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若干の流血表現ありますので、ご注意ください。
痛みを感じないはずの夢の中で、あちこちにできた切り傷と打ち身で熱を持つ上半身。血を流しすぎて既に感覚のない下半身に、泥に塗れた暗闇の中テレジアはひゅーひゅーとか細い息を吐き出しながら、目の端からぼろぼろと涙を流す。頭からの出血と混じりあって地面に染みをつくるそれは、テレジアの命を目に見える形で溢していってるようだと、毎回思っていた。
動かせば激痛を感じる指をそれでもわずかに動かしながら、テレジアはかすむ視界を歪めた。
「ごめ、……な、さ…ぃ……」
嫉妬にかられて、たくさん。たくさん酷いことをした。暗く危ないところに閉じ込めて感情のままに罵倒した、誰からも愛される少女に、テレジアは殆ど音にならない謝罪を舌に乗せる。
「ご、めん……い……」
期待に応えられない出来そこないのテレジアを、温度のない瞳で見つめる父親。トゥルニエの名に泥を塗った罰を受けろと一言告げて、その場を去ったダストンの背中に、その時は呆然とするあまり伝えられなかった言葉を呟く。
「……め、な…さ…」
ずっと、歩み寄ろうとしてくれていた。親しみを込めて手を取ろうと笑みを向けてくれていたのに、緊張して、気を張って、背伸びしすぎて甘えられず、手ひどく裏切った婚約者。恋をしてくれてはいなくても家族への愛はくれていたかもしれないのに、手放したのはテレジアで。最後まで悪いのは自分ではないと醜く否定するテレジアに、落胆の色をとうとう隠さなくなった彼に、もう遅い後悔の念を溢す。
ごめんなさい、ごめんなさい。もう、一番に愛してほしいとは言わないから。
そうしたら、最期に誰かいてくれただろうか。
何度目かの「ごめんなさい」を口にしながら、テレジアの意識は闇に溶けていった。
終わった、と両手を上げて喜色を表したベルンハルトは、そのままだらりと上半身から力を抜きだらしなく机に突っ伏した。それに眉をひそめながら、テレジアはベルンハルトの下敷きにならなかった本たちを閉じ、整理していく。
図書館の奥まった一角には、貸出が制限されている希少本を閲覧するための机や、自習ができるようなスペースが併設されている。簡単な仕切りで区切られていて、課題の為であれば複数人が相談しながら使用するのも見逃されていた。もちろん、大声を上げないなどの節度は求められるが。
数日後に長期休暇を控える学院内は、ようやくの休暇に浮かれるものと、休暇前に課された課題の提出に喘ぐものにわかれていた。後者に属するベルンハルトに学舎の玄関で待ち伏せされ図書館まで引きずられて、今に至る。
正直なところ、ベルンハルトの課題処理に自身の手伝いが必要だったかは、テレジアは訝しんでいる。確かに参考図書は選んだし、渋々だが何かあれば助言はするとは言ったけれど、できないと嘯くにしては引用箇所は的確であったし、質問も合っているかどうかの確認に終始していた。
まったくもって、無駄な時間である。ここでテレジアに欲があれば埋め合わせを要求するところだが、生憎してほしいことも手伝ってほしいこともない。損だ。
本を重ねて、はぁ、とため息をついたテレジアに、ベルンハルトは顔だけ上げて首を傾げた。
「お疲れ?」
「必要ないのにつれてこられて、気疲れしました」
「そうじゃなくて。物理的にさ」
「何故?」
課題は余裕を持って終わらせる派なので、締切直前にがむしゃらにやりはしない。忙しさは至って平常だが、とテレジアは目を細めた。
「だって、最近来てないでしょ」
温室。
最後だけ唇の動きだけで伝えてきたベルンハルトから、テレジアは目を逸らした。今日わざわざ捕まえてきたのは、これが聞きたかったからか。
どうかわすべきか。暫し逡巡と共に視線を移ろわせてから、じっと見上げてくる榛色の瞳に目を戻した。
「貴方と会っていないだけでは」
「いーや、嘘だね。だって、リザの大好きな”子たち”元気ないし。カラカラのやつあって、俺が水あげたの知らないでしょ?」
「……」
答えを返せずに、押し黙る。図星だった。自分以外が植物の世話をしていることに気付いていない。否、気付けるはずがなかった。
指摘通り、あれほど心の安寧のために通っていた温室に、テレジアは最近足を向けられないでいた。あの時――温室の前で、エリオットに会った日から一度も。
あの日、エリオットに会って目を見開き固まったテレジアに、エリオットは眉尻を下げながら落としたよと言って植物辞典を差し出した。
『驚かせてごめん。食堂で見かけて、様子がちょっとおかしかったから声をかけようと思ってついてきたんだけど、タイミング見つからなくて。ここ、よく来るの?』
ごく普通の、心配している声色だった。いつものように、テレジアにも優しく気遣ってくれる穏やかなそれ。エリオットの言う様子のおかしさと、早足で乱れた息を落ち着かせようと宥める気持ちもあっただろう。
しかし、そのエリオットの言葉はテレジアのパニックを煽っていた。
温室に通っていることが知られてしまった。それは、テレジアの植物の手入れが知られてしまうのと等しい。ベルンハルトが鉢の状態を見て、誰かが世話をしているなと簡単にあたりをつけたのだから、エリオットが中を見て気付かないわけがない。
植物の図鑑を持っていて、わざわざこんな寂れた温室に急いできているのだから、手入れされた鉢とテレジアの因果関係を結びつけるのは自然の流れだろう。
バレてしまう。テレジアが、伯爵令嬢らしからぬ行動をしていることが。
ただでさえ、その時のテレジアには余裕がなかった。リタに出自のことを指摘されて、ネガティブな思考に支配されている中で、まさに「本当は嫌われているのでは?」と考えていた相手が目の前に現れて。
差し出された図鑑を手に取れないまま唇を戦慄かせるテレジアを、エリオットが心配そうに呼ぶ。
『リザ…? 大丈夫?』
伺うように頬に指が伸ばされて――テレジアは無意識にエリオットの指を払っていた。
テレジアからの拒絶にエリオットが瞠目する。その表情に、テレジアは自分がしでかしたことに気付き、さっと顔から血の気が引いた。
『ご、ごめんなさい……っ』
急き立てられるように、何度も謝罪を口にした。指を払ってしまったことだけでなくて、こんな趣味を持った、エリオットと釣り合いの取れない恥ずかしい婚約者であることに。ぐるぐると、自分の至らなさに泣きたくなりながら。
明らかに様子のおかしいテレジアに、エリオットが訝しがる。少し険しくなった表情に、テレジアは自分がやはりとんでもなく悪いことをしでかしてしまったのだと思った。
『すみませ、エリオット……。ごめんなさい……っ』
『待ってリザ、落ち着いて? 謝ることなんて何もない。……というか君はどうして。あの時も……』
他にも、テレジアはエリオットに迷惑をかけていたのだ。気づかないうちに。
それがとんでもなく悪いことに感じて、テレジアは罪の意識に胸に痛みを覚えた。
そして、脱兎のごとく逃げ出した。
落ち着いてみれば、混乱していたテレジアを純粋にエリオットが気遣ってくれていただけだとわかる。けれど、みっともないところを見せた気まずさからいつも以上に顔を合わせ辛く、もしまたあの温室にエリオットがいたらと思うと、自然と温室から足が遠のいていた。
長期休暇前ということもあり、こまめに手入れが必要な鉢は置いていない。だから、無理に足を運ばなくてもいい、と言い訳をして、授業開始ギリギリに教室に行き帰りも急いで部屋に閉じこもる生活を続けていたところで、ベルンハルトにこうして捕まったのである。
「少なくとも俺が妖精に気付いてから、一度も長期間途切れたことはなかったから。だからすんげー疲れてんのかなと思っただけ」
顔色は悪くなさそうだけど、と付け足したベルンハルトに、テレジアは首を振った。
「至って平常です。それより、ずっと気になっていたのですが、女性にボロ着た茶色い小人の呼称は、あまりにも失礼ではありませんか」
「まぁどっちかっていうとリザはブラッキーって感じだよね」
「そうではなくて……」
「それじゃシルキー? なんてね。はぐらかすんだ?」
ベルンハルトは平淡な瞳で見上げてくる。ぐ、と言葉を詰まらせるテレジアに、呆れたような溜息をひとつ。
「ま、別にいいけど。リザはさぁ……、もっと発散したら。ストイックも度を越すと苦行じゃない? みんなもっと自由に動くし奔放だろ?」
「奔放な貴方が言うと、説得力が違いますね」
「でしょでしょ。もっと褒めて見習っていいよ」
「遠慮します」
奔放に動けなど、随分と簡単に言ってくれる。
テレジアはひっそりと口の端を歪めた。
自分が心の赴くまま、感情を優先して好き勝手動いた先に待っているものが何か、テレジアは知っている。暗く冷たい、全身を苛む痛みと寂寥と後悔に包まれた、思い返すだけで眠りを遠ざけ爪の先まで冷えていくような最期だ。
一瞬浮かべたそのテレジアの表情を、ベルンハルトが見ていたのかはわからない。拗ねたように唇を尖らせた後輩は、上半身を起こすと下敷きになっていた散らかった羊皮紙を集め始めた。
それを眺めながら、ふと、温室でエリオットに鉢合わせしたかを訊こうとして、やめた。来てほしくないのに、来てくれるぐらい気にかけてくれたら。どちらを聞いても、落胆と安堵の温度差に落ち込みそうで、知らない方がよいと思ったのだ。
こっそりと、胸に溜まる靄を吐き出すように息を逃す。
もうすぐ冬の長期休み。夢が示す道から本当に離れられているのか、いまいち実感が持てないまま、五学年の三分の一が終わってしまった。もっと、穏やかに彼の傍からいなくなる準備を進められていると思ったのに、現実はこんなにも無様を晒して心乱されて。
誘われた時はあれほど浮かれた年越しの誘いも、今はただ憂鬱なイベントに変わっていた。
どんな顔して、エリオットに会えばいいのだ。
こんな時にベルンハルトの言う奔放に振舞えれば、逃げ出せたかもしれないと考えると、苦行というのは言い得て妙だなとズレた感心を覚えてしまった。