来訪者
「おまたせ、しました」
声。
聞こえた。声だ。しばらくぶりに聞く、音。
課長はドアを開ける。
そこに立っていたのは若い女だった。
彼女は「おジャマ、します」といって頭を下げた。
課長は何も考えておらず、何も遮らなかった。
その女は空気が部屋に流れ込むようにして入室した。甘い香水の匂いがした。
彼女はかなり若い。未成年かもしれない。
背丈は課長よりほんの少し低い百六十センチあまり。長い黒髪。白い肌。ととのった彫りの深い顔だちで、すっきりと高い鼻が日本人ばなれしていた。
大きな黒い瞳がキラリと光る。ベージュのコートの下にうすいピンク色のワンピースの服を着ている。華奢なのに興奮を誘う「からだ」の存在を感じる。それがすうっと課長の横を通り過ぎた。
課長は、ただ黙っていた。彼女はまた頭を下げて、
「タイヘン、おくれました。ゴメンナサイ・・・」
言葉がぎこちなかった。課長ははじめ、この人は東北から来た美人(東北美人は目鼻立ちがはっきりしたヨーロッパ系の顔つきで、洋服の似合う女性)なのではないかと思ったが、この言葉を聞くと日本人ではないと思った。
そう思ってみると東欧の人に思えた。あるいは東北美人の淵源といわれるユーラシア・コーカサス地方からきた人だろうか。いや、ちがうかな・・・
彼女は部屋の中を少し見まわしてから、意を決したように仕事にとりかかった。コートを脱ぎ、ハンガーにかけた。
椅子にこしかけると、肩かけかばんの中から、乳液やローションの瓶を取り出して、ベッドサイドテーブルの上に置いた。
それから課長のほうを見て、学校の先生にだまって悪戯をした人がいいわけするような照れ笑いをした。そして、ワンピースの胸元のファスナーに手をかけて、ゆっくり下げはじめた。
でも、彼女はせいいっぱい「流れるように」と思ってやっているのだが、その言葉と同じく、どこかぎこちなく、無理があって、ちょっとかなしい感じがあった。
ファスナーがゆっくり引き下げられて、可愛らしくふくらんだ純白のブラジャーが顔をのぞかせたとき、彼女は激しく咳き込んだ。
口に手をあてて、一瞬大きく目をあけて床を見て、それから堅く瞼をとじて体を揺らした。
課長はさっきから映画でも観るように彼女をみていたのだが、われにかえって、きいた。
「なまえは?」
きかれてもしばらく咳が止まらず、答えられなかったが、やっと咳がおさまり、
「マリ」
と驚いたようにいった。急にあどけない少女の顔になった。
「そう・・・」
うなずいて、課長は、「部屋違いだから、帰りなさい」という言葉が胸まで出かかったが、
「君、きれいね」
といってしまった。マリは嬉しそうに笑った。暗かったところに明かりが灯ったようだ。課長は救われるような気分になった。
「わたし、さーびす、がんばります。ちょっとまっててね。ジュンビします」
マリは少し真顔になって、さきほどカバンから出した七つ道具を持ち、バスルームへと向った。歩いていく彼女の白くしなやなふくらはぎが目にやきつき、軽くときめきの目眩がした。
やっぱり、デリバリーなんとかいうやつだと課長は思った。今夜はガンのショックで、まるで夢遊病者としてこのホテルに来たが、さすがにそんなデリバリーを呼んだら覚えている。呼んだ覚えはないと断言できる。これはまちがいデリバリーだ。
「おキャクさん、ステキな、ばすです。こんなのわたしはじめて。でらっくす」
お風呂のほうから、明るく感激した少女の声。また課長は救われる。
「そう?ここ、いいホテルだから」
「はい。とっても。いつもと、おおちがい」
バスルームからは、浴槽にお湯を満たす音がし始めた。その音に負けないように、課長は少し大きな声でいった。
「いつもは、どんなふうなの?」
「ヒサンです」
「悲惨ですか」
「はい。ヒサンです。きたないです。ヒンコンです。いつもの、おキャクもヒサン・ヒンコン。でもあなたは、ヒサンじゃないね」
「それは・・・」
マリのいう悲惨とはどういう意味だろう。課長は言葉に詰まった。
バスルームでお湯の音がとまった。とまると同時に彼女の声がした。
「でも、ヒサンでヒンコンなキャクは、わるいひとではありませんから」
その言葉が終るとき、マリが浴室から姿を現わした。全裸だった。
課長が想像した通り、ぜんたいに華奢なのに、胸やお尻が恰好よく飛び出ている完璧な裸体だった。しかし想像のうえのそれは彫刻のような無機質なものだった。
いま目の前に現われたのは、本物の裸の肉体である。
当然にまるで違う。生きて脈うっており、弾力や、温かみ、香り、心を灯したまなざしがある。そのまなざしが、何かを訴える。
そんなふうに訴えられたら、課長は即座にいってしまいそうだ。
課長は目をむいた。あまりに瞬間的なおのれの欲情に、まったくうちのめされた。
「どうしました?・・・どうぞおいでください」
マリは不思議な動物でも見るような目つきで、課長をあわれむかのように、手招きした。
課長はかたまってしまった。
人見知りの幼児が、笑いかけてくる知らないおじさんを前にして、ナイフ目の表情をこわばらせ、全身を硬直させてしまうのならわかる。
しかし中年の、だいのオトナが、こんなにかたまってしまうとは何としたことだろう。これも肺ガンの影響なのか。
泣き笑いの表情で、「ふふん」と力ない息をもらすのが、裸の彼女を前に課長ができたことのすべてだった。
「おふろ、だめですか?」
マリは心配そうに首をかしげる。
課長は相変わらず意味不明のひきつり笑顔のままだ。
「へへん」
まるで何かを強がっているような、すかし笑いではないか。
「・・・・」
彼女はやがてかなしそうな顔になった。うつむいて、浴室へ帰った。
いけない。
課長は首をふった。何をやっているのだ。
いつもこうだから結局、独身だったのだ。相手は商売女だっていうのに、それでもだめなのだ。いや、しかしやっぱりだめだ。
ちょっと、あまりにも魅力があって、あまりにもいたいけなさすぎる。
気どってるわけじゃない。いや、気どってるのか。
目前の死を理由に欲情に走るのを拒絶するという気どりか?いや、だいいち、この少女はまちがいデリバリーだ。そのことをはっきりしてからでないと。
すると、浴室からの声。
「おキャクさん、わたし、きにいらなかった?」
彼女、落ち込んでしまったじゃないか。課長は焦った。
「あ。いや・・・」
何かいおうとしたが言葉にならない。
「とりかえますか、わたし?」
「そんな・・・」
「・・・・・・」
と、浴室で、大きな音がした。
驚いて課長は「かたまり」の呪縛を解かれ、浴室に走り、あわてて室内をうかがった。
マリが倒れていた。
その顔の小さなバラの蕾のような唇から、赤い液体が細い筋になって流れ出していた。それは大理石タイルの床にしたたり落ち、小さな血の池をつくっていた。
・・・つづく




