秘密を知りたい?
「ちょっと、嘘でしょう? 何で泣いてるの兄さん!」
「泣いてない」
年に一度の、王宮舞踏会の日。この日までに十六歳の誕生日を迎えた娘は、デビュタントとして国王が主催する舞踏会に参加出来ることになっている。
リリーはもう十六歳なので、舞踏会に行く準備をしていた。準備の最中、滅多に屋敷に帰ってこない兄が帰ってきた。デビュタントだけに許された真っ白いドレスを身に付けたリリーを見て、兄は何故か瞳を潤ませた。
「やめてよ。結婚するわけじゃないんだから」
「だから泣いてないって」
涙をこらえようとしてか、兄は眉間にシワを寄せ険しい顔になっている。
「ローズ様を迎えに行かなくていいの? また妹ばっかり構ってるって文句言われるわよ」
「まだ時間あるし。それにローズはもう大人だから」
「私も大人よ!」
「はいはい」
全く手のかかる兄だ。これから計画的に自立させ、妹がいなくても大丈夫な兄に育て上げなければ。
兄と別れ屋敷の外に出ると、伯爵家の馬車の前に、正装したニックが立っていた。
「雪の結晶の化身のようだね。それとも、泉から生まれた妖精かな?」
「大勢の女性に使い回した誉め言葉を私に使わないで下さる?」
「安心してよ。まだ三人にしか使ってない新作の誉め言葉だから」
何人までなら新作なのだろう。リリーはニックの誉め言葉事情を深く掘り下げることなく、彼の手をとり馬車に乗った。
今日、リリーをエスコートしてくれるのはニックである。兄は自分の恋人をエスコートしなければならないし、ウィルは主催者側の人間なので、この日は自由に動けない。
本来なら幼馴染み三人のうち誰がリリーをエスコートするかで、殴りあいの喧嘩が勃発してもおかしくなかった、とリリーは思っている。
ニックにエスコートされることを父に認めさせるのは大変だった。父はリリーが小さい頃からずっと、何度頼んでも、労働者階級のニックを屋敷に招くことを絶対に認めてくれなかった。
でも今日は、十六歳になって初めてウィルと顔を合わせる日である。よく知らない紳士が隣にいては心細い。
ということで、もしニックと舞踏会に行くことを許してくれないならお父様とは二度と口を聞かないと宣言した。父はたっぷりの葛藤のあととんでもない時間をかけて首を縦に振った。意外に父は扱いやすい人だった。これは十六歳になって初めての、有益な発見であった。
デビュタントの少女たちがダンスホールに集合した様はまるで、シャンデリアの下に突然、白い花畑が出現したかのようだった。
リリーは自分の家の名が呼ばれるのを、自分と同じく白いドレスを身にまとった令嬢たちと共に待っていた。
「緊張してるの?」
ニックが意地悪くからかってくる。リリーはニックの腕をぎゅっと掴んだまま、膨れっ面を作った。
「してない」
「あ、そう」
「嘘、してる」
「あっそ」
「なんとかしなさいよ」
「仰せのままに」
ニックはリリーの耳元に手をやって、硬貨を出現させるというありふれた手品をやって見せた。よく見ると、ニックがリリーの耳から取り出したのは硬貨ではなく、小さなブローチだった。
「安物だけど、小さいから目立たないし、別にいいだろ」
「……ありがとう」
ニックは花の形をした銀色のブローチを、慣れた手つきでリリーのドレスに刺した。
「環境が変わるからって、突然別人に変身しなくてもいいんだって」
「世間はそんなこと許さないわ」
「俺は許すよ。ウィルもジェイミーも。それで十分だろ」
小さな子供にするように、ニックは人差し指でリリーの頬をくすぐった。
リリーの強ばっていた頬は自然にゆるんだ。それを見てニックは満足げに笑った。
デビュタントのダンスが終わり、リリーのエスコートをするという最低限の使命を果たしたニックは、あっちの花やこっちの花に飛び移る蝶のようにヒラヒラとどこかへ行ってしまった。
放任にもほどがあるのではないだろうか。確かにダンスの最中何度も足を踏んでしまったのは悪かったと思うが、突然変わらなくても許すと言ったじゃないか。
おかげでリリーはダンスに誘われないように忙しいフリをしてダンスホールをせっせと歩き回らなくてはならなくなった。途中、兄を見かけたが、隣にリリーとはそりが合わないローズが立っていたので、助けを求めることは出来なかった。
最終的に、リリーはダンスホールを出て王宮の廊下にある人気のない休憩所に身を落ち着けた。
長椅子にぐったり腰かけて、行儀悪く足を伸ばす。銀の燭台に鎮座しているろうそくの火を見つめながら、早く帰りたいなぁと心の中でぼやく。
そのままじっと目を閉じて足を休めていると、突然声をかけられた。
「見つけた」
目を開けると、目の前に笑顔のウィルが立っていた。足音に全く気づかなかったので、リリーはひどく驚いた。自分は今居眠りしてしまっていて、都合のいい夢でも見ているのだろうかなどと考えつつ、慌てて立ち上がりとりあえず膝を折ってお辞儀する。
「ご、ごきげんよう」
「ごきげんよう。遅くなったけど、誕生日おめでとう。あと社交界デビューも」
言いながら、ウィルは長椅子に腰かけた。リリーも隣に座り直す。
「こんなところに一人でいたら危ないよ。ニックはどこ行ったの?」
「大体想像つくでしょう」
「期待を裏切らないねあいつは」
しょうがないなぁ、とウィルはため息混じりに呟く。
ウィルと顔を合わせることがずっと億劫だったリリーだが、いざ会ってみると想像していたほど緊張しなかった。それどころか、今日一日の中で今が一番リラックス出来ているような気がした。
「勝手に抜け出して大丈夫なの?」
リリーが尋ねると、ウィルはじっとこちらを見つめてきた。
「リリーが困ってるんじゃないかって、そんな気がしたから」
照れくさそうに笑うウィルを見て、リリーの胸は彼に初めて恋をしたときと同じように、ときめいた。
「約束、覚えてる?」
もう両手の指では足りないほど何度もぶつけた質問を、再びぶつける。
ウィルはいつもみたいに軽い調子で頷いた。
「覚えてるよ」
それだけ言って、ウィルは口を閉じた。まだリリーの気持ちが変わっていないかどうか、尋ねたりはしてこなかった。ウィルは、リリーが迷っていることをもうとっくに分かっているのだろうか。それとも、このままうやむやになれば都合がいいと考えているのだろうか。
胸に刺さっているブローチを無意味に見つめながら、リリーは話をどう切り出そうか考えた。ウィルは考える時間を一年もくれたのに、まだ答えは出なかった。
「ねぇ、リリー」
春の木漏れ日みたいな、もしくは、洗い立てのシーツのような、とにかくリリーにとってこの世に存在する何よりも心地のいい声が、名前を呼んだ。
顔を上げると、ウィルと目が合った。
「秘密を知りたい?」
企むみたいな口調で尋ねてきた。リリーが頷くと、ウィルはふわりと微笑んだ。
「去年誘拐されたときのこと、覚えてる?」
あの時なぜ、リリーたちが閉じ込められていた部屋までたどり着けたのか。ウィルはその理由を話し始めた。
ウィルはあの日、麻薬組織の奴らに「リリーに会わせてやる」と言われて、リリーたちが閉じ込められていた館ではなく、館のそばにあった納屋に連れていかれそうになった。しかし納屋の前まで移動したとき、ウィルは不思議と分かったという。リリーはここにはいない。もっと、別の場所で助けを待っている。
館にはたくさんの部屋があったが、自分でも驚くくらい、進むべき方向が分かったという。追っ手を撒きながら勘に従って進み続けると、そこにはリリーがいた。最悪な結果も覚悟していたが、ちゃんと息をして、無傷の、リリーがいた。
リリーはウィルの話を聞きながら、少しずつ鼓動が速まるのを感じていた。
どの国にも、王家にまつわる不思議な噂というものはある。あの国の王族は代々、人の生き血を飲んで美しさを保っているとか。あの国の三百年前に亡くなった一代目の国王は、実はまだ生きているとか。
リリーたちが暮らすこの国にも、もちろんそういう噂がある。非現実的な噂の数々は大抵、国王であるローリーにまつわるものだ。
ローリーには未来を見通す力があるとか。人の心を読む能力が備わっているとか。リリーはそういう噂を、馬鹿馬鹿しいと完全に切り捨てることが出来ない。
なぜなら、ローリーの功績はただ彼が優秀だからというだけでは説明できないものが多すぎるからだ。
もし……。もし、ローリーの弟であるウィルにも、そんな不思議な力があるのだとしたら。
それを今、打ち明けられたとしたら。
リリーは魔法使いが出てくる物語を聞く子供のように、期待と興奮で胸が一杯になった。
ウィルは、リリーが心地いいと思うその声で、話を続ける。
幼い頃、隠れて遊んでいるリリーの居場所がすぐに分かったこと。サルガス公爵夫人の夜会に参加したとき、大勢の参加者に埋もれていたリリーを見つけ出すことにも、大して苦労しなかったこと。そして、今も――。
「これって、運命かな?」
実は僕は魔法使いなんだ、と打ち明けられるのを今か今かと待っていたリリーは、ウィルの問いを受け、ゆっくりと機械的に口を開いた。
「……運命?」
「運命の二人は結婚して、永遠に幸せに暮らすんでしょ?」
――リリーが今よりずっと幼かったころ、大好きな絵本があった。それはありふれた物語で、お姫さまが運命の相手である王子さまと、結婚するというもの。
リリーはゆっくりと、そして何度も頷いた。
「うん、そう……。運命よ。そうに決まってる」
そう答えた瞬間、ウィルはリリーが今まで見たことがないくらいに、嬉しそうな顔をした。
「じゃあ僕たち、もう離れられないね」
リリーはあらゆる不安が吹き飛んでしまうくらいの、感動に包まれた。例えるなら、何気なく見上げた夜空が思いがけない美しさを湛えていることに、生まれて初めて気づいたときのように。
この喜びをどうやって表現すればいいのか分からなくて、ぎこちなくウィルの方へ両手を伸ばしたり、引っ込めたりする動作を繰り返した。ウィルはくすくす笑いながら、空に浮かぶ雲を引き寄せるみたいに、優しくリリーのことを抱き締めてくれた。
リリーは軽く、パニックに陥った。
「嘘、どうしよう……。兄さんに言わなきゃ。あと、ニックにも」
「そう焦らないで。明日世界が滅ぶわけでもないんだし」
「そんなこと分からないじゃない!」
「まぁ、そうだね」
リリーの憧れの王子さまは、のんびりとした口調で婚約者をなだめた。リリーはくすぐったいような、恥ずかしいような、そんな気持ちと戦うことに苦労していた。
「もうウィルは私のものなんでしょう?」
「ずっとそうだったと思うけど」
「何でそんなズルいこと言うの!?」
「何で怒るの……?」
人気のない廊下で語らう二人を、邪魔するものは何もなかった。
舞踏会を楽しむ人々の笑い声と、音楽だけが二人の周りをゆっくりと漂っている。
リリーは白い手袋を脱いで、手を握って欲しいと頼んでみた。ウィルはすぐに手を握ってくれた。この国で最も偉い一族の一員であるくせに、彼の指先は日頃の訓練のせいなのか、荒れていた。
王族らしからぬその指にひとつ、キスを落としてみた。ウィルはいつものように優しい眼差しで、リリーのことを見つめるだけ。
もっといろいろ尋ねて彼の気持ちを引き出したい気もしたが、それは別に今すぐでなくてもいいと思えた。
リリーに安らぎを与えてくれるこの眼差しと暖かいこの手が、もしかすると、今のウィルに許された精一杯の歩み寄りなのかもしれないから。
今は、このままで。
あと少しだけこのままでも、かまわない。
蝋燭の火に縁取られた二人の影は、笑い声と音楽が姿を消してしまうまでずっと、ひんやりとした廊下に佇んでいた。
おわり




