表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「完結済み」「もう用済みだ」と捨てられた毒見役令嬢ですが、私の記録簿なしでは王宮が回らないようですよ  作者: 夢見叶
第8章 主席記録官就任、誓いの追記

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

45/48

第45話 式典まで、あと7日

 廊下の壁に貼り出された予定札を見た瞬間、胃の中身が冷えた気がした。


「7日です」


クラウスが事務的な声でそう言い、砂時計を裏返した。さらさら、と砂が落ちる音が、耳の奥でやけに大きく響く。


「就任式典が六日後。婚約登録の手続き締め切りが、その前日。本日中に神殿の登録窓口へ赴き、必要書類の確認を終えてください」


彼の手の中には、朱字でびっしりと書き込まれた羊皮紙があった。その右端に、ひときわ太い朱の字で「7」と書かれている。見間違えようがない。期日だ。


「……以上です」


 クラウスは砂時計から目を離さないまま、僅かに眉根を寄せた。胃薬の小瓶が、上着のポケットからこぼれそうになっている。彼は気づいていないようだった。


 私は予定札をもう一度見上げ、視線をそらした。



 神殿の正面窓口は、思ったより静かな場所だった。


 高い天井、白い漆喰の壁、祈祷紐がひとつだけ掛けられた柱。受付台には年配の神官が一人、無表情で書類を並べている。革の匂いと、乾いた石の冷気が混ざり合って、肺の底まで降りてくる。


 レオンハルトが先に一歩踏み込んだ。私は半歩遅れてついていった。


「登録に必要なものは3点です」


神官が指を折った。


「当主の同意書、神殿立会いの証明印、そして登録簿への直筆署名。婚約者双方の紋章札と、指輪の提示が要ります」


 紋章札。指輪。


 私の手が、知らず膝の前で固まった。


「用紙をお渡しします。名前の欄から記入してください」


 受付台に白い用紙が置かれた。


 名前の欄、と神官は言った。たった一行。でも私はそこで、ペンを持ったまま、止まってしまった。


 書けば、読まれる。


 これは毒見役の記録とは違う。秘密の帳面ではない。神殿の登録簿に入れば、誰でも閲覧できる公的な記録になる。私の名前が、私の意志で、そこに刻まれる。


 ……それが、怖かった。


 また切り捨てられる前触れではないかと、五年間の傷がざわりと動いた。「不要」と言われた夜のことを、体がまだ覚えている。


「セレーナ」


 低い声が、耳元に落ちた。


 振り返ると、レオンハルトが少し屈んで私の顔を見ていた。手袋を外そうとして、途中で止めている。その指先が、かすかに迷っているように見えた。


「急がなくていい」


「……でも、期限が」


「期限は動かない。だから、今ここで急がなくていい」


 矛盾しているのに、不思議と腹が立たなかった。


「婚約は……私の自由を奪いませんか」


 声に出してから、少し後悔した。こんな場所で聞くことではないかもしれない。神官が隣にいる。受付台の用紙が白いまま待っている。


 でも彼は眉一本動かさなかった。


「奪うためじゃない。——守る権利を、君に渡す」


 短い言葉だった。説明がなかった。それなのに、胸の奥の固いものが、少しだけゆるんだ。


 私はペンを握り直した。


 自分の名前を、一画ずつ丁寧に書いた。紙の角を揃えるみたいに、乱れないように。名前が完成したとき、手は震えていなかった。


 ——震えなかったことを、今夜、帳面に書こうと思った。



 宰相邸に戻ると、ミレイユがすでに部屋の前で待っていた。


「お帰りなさいませ。式典用の衣装は定時に仕上げます」


 彼女は真顔だった。誇らしげとも言いがたい、しかし確かに少しだけ胸を張った表情で。


 廊下の奥からクラウスの声が聞こえた。


「そこだけは誇らしげに言うな」


「……お茶の支度をします」


 ミレイユは聞こえなかったふりをして、くるりと踵を返した。その背中が微妙に得意げだったのは、見なかったことにした。


 私は机の前に座り、今日の手順をもう一度頭の中で整理した。名前を書いた。署名した。それだけのことなのに、体が少し重い。


「……セレーナさま」


 ミレイユがお茶を置きながら、ごく静かに言った。


「定時内に泣いてください」


 真顔だった。


「泣くつもりは」


「念のため、申し上げています。五時以降は私も居られませんので」


 湯気が、ゆっくり天井へ消えていく。温かい匂いが鼻に届いた。


 私は少し考えてから、言った。


「……ありがとう」


 ミレイユは答えなかった。ただ一度、ゆっくりと瞬きをして、部屋を出ていった。



 夜になった。


 レオンハルトが小さな箱を持って居間に現れたのは、時計が九時を回った頃だった。


 黒い革張りの、掌に収まる箱。彼はそれをテーブルに置き、ふたを開けなかった。


「指輪だ」


「……はい」


「開けなくていい。今日は、あるということだけ確認しておきたかった」


 彼は椅子を引いて、私の向かいに座った。テーブルの上の箱を見て、それから私を見た。


「書けたか」


 今日の登録用紙の話だとわかった。


「書けました」


「そうか」


 彼が少し表情を緩めた。笑うのとは違う。眉のあたりが、一段だけやわらかくなった。


「形が怖いのはわかる」


 私は何も言わなかった。


「形は、縛るためにある、と思うだろう」


「……思っていました。以前は」


「今は?」


 私は箱を見た。ふたは閉じたままだ。中身は見えない。でも、そこにあることはわかる。


「今は、まだ——少しだけ怖い。でも……」


 言葉が途中で止まった。ちゃんと形にできなかった。


 レオンハルトは待った。急かさなかった。扉の前で止まる彼の癖みたいに、言葉の前で静かに止まっていた。


「守られる、ということの……重さを、まだ量り切れていないんだと思います」


「量り切れなくていい」


 彼は箱のふたを閉じた。指でそっとなぞるように。


「7日、ある。急がない」


 でも砂時計は今も落ちている。私はそれを知っていた。彼も知っているはずだった。それでも彼は「急がない」と言う。期限を盾にしないために。


 私が守られる権利を受け取るまで、待つために。


 机の上の帳面が目に入った。新しい革の匂いがした。今日の最初の一行を、まだ書いていない。


 名前を書いた、とだけ書こうかと思った。でも、それだけでは足りない気がした。


 もう少し正直なことを、書いてもいいかもしれない。



 翌朝、神殿から使いが来た。


 クラウスが受け取り、小さく頷いて戻ってきた。その手の中の封書を渡されたとき、私はまだ朝の帳面を閉じていなかった。


「神官からです」


 開くと、一行だけだった。


 筆跡は細く、温度がなかった。


「明日までに——宣誓文の**空欄**を決めなさい」


 宣誓文。空欄。


 私は封書を持ったまま、固まった。宣誓文に空欄がある、ということを、私は今朝まで知らなかった。


読んでいただき、ありがとうございます。


よければブックマーク・評価・いいねなどしていただけるととても嬉しく思います。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ