猫の鳴いた日
冷えた空気の中、一八が両脇にセンリョウと、留守番を任せたのに結局着いてきたタイムを引き連れて、真昼なのにも関わらず、月明かりだけが辺りを照らす、夜の様に暗い道を歩む。
きっと太陽は、昇っている筈だ。
見上げれば、光という存在そのものはすぐそこにあって。
それでも虚しい事にサルビア島の一本道は、それに照らされる気配すら無かった。
下を見ればひび割れて、痩せこけた大地がじろりとこちらを睨んでおり、三つの影は容赦無くそれを踏んで、小さな島の端にかかる幻想的な橋を目指した。
「はあ」
不意にタイムが漏らした溜め息は薄く白く天へ昇っていき、頬を刺すように冷たい島の空気に消えるように溶けていった。
「あんなに煌びやかだったのにな。こんなに寂れるのかよ」
道端に転がる小石をつまらなさそうに蹴ったタイムだが、お節介な一八にも、真面目なセンリョウにも叱られる事は無かった。
三人の間には尖った様な沈黙が流れ、その昔誰かが言った言葉である沈黙は金雄弁は銀なんてのはまるで当てはまらない状態だ。
「……一八、俺お前が心配だ」
伏し目がちに長い睫毛で顔に影を落として、珍しく素直にそう言ったタイムを横目に見た一八は、固く口を結んで俯き、何も言葉を発さなかった。
タイムは自分よりも小柄な一八を斜め上から見つめて、一向に目すら合わせてくれそうに無い気配に溜め息を吐いて、頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でた。
「まあ、お前がやりたいなら好きにしろ。俺はついてってやるから」
頭に乗せられた大きな手にちょっとした安心を感じながら一八は自分の手を伸ばして手に触れ、そっと指を絡めて手を繋いだ。
もう片方のあいた手は、一八と同じく黙り込んだままのセンリョウの手に絡めた。
「一八様、念のため言っておきますが」
センリョウが気まずそうに出した細い声を制止したのは、一八の美しくも力強い意志を持った瞳だった。
一八はとても強い目でセンリョウをじっと見つめた。
淡い翡翠色に不思議な雰囲気を漂わせて、いつもの眠たげな薄い目ではない。
何者にも屈さないとでもいうような強い意志を汲み取ったセンリョウは、繋がれた手に力を込めた。
橋に差し掛かる。
そこに一歩踏み出せば、がらりと辺りの景色は変わった。
寂しかった空気は暖かな丸みを帯び、三人を囲んだ闇は人の笑顔を作り出す光になり、乾涸びた大地は希望に輝く橋になった。
少しだけ目線を遠くに移せば大海にぷかぷかと浮かぶ大小様々な大陸が伺えた。
橋はあと三百メートル程で福之島に到着する。
「不思議だなあ」
すっかりいつもの調子に戻った一八は低いけれど弾む声で言った。
「何がです?」
「私達の島だよ。だってさあ、宙に浮いてるんだよう。それで浮いてる島がたった一本の橋で繋がってるんだよう」
たんたん、と橋を踏み音を鳴らす。
頑丈に繋がれた濃い絆のような橋が揺れる事は無い。
「しかもストレリチアからはヘンテコな管を通って福之島まで行けちゃうんだし……。うん。やっぱり不思議だよ」
『ヘンテコな管』とはつまりここで言う『入国管』というもので、ストレリチア王国の上空に浮かぶ福之島まで一気にふわふわと移動できるのだ。
体感ではクラゲが漂う様にゆったりとしているが、実は想像もつかない速さで移動しているらしい。
「そんな事言い出したらキリねえよ。俺達の存在だって不思議に違いねえだろ」
一八と繋いだ手とは反対の手で、タイムはふわふわと自分の耳を触る。
「そうだねえ」
簡単に納得する一八に何が言いたかったんだ、と顔を顰めたタイムだったが彼女はたまによく分からない事を口走るのでいつもの事だ、正常だ、と勝手に理由をつけて放っておく事にした。
橋を渡り終え、福之島に降り立つ。
と、サルビア島で踏みしめていた感覚が戻った。
サルビア島程ではないが、ここの大地も、枯れていた。
福之御殿の前に到着した。
門にはライオンの獣人が二人立っており、福之御殿への不法侵入を厳しく見張っていた。
「お疲れ様です」
センリョウが一声かけると、ライオン達は頭を下げて門を開けた。
「なんじゃ、誰かと思ったらお主であったか、一八。おはよう」
門が開いてすぐ御殿から出てきたのは、葉乃。
眉頭だけを残した綺麗な麻呂眉を携えた、気の強そうな美人である。
「はーちゃんだあ。おはよう」
「お前達、今日も仲睦まじいな。まあ中に入れ」
繋がれた両手を見て葉乃が言うと、その言葉に一八は幸せそうに目を細めて、福之御殿に足を踏み入れた。
前、右、左、と三方向それぞれに二百メートル程伸びた長い廊下の内真ん中の廊下の途中、何かを囲むようにして人だかりができていた。
「やめろよ!」
突然、人だかりの中心部分から大きな物音と共に空気を切るような怒号が響いた。
一八は不思議に思い、人だかりをかき分ける。
「ありゃりゃ。お二人さんそんなに怖い顔しちゃってえ……。どうしたのー?」
「一八! あれ、あそこの男があの女の財布を盗んだって。それで……」
「だから! 俺盗んでねえって……」
一八に事情を説明した猫の少年は、そのか細い指の先に立つ少年の声に打ち消された。
鷹の獣人である怒り心頭の少年は一八の名前を叫びながら肩を掴んで、首が取れる、と周りが心配になるほど激しく前後に揺らした。
「聞いてくれよ! こいつらが俺に罪なすりつけてくんだよ。俺じゃねえのに、だ。どうにかしてくれよ」
こいつらというのは、被害者だと言う女性とアルバイトの獣人らしい。
福之御殿では〈天〉でアルバイトをしている獣人も働いている。
「お前は日頃の行いが悪いからだ阿呆」
「貴方が言いますか」
「いちいち割って入ってくるな。争い好きかお前は」
一八はまた口喧嘩を始める家族二人の間に入って落ち着かせると、鷹の少年の前に出た。
「で、何? 盗みだっけ」
少年、ハルトは頷く。
一八は顔だけアルバイトと女性の方を向いた。
「ハルはねえ嘘つかないよ。少なくとも私にはねえ。ね、ハル」
背の低いハルの頭を髪の流れに沿って丁寧に撫でると、一八はハルを庇うように女を見る。
「君さあ、前にも同じような嘘ついたよねえ。懲りないなあ……駄目だよ」
「ひっ」
女の目を見つめながら人差し指を下唇に当てて、首を傾げる。
このようにして一八が話した内容は、何故か脳に響くようにして伝わり、深く記憶に残るのだ。
原因は分かっておらず、大手鞠一八七不思議とも呼ばれている。
女は案の定頭を抑えて静かに涙を流しながら倒れ込み、ごめんなさいとだけ呟いて気を失った。
辺りが静まった。
「さてと。皆仕事とか戻って。ニア、いつもありがとうねえ。あとハル、私はちゃあんと分かってるよ。味方だからね」
最後の言葉はハルトの耳元でそっと放たれた。
ハルトもそっと返す。
「信じてくれたの嬉しかった。ありがとな」
一八、タイム、センリョウの三人はハルトの騒ぎのために進んだ廊下を戻り、枝分かれした左側の廊下を進んだ。
そして一番大きな襖を開けると、くるくると癖のある質感の髪色も真ん丸で大きく開かれた瞳の色も着崩された洋服も、何もかもが紫色をした男、リドルネルが湯のみを両手で包むように持って座っていた。
彼は少し変わっていて、一八の事を『ひと』と呼ぶ。
「もう何やってたのさー。葉乃ちゃんひとの事呼びに出ていってから大分経ってるんだけどー? 全く。来るの遅いよー?」
湯気がぼんやりと揺れ、伸びている湯のみに息を吹きかけ冷ましながら、目だけで一八を見る。
「ごめんねえ。ちょおっと揉めててさあ」
「あー、ハルくん?」
「知ってたなら対処しなさいよう。私人に囲まれるの苦手なの。すごく疲れたんだからねえ」
一八がリドルネルの隣に座ると、二人が話している間別室の台所へ姿を消していたセンリョウが一八と自分のお茶を運んできた。
そしてタイムはと言えば用もないのにセンリョウと共に別室へ行き、それから一緒に帰ってきて、水を注いだ透明なコップを口にしながら胡座をかいた。
何かと喧嘩をする二人だが、センリョウが執事業務をこなしている間中、タイムはずっと隣にくっ付いているのだから面白い。
「ねー葉乃ちゃんはー?」
「知らないよう。さっき会ったけど私が渦中にいる時は見かけなかったからねえ」
「何それー。ひと、見捨てられたんだね。可哀想にー。葉乃ちゃんたら薄情。早く帰ってこないかなー」
リドルネルは、何かと文句や皮肉を言いながらも世話焼きで、それでいて寂しがり屋なので、いつもいるメンバーの内誰かが一人でも欠けていると、すぐに自分の元に連れ戻そうとする癖がある。
「なんじゃ、呼んだか。私はここにいるぞ」
「なんじゃ、じゃなくて! 皆集まってるんだから。とっとと来なよねー」
リドルネルが拗ねたように口を尖らせていると、襖から山積みの書類を持ったルドベキアが入ってきた。
「遅くなってごめん。はい、資料。目通しておいてね」
一人一人に手渡された分厚い書類を見て、溜め息を吐かないものはいなかった。
「いつも通りこの中から一人につき五人選んでくれるか」
資料の上には、記名欄と五つの長方形が印刷された、他のものよりも一回り小さな紙が、マスキングテープで軽く貼られている。福之御殿では、一ヶ月に一度のペースで獣人のオークションに参加しており、このようにターゲットを絞り込んでから臨むのだ。
一八は唸り声をあげながらページを繰る。
「そうだねえ……ここら辺かなあ」
一八はペン立てから赤ペンを取り出し、その先を紙面に滑らせた。
そして、獣人の個人情報が掲載されたページの名前のところにくっきりとした赤丸を打った。
「決まったら俺が回収するよ」
小さな紙に、獣人の名前を書き写して、ルドベキアに渡す。
「正直誰でもいいかな、私は」
縁側と部屋とを隔てる障子の裏から一人の男が現れた。幸宮だ。
「結局『誰か』は救えて『その他』は捨てられるのさ。僕が誰を選ぼうと残酷な現実があるという事に変わりないだろう」
限りになく黒に近い濃紺の長髪を一纏めにした彼は、この中で一番年上で〈天〉の組織内でもかなりの権力を有する。
「そんな事を言っていたら元も子もないです。私達は世界を変えるきっかけになる事が目的ですから、時が経てば全員救える日が来る」
「それは、どうだろうね」
自分達が実際に動いて注目を浴び、獣人への扱いが少しでも良くなるように。それが彼等の願いである。
「今月のメンバーは決まったねー? それじゃあ次は個人のお仕事」
「あ、幸宮さん。今日はオークション関係でリドと仕事があるので俺の第三寮の仕事変わってもらえますか」
「了解。第三寮ね」
福之御殿の裏側には門と建物の間に四つの四角い建物が存在する。
第零寮から第三寮の四つである。
「一八、後で僕の部屋に来てほしい。話があるんだ。分かったね」
優しい声でそう言うと、幸宮は部屋を後にした。
それに続き、一八、葉乃、ルドベキア、リドルネルが外に出る。
「なあ、今回のオークションで一八が選んでたの見たか。面倒そうなのが三人いたぞ」
タイムの声に、書類から目を離したセンリョウは額を抑える。
「それは私も思いました。特にあのハムスター。あれは辞めておくべきでしたね」
「まぁレモンよりはマシだが、獣人としての能力が強すぎる」
獣人にはそれぞれ、『力』がある。
それは自然にまつわるものの力で、花の力を持った獣人が枯れた花の上を歩いたら、咲き誇る花の道が出来ていたという伝説もある。
「特に今は愛獣認定前ですからね。一気に草木がかれてしまいましたから」
素晴らしい獣人の『力』は時に牙を向く。
愛が与えられなかった時、獣人の力は『負の力』となる。
つまりさっきの伝説で例えると、咲き誇る花の道を歩いた獣人の後ろには枯れた花の道ができているという全く真逆の事になる。
自然のエネルギーを吸い取り、自分に足りていない愛へと変換しようとするのだ。
サルビア島の現状がそれだ。
『愛獣』として認定されていないレモンの平均を遥かに上回る強力な『力』が原因で自然が崩壊していっているのだ。
獣人は『愛』を貰う事により尻尾や耳から光る『ハート形の毛玉』が一つだけ現れる。
これを持って〈天〉に行くと『愛獣』として認定される。
「センリョウ、これやるよ。俺は治安維持に努めてくるわ」
何か小さな箱が投げられる。
センリョウは反射的に受け取ったが悪い予感しかしなかった。
「そうやっていなくなる時のプレゼントは大体びっくり箱ですよね」
センリョウは無表情で箱を開けると案の定腹の立つ顔をしたプラスチックが飛び出てきた。
「どこまで子どもなんだか」
一度溜め息を吐いてから、箱の右下を探る。
タイムが送るびっくり箱の意味は『中に手紙が入ってます』だ。
センリョウはメモ帳程度の封筒を開けた。
【調べてみたが、今度のオークション、裏がある。お前は気づいてるかもしれないが、ハムスターの獣人に気を付けろ。】
「美味しい」
「でしょー! 僕のオススメなんだー」
一八とリドルネルは、仲の良い獣人を連れてストレリチア王国に行き、お洒落なカフェに入った。
「ニア、美味しいねえ」
ニアと呼ばれた猫の男はこくこくと頷き、サンドウィッチにかぶりつく。
「葉乃ちゃんも来れば良かったのにねー」
「はーちゃんはお仕事だからしょうがないでしょう。私達暇人とは違うのよう」
「僕だって忙しいのー! ひとが暇だからついてきてって言ったんじゃん!」
「りどくんうるしゃい」
まだ四歳のシーヤは小さな拳でリドルネルを殴る。
「痛っ! シーちゃんすぐ殴るー!」
「ね、一八。明日俺と服」
「うんうん。分かってるよう」
服の裾を掴んだうえに上目遣いで顔を見つめてくるニアの頭へ一八の手は伸びる。
「そういうのいらないから」
ニアは冷たく言いながら手をはらって街の人混みに消えていった。
「んんんんんっツンデレたまらん」
「ところで、呼び出しなんだったのー?」
ガッツポーズをする一八を無視して、リドルネルは話を振る。
「ああ、ゆきちゃんの呼び出し?」
「うきみあおじしゃん!」
「ゆ、き、み、や、ね!」
シーヤは訂正するリドルネルに噛み付いた。
一八はさっきのお返しだという事で騒ぐリドルネルを無視する。
「ゆきちゃん忙しいから第三寮の部屋半分頼まれてって。あと、普段の第零寮の仕事も出来そうにないから週に一回お願いしたいとか」
「仕事変わって欲しいとか最近多いよねー、あの人。僕もこの前第零寮にお世話しに行ったよ」
第零寮は中でも厄介な獣人がいる危険な寮だ。
人に恨みを抱いており、殺意を向けられる事がしょっちゅうである。
「ユウキコウキにいに?」
「そうだよー」
その第零寮の特に問題児がユウキとコウキである。
「ユウキが風邪ひいて今はゆきちゃんそっちにかかりきりなんだって」
風邪をひくと凶暴性が高くなる獣人もいるので付きっきりの看病となるのだ。
「ふーん、ゆきさん大変なんだ」
「一八様!」
仕事を終わらせたセンリョウが笑顔で駆けてきた。
「一八様、嬉しいお知らせです。ニアくんが! 一八様の可愛がっていたニアくんが愛獣認定されました」
「え、に、ニアが……?」
一八はセンリョウが頷いたのを確認するとほろり、涙を流した。
「良かった……。ねえ、ニアはどこにいるの?」
「福之御殿にいます! ニアくん、俺は一八様の愛獣だって言ったそうですよ」
「ううっ可愛いよう」
一八はニアが福之御殿に来たばかりの時から世話をしていた。
時々動かなくなってしまうニアの片腕として、彼の食事から着替えまでを手伝った。
ある時はほとんど介護のように支えていたのだ。
「ちょっとニアの所行ってくるねえ!」
一八は着物で走った。
そうして着いた福之御殿。一八はいつになく緊張して中に入る。門番も既に情報を聞きつけたのだろう。おめでとうございます、と声がかかった。
「ニア!」
一八は真っ先にニアの部屋へ走った。
中で寛いでいたニアは少しだけ目を見開いてからふわりと微笑んだ。
「あり、がと」
真っ赤な顔で、それでも自分の目を見て言ってくれたその言葉に一八は再び涙を流した。
「俺、一八がいてくれたからだよ」
首を傾げればニアは笑った。
「俺、こんなに笑わないから。一八の前でだけだけど、笑えるようになった。それと、ちょっと素直になった。一八に嫌われたくないから。優しくも、なったかもしれない。一八には優しくしてるつもり。あと、嬉しいとか楽しいとか分かるようになった。一八に撫でられたり、抱きしめられるのは好き。嬉しいし、一八といると楽しい。でもリドは一八と仲良しだから嫌いだよ。それから、」
「分かったよう」
一八は次々とニアの口から出てくる言葉が嬉しくて涙を止めるのに必死だった。
少し落ち着いてくると、ニアの耳を優しく撫でる。
「……今日はデレてあげる」
そう言いながら抱きついてくるニアはとても楽しそうだった。