プロローグ
朝の光が、木々の隙間からやわらかく差し込み、秘境の村に穏やかな一日のはじまりを告げていた。
ここは、グランフェルト王国の地図のどこにも記されていない深い森の奥。
切り出されたばかりの木の芳しい匂いと、どこか懐かしい飯を炊く湯気が、澄んだ空気に混ざり合っている。
「よし……今日の寸法も狂いなし、と」
村の中心にある広場で、男が木材に墨糸を弾いていた。
日焼けした肌と手慣れた手つきは、どこからどう見ても生粋の職人のそれだ。手にした木尺を真剣な目で見つめる男の隣では、制服姿の面影を残した少年が、真剣な表情でノートに数値を書き留めている。
「大将! こっちの束柱の垂直、バッチリっす。誤差ゼロで通ってますよ!」
「おう、筋がいいぞ。手元としての腕が上がってきたな」
男に頭を撫でられ、少年は少し照れくさそうに頭をかいた。
かつて理不尽に理不尽を重ねられ、異世界の暗い場所で「無能」と捨てられて人間不信に陥っていた少年の瞳には、いまや澄み切った誇りと生き生きとした光が宿っている。彼が持つ『精密測定』という一見地味な力は、いまやこの村の頑丈な家々を支える最高の「設計助手」としての才能を開花させていた。
「ちょっと、男組ー! ご飯できたから集まってー!」
高らかな声が響き、作業の手が止まる。
呼びに来たのは、エプロンをつけた少女だ。彼女の手には、炊きたての湯気が立つ大きな鍋が握られている。
異世界の冷酷な権力者たちに囚われ、道具のように扱われそうになっていた絶望の過去など微塵も感じさせないほど、今の彼女の笑顔は温かく、村の「お姉さん」としてすっかり頼もしい存在になっていた。
「はーい、今行くわー! ……ふぅ、朝の澄んだ空気で食べるご飯ってほんと最高。前の会社でデスクに突っ伏しながら食べてたカップ麺とは雲泥の差ねぇ」
大きめのシャツの袖を捲りあげた女性が、肩を回しながら作業小屋から出てくる。
連日の過労と不遇な扱いで擦り減っていた彼女も、いまやこの村に欠かせない構造計算のスペシャリストだ。男と少年の出した寸法を魔法的な理論と組みあわせ、村の快適な建築や魔法構造を支える頼もしい頭脳となっていた。
「やったー! ごはんだ、ごはんだー!」
「もう、お兄ちゃん走ったら危ないでしょっ!」
広場の奥から、元気いっぱいな子供たちの歓声が聞こえてきた。
幼い兄弟が、弾むような足取りで食卓へと駆け寄ってくる。かつて兵器として利用されかけ、冷たい部屋で震えていた面影はどこにもない。
「こら、ちゃんと手を洗ってから席につけ」
男がわざとらしい頑固親父の顔を作って注意すると、子供たちは「はーい!」と声を揃えて笑い、水場へと走っていった。その背中を見送る男の目元は、どこまでも柔らかく緩んでいる。
かつてこの世界で「伝説の大賢者」と呼ばれ、魔王を討伐して世界を救い尽くした男——それがこの男の正体だ。しかし、いま彼が何より大切にしているのは、この静かな手仕事と、ここで暮らす者たちの屈託のない笑顔だった。
「みんな、手は洗ったか? ……よし、器を持て」
木の温もりが残る大きなテーブルに全員が腰を下ろし、ほかほかのご飯と具だくさんのスープを前にして手を合わせる。
「「「「「「いただきます!!」」」」」」
元気に重なり合う声が、爽やかな朝の空気に弾けた。
「あ、大将! このスープ、昨日二人で採ってきたキノコ入ってますよ!」
「おう、良い出汁が出てるな。下処理が効いてる」
「ふふ、みんながおかわりできるように、鍋いっぱいに作ってあるからね」
「助かるわぁ……ほんと、ここに来てから人間らしい生活を取り戻せた気がする」
「おっちゃん、今日の作業終わったら、また木工の削り節で遊んでいい?」
「おう、危なくねぇ道具貸してやるから、好きなだけ削りな」
木のスプーンが器を叩く心地よい音と、笑い声が絶え間なく交差する。
炊きたての温かい飯と、自分たちの手で切り開いた安全で平和な居場所。
理不尽な運命によって異世界へ落ち、傷つき、奪われかけた者たちが、伝説の力を秘めた一枚岩のような男の庇護のもとで手に入れた、当たり前で、何よりも愛おしい日常。
笑い声が静かな森に溶けていく。
ここは、傷ついた迷子たちが最後にたどり着く、世界で一番温かい場所——『保護村』だ。
……だが、この温もりと笑顔があふれる村も、最初から存在していたわけではない。
なぜ、気ままな大工暮らしを望んだ元・大賢者が、このような村を作るに至ったのか。
そして、傷つき絶望していた少年少女たちは、いかにしてこの居場所にたどり着いたのか。
すべては、誰もいない深い秘境の森で、一人の男がノコギリを振り上げたところから始まるのだった——。




