は、途方もない」

 しかし、カミの存在を感じられない四人には、その差の実感がわかないようだった。それをみかねて、フェイが説明をつけ足す。

「例えば。あのカッセルプライムだと、熊の鼻先から喉元までしか、この世に現れない。僕の場合なら、両方の指先から肩の付け根までだ。どちらも人工的に関わりをつくった存在だから、その程度の具現しか、できない。……だが、彼女のカミは違った。リュウの全身が、はっきりと見えた。あれほど完全に具現できるカミは、見たことがない。膝真づかされるほどの畏怖と神々しさを、奴は備えている」

 ミリア軍最高戦力の言葉に、シエルに憑いたカミの強大さを、四人はようやく想像できたようだ。

「それほど、あの少女に憑いた存在は、強大なのか、ジラード……?」

「ああ。ジゴレイドを持ってしても、敵わない。それに、ミリア全軍でかかっても、帰りうちにされるだろう。本当に、奴は全知全能だ。少なくとも、不完全な具現しかできないカミと、人間たちの前では」

「信じられない話ですな。ただ一人の女性に、ミリア軍全軍が敵わないとは……」

「だが、事実だ。戦争によって理不尽に、家族である村人たちを皆殺しにされた、彼女の怒りと憎しみが、あの化け物を呼び起こした。無論、それらがあれば、いつでもカミが現われるわけではない。神恵の子であるシエルの憤怒と憎悪だからこそ、あれをこの世に顕わせられた」

 喋る役目を、クレメンツから引き取ったフェイは、そこまで話して憂いの眼差しを上空の黒雲に向けた。

「それを知ったとき、僕は前線にはいられなかった。彼女を、怨讐の鬼神にしたくはなかった。無論、責務は承知していた。だが、彼女だけは……シエルだけは、放っておけなかった。だから、僕は脱走兵になって、こんなところに、いる」

 これ以上、フェイは事情を話そうとは思わなかった。昔話には、きりがない。きりがなければ、どこかで意図的に終わりにしなければならない。

「さて、話しは終わりだ。ジャン、メリル、クルス、ケイズ。君達に、僕は救われた。君達には貸しがある。反撃はしない。ここで私に戦友たちへの償いをさせたいなら、好きにしてくれて構わない。彼らは、シエルの手にかかって死んだ。そして、彼女を僕は止めることができなかった。僕の責任だ。恨んでくれて構わない」

 フェイは、本当はジャンとメリルに撃てないことを、見抜いていた。彼らは、頭の切れる士官候補だ。殺すよりも、ミリア軍の最高戦力を有効に使って、手柄を立てるやり方がある。そのやり方に、優秀な隊長と副隊長ならば、気づくだろう。

(撃つのなら、ジャン。お前が撃つのだろう。本当に、お前が引き金を引くのならば、それでも構わない。だが、別の道もある……。さあ、どうするジャン小隊長)

 ジャン隊長は黙っていた。どちらに決断すべきか逡巡している。彼一人では、重い決断に違いない。しかし、隊長は独りで決断しなければならない。

「お前を殺せば、彼女はどうなる」

「おそらく、大陸中を襲い、甚大な被害を出すだろう。特に、彼女は兵隊を憎んでいる。次の狙いは、西の前線に駐留する部隊だ」

「人では、勝てないのだろうな」

「見込みはない」

「貴公なら、どうだ」

「ほとんどない。だが、人だけの部隊よりは、戦える」

 彼の顔つきから、迷いが消えた。

「ジゴレイド。一緒に来てもらうぞ。前線に、貴公を連れて行く」

「それでいいのか」

「ああ。ただし、逃げれば今度こそ、射殺する。躊躇はしない」

「肝に命じよう」

 ジャン小隊長が、フェイに手を差し伸べる。神恵の子は、その手をとった。強く、お互いが手に力を込める。それから、ゆっくりとジャン小隊長がフェイを引き起こした。

「話はまとまった。移動するぞ!」

 ジャン小隊長が、隣のメリルと後ろの二人に号令をかける。

「やれやれ、やはりそうなりましたか。まあ、私も賛成ですがね」

「それにしても、ジラード隊員が、偽物だったなんて……たまげたなぁ」

「俺も驚いてる。が、俺達の目的地は、前と変わらず西の前線だ。それだけ定まっていれば、俺にはいい」

「ケイズ、君は単純だからいいけどね。僕にはそうもいかないよ」

「だが、受け入れるしかないぞ、クルス。色々考え過ぎていては、頭が破裂しまう」

「はあ。そうなのかなあ……」

「無駄話をするな! 行くぞ、クルス! ケイズもだ!」

「はいはい」「了解だ」

 緊迫した空気から解き放たれ、五人は再び前線へ歩き出そうとした。

 しかし、そのとき、前方の異変に気づく。

 息絶えたはずの中隊が、彼らの前方二百四十度を、塞いでいたのである。

「えっ。ジャン、見て! 皆無事だったんだ――」

「――待て、クルス。様子が変だ」

 目覚めた彼らへ駆けよろうとするクルス衛生兵を、ジャン隊長が引きとめた。

 フェイも、中隊の少年たちを警戒しながら、観察する。

 みな、銃やナイフなどは持っていない。素手だ。それに、かなり猫背になっている。まるで魂が抜けたように、一言も発しない。

 彼らの顔色は、土気色で生気がなかった。

 まるで、死体のようである。

「おい、返事をしろ! 無事だったのか」

 メリル副隊長が声をかけるが、それは黙殺された。誰も返事をしない。代わりに、五人にじわりじわりと、潮が満ちるようににじり寄る。

「妙ですな。隊長殿」

「ああ」

 こちらから発砲などの攻撃はしないものの、士官候補生の四人は、かなり警戒している。

 フェイも、クレメンツに尋ねる。

「クレメンツ。僕の意識がなかった間に、シエルは何をしていた」

「わからぬ。四人を始末しようという意志は、示していた。しかし、直接手を下さずに、何かをして、去った」

「その何かとは、なんだ」

「囁きだったので、聞き取れなかった。しかし、何か死体に告げていたようだ」

 ということは、この中隊は、シエルの命をうけている。こちらに危害を加える可能性は、充分にあるということだ。

「死者を、甦らせたのか。彼女は」

「確かなことはいえぬ。ただ、それならば亡者の類であろう」

「なんて、カミだ。死者まで操れるとは……」

 蘇った中隊は、こちらに肉薄してきていた。彼我の距離は、もう十歩もない。

「ジャン隊長、気をつけろ。こいつらはもう敵だ。一度死んで蘇った、カミの敵意だ」

 フェイの忠告に、ジャン隊長と三人は表情をこわばらせる。ピストルを握るが、それを戦友たちに向けるのを、彼らは躊躇していた。

「どうすれば、助けられる」ジャン隊長が尋ねるが、彼も答えは予期していたに違いない。

「手遅れだ。判断を誤るなよ。君の部下が死ぬぞ」

「……そうか。聞いたな、三人とも。ここから逃げるぞ。俺達だけで」

「くそ! なんだというのだ。あいつらは、生きているではないか。なぜ、返事をしない。撃たなければならない」

「落ち着け、ケイズ。まずは俺達が生き残るんだ」

「だが、メリル! フロムもクロクも皆、目の前にいるんだぞ! 俺に撃てというのか」

「ケイズ、落ち着いてよ。ジャンがなんとかしてくれる」

「クルス、だが……」

「――全員、五十メートル前方を見ろ」

 ジャン隊長の言葉に、全員が耳を傾けた。

 フェイも、指示された場所を見る。

「正面だ。馬車がある」

 そこには、四頭の馬に繋がれた馬車があった。恐らく、七、八人ほどが乗りこめるだろう。

「あれを奪うのですか」

「ああ。奪うぞ、メリル。この状況を離脱するには、あれしかないだろう」

「ジャン、だがあいつらが……」

「ケイズ! 諦めろ。今の俺達では、どうにもできん。前線に救援を要請するんだ。お前まで死なせるわけにはいかん」

 苦悩の表情で、ケイズは頷いた。級友を見捨てるのは、苦しい決断だったのだろう。

 ジャン小隊長は、的確に指示を伝える。

「俺が手綱を担当する。ケイズ、クルス、援護しろ。メリルとジラードは、敵を引き付けてくれ。陽動を頼むぞ」

「わかったよ」「了解」

「陽動役ですね」「協力しよう」

 クルスとケイズが、ジャンの後ろにつく。メリルは左翼に、フェイは右翼についた。これで、一個中隊の中を突破する算段である。

「雷はだせるのか」

 右隣のフェイに、ジャンが尋ねる。

「小指一本ほど」

「隙をつくってくれ」

「やってみよう」

「頼んだぞ」

 唸り声が這い寄ってくる。その獰猛性は、もはや人間のそれではなかった。急な動作はせずに、一歩一歩と肉薄してくるさまは、やまり、この世の存在ではない。

「攻撃せずに走れ。数は向こうが多い、相手にしないでふりきるぞ。行け!」

 次の瞬間、五人は脱兎のごとく駆けだした。獲物の逃亡をしった亡者たちは、怒号をあげて彼らを追う。

 フェイは、最初だけ三人と並走した。三人の前に立ちふさがる連中の気を引くためだ。できるだけ周囲の亡者をナイフで切りつけたり足を払うことで、こちらに注意を引く。同時刻に、反対側でも銃声が数発聞えた。メリル副隊長だろう。銃声で注意を三人からそらすつもりである。

「先に行け!」

 三人に怒鳴ったあと、フェイは彼らの進むコースから、独りそれた。どす黒い血を流す亡者たちが、憤怒の形相でフェイを追ってくる。目論見は成功したようだ。

(だが。これだけの数、正直苦しい)

 フェイはすでに息が上がっていた。無理もない。さっきまで、生死の境をさまよっていたのだ。調子が万全のはずもない。

(だが、シエルに憑いたカミより、楽だ)

 そう自らを奮い立たせ、彼は馬車へ弧を描くようなルートで迫った。当然、右側の亡者たちは、皆フェイだけを狙う。足を止めれば一巻の終わりだ。怒り狂った冥界の住人たちは、彼を八つ裂きにするだろう。

 薄氷の思いで走り抜き、フェイはようやく馬車の手前まで辿り着いた。三人は既に憑いている。刹那の差で、反対側からメリル副隊長がやってきた。彼も大勢亡者を引きつれている。

「メリル! こっちに連れてこい!」

 フェイは叫んだ。いかずちは一度だけしか、放てない。逃げ切るには、まとめて吹き飛ばすしかない。 メリル副隊長が、こちらへ方向転換した。フェイに衝突しそうな勢いで駆けてくる。

「クレメンツ、掴まってろ」

 馬車に背中をあずけ、フェイは深呼吸をする。左腕に力を込めた。内なる意図の反応を、待つ。小さな火花が散る程度の熱が、彼の腕を走った。やがてそれは、業火へと膨張していく。

(吹き飛べ)

 メリル副隊長が隣を風のように通り過ぎた直後、フェイは肉薄する大群へ雷をはなった。

 視界がホワイトアウトし、轟音とともに土煙が立つ。これで、目くらましくらいにはなるだろう。

「だせ!」

 雷を放つや否や反転し、フェイは馬車へ駆けた。すでに、馬車は動きだしている。ほとんど人の走る早さほどだ。困憊しきったフェイは、最後の一滴まで振り絞った。

「手を!」

 開放された馬車の後ろから、メリル副隊長が手を伸ばす。フェイは、渾身の力で腕を伸ばした。虚空を彷徨ったあと、お互いがお互いを捕まえる。ケイズとクルスにも助けられ、フェイは馬車へ引き上げられた。

 木製の床に四人は寝転がり、大きく息をついた。九死に一生を得た気分だった。

「いやあ、ひやりとしました。私まで吹き飛ばすのかと思いましたよ」

 ぜいぜい息を荒げなら、メリル副隊長がフェイに声をかける。

「そんなわけないだろう。ただ、ギリギリだっただけだ」

「そのようですな、ふう。参りましたよ。もう当分、足を動かしたくありませんな」

「同意する」

 四人はまた無言にもどった。

手綱を握っているので、一人だけ休むわけにはいかないジャン隊長に、どやされるまで、彼らは一言も発しなかった。








 ◆◆◆(場面転換)◆◆◆










 彼らは、日の落ちるまで、進み続けた。

 黒雲から前線までの道のりが、轍になって繋がれる。しかし、それはまだ、端から端まで繋がった訳ではない。

 線は、まだ反対側に届いていない。

「馬車で移動したことで、かなり距離が稼げましたな、隊長殿」

「そうだな……。馬たちも、良く走ってくれた。クルス、こいつらの面倒をケイズと見てやってくれ。明日も走ってもらわなければならん。念入りに労わってやれ」

「わかりました。軍医の出番だね」

「それ、自分でいうのか」

 手綱を受け取ったクルスに、ケイズがつっこみをいれる。二人は、馬を撫でたり、聴診器で心拍数を図ったりして、三頭に異常がないか調べた。

「しかし、不思議ですな。なぜ、馬は無事だったのでしょう?」

 メリル副隊長が、その様子を眺めながら、焚火を起こしている。今日は、薪を集める気力がないため、周辺からむしった枯れ草と固形燃料が、薪だった。

「おそらく、あの少女の狙いが、兵隊だけだったからだ。もっといえば、人間しか標的にしていなかった。だからこそ、動物は無事だったのだろう」

 焚火起こしを手伝うフェイの右肩で、クレメンツが副隊長の疑問に答える。

「病には、人間にだけ感染するものや、逆にある限られた種類の動物だけを殺すものがある。それを自由に使いこなせるとすれば、人間だけを標的にすることくらい、造作ないだろう」

 メリルが両手を擦る。煙が上がり、種火が出来た。それが消えないうちに、二人が借りで息を吹きかける。炎が、燃え上がった。

「よし。上出来ですな。ところで、神には皆、名があるのでしょう? 例えば、ジゴレイドやカッセルプライムなどが、それにあたるはず」

「そうだ」

「あの女性に憑いていた神の名は、何でしたかな、たしか、アルム……」

「アルムタット。それが、あのカミの名だ」

 その名を聞いたとき、フェイは眉間にしわを寄せた。深く、深く。

「アルムタット……。あのリュウの名前……」

 フェイの深刻さを受け止めたのか、メリル副隊長も真剣なまなざしになる。

「聞けば、クレメンツ殿は、かなり博識であるとか。その神が、どのような存在なのか、御存じでは?」

 暫し、クレメンツは記憶を辿った。膨大なカミの中から、件の名前を探しているらしい。

「……疾病のカミだ。カミのなかでも、最も太古から生きている。世界の創造と同時期に生まれた。同族の中でも、最も影響力の凶悪な存在。それが、アルムタットだ」

「それ以外のことは、分からないのか」

 フェイの問いかけに、クレメンツは首を振る。

「わからぬ。ここ数百年、姿を顕わしていなかったようだ。記録として残っているのは、古い伝承だけである」

「どういう内容なのです?」

「――黒き疾病、顕わるるとき、戦火凄まじ。否、戦火より、凄まじきは、アルムタット、ただ一つ。総て、黒き疾病の前に、冥界ヘ帰す。……おおよそ、こんな内容である」

「……ふむ。要約すれば、『戦火の激しい時代に顕われるが、戦火以上に危険な存在でもある』……そんなところだろうな」

 周囲の哨戒を終えたジャン隊長が、焚火を囲む二人と一匹に加わる。

 森の英知が、講義を継続する。

「アルムタットは、疾病のカミだ。致死性の高い伝染病を、大陸中に流行させる。戦争よりも、多くの人間が死ぬだろう。過去には、黒死病という病が流行ったことで、総人口の三分の一が死に絶えたこともある。しかも、この事案にアルムタットは、関わっていない。今度は、もっと大きな規模になるだろう」

「病だけでも恐ろしいのに、そのうえ太古の神まで一緒とは……天変地異ですな。末恐ろしい」

「こんどは、昔よりも人が死ぬ……」

 フェイは、苦悩の表情を浮かべる。その手伝いを、ほかならぬシエルがしようとしているのだ。

「とめなければ。何としてでも」

 虚空の月を睨むフェイ。今宵は、半月だった。

(彼女も、今どこかでこの月を眺めているのだろうか……。シエル、君はどこだ?)

「ジラード、難しい顔をしすぎだ」

 強張った顔のフェイを、ジャン小隊長が窘める。

「お前は、なんでも気負い過ぎている。少しは、周囲に期待しろ。でないと、周りが馬鹿らしくなる」

 ジャンは、気のきく小隊長だ。彼なりに、フェイを気づかってくれているのだろう。

 フェイは、その気持ちがうれしかった。

「フェイだ」

「なに」

「国境警備隊のジラード隊員は、偽名だ。特別神学兵、フェイ・パッセモント中佐。それが、僕だ」

「中佐! 雲の上の人だよ」

「当り前だろう、クルス。あの方はジゴレイドなんだぞ」

「さて、ケイズ。ここで、上官につっかかっていた一人の血気盛んな士官候補生を、見てみるといい。見物ですぞ」

 ジャン隊長は、あっけにとられたように、言葉を失っている。だが、やがて血気盛んな言葉を、いつも通り口にした。

「ふん、なんだ。ミリアの最高戦力が、たかが中佐か。准将くらい、いくのかと思っていたぞ。夢のない話だ。俺なら、あと五年で大佐まで昇れるさ」

 その言葉を聞いたメリルは大爆笑し、クルスは大きなため息をつく。ケイズは、憤懣やるかたないといった感じでジャンを咎める。

「おい、不敬だぞ! 上官に向かって!」

「なんだと、ケイズ。俺は思ったままをいっただけだ」

「それが失礼だと……」

 二人の間で口論が始まりそうだったので、フェイは口をはさんだ。

「そこまでにしよう、二人とも。僕は脱走兵。軍も階級も捨てた身だ。いまさら、中佐の身分に未練はないし、その権威を使おうとも思わない。ケイズの気づかいもうれしいが、ジャンの態度ももっともだ。どちらも、間違ってはいない」

「……ほら、みろ。じら……、いや、フェイも、こう言っているだろう」

「嘘をつけ。ほとんどやけくそだったろう。フェイ中佐が大人なだけだ」

 二人は最後に、お互い捨て台詞を吐いた。しかし、緊迫した空気はすぐに過ぎ去り、皆が焚火を囲む。談笑が、始まる。

「それにしても、凄いなあ。僕達、あのジゴレイドと一緒に旅をしていたんだよ。なんというか、歴史の生き証人だね」

「まったくですな。思えば、平原の入り口でフェイ殿に出会い、我らの隊長殿が猪のように、ミリアの最高戦力へ突進していったときから、我々の偉大なる軍属としての誉れが、始まったように感じますぞ。ねえ、隊長殿」

 わざらしい尊大な言葉を多用して、メリルがむっつりと黙りこんだジャンをからかう。

「ふん。あの時点で、フェイは不審者だった。警戒しない方が、どうかしてたさ」

「ま、気持は分かりますがね。我々は騙されていたわけですし。栗鼠のクレメンツ殿が喋ることも、知りませんでした」

 四人の視線が、フェイとクレメンツに集まる。フェイは、困ったように頭の後ろを掻いた。

「申し訳なかったとは、思っている。だが、シエルを確実に追いかけるには、ああした方が得策だと思った。少なくとも、君達とであった直後は、だが」

「今は、どう思っている」

 不機嫌そうな半目で、ジャンが問うてくる。

「全てを打ち明けてしまい、悔恨もある。だが、これでよかったと思う。君達は、僕の命を預けるに足る、誉れ高きミリア軍属だからだ」

「そうか。ならば、二度目の脱走はゆめゆめ考えるなよ、フェイ。もし逃げたら、ハムみたいに縄で縛って、そのまま前線の食料庫に俺が突っ込んでやる」

 ジャン以外の四人が腹を抱えて笑った。じきに、ジャン自身もその渦に巻き込まれていく。










 ◆◆◆(場面転換)◆◆◆











 談笑のあと夕食をとり、五人は順番に睡眠をとった。もう夜明け前であり、不寝番も五人目だ。その役目は、フェイが受け持っている。

「傷はもう、平気なのか」

 クレメンツは、少し眠そうな声でいった。昼間起きていたので、眠いのだろう。

「君のアニマのおかげで、最低とはいわない。だが、ずいぶんガタがきている。前線基地についたら、少し休ませてほしいけれど……」

 気難しそうに、クレメンツは夜風の匂いを嗅いだ。

「難しいかも知れぬ。お前は、脱走兵だ」

「うん。そうだ。僕は、裏切り者。もう温かくは、迎えられない」

「本当に、前線へゆくのか。引き返すならば、今が最後の機会だぞ」

 沈みかけた半月を、フェイは眺める。そして、仮眠をとる四人へ目線を移す。

「引き返す道は、もうない。進むだけだ」

「そうか。ならば、いわぬ」

「ありがとう、君は森へ帰るといい。ここからは、人間の領域だ」

「まだ、帰るつもりはない。もう少し、見届けさせてもらおう」

「まったく、頑固だね」

 二人はしばらく、暁が誕生するはずの地平線を見かけた。紅鏡は、着実に平原の裏側から、昇ってきているだろう。しかし、まだその光は見えない。

 この時間は、最後の余白なのだ。余白を過ぎれば、世界はまた、動き始める。最後の休暇は、もう幾ばくもない。

 だが、暗黒の夜は、置き土産を残していくようだ。無数の足跡が、じわりじわりと接近してくる。草を静かに踏み倒す音が、一人と一匹の鼓膜を、揺らす。

「聞えるか」

 クレメンツが、後ろを振り返る。フェイ達が日中進んできた方角だ。そこには、馬車の轍がついている。

「轍を辿ってきたようだ」

「夜通し、寝ずに僕らを追ってきたわけか。すごい執念だな」

「奴らに、それ以外は残っていない。肉が腐り、蛆にたかられ喰らいつくされるまで、それだけで行動する」

「……クレメンツ。本当に、彼らを助ける方法は、ないのか」

「一度死んだ者たちだ。生き返らせることは、カミでもできぬ」

 それを聞いたフェイは、立ち上がって踵を返す。やるべきことが、決まったのだ。

「君は、焚火のそばにいろ」

 クレメンツに指示する。赤毛栗鼠は、抵抗することなく、彼の肩から降りた。

 フェイは、一人暗闇と対峙する。闇の中から、怨嗟の嘆きが聞こえた。

 それは、脱走し戦局を悪化させたジゴレイドへの呪詛である。脱走兵フェイのせいで、彼らは冥府の住人と化したのだ。

(だが、立ち止まれないことを、僕は承知している)

 カミが目覚める。数多の敵意に触発されたのか、フェイの周囲で静電気の火花が起こる。それらは黄金の花だった。これから送り返されるべき兵士たちへの、手向けである。

(一蓮托生だ。僕とこの人達は)

 数々の怒号が襲いかかってきた。もう、逡巡する時間はない。

(だから、先に眠っておいてくれ)

 フェイは、両腕からジゴレイドを送り出す。草の稲穂が振動する。真夜中の晴れた平原に、カミの雷が落ちた。

周囲の地形ごと、中隊を消滅する。なにも残っていない。土ぼこりと、何かが蒸発した匂い。それだけが、彼らのいた証だった。

だが、微かな痕跡すらも、夜風がどこかに運んで行ってしまう。彼らは、消失した。

「すまない」

そう、口にする。名もなき兵士たち。彼らは、もういない。戦争のせいだろうか。ジゴレイドのせいだろうか。それとも、あの意図が元凶なのか。

(どれでも、違わない。彼らは、未来を奪われた。それだけが、きっと事実だ……)

 目を閉じる。静かに、彼は胸の前で手を合わせた。祈りをささげる。

(待っていてくれ。無駄死には、しない)

 草が禿げ、土が抉られた地点へ、祈る。この場所すら、数か月すれば元に戻るのだ。あとは、人間の記憶にしか、彼らの居場所はない。

「フェイ。俺にも、祈らせてくれ」

 閉じた眼を、開く。振り返る。そこに、ジャンがいた。他の三人もいる。

「彼らは、私達の友でした」

「供養、してやりたいのです」

「できるだけ」

 四人を、フェイはまともに見ることができない。彼は、静かに彼らに場所を譲った。明け渡された祈りの場に、四人は静かに立つ。そして、思い思いに黙とうした。

「皆、ご苦労だった。お前達のことを、忘れない」

「ああ、ケイズ。皆、ほんとうに遠くへ、いってしまったんだ。いってしまったんだよ……」

「泣くな、クルス。ミリア最強のジゴレイドに撃たれたのだ。名誉の戦死だ。悲しむな、馬鹿者め」

「そうですな、隊長殿。ですが、あなたの目だけは、命令を聞いてないようですぞ」

「お前もだろう、メリル」

「さあ、どうだか」

 フェイは、その場を離れた。彼ら四人だけにした方が、いいだろう。

 焚火のところで、クレメンツが待っていた。彼は、フェイが戻ってくると、すぐに定位置へ帰還する。

「どうであった」

「終わったよ」

「だが、これから更に過酷な運命が、始まる」

「そうだね」

 フェイは、水平線の果てを見る。新しい太陽が、生まれ始めていた。今日の朝日だけが、特別にみえる。きっと、二度ともみることは、ないからだろう。

「行こう、クレメンツ。前線へ」

「すぐそこだ。正午までには、つける。六、七時間といったところだろう」

「それで、全部終わらせよう」

「お前に、加護を」






(※第四章「撤退作戦」に続く)

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