第43話 新しい帳面に何を残す
昨夜、勝ったはずだった。
少なくとも書類の上では、そう書いてある。王太子の陰謀を記録で防ぎ、宰相府に保護された事実は覆らない。廊下の先に朝の光が差し込んで、私の足元を金色に塗り替えている。なのに、膝が笑いそうになるのはどういうわけなのか。
「——足が、震えている?」
呟いた声が思ったより大きくて、廊下の端で書類を抱えていたクラウスが視線を上げた。
「おはようございます、セレーナさん。記録局からの書状が届いています」
封蝋の色が宰相府のものではない。深い臙脂に、記録局の提出印が押されていた。重なった封蝋と印章を見た瞬間、胃の裏側が冷たくなる。
読まれる世界だ、と思う。書いたものが、提出して、読まれる。私が五年間書き続けた毒の記録は宮廷の奥に封じられていたが、これからは違う。書状の裏面に「主席記録官就任打診」の文字があるのを確認した途端、足の震えが少しひどくなった。
「……承知しました」
受け取って、一呼吸。封蝋を破る前に人差し指で角を揃える癖は、どこまでいってもなくなりそうにない。
記録局の入口は、宰相府と廊下でつながっている。書状の中身は一ページ半で、要点は3行だった。就任、宣誓式典、提出印の手続き。下にクラウスの補足が鉛筆で入っており、「日程は調整済」とだけあった。
「おめでとうございます、という顔ではないですね」
クラウスが言い方を選ばずに言う。私は書状の角をまた揃えてしまいながら、どう返すか迷った。
「おめでとう……は、そうなんだと思います。でも」
「でも?」
「提出すれば、読まれますよね」
クラウスが一瞬だけ黙った。それから砂時計を逆さにするように紙束を裏返し、「そういう仕事ですから」と答えた。間違っていないが、慰めにもなっていない。正確さがときどきナイフに変わる人だ。
返す言葉が見つからないまま、私は執務室へ向かった。
机の上に、白い帳面が一冊あった。
誰が置いたのか。表紙に名前はなく、革の匂いだけがした。新しい。まだ何も染みていない、完全な白。
椅子を引いて座り、表紙を開く。第一頁が目に飛び込んだ瞬間、手が止まった。
止まった。何年もかけて積み上げた動体視力も、毒の種類を一瞬で判別する集中力も、今この白紙の前では完全に役に立たない。胃の中が静かに重くなる感覚をこらえながら、ペンを取ろうとして、やめた。
「……起きない方が、怖い」
自分でも気づかなかった本音が、声になって落ちた。毒の記録は怖くなかった。何かが起きたから書くのだ。死に物狂いで書けば、少なくとも自分は「いた」という証拠になる。でも白紙は違う。何も起きていないことの証拠ではなく、私がいない時間の形をしていた。
正確には——何も起きない日が来るとは、まだ信じられないのだ。
「セレーナさん」
ミレイユが入ってきた。手に椀を持っている。湯気が真っ直ぐ立ち上っていて、今の私には少しまぶしいくらいだった。
「……まだ五時ですが」
「承知し——いえ、今日は……」
二人同時に黙った。ミレイユが碗を机に置き、小さく咳払いをして退出した。碗の湯気だけが、静かに揺れている。
夕刻、居間に戻ると、レオンハルトがいた。
珍しい。彼が先に居間にいることは、滅多にない。向かいの椅子の背にゆったりともたれ、何かを持っていた。薄く細長い、箱だ。
「今朝の書状は見た」
座るよりも先に言われて、私は立ったままになった。
「おめでとうございます、と言うべきですか」
「答えなくていい。座れ」
短い。でも拒絶ではない。彼の言葉は不思議なことに、削られているほど刃が丸い。腰を下ろして初めて、彼の持っていたものがよく見えた。
革の匂いがした。
表紙の色は深い茶で、角が綺麗に揃っている。まだ何も書いていない、白紙の帳面。
「——これは、君のための記録だ」
静かに差し出された。受け取れないまま、私は彼の手の位置を見つめた。
「君の記録は、毒だけじゃない」
少し間があった。居間の窓の外で風が動いて、カーテンの端がわずかに揺れる。
「——生きた日付だ」
その言葉が、どこかに当たった。うまく言えない。でも、毒でも命令でもない何かを記録しても許されるかもしれない、という感覚が、薄皮一枚だけめくれた気がした。
帳面を受け取る。革の表紙が指先に冷たい。
手が、震えていなかった。
それだけで今日は十分だと思いながら、第一頁を開く。真白な一行目が、じっと待っている。
主席記録官の最初の一行は——毒でも、命令でもなくていいの?
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