生きる・・・
ながくて半年だそうだ。
遠藤女医によれば課長の余命はながくて半年だそうだ。今日みてもらった占い婆さんによれば課長は百五十歳まで生きる。ずいぶん違う。
課長は喫茶店で、漠然と時をすごす。もう夜だった。
無意識のうちにタバコに手がいく。不思議とまだタバコが吸いたくなる。ときどき胸が痛いのに、まだタバコがやめられない。
「タバコが犯人扱いされてるけどね、本当は違うって学説があるの」
遠藤女医の話を思い出した。美しい小顔が喋っていた。
「アメリカの学説。あれだけ禁煙運動して、喫煙率も下がったのに、肺ガンの発生率はいぜんとして右肩あがりなの。タバコと肺ガンの発生に相関がないのよ。で、何と相関が高いと思ったら、自動車の排気ガスなのよ」
診断の死刑宣告をしたあと、彼女は間がもたなくなったのか、そんな話をした。いまさらそんな話して何になる。
それから、余命半年と診断したが、あきらめるべきではない、治る可能性はゼロではない、奇跡に近いがゼロではないと話した。
それは、きっと、彼女が課長にとつぜん恋をするというのと同じくらい低い確率のことなのだと課長は思った。
「とにかく残された人生を、せいいっぱい有意義にやるさ。僕と同じ境遇の人が、世の中にはたくさんいるじゃないか」
課長はそういって元気そうな顔をしてみせた。
まだ、自分が肺ガンだという実感がなかったから、そんなことがいえたのだ。
しかし、ひとりになっての、きのう(土曜日)のそれからは、こころ真っ暗だった。ひどかった。ひどすぎて、もう何も思い出したくない。
夜があけて、心は空洞。やりきれなくなって、今日の日曜日は占い師にすがった。
悪意ではないのだが、でたらめとしか思えない占いをされた。ますます自分がガンだという実感が増した。課長は頭をかかえてうつむいた。
しかし翌日、月曜日。課長は出勤した。休もうかと思ったが、そのまま家にいたら、自殺しそうだったから、出勤した。
課長の会社には、一か月前、まさに肺ガンで亡くなった支店長がいた。
ほんの半年前の人間ドックでは何の異常もなかったのに、胸が痛いと医者にいったら安静にするようにいわれ、そのときはもう手遅れだった。自覚症状が出たらもうだめらしい。
まさか自分がそうなるとは。しかし望みは本当にないのか?
課長の会社にはもう一人、ガン経験者がいた。
こちらは膵臓だが、早期発見のおかげでもちなおし、今は普通に出勤している。元気といってもいいくらいだ。そんなパターンもある。でも肺と膵臓は違うか。
課長も今のところ何でもない。ときどき胸は痛いが。
しかし、自分の身近にガンが二人もいた。自分がガンになっても不思議はないのかもしれない。
デスクにうつむき、仕事しながら、課長はいろいろ考える。
昔みた映画を思い出す。黒澤明の「生きる」。
主人公は胃ガンだった。
偶然に病名を知ってしまい、それから勤務先を無断欠勤し、夜の街をさまよい、悩みに悩んだ行動にでるが、ある少女との出会いがきっかけで仕事にもどり、児童公園の建設という仕事にうちこみ完成させて命をまっとうする話。
あんな風に、仕事でなにかつくる、というのが救われる道か。
ラストシーン。夜。ガンで死にゆく主人公が、雪の降る児童公園で、ひとりブランコにのって「ゴンドラの唄」をうたう、あの有名なラスト。
ああいう最期。
しかし、自分に、あの公園に匹敵する何かがあるか?あんな風にできるか、現実に?
しょせん映画じゃないか。
げんに課長はあの主人公とは違って、無断欠勤もせず、しっかり出勤した。
どういうものか現実の人間である課長は、こうした点は映画とちがって強いのだ。会社に迷惑なんかかけたくない。ここは違う。
でもやっぱり「生きる」みたいにいけないか。
そうだ。入社した直後も、ガンではないが余命いくばくもない調査課長がいたが、死のまぎわまで彼は仕事して調査報告書をまとめた。
現実の人は、そうなのだ、しっかりしている。すごく。
あの人も「生きる」をみていたのかも。会社の身近には、そんな人もいたのだ。
テレビでみたが、ガンと知ってから、非行青少年の補導にいよいよ取り組んだ高校教師もいた。ガンと知ってから、いっそう情熱的に職務をまっとうした校長先生もいた。あの人たちは「生きる」以上ではないか。
たくさん、そんな人たちがいる。課長の肺ガンなど、何というほどの例じゃない。
まず、とにかくまわりに迷惑かけるのはいけない。ガンの人間がそれをまわりに知らせず、急に倒れたりしたら大変な迷惑だ。
事情を話したうえで、余命を仕事に打ち込まさせてもらいたいとお願いしよう。
こんな私でも、まだ使ってもらえるか、おうかがいしよう。
私も映画「生きる」を超える線をめざそう。
そのため、課長はまず上司に自分がガンであることを報告しようとした。
・・・つづく




