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兄弟

「それで本来は何用で参ったのだ」


「碓氷峠にある熊野大権現の氏子衆に対して、妙な噂を流しておる者がいるようでしてな」


 矢沢は木々の葉が風で揺れる音に耳を立てているようにも見えたが、口調はあっけらかんとしている。この部屋の中に関しては警戒心を解いているということだろう。適度に友好的で、悪くはない徴候である。


 わしは矢沢に尋ねた。


「噂とは?」


 矢沢は馬鹿話をするように、少しおどけて答えた。


「曰く、熊野の神使である八咫烏が戦国の世を憂いて日本武尊の霊魂をお導きになって生まれ変わらせた者がいるとか。そういえば狐に憑かれたとか重い病だとか言われている喝食が東光寺におるそうだが、やたらと早口で、誰も止められないほど気性が荒く、尋常ではないほど碁が強いらしい。あれは只者ではなく、日本武尊の生まれ変わりだとかなんとか」


 八咫烏が導いたかどうかは知らないが、わしが日本武尊ではないことだけは確かである。碓氷の熊野神社の由緒を適当にいじくって、人物を当て嵌めただけの粗末な話だ。それにわしの気性は荒くない。誹謗中傷だ。


「わしは出家した覚えはないのだがな。しかし、狐の次はヤマトタケルとは忙しい」


 わしが苦笑いしていると、矢沢はさらに補足する。


「佐久の氏子衆は神意を確かめる由があるにも拘らず、村上や上杉の軍を招き入れようとは神罰を怖れぬ所業とのことでしてな」


佐久の氏子連中に呼びかけるのなら武田だろうか。


「どこの手の者かは知らんが迷惑な話だ。誰が信じるのだろうか?」


「まあ、俺も信じませんでした。誰も信じてはおらんでしょう。武田の透破が妙な噂を流すことは信濃で屡々あることですからな。それに武田と熊野が深いところで繋がりを持っていることは、山の者であればよく知るところ。そこに都合の良い噂が熊野の者から流れてきた。あまりにも安っぽい遣り口とみえますが、話の出所はそこかと考えます」


 中世熊野は全国各地の熊野神社と『先達』という人々のネットワークによって支えられていた。

先達というのは熊野参詣の旅行代理店のようなことをしていた人々であり、三山に参詣者を送り込む役割はもちろんのこと、添乗員としてガイドのような役目も持って飛び回っている。なので、彼らは各国の事情にたいへん通じていた。


 そして、三山とその周辺を支配している熊野地方の国人には、武田氏の子孫であると名乗る者も多くいた。

推測するに、何らかの形で甲斐武田氏も熊野参詣の歴史に関わっていたのではないか。熊野国人のご先祖様が武田氏であるという話を突き詰めれば、それは極めて怪しいとしか言えない。

にもかかわらず、熊野で武田氏の名がよく使われたということが何を意味するか。

たとえば、本家にあたる甲斐武田氏がその胡散臭い家系図に御墨付を与えることで、この情報ネットワークに接続することができたとも考えられ得る。


 ただし、今回の場合は本当に武田の仕業かはよくわからない。

構図が分かりやすすぎるし、この程度のことで転向するような者たちが信濃で勢力を維持できているとは思えない。

だから流言としては上手くいくはずがなく、意味がない。


「それでも俺がここへ来たのは、東光寺におる虎の子は恐ろしいという旨の文が、兄の真田から投げ込まれたためでございます。たとえ死に別れになるようなことがあったとしても、兄が俺に嘘をつくことはありませぬ。そこで此度、この噂を確かめるために参りました」


 ただ、目の前の一人は転向したようである。

素直に転向したわけではないが、確かに結果としては上手くいっている。


 誰が何のために仕掛けたのかが解けた気がした。


「真田、お前は何を知っている?」


 真田は深く頭を下げて答えた。


「そのような噂を流している者がおるということは承知しておりました。それが弟の耳に必ず入ると考えて調略に使わせて頂きました。某は既にある流言を使っただけで、仕掛けた者は別におるはずです。大峰山から来た修験者という話でしたから、熊野というよりは聖護院の下にいる者ではないかとは思うのですが。」


 わしの機微に関することを使って申し訳ないと思っているらしい。

別に使いたければ使ってもらって構わないのである。が、迷惑のかからない範囲での話にしてほしい。もう少しで大迷惑となるところであった。


「兄貴は知っていて使ったのか。呆れたもんだな」


「連れて来たくなかった理由は一つではないというだけのことだ」


 呆れたと言いながら矢沢は嬉しそうな表情をしている。一方で真田はバツが悪そうだった。

ここにきて真田が調略に自信を持っている理由はよくわかった。コツコツと小さな信用を積み重ね、相手の求めるものを正確に理解し、それにふさわしいモノを与える。このように調略にあたって最も重要なことが単純に上手い。矢沢が求めたものは好奇心の充足で、それを満たしてやったに過ぎないのだろう。


 目の前の兄弟の問題が解決したところで、問題は聖護院の方である。

聖護院の門跡は熊野三山検校という地位も持っていたから、名目上は熊野の支配者ということになる。熊野三山は京から遠い。だから実質的に支配していたのは熊野の国人たちなのだが、修験者については聖護院が指導的な役割を果たし続けていた。

そして現在の聖護院門跡は太閤近衛稙家の弟である道増で……これ以上は推測に推測を重ねるようだったから、思考を打ち切った。


 そのまま後ろに身体を倒して寝転がると、場の空気が緩んだことを察した真田が何気なく言った。


「もう少し探りを入れてみましょうか?」


 迷惑をかけた分の情報は持って来ようという程度のことだろう。あまり成算もなさそうだし、それで揉め事になっても困るなと思った。


「仮に武田の透破が出所であれば困ったことになる。何か目論見があるのなら動きがあるだろうし、それまでは待つとしよう」

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