第44話 提出すれば読まれる世界へ
記録局の提出棚には、奥がない。
正確には、差し込み口の向こうに引き出し機構があって、書類を入れた瞬間から向こう側へ運ばれる仕組みになっている。差し込み口の幅は手のひら2枚分。提出印を押してもらい、用紙を棚に滑らせれば、それで終わりだ。取り戻すことは、できない。読まれる。誰かの目が触れる。そういう場所だと、今朝初めて実感した。
「セレーナさん。用意はよろしいですか」
隣でクラウスが言う。胃薬の小瓶が左手に握られているのが見えたが、指摘する余裕は今の私にもない。
提出用紙の角を3度、揃えた。封蝋を押す前に一呼吸する癖がここでも出て、クラウスが静かに待っていてくれているのが気配でわかる。紙の端に「提出記録・主席記録官付属書類」と印字されているのを目でなぞる。これが棚の向こうへ消えたら、もう私の手には戻らない。
それでも。
「……提出します」
差し込み口に用紙を押し込む。薄い紙が棚の暗がりに吸い込まれていく感触は、思ったより呆気なかった。木の棚板がわずかに鳴って、それだけで終わった。手のひらだけが少し冷たい。
読まれる。今この瞬間から、誰かの目に触れる。
5年間、私が書き続けた毒の記録は宮廷の奥に封じられていた。読む人間は限られ、私の名前は書類の隅にしかなかった。でもこれからは違う。提出した瞬間、記録は私の手を離れて誰かのものになる。それが怖いのか、あるいは——必要なことなのか。
恐怖と、それと同じくらいの何か。うまく名前がつかないまま、私は棚の前で立っていた。
「失礼します」
廊下の端から靴音が来たのは、そのときだった。低く、均一な、儀礼用の歩き方だ。封蝋の付いた書簡を両手に持ち、硬い笑みの男が廊下の中央に立った。
「母国より、正式な面会要求をお伝えに参りました」
胃の裏が冷たくなった。母国。あの場所の封蝋の色は私が一番よく知っている。5年間、あの色の書類を見るたびに毒の量を確認していた。腕の内側に、今はもう薄くなった痕がある。
クラウスが用紙ではなく胃薬を鞄にしまいながら、使節の前に一歩出た。
「拝受します。——ただし、外交儀礼の規定に従い、相手方の準備期間を要します」
使節の笑みが少し固まった。
「準備、とは」
「当方の担当官を指定し、日程を封緘所経由で調整します。それが規定です」
儀礼です、とクラウスが静かに言った。胃薬を鞄にしまった手がわずかに白い。でも声は揺れていない。喉の奥がきっと痛いはずなのに、この人はそういうことを顔に出さない。
使節が書簡の封蝋を爪で撫でた。低い、硬い音がした。
「彼女は母国の——」
「私は、私の記録でここに立っています」
声が出たのは、自分でも驚いた。足が一歩、前に出ていた。クラウスの隣。棚の前でも廊下の隅でもなく、まっすぐ使節の方向へ。
自分の声がどこか遠くに聞こえた。でも止まらなかった。
「あなたのお伝えは、封緘所経由でお願いします。——それが規定です」
使節の靴音が止まった。書簡を持つ手が一瞬だけ固まり、それから封蝋をもう一度だけ指で撫でた。長い沈黙のあと、彼は頭を傾け、回れ右をして廊下を戻っていった。
靴音が遠ざかって、廊下が静かになってから、クラウスがようやく胃薬を飲んだ。小瓶を傾けて、ひとつ。嚥下する音がした。
「……お見事でした」
「胃薬、隠せていませんでしたよ」
「儀礼です」
何の儀礼なのかは聞かなかった。隣でクラウスが砂時計を取り出してひっくり返す音がした。予定の管理か、それとも別の何かか。
応接間の扉が開いたのは、それから5分後だった。
レオンハルトが立っていた。書類を片手に、私とクラウスを一瞬見て、廊下の奥——使節が消えた方向——を視線で一度だけ追った。それだけだったが、扉を開けなかったことを知っている、という意味がその目にあった。
「——今日の礼は、こちらが決める」
低い声が廊下に落ちた。命令の形をしているが、問いかけの形もしていた。扉の内側から、今日のことを聞いていた。私が一歩前に出たことも、声が出たことも。
耳の奥が少し熱くなった。私はうなずいた。それだけで、彼の目の温度がわずかに変わった気がした。
扉は開けない。こちらが決める。
面会要求は、屈辱の知らせではなかった。外交儀礼に乗せれば、押し戻せる。拒否は攻撃ではなく、防御だった。今日まで知らなかったことを、私はこの廊下で初めて掴んだ。
自分が一歩前に出たことを、まだ信じられない気持ちがある。でも足は確かにそこに動いた。声も出た。後から来る震えはあったが、それは私がここにいるという証拠でもある。記録局の棚に書類を押し込んだ時と同じだ。手放すのが怖い、でも手放さなければ届かない場所がある。
夕刻、記録局の戻り廊下で封筒を1通受け取った。封緘所の印が押されている。薄い紙で、中身は透けない。手紙は読めない。でも、封緘所経由なら「記録として提出すれば通る」という経路があると、クラウスが帰り際に補足した。
読まれる、と怖かった。でも、形を正しく整えれば通せる道がある。提出する恐怖と、通す手段が、今日はじめて同じ手のひらの上に乗った気がした。
封筒の端に目が止まった。朱字で小さく書いてある。
——7日。
婚約登録の期日、とクラウスが短く言った。それだけ言って、彼は胃薬の瓶を鞄にしまい直した。
夜、新しい帳面を開いた。
居間の燭台に火が入って、机の上に橙色の円が落ちている。帳面の表紙は革の匂いがした。革の匂いにだけ敏感な自分の鼻が、今日も正直に機能している。
備考欄に今日のことを一行だけ書く。毒の記録ではない。でも、怖さを含んだまま前に進んだ日のことは残したい。ペン先を紙に当てて、一呼吸。
「提出した。棚の向こうは見えない。——それでも、手は震えなかった」
書いてから、封筒の朱字をもう一度だけ指先で押さえた。7日。指先が紙の端で止まる。七日後に何が来るのか。来るものの形をまだ私は知らないが、今日の廊下で掴んだものが消えないうちに、七日は動く。
机の隅に、まだ開封していない封書が1通ある。記録局の封蝋が押されていた。後で読もうと思っていたのを、今夜だけ先に開ける気になった。
紙を取り出す。本文は短く、最後に追伸が一行だけあった。
議長の筆跡は細く、薄い。けれどその一行だけは、他の字より少し強く押されていた。
——主席記録官の宣誓文に、誓いの追記を求む。
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