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同期しない夜― ススキノの小さなバーでの記憶―  作者: akira


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最終話 静かな夜の続き

その夜のあと、雪は降らなかった。


何日か、静かな夜が続いた。


店はいつも通り開けている。


同じ時間に開けて、同じようにグラスを並べる。


違うのは、自分の中だけだ。


カウンターに立つ。


グラスを一つ持つ。


光にかざす。


透明なガラスの中に、歪みはない。


昔と同じだ。


だが、それを見る目が少し違う。


“同じ”ということの意味が、変わった。


ドアが開く。


顔を上げる。


美咲が入ってくる。


一人だ。


もう、増えない。


それが分かる。


「こんばんは」


「こんばんは」


自然なやり取り。


前と同じだ。


だが、確かに違う。


カウンターに座る。


いつもの席。


「何にしますか」


「任せます」


少しだけ笑う。


その表情に、いくつもの記憶が重なる。


静かなもの。


遠いもの。


少しだけ苦いもの。


全部が、今ここにある。


「分かった」


ボトルを取る。


ライムを切る。


ジンを注ぐ。


シェイカーを振る。


音が、落ち着いている。


揺れない。


グラスに注ぐ。


差し出す。


美咲はそれを受け取る。


一口飲む。


目を閉じる。


「……」


何も言わない。


だが、それで分かる。


同じだ。


そして、違う。


「名前」


美咲がぽつりと言う。


顔を上げる。


「呼べますか」


試すような言い方ではない。


確認でもない。


ただ、そこにある言葉。


「……美咲」


自然に出る。


迷いはない。


それが当たり前のように。


美咲は、小さく頷く。


「よかった」


その一言に、すべてが含まれている。


忘れて、思い出して、


分かれて、繋いで、


そして、今ここにある。


それで十分だ。


グラスを置く。


氷が静かに鳴る。


「もう一杯、いきますか」


聞く。


美咲は少しだけ考える。


それから、首を横に振る。


「今日はこれで」


その言い方も、変わらない。


だが、今はそれでいい。


会計をする。


ぴったりの金額。


それも変わらない。


ドアに向かう。


その前で、少しだけ止まる。


「また来ます」


振り返らずに言う。


「またな」


自然に返す。


ドアが開く。


外の空気が入る。


そのまま出ていく。


ドアが閉まる。


ドアが閉まったあと、しばらく動けなかった。


静けさの中に、何かが残っている。


それが何かは、もう分かっている気がする。


「……あの男は」


ふと口に出る。


あの静かな客。


最初から、すべてを知っていたような男。


もう何日も来ていない。


だが、不思議と“いなくなった”感じはしない。


最初に言っていた。


“見ていました”と。


あれは、ただの客の言葉じゃない。


この店の中で起きていることを、


外から眺めている存在の言葉だった。


「……客じゃないな」


小さく呟く。


むしろ逆だ。


この店にいる自分の方が、


どこかに“留められていた”。


記憶に。


時間に。


場所に。


あの男は、それを外から見ていた。


干渉せず、


ただ、必要なときだけ言葉を置いていく。


「……管理人みたいなものか」


自分でも、少しだけ笑う。


だが、それが一番近い気がする。


この店のことも、同じだ。


最初はただの場所だった。


酒を出して、客が来て、帰る。


それだけの空間。


だが、いつからか違っていた。


時間が揃わない。


記憶がズレる。


同じ夜が、少しずつ違う形で現れる。


それは異常だ。


だが、壊れていたわけではない。


むしろ——


溜まっていたのだと思う。


忘れたくなかったもの。


手放せなかったもの。


順番を変えてでも、残しておきたかったもの。


それが、この場所に引っかかっていた。


このカウンターに。


このグラスに。


この夜に。


「……だから、形になった」


ぽつりと言う。


分かれていた美咲。


重なっていた時間。


あれはすべて、自分の中にあったものだ。


この店は、それを外に出していた。


見える形にしていた。


そして——


選ばせた。


残すのか、


捨てるのか、


それとも繋ぐのか。


「……ずいぶんと、面倒な場所だな」


苦笑する。


だが、嫌ではない。


ここがなければ、


きっと気づけなかった。


あの名前も。


あの時間も。


あの感情も。


もう一度、ドアを見る。


あの男は、もう来ない気がする。


役目は終わった。


そういうことだろう。


必要なときだけ現れて、


終わればいなくなる。


それでいい。


この店も、同じだ。


もう、特別な場所である必要はない。


ただの店に戻ればいい。


それでも——


何もなかった場所には、ならない。


一度でも、形になったものは、


消えない。


グラスを一つ手に取る。


光にかざす。


透明な中に、


ほんのわずかに、何かが残っている気がする。


気のせいかもしれない。


だが、それでいい。


「……続くな」


小さく言う。


静かな夜は、


終わったわけじゃない。


ただ、


形を変えただけだ。


静けさが戻る。


カウンターに手をつく。


ゆっくりと息を吐く。


終わったのか。


それとも、続いているのか。


分からない。


だが、確かなことが一つある。


もう、同じ夜ではない。


時間は、ちゃんと進んでいる。


グラスを片付ける。


水で洗う。


布で拭く。


棚に戻す。


その一つ一つが、確かな動作として残る。


ドアの方を見る。


誰もいない。


だが、ここにあったものは消えていない。


完全に消えることはない。


それでいい。


照明を少し落とす。


店の中が、静かに暗くなる。


外のネオンが、わずかに差し込む。


その光が、グラスに反射する。


小さな揺れ。


だが、今は安定している。


「……」


何も言わない。


ただ、その光を見ている。


時間が流れる。


ゆっくりと、確実に。


この店は、変わらないようでいて、


確かに変わった。


そして、自分も。


それでいい。


ドアの向こうに、また誰かが来るかもしれない。


来ないかもしれない。


どちらでもいい。


ここに立って、


グラスを磨いて、


誰かに一杯出す。


それだけだ。


それだけで、


十分だった。


静かな夜は、続いている。

物語の中のバーのように、

人の記憶や感情は、少しずつ形を変えながら残っていくのかもしれません。


同じ主人公で、また違う夜を書くつもりです。


もしこの空気が気に入っていただけたら、

またふらっと立ち寄ってください。

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