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あんずの神様 ~山波雷神幻想譚~  作者: ざくろべぇ
第壱章  山波神社の雷神巫女
8/27

第八話    ~襲撃~



 近滋国(このしげのくに)へと向かう東向きの旅も時間が重なり、そろそろ夕時の少し前という頃。

 まだ日の高い時間帯ではあるが、暗くなる前に近滋国の宿へと辿り着きたい姫様行列は、そろそろ気も急きかねない頃でもある。

 山波国は他国に比べて妖が多いため、要人を伴う遠出は神経を遣うのだ。


 まして今は曇天だ。

 お天道様の加護無きような空模様に、気が立つ、あるいはいっそう神経質になる者がいたとしても、任務の重さゆえに致し方ない天気である。


(――そういえばテンジン様。

 ちょっとお伺いしてもいいですか?)

『む、雑談か?

 仕事を疎かにするのは感心せんが』

(いえ、まあ、少々気分転換を……

 勿論、周囲への警戒は怠りませんから)


 とりわけ無駄口を叩きづらい時間帯となってきたところで、アンズは声を出さずテンジン様に、脳裏の言葉で話しかける。

 気分転換という言葉を使ってはいるが、基本的にアンズは巫女として仕事熱心なので、今この状況で単なる世間話で主神を煩わせることはしまい。

 主神との対話に意識を割きながら、仮に凶賊がいつどこに気配を出しても察せるよう、周囲への意識も一切怠ってはいない。

 アンズの目にだけ見える御姿を顕現したテンジンは、アンズの頭の上に胡坐をかいて鎮座する。


(水原家の姫様であられるイナリ姫様の護衛が少ないのって、どういう意図だとテンジン様は御想像されますか?

 最終決定権がイナリ姫様というのも含めて、思惑の推察は立つでしょうか)


『ふむ。

 護衛を敢えて少なくするというのは、意図あってのことであればまず心当たりは一つしか見当たらぬ。

 守りの薄さを見るも明らかにし、それを隙と見た者の襲撃をおびき出すというものだな』


 テンジン様はそもそも博識だが、特には策謀渦巻く政界の事情について詳しいところがある。

 それも、特に京のことについては尚更である。まるでかつては自身が京の貴族であったかの如く、経験談のように語ってくれるのだ。

 どうしてそうなのかなどは、当然ながら巫女のアンズも知るところ。主神の前史ぐらい存じている。


『アンズも今の世相ぐらいはわかっておろう?

 京と幕府の東西二極で和大国の政は執り行われているが、双方ともにより優位に立とうという意識はあろうものだ。

 幕府は主権を独占するに至りたく、京もまた巻き返しを諦めていようはずもないからな』

(京の平家(ひらのけ)と今の幕府の水原家(みなはらけ)の現状を決定付けたのが"壇ヶ浦(だんがうら)の戦い"でしたっけ。

 それを含む長き決戦の末に、京が絶対的な政権を持つ時代が終わり、京と幕府が両立する今の時代へと繋がっていくんですよね)


 今は倉鎌幕府が全国を統治する世。

 それはアンズが生まれるよりもしばらく前、京の帝が世を収めていた時代から、水原家が主権を奪取して倉鎌幕府を開いたことに端を発している。

 ほんの最近までは帝と京こそが、この和大国を治める最高権威だったところ、戦乱の数年を経てその座は東の水原家に移ったというところである。

 京は復権を心の底では渇望しているし、倉鎌幕府の水原家もその主権を奪い返されてはたまらぬという意識が今でも強い。

 世は落ち着いて数年の現状に即して泰平だが、政界の最高峰では未だ燻ったものがあるのも確かである。


 まあ、庶民にはあまり興味を抱かれないところだが。

 京と幕府に属する者、あるいはアンズのような、世相に敏感な一部の者だけが興味を抱く分野には違いない。


『同時に昨今、山波国において賊による、貴族や商人に対する襲撃が多いという近況もまた気にかかる。

 明確な意図を持って、京において名のある者を狙い撃つ悪意が潜んでいることは、まず間違いないことだと見込んで然るべきであろう。

 それだけの頻度があるから話題になるのだし、守りの厚い京の関係者がそれほどの頻度で襲撃を受けること自体も異常だ』

(そんな中にあっての、イナリ姫様の長き旅路を経ての里帰りですからねぇ。

 本当のところを言っちゃうと、万一を避けるなら里帰りそのものを自粛するのも賢明な判断だと思うのですけれど)


『その辺りは複雑だな。

 ならず者による治安の悪化を理由に、帝の正室たる人物が望むがままに動けぬというのも良い傾向ではない。

 危うい世相を匂わせることで、暗に貴人を脅迫することさえ出来れば、その動きさえ制限できる――そんな実例が出来てしまうのだからな。

 状況を鑑みた上で尚、屈さぬ姿勢で里帰りを強行したイナリ姫の判断もまた、権威を失墜させぬためには重要なことだ』


 コガラシの言うところによると、コナツはこの山波国で、のべ百にも近い数の山賊や浪人をぶちのめして、京の裁きの場へと突き出している。

 それはつまり、彼の目が届く限りですら、それだけの賊が潜伏世界から飛び出して、積極的な凶行に及んでいるということ。

 コナツ一人が関わった程度というごく一部でその数なのだから、山波国全体で言えばどれだけのならず者が跋扈していると想定されるべきだろう。

 今の山波国は、人里から大きく離れた旅路が本当に危険だ。ただでさえ妖という脅威がある中で、いつどこでならず者に狙われるかもわからない。

 アンズの言うとおり、万一があってはならぬような人物は、京に引きこもっていた方が安全かつ賢明という見方もあながち間違ではいない。


 とはいえ、賊にびびって望むままにも出払えない、そんな権力者でい続けるのも具合の良くない話である。

 次期帝の第一候補の正室であり、今は正真正銘の皇家たるイナリ姫、賊如き容易に退ける兵力など擁していて当然。

 それが今の世相に怖気づいて外出すら出来ぬようでは、京の、ひいては皇家の臆病と、それを裏付ける非力を晒すようなものだ。

 庶民がそれを揶揄することはないが、京にとっては幕府、逆もまた然り、大きな政敵がいる立場は、対立陣営に弱さを見せたくない。

 アンズの見解が広く支持されようことも加味した上で、テンジンはイナリ姫の帰郷敢行に対してむしろ肯定的である。


『その上で、敢えて姫君としては不足の兵力で東へ赴き、むしろならず者の襲撃を誘発させようとしているとすれば、だ。

 イナリ姫は、ここのところ京の関係者を狙う賊の正体を、見極めんとしているのやもしれぬ。

 それに自分自身を餌に使うのだとすれば、少々大胆が過ぎるがな』

(でも正直、この護送行列を襲おうとする賊なんて普通いませんよね。

 これだけの兵力に勝てると見込んで襲撃かけてくるほど強い悪者集団なら、村とか襲った方がよほど現実的ですもん)

『だから、イナリ姫の思惑どおりに何者かによる襲撃があるとすれば、それは野良でなく組織的なものであろうな。

 考え得るのは二つに一つ……まあ、無理筋も含めるなら三つか。

 イナリ姫を亡き者にして京の権威を失墜させたい幕府の手の者か。

 あるいは、京に与して戦うも水原家との合戦に敗れたことで没落し、未だ根深く水原家の者すべてを恨む浪人ないし落ち武者か。

 付け加えるなら無理筋である、京においてのイナリ姫の政敵だが……やはり、これはあるまいよ』


(……嫌ですねぇ。

 幕府方であるとすれば、イナリ姫様の御親戚かその関係者でしょう。

 京を貶め幕府の優位を高めるために、イナリ姫様の命さえ奪おうとするなんて話は、あまりにも居たたまれない話ですよ)

『政界は伏魔殿だ。

 崇高とする目的のためでさえあらば、いかな貴人であったとしてもその命は羽よりも軽い。

 おしどり夫婦であるゆえ薄れているが、そもそもイナリ姫とて元は当人の意志など全く顧みられることなく婚姻相手を選ばれている。

 そこには個々の自由意志はおろか、明日の幸福さえ約束されてすらいない。

 ある日の不作や災い一つで明日の命すら約束されていない百姓よりは遥かに恵まれているとて、政界は上に行くほど思いの外儘ならぬものよ』


 守りの薄いイナリ姫を、これを好機として命を奪わんとする者がいたとして、その目的は?

 京の関係者には動機が無いとさえ言える。なぜなら将軍家の姫君を護り切れなかったとなれば、京の立場が著しく悪くなる。

 気まずいどころの話ではなく、責任を追及され、幕府に逆らえなくなることさえ現実的なほどだ。

 イナリ姫の不幸によって、誰が最も得をするかと言えば、それによって大いなる優位を得る幕府の側であり京ではない。

 京におけるイナリ姫の政敵が彼女の命を狙うよりは、彼女の死を理由に京を糾弾できる幕府か。

 あるいは、今もはや京に立場が無く、それを水原家との合戦でかつての地位を失った者達の、親の代から続く深き怨みの線の方が余程強い。

 

『ここしばらくの山波国の、京の関係者ばかりが襲撃を受けるというのも、それが成功する限りは利を得るのは幕府側だ。

 少しずつでも京の力を削ぐことが出来れば、それは政敵にとって都合が良い展開に他ならないのだからな。

 今の山波国の治安の危うさに黒幕がいるとすれば、幕府すなわち水原家の手引きだと推察するのが自然なところであろうよ』

(イナリ姫様は、それを確かめたがっていると……?

 護衛を減らして、自分の命を危ぶめてまで、かぁ……)

『さて、真相の程は果たしてだがな。

 だが少なくともイナリ姫は、将軍家の生まれでありながらも今の婿殿を深く愛しているようだし、京の味方であることは確かなようだ。

 努めて己の命を投げ出すことで、幕府が有利にことを運べるようにということを、実行するような人物ではなかろうと信用するには値する。

 お前の言うとおり真実を確かめようとしているのであろうし、それは幕府のためではなく、京のためだと信頼してよいだろう』


「――ズ――、――なあ、アンズ――」


 一方的に嫌われている相手ながら、アンズがイナリ姫を見限れない、そして未だに敬意を失わないのは、彼女がそういう人物だとも信用できるからだ。

 アンズと違って自身が戦う力を持つわけでもなく、仮にその喉元に凶刃を迫らせてしまえば、何ら抗うことすら出来ず命を失う身。

 長生きすればするだけ、裕福で幸せになりやすい生涯を約束されている地位にも関わらず、いま最も大切にするもののためなら命さえ張れる。

 アンズだって信仰のためなら、命も操も捨てる覚悟はあろう。

 だが、イナリ姫はアンズよりも二つも年下なのだ。

 己よりも幼い者が、敵わないとさえ思えるほどの覚悟で日々を生きる姿を知り、抱く感情は真の意味での敬意しかない。


『今の時点では、私とて情報が足らず真実は想像に及ばぬところだ。

 ゆえにこそ、イナリ姫は真相を解明するための足掛かりを求めていると見立てて、まず間違いはだろう。

 あまり深く考えるな。今はただ、なんだかんだでお前が好いているあの姫君を守り抜くことに心血を注げばよい。

 しくじれば、巫女として立つ瀬が無いことも理解しておろう?

 私としては、お前はそんなことすら度外視で、好きなイナリ姫を護ることに夢中で、本質的には信仰のことなど二の次なのが少し面白い』

(も~、意地悪言わないで下さいよ)

『はっはっは、すまんな。

 巫女に第一に考えて貰えねば神は妬けるのよ』

(テンジン様のことだって私には無二に大切ですから。

 でもイナリ姫様のことだって、比べたくないぐらいには私にとっては大事で……)


「おい、アンズ。

 さっきからどうしたよ、上の空じゃねえか」

「…………はへっ!? ごめんなさい!?」


 厚き鈍色の雲が日の光を地に通さぬ、一雨きそうなこの曇天も尚のこと、含み笑い混じりのテンジンの皮肉がアンズをへこませていたところ。

 さっきから話しかけていたコナツが、少し声を大きくして改めて語りかけたところで、ようやくアンズは外から自分に話しかけられていたことに気付く。

 テンジンとの会話、そして周囲の悪しき気配への警戒、この二つに意識を割くのでいっぱいであったところ、コナツの声にしばし気付けなかったようだ。

 思わず口にした謝罪の言葉も、相手が同い年のコナツだと理解しておらず、年上に叱られた可能性を本能的に加味して敬語である。


「お前さっきから大丈夫か?

 失敗できない仕事だってわかってるはずだろ」

「あ、え、その、大丈夫大丈夫!

 私こう見えてぽや~っとしてても勝手に妖の気配とか気付いちゃって、普段から神経しんどいぐらいだから!

 だから私が寝てても頼りにしててくれてもいいぐらいだよ! あはははは!」

「でかい口叩き過ぎられるとかえって不安になるんだが」


 寝てても気付けるは流石に冗談だが、テンジンと会話しながらでも危機意識は決して失っていなかったので、アンズの言い方は大袈裟なだけで的外れではない。

 とはいえ付き合いの浅いコナツ、そして巫女アンズの実績に疎い周囲の護衛には、この子本当に大丈夫かと思わせるには充分だったかもしれない。

 良くない目線の向けられ方をしていることなどわかっているアンズは、この時点でもう胃がきりきりする。

 頼りない巫女では主神への信仰など集められない。気まずい。


「ほんとほんと、コナツ疑っちゃ駄目だよ?

 私、すごいんだから。伊達にこんな嫌な恰好して巫女やってないよ?

 それだけ覚悟持って神職やってるんだし、仕事は絶対ちゃんとやるから。

 だからあんまりじろじろ見るな」

「見てねーよ。

 お前そればっかだな」

「他の皆さんもですよー!

 私のことそんな目で見る暇あったら周囲に目を配って下さいねー!

 魅力的な女性だと思って頂けるなら光栄ですけどねー!」


 ああもう、死ぬほど恥ずかしい。

 誤魔化すために自意識過剰な言葉をわざわざ使って、お調子者めいた余裕を演じてなんとか不信感を向けられかねていないこの空気を払いたがる。

 元気なお嬢ちゃんだ、と笑ってくれる大人が何人かいてくれる一方で、ちょっとアンズに呆れ気味な所感を得ている人がいることも自覚しているとも。

 一度失態を衆目に晒すと、取り返すのが難しいというのはいつの世もそう。


 明るく元気で気丈な姿を演じる一方、内心アンズは股の間がぎゅうと締め上げられるような、嫌な心地での冷や汗が流れる。

 巫女としての護衛をしっかり果たせたとしても、ただそれだけでは信仰は集まらない。

 何もかもを完璧にこなさねばならぬ神職者は大変だ。十七歳のアンズには本来、まだまだ重くて手に余る仕事である。






 よく整えられた山近街道は、砂利道を嫌う馬の蹄が快適に進む程度には、平坦な砂地に均されている。

 京と幕府の東西を結ぶ主たる道の一つということで、大人数での移動も意識して拓かれた道ゆえ、その幅も広い。

 歴史的にも東西を繋ぐ道は太古より重要視されているから、道脇の大樹も過去に切り落とされ、見晴らしが良いのは昔からそう。

 護送行列の太さが昨今なおのこと顕著であるため、均された道の幅が膨らみはしたものの、草を刈られた砂地の道の脇は昔から障害物一つ無い。

 大自然の中にありながら、人類のために最も便利に、かつ長く拓かれたものを"街道"と通称され、山近街道はまさにその好例と言って良い。


「……お?」

「うええ、やっぱり来たあっ!」


 さて、時は日没を意識し始めるほどの頃合い、空全面が厚い雲に覆われているゆえ暗さが加速しつつある時、ほんの異変がイナリ様護送の行列を襲う。

 とはいえイナリ姫に危機が迫るような重大なことではなく、しかしアンズにとってのみ重大な出来事。

 趣深い夕陽をも遮る意地悪な暗雲が、かねてより地上の者達には知れていた雨をぽつぽつと降らせ始めてきたのである。


「もうー、さいあく~。

 しかもこれ、しつこく続く降り方じゃないですか~」

「そんなでかい声あげるほどのことか?

 だいたいわかってたことじゃんか」

「濡れたら服が貼っ付くんだから。

 私が絶対びしょ濡れになっちゃ駄目な恰好してるのわかるでしょ」


 雨が降る直前というのはしばしば形容し難い独特の匂いがするもので、今日もそうではあったため、今回の一行で雨を予見していなかった者は誰もいない。

 十年生きていれば、この匂いは雨の前触れだと、農民も貴族も問わず誰でも自ずと学ぶ匂いだ。

 特殊な技能ではなく、千年後の人々にもわかる者はいるはず。

 だからわかりきっていた雨に嘆くアンズの言動は、何を言ってるんだこいつはと、白い目で見られかねなかった。


 ずぶ濡れになると困る事情を彼女が口にしたことで、誰もがすぐに納得できたが。

 示し合わせたように皆一様に、アンズから目を逸らした態度からもそれは見て取れよう。すけべ男の称号は賜りたくない。

 アンズの巫女服は生地が薄い。濡れて肌に貼り付いたらぴっちりである。


「お前……ほんとにその巫女服の下、何も着てねえの?」

「あの、コナツ、それ私の口から説明させるの?」

「だー! ごめんごめん!

 なんにも言わなくていいから! 今のは俺が悪かった!」


 まだ濡れきっていないアンズを横に見ながら、つい口をついて尋ねてしまったコナツも、顔を真っ赤にしてアンズから顔を逸らす。

 アンズの答えは殆どコナツの問いを全肯定したも同然だ。

 袖が無く裾の短い生地の薄い巫女服。アンズが身に纏うたったそれだけの衣服。

 二枚剥いだだけで、さらしと褌姿になってしまう彼女が、ずぶ濡れになって服が肌にぴっちり貼り付いたら、女体の形は完全に浮き彫りになってしまうだろう。

 最悪、裸よりも煽情的で恥ずかしい姿になってしまうことを心底恐れるアンズの心境、慮れなかったコナツが謝るのは妥当なところ。


「コナツ、今のは貸しひと……」

「だははは、巫女さんも大変だな!

 俺は存分に目の保養にさせて貰うが、うちの元嫁には黙っておいてくれよ!」

「もう~、コガラシさん!

 私にとっては操の危機すら感じる重大案件ですよ!

 茶化さないで下さいよ! 辱められた女の怨みは食べ物の怨みより怖いんですからね!」

「ひぇ~、おっかねぇ。

 まして神様の御加護ある巫女様の怨みなんて死ぬほど恐ろしいや」


 恥辱を味わったアンズが、コナツに今のは貸し一つだと宣言するに値する一幕、コガラシが冗談口を叩いてくれたのは相当コナツには有り難かった。

 アンズの矛先は彼女の後方にいた馬上のコガラシに向き、コナツからは意識が逸れたから。

 一方で童貞ではない大人はこの手の話に余裕があり、身を縮ませかねなかったアンズを案じて冗談も言える。


 この辺り、陰陽師としての責務一筋で生きてきて、女にうつつを抜かすまいと貞操を貫いてきたユキタダが、アンズから目を切っているのとは対照的である。

 彼、男前なだけあって、もてるのだが。何歳まで童貞を貫くのであろうか。


「あまり雨が降られると、寄ってくるならず者の気配を感じづらくなって困るな。

 アンズはその辺、大丈夫なのか?」

「んっ、まだ私のことを見くびっているのか。

 雨が降った程度で近付く脅威にも気付けなくなるようじゃ、妖を相手に護衛を預かる雷神巫女は務まらないんだぞ」

「妖魔の気配とやらは俺にはわからないけど、雨が降ってもどうにかなるんだな。

 じゃあ安心できるや、頼りにしてるぞ」

「ふふーん、大船に乗ったつもりで任せておきなさい。

 この辺の察知力は、陰陽師の皆様にも負けないつもりで頑張るから」


 コナツもコガラシが作ってくれた流れに敢えて乗り、おだてて彼女の機嫌を取っておく。

 さっきの失言をさっさと忘れて貰いたいからだ。

 女子(おなご)を辱めた罪を追及されると、無視も出来ないから面倒である。


「ちなみにアンズは、賊の接近にはどうやって気付く?

 俺もそうだがだいたい勘だけど、他に要素はあるか?」

「やっぱ匂いじゃない?

 嫌でも気付くじゃん、あの特有の感じ」

「それは俺もそうだけどなぁ。

 今後の参考のためにも、それ以外にもあれば、ってのが聞きたいとこ」

「いやー、音や気配もあるけどやっぱ匂いが一番頼りになるよ。

 そればっかり意識してても賢しい悪党に足を掬われちゃうけどさ。

 今みたいに雨が降ってる時には、こっちも鼻を潰されちゃうし」


 コナツは歩みを止めないまま意図的にアンズに話しかけ続け、話題を転がして前の記憶をなし崩しにさせようとする。

 護衛の仕事をする者には基本的な話だが、人間のならず者の接近はまず鼻で気付けというのが定説だ。

 野に潜み、長らく身体を洗っていない賊は、その頭数が多ければ多いほど、自然界で浮くほどの体臭を漂わせるため、その接近は鼻だけでも充分に察せられる。

 相手がどれだけ隠密性の高い忍び足で近付いてきても、その体臭は消せないのだから、まずはそれを察する神経は基礎的に必須とされるのだ。

 風邪を引いて鼻が詰まっている日は護衛任務を断れ、というのは一種の定説のようなものである。


 だから、雨の日特有の匂いに加え、降り注ぐ雨で接近者の匂いが漂いにくくなる今日のような日は、護衛側には少々不利かつ賊にとっては都合の良い日だ。

 それに、元より賊でも知恵の利く者は、普段からないし襲撃前には身体を洗い、匂いで接近を早期に気付かれることがないよう努めることもある。

 鼻だけ頼りにしていては駄目、というのはアンズの言うとおりであり、それぐらいのことは皆わかっている話だ。

 要はこの場にいるような者なら誰でも知っているようなことを確認し合っているだけで、コナツは付き合いの浅さを利用して話を伸ばしているだけである。

 さっきの失言を忘却の彼方に吹っ飛ばして貰いたいから、コナツも内心そこそこ必死で話術を駆使している。


「賊はそれでいいけど、妖の気配っていうのはどうやって察するんだ?

 俺はその辺、本当に勘だけでよくわからないからさ」

「私もそんな感じだけどなぁ。

 強いて言うなら、賊のそれじゃないけど匂いみたいなものあるけど。

 妖特有の、鼻先につんとくるほどの嫌な気配っていうか、なんというか」

「それも鼻かよ。

 犬じゃあるまいし」

「わんっ!!」


 犬扱いするな、という剣幕を大きな声と、犬歯を覗かせる口で威嚇して返すアンズだが、発せられる言葉は付き合いが良い。

 冗談口だと理解した上での返しなので、コナツも話しやすい相手だと思う。


「耳と尻尾見えてるぞ。

 お前なんとなく、懐いた相手には徹底的にお腹見せそうな奴に見えるし」

「噛むぞコナツー!

 巫女をわんこ扱いするなー!」

「近い近い、いちいち寄ってくるな」


「本当に仲良いなぁ、お前ら。

 表向きは犬猿の仲って感じではあるが」


「わおーんっ!!」

「うききー」


 乗ってきてからかわないで下さい、と振り返って吠えるアンズ。

 肩をすくめて棒読みでお猿さんの鳴き声を真似するコナツ。

 どちらも敵意の無い返答で、横槍を入れてみたコガラシも、すまんすまんと両手を前に出して謝っておきながら笑顔がこぼれる。

 お堅いかもしれない巫女と口下手そうな幼げの若者が、案外話の分かる柔らかい奴らなのでコガラシ目線ではちょっと可愛い。


「楽しそうだが程度を弁えろ。

 仕事が出来るなら構わんが、足を引っ張ろうものなら只ではおかんぞ」


 その軽さはユキタダにも気になるようで、厳しく睨んでの小言に表される。

 どちらかと言えば、アンズ達の談笑によって空気が緩み、警戒が薄まることを嫌っての釘刺しであり、本質的には部下に向けた言葉でもある。

 雨が降ることで普段よりも鼻が使いにくくなり、警戒心をより高めねばという意識もあるだろう。

 人は犬ではないが、嗅覚は馬鹿に出来ないのだ。だからこんな任務の日には、雨ひとつ降るだけで空気が張り詰める側面もある。


「おこられた」

「嫌われたぞ。信仰は大丈夫か」

「誰彼にでも好かれるのは無理だからしょうがないですねぇ」


 信仰を集めねばならぬ立場として、きつい反発を受けたアンズをコナツも気遣うが、アンズは存外へらっとしている。

 万人受けなど不可能だと、アンズもはなから割り切っているようだ。

 無理なものは無理だと、何もかもを欲しないのは心を病まない秘訣。きっと、千年後でも通用する理念である。


「心配しなくても仕事はちゃんとやりますよ。

 くっせぇ匂い、今まさにしてるでしょ。ちょうど腕の見せ所ですよ」

「ちょっとコナツぅ、外敵の接近を腕の見せ所なんて言っちゃ駄目でしょお?

 無い方がいいものを有り難がるのは不謹慎だぜぇ?」

「わかってるけどでっかい声で言いたくなった。

 だって誰も動きを見せないんだもんよ」


「……か~、そうだな。

 お前達が一番早かったよ」


 コナツもあまり侮られてはつまらないのか、ここは敢えて年長者に気を遣わない言い方をした。

 快い接し方をしてくれてきたコガラシに、わざわざ恥をかかせたくはなかったから、コナツも振り返ってコガラシにだけ少し詫びるような目を見せたが。

 そんなコナツの言葉を耳にした者達は、みな一様にまさかという顔で少し驚いたものの、彼が適当なことを嘯いているわけではなかったことをじきに知る。


 この後に続いたことにより風化してしまったため、アンズが誰にも評価されなかったのは、テンジンが若干の残念顔なのも当然であろう。

 コナツの言葉に誰もが寝耳に水であった中、アンズだけは同時の気付きで驚きもせず、しかも目線は正しい方向を向いていた。

 誰よりも勘良く、接近する不審な存在に気付いていたことを口にしたコナツ同様、アンズもまた彼と同じ目線の先を見据えていたのである。


『う~む、お前が先に言えば株が上がっていたのになぁ』

(そうですよねぇ。

 すいません、コナツの方が早かったです)


 責めた声色ではないテンジン様。お遊びでからかっておられる範疇だ。

 でも、アンズも今のは勿体なかったなとは思う。

 信仰集めに躍起の巫女だから、なんだかんだで強かなところはあるようで。


「一同、止まれぃ!! 構え!!」


 朗らかにアンズ達と語らっていた表情を一変させ、武者の顔つきに豹変したコガラシの号令は、粛々と進んでいた姫様行列全体の足を止めさせた。

 迫力のある声だ。やはり歴戦の武将、有事とあれば切り替えも早く、かつその気迫もまた、先程までの話のわかる穏やかなおっちゃんとは似ても似つかない。


「左方より不審の影あり!! 今なお迫り来る!!

 姫様の御身を護るため、死力を尽くしてみせい!!」

「右方に妖魔の気配だ!

 陰陽師一同、構えよ! 何者たりとも姫様の籠に触れさせるな!」


 陰陽師を纏めるユキタダとは別に、護送に参じた武士の頭であるコガラシの声には、応の声を発する一同の声は早く、大きい。

 そして、コガラシと声が被らぬよう敢えて少し遅れて陰陽師達に号令を出すユキタダも、既に懐から符を取り出しており、気付き遅れた素振りも無い。

 コナツとアンズが一番早く気付いたというだけで、やはりコガラシもユキタダも優秀で、敵がまだ接近していないうちからその存在には早く気付いている。


「くせぇ賊に加えて妖も同時に接近中かよ。

 計画的で作為的な匂いがぷんぷんするよなぁ」

「いいのいいの、そんなことどうでも。

 全部ぶっ飛ばして何も起こらないことにしちゃお。

 それで何もかも一件落着だから」

「ま、そうだな。

 最後に帳尻さえ合えばいい」


 両手首をぶらぶらと、しかし力強く振ってほぐしたコナツが、拳を握って争いに備える。

 アンズがその背に、稲光の如く輝く八つの太鼓を顕現させ、その両手に現れた(ばち)を握りしめる。

 そんなアンズの神々しい姿が、まずは最もこの場で一度全衆目を集めたが、この状況下で余所見は出来ぬと、武者らも陰陽師らも指示された先に目線を戻す。

 しくじれば実際に己の首が飛ぶ姫君の護送任務、ここに至って気の緩みなど誰にも無い。


「コナツっ、妖は私と陰陽師さん達に任せてね!

 コナツは武士の皆様と一緒に賊を蹴散らすことに集中してくれていいから!」

「おう、任せとけ。

 そっちもこっちのことは一切気にしなくていいからな。

 そっちのことに集中してくれよ」


 道なりの左から、鼻を刺すような汚い身なりの賊の匂い。

 右からは、人ならざる存在から漂う本能的な嫌悪感をくすぐる気配。

 気付きが早ければ構えも早く、道無き道から迫る者達を迎え撃つ体勢は整っている。

 奇襲を受けて戦陣が乱れることなく、良き形で今を迎えている。


 雨は少しずつ強くなりつつあった。

 これから起こる、彼ら護送者の想像を上回る出来事を、不穏に予示するかのように。

 だからなのだろうか。ほんの少し前まで、雨で濡れることを本気で嫌がり、薄い巫女服が肌に貼り付かないよう頻繁につまんでいたアンズも。

 少しずつ布地の下の肌の形があらわになりつつある中で、ほんの僅かもそれを意識せず、鋭い眼差しで妖が迫る方向から一切目を切らない。


 辱められようとも、最悪裸にされるようとも、それ以上に避けるべき未来がそこにあれば、己の恥辱など些事でしかない。

 イナリ姫が毒牙に晒されること。そして、それが叶えられればその後に続くであろう、決して過言ではない激動の新時代の訪れ。

 大将軍家の姫君の命はそれほど重いのだ。

 背負いしものは大きい。それも、途轍もなく。

 もはやアンズは、濡れた巫女服が己の肢体を、傍目にはっきりと見えるほど浮き上がらせ始めていることさえ、ほんの僅かも顧みすらしていなかった。

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