プロローグ 『前夜』
星一つ無い漆黒の夜空。
その下でいくつもの古びた街灯が、薄暗い夜道を微かに照らしていた。
その光を遮るように人影が一つ。
遅れてもう二つ。
荒い息遣いと、コンクリートの地面を蹴りだす音だけが、静かな街に響き渡っていた。
「はぁ、はぁ」
大通りから細い路地へ、そしてそこから真っ直ぐ、適当な角を右に、また真っ直ぐ、次は左に。
どこに行くのかを考えている暇は無い。
使い古されたボロボロのコートを着た汚らしい風貌の男は、ただ思いつくままに足を動かし、背後に迫り来る追っ手から逃れようと必死になっていた。
「……はぁ、はぁ」
後ろを振り返りたい。
だがそれは出来ない。
――否、正確にはしたくないだけだ。
今、自分が置かれている状況を直視したくない。
そんな甘えた考えが、男の頭から離れなかった。
「はぁ、はぁ。っくそ!」
どれほど走り続けただろうか、やがて男は覚悟を決めた。
これ以上逃げても埒が明かないうえ、一人は女といえ相手は二人もいるのだ。
ただ闇雲に動き回るだけでは、いずれ追いつかれるに違いない。
「だったら、」
男は懐から、人差し指サイズの小さなビンを取り出す。
そしてそのふたを取り外し、中に入っている薄い赤色の液体を口に注ぎ込む。
空になったビンを放り投げると、男はダッシュの慣性を残しつつ一気に身体を半回転させ、そのまますさまじい勢いで飛び上がった。
「一か八かってやつだよなぁ!」
「……!?」
追っ手である青年の驚いた表情を視界に捉えつつ、コートの男は目標に向かってそのまま空中から急降下した。
小規模の地震が起きたかのような地響きが広がり、地面のコンクリートはひび割れ、その破片や砂煙が辺りに舞い上がった。
その大量の濃い砂煙のせいで、ただでさえ悪い夜の視界が更に悪くなってしまった。
四つん這いになりながら地面に着地した男は、その顔を歪めた。
今の不意の一撃で決めるはずが、運の悪いことに上手く避けられてしまったからだ。
おかげで視界は最悪。自分から袋の鼠となってしまった。
「重力操作なんて面倒な力じゃなけりゃ……」
「あんまり激しい運動は控えてくださいね。大事な商品が台無しになりますから」
独り言を遮るように放たれた冷たい声に、コートの男はたじろぐ。
その声の在り処を求めあちこちを見やるが、肝心の声の主はどこにも見当たらない。
(くそ、何にも見えやしねぇ。さっさと始末しないと能力が切れちまうってのに!)
恐怖と焦燥が、男から的確な判断力を奪い去っていく。
その時、男はふと首の辺りに違和感を覚えた。
それは何か細い無数の糸のようなものが絡み付いているような感覚だった。
(絡みつく? いや、締め付けている!?)
次の瞬間、男は手首や足首にも同じように締め上げられているのを感じた。
暗闇と砂煙に乗じて、知らぬ間にもう一人の追っ手である少女が自分の体中に糸を這わしていたのだった。
幅0.数ミリ程度の簡単に裂けてしまいそうな外見とは裏腹に、その糸まるで極太のロープのように頑丈だった。
男は必死にもがき脱出を試みたが、それは徒労に終わることとなった。
「っく、お前も能力者だったのか!」
「…………」
少女は何も答えず、更に糸を強く締め付ける。
ギチギチという不愉快な間接の悲鳴と、コートの男の口から漏れる苦しげな悲鳴。
その喘ぎ声を耳にしても、少女はその糸を緩めるようなことはしなかった。
「リン、それぐらいで十分」
「分かった」
リンと呼ばれた少女は命令どおり手を緩め、男の身体に若干の余裕を与える。
それでも、男の自由が奪われた状態なのには違いない。
「それじゃ、俺から奪った『水』を返してもらえるかな?」
現れたのはもう一人の追っ手であった青年だった。
コートの男は何も答えずにうつむいている。
そしてその姿を、青年は瞬き一つせず、その赤い目でじっと見つめていた。
「自分で取れば? グレイ」
「おお、そうか。それじゃあ勝手に拝借っと」
リンに当然の指摘をされた青年――グレイという名らしい――は、縛り上げられた男の元にしゃがみこみ、相手の懐から目的のものを探し出した。
いくつかのポケットを漁っていると、コートの内ポケットに10本ほどの小さなビンがあるのが分かった。
グレイは慎重にそれらを取り出し、ジーンズのポケットとワイシャツの胸ポケットにそれを詰め込んでいく。
「やれやれ。一本あなたに使われたせいで9本になってるじゃないですか」
「……俺を、どうするつもりだ?」
全てのビンを回収し終わったグレイに対し、コートの男は重々しく口を開いた。
「殺すか? このまま俺を縛り上げて絞め殺すぐらい、わけないだろう? このガキに命令すれば」
「絞殺は無理。その前にあなたの体がもたないから」
代わりにリンが答える。
「つまり輪切りになっちまうってか? 可愛い顔して、えげつねぇことしやがるな」
「……!」
男の言葉に不快さを露わにしたリンは、手元の糸をより強く引き絞る。
「ぐっがぁ、うぁ、ああぁぁ!!」
先ほど以上に強く縛り上げられた糸は、関節を痛めるにとどまらず、男の体に網状の傷痕を残していく。
やがて限界を超えた一部の皮膚から血が流れ出し、糸をつたってポタポタと滴り落ちた。
「よせ、リン! やりすぎだ!」
限度を越えたリンの行動をグレイが止めに入ろうとした、その時。
二人に出来たその隙を『もう一人の男』は逃さなかった。
コートの男がグレイに不意打ちをする際に生じた大きな地響き。
それは自分のピンチを示し、仲間を呼びだすサインでもあったのだ。
そのコールに応じた男はすぐさま震源地へと向かい、そしてじっと機会を窺っていた。
リーダーを追いかけている青年と少女、その両方に隙が出来る、その機会を――。
片足に力を込め、男は一気に距離を詰める。
引き締まったその両脚の速度は尋常ではなく、まるで早送りの映像を眺めているようだった。
先にその存在に気づいたのはグレイだった。
遅れてリンが背後の新手に気づく。
約二秒、男はそのわずかな時間で間合いを詰め、そして自分の腕のリーチ内に相手を捉えた。
グレイが振り返るのと、男がその顔に腕を伸ばし始めたのは、ほぼ同時だった。
地面を馳せる速度以上のスピードで繰り出される右フック。
避けられるはずが無い。
そう確信した男は上半身全体に力を入れ、更に威力を上乗せしようとした。
だが、その行為があだとなる。
グレイはその高速のフックを、少し首の角度を変えるだけで軽々と避けた。
その動きは反射的なものではなく、明らかに相手の腕の軌道が『見えて』いる動きだった。
それだけではない。
グレイは相手の動きに合わせて腹部に強力な一撃をあびせ、完璧なカウンターを成功させていたのだ。
「な、に……?」
自分の速さに絶対の自信を抱いていたであろうその男は、プライドと共にその場に崩れ落ちていった。
「はぁ……。不意打ちとか、そういうのは心臓に悪いからやめて欲しいな。ホントに」
まるで部屋の大掃除を終えた後のような気楽な様子で、グレイは両手をはたき合わせた。
その視線の先には、無残に倒れこむ屈強そうな男の姿があった。
「いくら速くても、俺にはほとんど見えちゃうからなぁ。相手が悪かったんだよ、うん」
勝った相手へのフォロー。
本人は優しさのつもりだが、相手の誇りを傷つけるだけの無駄な行為。
「さて、そっちはどうだ? リン」
「問題ない。どうする?」
「じゃあ金だけ奪って帰るか」
そう言うとグレイは、先ほどのまま縛られた男の元に近寄り、耳打ちをする。
「それでは、お休みなさい」
夜の街に、小さなうめき声があがった。