第八七話 ~守り抜いた代償~
「……む!?」
「覚悟」
岩石金棒を振り回し、コナツを懐に入らせぬまま攻め立てていたガクダイだが、見上げれば上方から見落とせようはずのないものが無数に降り注いでくる。
弧を描いてガクダイに高速接近する火の玉の数々は、いずれもがガクダイの庇い腕に直撃して爆発する。
爆風と熱を伴う発火、ガクダイもこれは面白がって受け続けるのは得策ではないとし、後方に跳んで爆熱に満ちた領域から脱出だ。
ガクダイに着弾しなかった後続の火の玉は、尚もガクダイを追うように軌道を曲げて迫るが、それらはガクダイの長い金棒の一振りで一掃される。
いくつもの火の玉が金棒で薙ぎ払われて、すべて同時に爆発することで発生する爆音と熱風も相応に凄まじい。
「お母さん……!?」
「案じないで、こうする他無いのよ!
長引かせていい戦いではないはずだから……!」
コナツ一人では手を届かせるだけでも至難の業であるガクダイを、如何にして崩すか全力で頭を巡らせながらガクダイの周囲を飛んでいたアンズ。
そばに、母が駆けつけた。宙空だ。
アンズが乗る黒い雷雲とは異なり、夏の入道雲のような真っ白な雲であるが、ナルミもまたそんなものを生み出して空を駆けるすべを持つ。
決して雲に乗っての戦いに慣れたアンズほど、器用で速度も伴った高度な滑空が出来るわけではないが、空を飛べるだけでも利は果てしない。
慣れが足りぬか前かがみ、足元の雲を片手で掴んでしがみついているようでもある様でありながら、その目に宿った決死の覚悟は母娘らしく誰かにそっくりだ。
「ふふ、地上であれに駆け迫られるよりはずっと安全なはずよ。
私も微力を尽くすから、振り返らないで敵を討つことに集中してね……!」
「~~~~~っ……!
もう! 知らないからね!!」
ほんのつい先ほど、ガクダイの投石であわや死ぬ寸前という経験をしたばかりのアンズをして、同じ空域に母がいることへの恐怖もまた膨らむ。
確かにナルミの言うとおり、老いた足の彼女が地上でガクダイに迫られれば一巻の終わりだろう。
いくら彼女を護る最後の要たるタケスエとて、大妖の鬼ガクダイとの力比べで勝るはずもなく、接近されれば退けることなど現実的ではない。
投石に晒される危うさも承知で空を舞い、直接攻撃されない領域で戦う方が、地上を離れぬのと比較すれば間違いなく安全だろう。
しかし第三の選択肢、逃げを打って欲しかった内心を抱くアンズには、焦燥感ばかりが募る展開にも違いない。
「くくく、役者が揃ったな……!
当代のどうやら熟達らしき侍までもが参じてくれるとは、お前達はどこまでも俺を腹いっぱいにしてくれるじゃないか!」
「惜しかったっすね、タケスエさん」
「なに、分厚い紙一重よ。
俺とてこのような怪物に、一人がかりの奇襲で深手を負わせる構想は得られぬ」
そして、今しがたガクダイに奇襲的な速度で接近し、その足首に向けて刀を振るったタケスエは、今は数歩退がってコナツの隣に立っている。
ガクダイを斬ることは出来なかった。余裕の足取りで跳んだガクダイに刀を躱されてしまったからだ。
手応え上では刀の上擦りがガクダイの踵を掠めたようにも感じられたのだから、紙一重、惜しかったとも客観的には言えるだろう。
しかし、常にガクダイの攻撃を最小限で躱しているコナツの姿が示すとおり、真の強者相手の紙一重にあと少しだったと惜しむのは間違い。
最も無駄の無い回避だったというだけだ。
ガクダイは、間違いなくその境地に達した強者である。タケスエほどの老練の兵が、それを見誤るはずもない。
「奴は恐らく、勝負所では金棒の先に岩を加えて、尺を伸ばすことも不可能ではあるまい。
奴の射程を覚えた気にだけはならない方がいいだろうな」
「あぁ、やってきそうっすね。助かります」
「くはははは! 見せてもいない手の内を解き明かしてくるか!
いいぞ! もっとお前達の強さを見せろ!」
経験豊富なタケスエの読みにガクダイは心昂るまま、二人に向かって駆け迫る。
攻撃そのものは非常に単純な金棒の振り回しだが、コナツでも敵わぬほどの剛腕の持ち主が、岩の塊を力任せにぶつけてくる攻撃。
受けようがない。一撃でも貰ったら終わりだと思った方がいい。
そしてガクダイは、これほど重い得物を振るのも切り返すのも速く、隙らしい隙を見せぬためコナツ達も近付けない。
距離を取ったコナツとタケスエ、二人を同時に相手取るガクダイは先程までより僅かに隙も見せるが、突けるほど明らかなものでもない。釣りの可能性もある。
コナツもどうにかこの状況を打開したいところだが、やはり自分達の地上戦のみでこいつを攻めるのはかなり厳しいと見立てる。
何かきっかけが必要だ。少しでもいい。あればそこからこじ開ける。
「土鼓、鬼灯……!」
一度敵から距離を取ったコナツへ、ガクダイが駆け迫ろうとした矢先、その前方に稲妻が落ちる。
ガクダイも思わず足を止め、稲妻の着弾点にて炸裂する土が、コナツとガクダイ双方に降りかかる。
地形が変わる。着弾点は大きく窪み、端の盛り上がった円形の沈下形状を形成する。
「なるほど、面白いことをするものだ……!
だがこんなものでは、俺の足を躓かせることも叶わんぞ!」
稲妻が地形を変えたことを見たガクダイだが、確信ある表情でその窪んだ場所を踏みつけた。
ガクダイが踏みつけた場所は、まるで目に見える地表が薄い膜に過ぎぬかのように、くるぶし程度の深みまでガクダイの足裏を引きずり込んだ。
何も知らずに駆けて踏み込めば、低段の落とし穴のようにはたらいて、ガクダイを躓かせるか足首を痛めさせるかが出来たかもしれない。
しかしこんなものは、かつてガクダイを迎え撃った人間が取った策の一つに似たものに過ぎず、ガクダイからすれば知れた戦術なのだ。
一瞬で落とし穴を作れるのは恐れ入る。だがそれだけだ。
「種の割れた悪戯でも上手く使えば私を嵌められるかもな!
さあ、やってみろ! まだまだ始まったばかりだぞ!」
「だったら……!
火土鼓、枝垂桜!」
アンズはかすかにナルミに目配せめいた一瞥を送り、火雷鼓と土雷鼓を叩いて稲妻を喚び出した。
ガクダイの周り、広範囲に渡って降り注ぐ無数の稲妻が、地面を次々に撃ち抜いていく。
着弾点はいずれも先程までと同じように、一つ一つの径は小さいが、いずれも踏めば一段下がる落とし穴と思しき窪地となる。
すべてがそうなのだろうか? もしかすると、踏んでも下がらぬ場所もあるやも?
ガクダイが考えるべきことはいくつもある。それがガクダイには楽しい。
「くははは! まるで罠囲いだな!
さて、それで果たして俺を翻弄しきれるか見極めてみるがいい!」
ガクダイは構わずコナツへと迫る。今しがたアンズが無数に作った低段の落とし穴を構わず踏みしめて。
踏むたび一段足が落ちても、そうだとわかっていれば躓くこともない。降りるとわかっていれば誰も階段では躓くまい。
ガクダイにとって、速く駆けた上で、踏んだ場所が落ちようが落ちまいが体勢を崩さず戦うことなど造作も無い。
ただでさえこの巨体では足元がいつ崩れてもおかしくない、山の湿地帯でも戦ってきた経験も多い歴戦の鬼なのだから。
「コナツ、お前は迷うなよ。
すべて下がるぞ、そう想定して間違いあるまい」
「アンズのことをよく知ってるあんたが言うなら信じますわ……!」
「おおっと! やはり二人同時を相手取るのは大変だな!
お前達が有象無象の木っ端であれば楽なのだがな!」
そうは言いながら余裕のあるガクダイだ。コナツを金棒で攻め立てていれば、別方向からタケスエが迫って刀を差し向けてくる。
紙一重で躱す。無駄の無い動き。反撃もまた速い。
屈んだタケスエの頭上を掠めていく金棒は、あわやの死を突き付けながら、それを深く実感する暇も無いほど次の攻撃が続く。
その上でコナツが近付いてくれば、そちらに金棒を振りながら一歩退く。
足を止められたコナツはそれ以上踏み込めず、ガクダイの攻撃は最大の防御と呼べるものとしても秀逸だ。
「お母さん……!」
「ええ、見えてる!」
「ふん、こんなもので!」
アンズから距離を取ったナルミと、アンズが同時にガクダイへ稲妻と火の玉を差し向けた。
金棒の一振りで火の玉を打ち払い、稲妻を逆の手で受けきって、何事も無かったかのようにガクダイは再びコナツに目を向ける。
やはり一番警戒すべきはこいつだとわかっているのだろう。ガクダイの勘はその点でも優秀だ。
だが、そんなガクダイの勘の良ささえ逆手に取り、すぐさまコナツに目を向けるガクダイの動きもまたナルミには"見えてる"動き。
打ち払われた火の玉が爆ぜたことも己をガクダイから隠す幕とし、袖の中から取り出した一枚の符を、既にナルミは地上に投げている。
「まさかこの程度の波状攻撃で終わりではあるまい!
もっとお前達の……」
「発……!」
コナツに向かってガクダイが駆け迫ろうとし、アンズが作った窪地の一つに足を踏み入れた瞬間のことだ。
薄い地表の下、かすかな空洞に突き刺さったナルミの放った符が、火の玉の爆発にも匹敵するように爆ぜて、地面ごとガクダイの足を裏から焼く。
焼くこと自体は決定打にはならないだろう。だが、土の重みも併せて足を下から押し上げられればどうか。
踏み込んだ場所が急に自重以上の力で持ち上げられれば、さしものガクダイも後ろによろめく。転ばないだけでもたいしたものだ。
「っ、と……!
なかなかの小細工……」
ガクダイは真正面のコナツから目を切っていない。隙を見せれば一瞬で距離を無にしてくるだろうとわかっていたからだ。こいつならそれが出来る。
タケスエとナルミが期待していた展開もそれであり、コナツの剛拳がガクダイに届けば。
彼に注がれる三人分の視線は、ガクダイに迫るコナツが次に叶うと確信していたものだったのだが、コナツが前に出ようとする気配がそこには無い。
前に出ないコナツの姿に、今がその時と別の気配を感じ取ったのはアンズだけだ。
手の届く場所に敵がいないにも関わらず、思い切り引き絞って握り締めた拳を、コナツは全力で振り抜いた。
目に見えた空振り。何をしている?
何も無い場所をぶん殴ったようにしか見えぬそれに怪訝さを感じたガクダイだが、次の瞬間にはその表情は愕然としたものに変わる。
ガクダイにだけ見えた光景。目の前の光景が一瞬、本当に一瞬だけだが、陽炎のように歪んだ。
「ぶガ…………ッ!?」
まるで見えぬ、巨大な、それも自分よりも大きな拳に殴られたかのように、ガクダイが踏ん張り切れずに殴り飛ばされる。
目には見えなかったがアンズには感じ取れた。神の力には敏感な彼女だ。
神の風が、それもガクダイよりも大きな空気の塊となって、真正面からガクダイを殴り飛ばしたのだ。
コナツの新たなこの切り札についてはアンズもあらかじめ聞いている。彼女が先程使った"鬼灯"もそう、コナツは聞き及んでいる。
一蓮托生の二人の連携には、この日に至る前から既に互いの手の内を、新しいものも含めて把握し合っていることが根底にある。
「火鼓、八種火!!」
「ぬ、ぅ……!」
だから、アンズが仰向けに倒れたガクダイの上空に、己の乗る雲を滑り込ませるのも速かった。
自身を貫いて上天より下る、彼女が放てる最大威力の稲妻。
倒れた矢先、真上に輝く雷神太鼓が見えたガクダイに、もはや躱す時間など残されていない。
地面に背を着けた鬼めがけ、巫女を貫きながら勢いよく落ちた特大の稲妻は、屈強な大妖に直撃することと相成った。
「さあ、アンズ!」
「っ、っ……いっけえっ!!」
「符術! 炎天夏!」
「やるなぁ、人間ども……!」
そして、アンズが稲妻を撃ち終えたその頃には、既に彼女の上空に大きな火の玉が完成している。
それはアンズの背丈以上の径にして、まるで空から落ちてきた太陽が地上間近に浮かんでいるかのような妖しさを放ち。
自らをも貫いた稲妻の痺れで身が軋むアンズも、次にこのとどめの一撃が続くことをわかっているからこそ、直ちに雲を滑らせて場を離れる。
その瞬間、アンズの後ろを掠めて地上へ勢いよく落ちる大火球は、無論ガクダイ目がけて一直線だ。
特大の稲妻を受けた直後で動けぬガクダイに、ナルミの大火球が直撃した瞬間、生じた爆発は壮絶なものだった。
小さな火の玉でも爆ぜて爆音を起こすほどのものだ。あれほどの規模の火球で起こす爆裂とは如何ばかりか。
あまりの爆音にアンズもコナツもタケスエも耳がやられ、静かな夜に村いっぱいまで響いた爆音で、心臓が跳び出そうになった村人も百人では利くまい。
爆心地における熱と風も、充分に距離があったはずのコナツとタケスエが、這うに近いほど姿勢を沈めて踏ん張ってようやく吹き飛ばされずに済む程。
踏ん張れない空中のアンズはより高い所に押し上げられ、浴びた熱気たるや肌が腫れるかと思ったほどである。
爆心地は土煙でいっぱいだ。
ガクダイの亡骸がそこにあったとしても、地上からも空からも見えぬほどに。
いや、あれほどの爆発のど真ん中にあったガクダイの肉体など、木端微塵になっていてもおかしくないはず。
人ではないから控えめな表現になるが、人間相手だったら跡形も無いほどのものには違いなかった。
煙が晴れるまで警戒心を解かず、死ななかった敵がその向こうから急襲してくることに備えるコナツは、伝説の鬼が相手であることをよくわかっている。
「ッ……!」
『いかんぞ!!
奴はまだ消えていない! しかも、狙っている!』
「わかっ、っ……お母さぁんっ!!」
アンズもだ。そして、彼女の抱いた危機感はコナツ以上に迫真。
ガクダイが死んでいない想定はあった。それ以上にアンズの心臓を凍らせたものは何か。
砂煙の向こうから発せられる、濃厚な殺気めいたものが、さながら目にも見えるかと思うほどはっきり感ぜられた瞬間、アンズはじっとしていられなかった。
コナツもタケスエもナルミも、この殺気には身震いすらしただろう。
それ以上に、ナルミのそばへと一気に雲を駆けさせたアンズの心を握りつぶそうとした恐怖は、他の三人が抱いた危機感など遥かに凌駕する。
「勘がいいなぁ……!」
「!?
アンズ……」
「あ゛が、ぇ……っ!?」
一縷の迷いも無く、ガクダイがいたであろう場所とナルミの間にアンズが身を投じていなかったら。
砂煙の向こうからでも、人ではない大妖の目ではっきりと見えていたのであろうほど、正確に飛んできた拳大の岩石を、アンズの体が阻んでいなかったら。
それは確実にナルミの頭を直撃し、即死させていたに違いなかったのだ。
最悪の結末は免れた。アンズが直感した、彼女が最も恐れた出来事は阻まれたのである。
だが、実際に起こった悲劇はその想定を僅かに劣る程度のものに過ぎず、甚大にして凄絶な被害。
飛来した岩石に腕を伸ばし、辛うじて我が身をナルミを護るための盾に出来たアンズの左腕、二の腕にその岩石は直撃した。
真芯で受けずに済んだことは幸いだ。アンズの二の腕、上半分に直撃した岩石は、障害物に当たったことで軌道を逸らし、ナルミの頭上を掠めていった。
だが、アンズの左腕は? 綺麗な球体であるはずもなく、雑に突き出た部分も多い、山で拾ったような形の悪い岩石。
骨を砕くだけではなく、その形状で以って人肌を毟り取った岩石は、ナルミの頭上を通過していくに際し、鮮血を散らしてナルミの髪を濡らしすらする。
あまりの衝撃と想像を超えた痛みに、アンズが雲ごとふらふらと傾いて、あわや地上に真っ逆さまに落ちそうになった様からも悲劇の片鱗は垣間見える。
意識さえ飛びそうなアンズに代わり、テンジンが雲を操って彼女の下に滑り込ませたから良かったものの、そうしなければ本当に地面に激突していただろう。
夜闇の中にもアンズの血が滴り散ったのが見えたかとさえ思えるその光景に、コナツは憎しみすら抱いた目を再び砂煙の方に向ける。
「ぐぐっ……ははははは……!
凄いな、お前達は……!
今のは、俺でなければ確実に勝負を終わらせられていただろうさ!」
岩石金棒を一振りしたガクダイが、自身を包んでいた砂煙を振り払う。
全身が焼け爛れている。稲妻と、爆炎による深手だ。それもそれらは、神力を、あるいは妖を葬るための神通力が込められた雷撃と爆撃。
確かにガクダイの言うとおり、相手が怪物嶽大将でもなければ確実に終わっていたはず、それほどの威力であったことを物語る様相だ。
それでも、仕留めきれていない。これも、ある意味では最悪の展開か。
「だが、俺はまだまだ遊びたいんだ……!
さあ、今度はこちらからもっと攻めようか!
あの雷神を失った今、お前達がどこまでやれるか見せてみろ!」
アンズは始末したも同然と豪語するガクダイに、激しい怒りを覚えながらも、そんなコナツやタケスエですらすぐには動けない。
一体どれだけ、どれほどのものを更に撃ち込めば、こいつを仕留めることが出来るのか。
とびっきりのとどめの一撃を与えたはずが、勝利が決まらなかったこの瞬間に、先ほど以上の何かを直ちに閃くのはまず不可能。
考え付く限りの全てを吐き出した直後なのだから当然だ。
襲い掛かるガクダイ。その金棒を凌ぎながら、コナツは歯ぎしりすらする。
諦めの文字は彼の脳裏に欠片も無い。だが、どうするか。
活路を見出さんとする若者は、一度閉ざされた道を拓けるか否か。
拓けなければ旅路はここで終わりだ。皆殺しの結末が、何も閃くことの出来なかった世界線のコナツを、今か今かと待っている。
「き、きつ……これ、きつ……」
『傷は必ず治してやれる。跡も残さずだ。
だが、今宵はな……』
「う゛ぅぅ……存じて、い゛ます……!」
肉体的にも精神的にも甚大な傷を受けたアンズは、堪らず一度戦場から大きく離れ、家屋の影に身を隠す。
抉られた二の腕の痛みなど言うに及ばずであるし、あまりの深手でそもそも左腕を上げることすら出来ない。
指先がひくひく動かせる感覚はある。それで、腕が千切れたわけではないのがわかるのがせめてもの救いというところ。
流石に神様の力でも、斬り落とされた腕をもう一度生やすことなど出来ないため、これなら一生取り返しのつかない傷ではない。
生き延びられれば、だが。今宵ここから、左腕が使い物にならないのは別の意味でも相当に痛い。
アンズは恐る恐る自分の二の腕を見たが、すぐに目を逸らしてしまう。
雷神太鼓という光源がすぐそばにあることもあり、こんな夜でもその深い傷口がはっきり見えてしまう。
間近ゆえに細かいところまではっきり見えるのが良くなく、皮膚の内側の筋肉まで乱暴に千切られ、白い骨までちらりと見えてしまったほど。
こんなもの見れば他人の傷であっても気分が悪くなるのに、自分の身体の中身を目の当たりにしてしまうと尚の事であろう。
動く方の右手で口元を押さえたほどに、見れば吐き気を堪えられぬ陰惨な傷である。
「アンズ……!」
そんなアンズの元へ、白い雲に乗って舞い降りてくる人物。
あまりこの傷を見せたくない相手なので、思わずアンズは彼女の方に体の右側を向けた。
隠したって無駄なのはわかっていても、やはり母に娘の身体がこのようにされたことを見せたくない気持ちが身体を動かすのだろう。
「うう、っ……
待っててね、せめてもの手当だけでも……!」
「ぉ、おかぁさん……」
今もぼたぼたと血を流し続けるアンズの深手を前に、ナルミも目を見開いて口元を覆ったが、すぐに符を取り出して応急処置にかかる。
陰陽術は基本的に、妖魔を討つための攻撃的な目的でしか使い道が無いと言われるが、それは一般的な陰陽師に限った話に過ぎない。
一枚の符を長い包帯の形に変化させ、それをアンズの深い傷に巻き付けて、ナルミは傷を覆ってすぐに真っ赤になる包帯に手を添える。
ひぎ、と短い悲鳴と涙を溢れさせるアンズは我慢して動かず、ナルミは張り裂けそうな胸の痛みに耐えて祈りを込める。
傷を治すことも、痛みを和らげることも出来ないが、傷口から流れ続ける血を抑制することは出来るのだ。
ただの包帯ではない。術者の祈りに応え、少しでも傷に対して優しい処置を施せる、ナルミの符術による効能を持つ秘薬にも近い。
「……それでもあなたは、戦うのよね」
「絶対逃げない……!
コナツやタケスエさん、お母さんも、村の人達もみんな無事に守り抜くことしか考えてない!」
ぐしっと涙を拭うアンズの表情は未だ苦痛に満ち、愛娘のそんな表情は母から見て痛々しいばかりだ。
だが、止めても無駄な子であるのもまた、ナルミが誰よりもわかっていること。
その上でここまではっきりと強く意思表明されては、最悪の結末に至らぬことを只々祈りながら、背中を押してやることしか出来なくなる。
「…………さっきは不覚を取ったけど、もう私のことは振り返らないで。
自分のことは、しっかり自分で何とかしてみせるから」
「わかった」
「よろしい」
ぐっと堪えてアンズのしたいようにさせてくれる母の真剣な表情に、アンズも断りたくなる要求を即答で受け入れた。
あなたが好きにするなら私も好きにする、いいわよね?
言外に含まれた母の強い感情は、自分を見ているような気さえするアンズに退けられるものではない。
どうせここで何を口答えしたところで、あなたが言うなと言われて何も言い返せなくなるだけだから。
「試せることはいくらでもあるわ。
アンズ、私に合わせて戦ってみて。
あなたなら、私の力を何倍にもしてくれた上で、きっと勝機に手をかけてくれるはずだから」
「うん、任せるよ、お母さん……!
でも、絶対ご自愛だけは忘れないでね!」
「ええ、まだまだ私だって終わりたくはないわ……!」
雲に乗る母娘は再び嶽大将の暴れる戦場へ舞い戻らんとする。
そこには、母を喪いたくはない想いでいっぱいだった娘の顔も、娘に危険な世界へ飛び込んで欲しくないと案ずる母の顔も無い。
完全に割り切ったのだ。守り、守られる間柄同士ではなく、共に勝利を掴むために並んで戦う只の味方だと。
最優先としていたものが攻め気に後れを取らせるなら、互いのことで頭がいっぱいな心境は改めねば甘い。
今だけは仮にでも、最愛の親子であることをも隅にどけ、勝つことだけに意識を集中すべき時だ。嶽大将とはそれほどの相手なのだから。
心の奥底で、再び戦場に母が向かうことへの奥底が何度も目を覚まそうとするが、アンズは必死に蓋をして眼差しを前にのみ向ける。
皮肉にもそんな心の疼きとは、激しく痛む二の腕の傷の痛みすら、束の間忘れさせてくれるほど重い。
これほどの傷を負っても尚、アンズは再び立ち上がって戦うことが出来る。十七歳らしくないと思われるのは、その肉体的な強さではなくその心魂だ。




