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「われわれからの要求は至ってシンプルです」
存在感の強い男だった。
強大な《焔》のエリア支配人の地位にあるこの男が愚物であるはずなどおよそありえなかったが、その落ち着いた声音からは言葉の剣を切り結ぶ交渉の席での切れ味の鋭さを感じない。むしろ相手方を安心させるような穏やかささえ感じられた。
「迂遠な言い回しでいたずらに時間を浪費したくはないもので。国王陛下に対して不敬であることは重々承知の上、あえて直裁に言わせていただきます……『マヌワット』と呼ばれるダイヤモンドの鉱床がどこにあるのか、そのありかをお教えいただけないでしょうか」
この交渉風景を客観視すれば、大人と子供の取るに足らない会話の一シーンでしかなかったであろう。交渉相手との圧倒的な年齢差は、普通ならばまともに交渉する気さえ削がれるレベルのものだったが、《焔》の代理人はそのような気ぶりさえ見せない。
ただその双眸には、夜行の肉食獣が獲物に向けて放つ密やかな殺意がある。
「なんのことかな」
その海千の交渉人さえ戦慄を覚えるような眼光を前に、外見上5歳児に過ぎぬハルミはわずかに笑みさえも浮かべて悠然と足を組みかえた。
「あなた方はルンの王室が守ってきた宝庫を暴き、その財貨をすべて奪い尽くしたのでしょう? ぼくをふくめて王族たちは財産どころか命まで奪われたというのに。これ以上なにを求めようというのですか」
相手の眼差しを掴んで放さず、しれっとそのようなことを言う。
だが李陽文は表情さえ動かさず、汚職まみれの役人と貪婪な資本家がわが世の春を謳歌する彼の国特有の大陸的価値観を持って、過ぎた強欲に対する非難の声をそよ風のように無視した。
「発見した鉱床は、明らかなダミーでした。入念にそれらしくしてはありましたが、そこで採掘されたと思われるダイヤ原石は微量なものでしかなかったと推測されます」
「その鉱山こそが《チベットの奇跡》なんだけど」
「われわれを甘く見ないでもらいたいですね。協力的であった鉱山関係者からすでに証言を得ているのです。…あそこからはほとんどまともにダイヤなど出たこともない、と。…となると、真の《マヌワット鉱山》は別にあったと考えるほかありません。よいですか、ティラカ王」
「だからなにを言ってるのかさっぱり分からないんだけど」
すまし顔のハルミに、我慢しきれなくなったように脇で控えていたダムサカがほとんど恫喝気味に声を荒げた。
「このペテン師王が! きさまが国民を騙してたネタは上がってるんだ! てめえひとりの利益のために鉱山を隠しやがったおかげで、国は破産状態だ! 国民に塗炭の苦しみを味わわせて…」
「…まったく、わけの分からないことを。王家はなにも隠したりなどしてはいないし、今現在国民を困窮の底に叩き落としているのは国家経営にあまりに無策無能なあなたがた革命政府なのではないですか」
「生意気に小理屈を! 革命後の王国がうまくいかないのも、すべてきさまが王家の財宝を不当に隠したからだ! その資産さえあれば我々は…」
「…ちゃんと国家財産を接収できてれば、あなたたちはちゃんとそれを国民のために使ったと言うの? 王族を皆殺しにしてあんたたちがまずやったのは、憲法の改正でも税制の改革でもなんでもない……無茶苦茶な理屈を捏ね回しての国家財産の横領だったってのに。そのなかでもいの一番にチベットの奇跡、国の宝だったマヌワット鉱山を私物化した恥知らずの名が、たしかダムサカとか言わなかったっけ?」
「…くっ!」
「毎年10億ドルを生み出していた鉱山を、わずか10万ドルで買い取るとか、まともな神経じゃないよね。《ダムサカ・マテリアル》だっけ? 資金繰りに火がついて大変らしいけど、たかが10万ドルぽっちの鉱床からたいしたものが出るわけないじゃない。ばっかじゃないの」
絵に描いたような売国奴。
この男はルン王室の行った《教育の無料化》によって山間のまずしい農村から王立タクサ大学に進み、卒業後は太っ腹なルン王室の奨学制度を使ってC国の国営大学に留学した。
この男の成したことは、まさに売国。受けた恩を数倍の仇で返すような恥知らずとそしられるべき行為だった。ルン王室は、おのれの出資金で育て上げた人間にあろうことか皆殺しにされたのだ。
なかなか楽しい嘲弄プレイであったが、ピエロな売国奴がキレて暴発する前に《焔》の代理人によってさりげなく腰を折られてしまう。
「我々は真の《マヌワット鉱山》のありかを探しています。ご協力いただけないと言うのであればいたしかたありません。…アレを持ってこい」
李陽文の目配せを受けて、護衛のひとりが小型の液晶モニターを運んでくる。
その画面には、やや解像度の荒い色あせた映像が映っていた。
その画面の中央、それなりに広そうな部屋のまんなかに、椅子に座らされたうら若い女性がうなだれるように顔を伏せている。そのままでは誰か判然とはしなかったが、すぐに画面外から手が伸ばされ、俯いていた女性の顎をとらえると乱暴に上向かせた。
乱れた前髪から覗いたのは、ハルミたちも良く知る異国の姫君のものだった。
なかなか焦点の合わないうつろな眼差しがおのれを映すカメラへと向けられて、その目に見えぬ先におのれが頼るべき唯一の人物がいると確信したのか絞りだすように叫んだ。
「偽りに耳を傾けませぬよう! このひとたちは偽りに満ちています!」
肺の空気をすべて吐き出したように身体を折った姫君を、監視の無情な手が髪の毛を鷲掴みにして引き上げる。涙で顔をくしゃくしゃにした姫君は、ただひたすらに叫ぶばかりであった。
「陛下! 陛下ぁ!」
耳障りな騒音を嫌ったのか、先に音声が途切れ、ややして映像もブラックアウトする。
ハルミがモニターから目線を戻すと、そこにはしたり顔で頬杖をついている交渉相手の笑みがあった。ハルミは小さく嘆息すると、ほとんど表情を読むことのできない薄い笑みを作った。
「…それで、人質をとった、と」
「人質かどうかはさておき、このたまたま王家の遠縁であったために担ぎだされた平凡な小娘の無事が陛下にとって価値あるものならば、なるべくスムーズに交渉に応じていただけることが『最善』であることをお伝えいたしましょう」
「人質を盾に強請りたかりとは、安いことをするものだね」
「人の時間は有限です。何事も無駄な時間をかけることなく目的を達成することこそ、人生を有効活用する最良の方法だと思うのですが」
「異論を言っても、どうせ受け入れないんでしょ?」
「お互いの利害に関わらぬかぎりにおいては、受け入れることもやぶさかではありませんが、今回かぎりに関してはその通りと申し上げておきましょう」
まったく信用するに足りない交渉相手だった。
さらにたちが悪いのは、ハルミたちが信用しないことなど当たり前とでもいうように、相手が吹っ切れてしまっていることだった。
状況を静かに観察していたミユウが、ハルミの耳元で小さくささやく。
「予定時間になりました」
こちらも負けじと動じない人間ばかりである。
「いつなりと、ご指示を」
「そう……もう少し付き合ってあげてもよかったんだけど」
小さな主従が耳打ちし合っているのを眺めていた李陽文が、言葉の内容を聞き咎めて身じろぎしたそのとき。
静かに控えていたクロードの手が、さっとテーブル上の灰皿を引っつかんでいた。
まさに一瞬の出来事だった
警戒していたはずの警護たちがきれいに虚を突かれて一様に硬直した。そのわずか数瞬のあいだに、投げ放たれたガラスの灰皿は壁際の非常ベルへと見事に命中していた。
「なにを…ッ!」
けたたましい警報が廃墟のうつろに殷々とこだました。
「ティラカ王! どういうつもりで…」
訳の分からない場の混乱に李陽文が声を荒げるのにも頓着せず、ハルミはテーブルの茶菓子にのんびりと手を伸ばした。
さすがは巨大資本の幹部が食べる茶菓子である。どこぞの名店から取り寄せたに違いない焼き菓子は口当たりもしっとりとしてなかなかの味である。
「あなたも、食べます?」
菓子を皿ごと差し出されて、李陽文の表情が険しく顰められる。
「…ああ失礼。もしかしてダイエット中ですか」
構わずぽりぽりと2枚目をかじりだすハルミを、李陽文は返す言葉もなくただ食い入るように見守るばかり。明らかな嘲弄に感情を乱さないのはさすが《焔》の幹部である。
警報装置が作動したということは、これだけの大きさの建物であるから緊急の連絡が外部にも発されたことであろう。いずれ付近の消防車が大挙して押し寄せてくるに違いない。それまでに何分の時間が残されているだろうか。
「さあ、ここから攻守交替かな…」
鳴り響く警報の音でほとんど聞き取れないぐらいの小声で、ハルミはひそとつぶやいた。




