第45話 式典まで、あと7日
廊下の壁に貼り出された予定札を見た瞬間、胃の中身が冷えた気がした。
「7日です」
クラウスが事務的な声でそう言い、砂時計を裏返した。さらさら、と砂が落ちる音が、耳の奥でやけに大きく響く。
「就任式典が六日後。婚約登録の手続き締め切りが、その前日。本日中に神殿の登録窓口へ赴き、必要書類の確認を終えてください」
彼の手の中には、朱字でびっしりと書き込まれた羊皮紙があった。その右端に、ひときわ太い朱の字で「7」と書かれている。見間違えようがない。期日だ。
「……以上です」
クラウスは砂時計から目を離さないまま、僅かに眉根を寄せた。胃薬の小瓶が、上着のポケットからこぼれそうになっている。彼は気づいていないようだった。
私は予定札をもう一度見上げ、視線をそらした。
神殿の正面窓口は、思ったより静かな場所だった。
高い天井、白い漆喰の壁、祈祷紐がひとつだけ掛けられた柱。受付台には年配の神官が一人、無表情で書類を並べている。革の匂いと、乾いた石の冷気が混ざり合って、肺の底まで降りてくる。
レオンハルトが先に一歩踏み込んだ。私は半歩遅れてついていった。
「登録に必要なものは3点です」
神官が指を折った。
「当主の同意書、神殿立会いの証明印、そして登録簿への直筆署名。婚約者双方の紋章札と、指輪の提示が要ります」
紋章札。指輪。
私の手が、知らず膝の前で固まった。
「用紙をお渡しします。名前の欄から記入してください」
受付台に白い用紙が置かれた。
名前の欄、と神官は言った。たった一行。でも私はそこで、ペンを持ったまま、止まってしまった。
書けば、読まれる。
これは毒見役の記録とは違う。秘密の帳面ではない。神殿の登録簿に入れば、誰でも閲覧できる公的な記録になる。私の名前が、私の意志で、そこに刻まれる。
……それが、怖かった。
また切り捨てられる前触れではないかと、五年間の傷がざわりと動いた。「不要」と言われた夜のことを、体がまだ覚えている。
「セレーナ」
低い声が、耳元に落ちた。
振り返ると、レオンハルトが少し屈んで私の顔を見ていた。手袋を外そうとして、途中で止めている。その指先が、かすかに迷っているように見えた。
「急がなくていい」
「……でも、期限が」
「期限は動かない。だから、今ここで急がなくていい」
矛盾しているのに、不思議と腹が立たなかった。
「婚約は……私の自由を奪いませんか」
声に出してから、少し後悔した。こんな場所で聞くことではないかもしれない。神官が隣にいる。受付台の用紙が白いまま待っている。
でも彼は眉一本動かさなかった。
「奪うためじゃない。——守る権利を、君に渡す」
短い言葉だった。説明がなかった。それなのに、胸の奥の固いものが、少しだけゆるんだ。
私はペンを握り直した。
自分の名前を、一画ずつ丁寧に書いた。紙の角を揃えるみたいに、乱れないように。名前が完成したとき、手は震えていなかった。
——震えなかったことを、今夜、帳面に書こうと思った。
宰相邸に戻ると、ミレイユがすでに部屋の前で待っていた。
「お帰りなさいませ。式典用の衣装は定時に仕上げます」
彼女は真顔だった。誇らしげとも言いがたい、しかし確かに少しだけ胸を張った表情で。
廊下の奥からクラウスの声が聞こえた。
「そこだけは誇らしげに言うな」
「……お茶の支度をします」
ミレイユは聞こえなかったふりをして、くるりと踵を返した。その背中が微妙に得意げだったのは、見なかったことにした。
私は机の前に座り、今日の手順をもう一度頭の中で整理した。名前を書いた。署名した。それだけのことなのに、体が少し重い。
「……セレーナさま」
ミレイユがお茶を置きながら、ごく静かに言った。
「定時内に泣いてください」
真顔だった。
「泣くつもりは」
「念のため、申し上げています。五時以降は私も居られませんので」
湯気が、ゆっくり天井へ消えていく。温かい匂いが鼻に届いた。
私は少し考えてから、言った。
「……ありがとう」
ミレイユは答えなかった。ただ一度、ゆっくりと瞬きをして、部屋を出ていった。
夜になった。
レオンハルトが小さな箱を持って居間に現れたのは、時計が九時を回った頃だった。
黒い革張りの、掌に収まる箱。彼はそれをテーブルに置き、ふたを開けなかった。
「指輪だ」
「……はい」
「開けなくていい。今日は、あるということだけ確認しておきたかった」
彼は椅子を引いて、私の向かいに座った。テーブルの上の箱を見て、それから私を見た。
「書けたか」
今日の登録用紙の話だとわかった。
「書けました」
「そうか」
彼が少し表情を緩めた。笑うのとは違う。眉のあたりが、一段だけやわらかくなった。
「形が怖いのはわかる」
私は何も言わなかった。
「形は、縛るためにある、と思うだろう」
「……思っていました。以前は」
「今は?」
私は箱を見た。ふたは閉じたままだ。中身は見えない。でも、そこにあることはわかる。
「今は、まだ——少しだけ怖い。でも……」
言葉が途中で止まった。ちゃんと形にできなかった。
レオンハルトは待った。急かさなかった。扉の前で止まる彼の癖みたいに、言葉の前で静かに止まっていた。
「守られる、ということの……重さを、まだ量り切れていないんだと思います」
「量り切れなくていい」
彼は箱のふたを閉じた。指でそっとなぞるように。
「7日、ある。急がない」
でも砂時計は今も落ちている。私はそれを知っていた。彼も知っているはずだった。それでも彼は「急がない」と言う。期限を盾にしないために。
私が守られる権利を受け取るまで、待つために。
机の上の帳面が目に入った。新しい革の匂いがした。今日の最初の一行を、まだ書いていない。
名前を書いた、とだけ書こうかと思った。でも、それだけでは足りない気がした。
もう少し正直なことを、書いてもいいかもしれない。
翌朝、神殿から使いが来た。
クラウスが受け取り、小さく頷いて戻ってきた。その手の中の封書を渡されたとき、私はまだ朝の帳面を閉じていなかった。
「神官からです」
開くと、一行だけだった。
筆跡は細く、温度がなかった。
「明日までに——宣誓文の**空欄**を決めなさい」
宣誓文。空欄。
私は封書を持ったまま、固まった。宣誓文に空欄がある、ということを、私は今朝まで知らなかった。
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