第21話 「国の物」は、私の命より重い?
草案の写しが宰相府の外へ出た。
クラウスがそれだけ言って扉を閉めた。室内の空気がそのまま固まって、誰も動かなかった。レオンハルトの「君は——」が途中で止まったまま天井に張りついていた。私は帳面を腕の内側に押しつけた。手のひらに汗が出ていた。革の温度が、やけに確かだった。
写しが出た。
私たちが作っていた盾の設計図が、外へ漏れた。これが何を意味するかは、書記官でない私にでも分かった。誰かが、この部屋の中で起きていることを、すでに外側へ送っている。
翌朝、使者が来た。
応接間の扉が開いた時、ハインツは護衛を2人連れていた。昨日と同じ厚い手袋。昨日と同じ封蝋の指。ただ目の冷たさが、一段階上がっていた。
「正式な回答を頂こう」
返還か、引き渡しか。どちらかを選べという語尾だった。選択肢という形をしているが、実質は命令だった。私はテーブルの横に立ったまま動かなかった。レオンハルトが私の左隣にいた。後ろではなく、隣だった。
「国の物だ」
ハインツが言った。そこで止まった。それだけで全部済むという確信の止め方だった。
呼吸が浅くなるのを感じた。5年間聞き続けた言葉の重さが、別の声で来た。国の物。だから返せ。お前には関係ない。お前は入れ物だ。言葉が変わっても芯は同じだった。膝の後ろが少し揺れた。揺れたが、引かなかった。
昨日の夜、決めたことがあった。
私は帳面を机に置かなかった。代わりに、抽斗から出していた領収の束を、両手で机に置いた。音がした。小さい音だったが、紙の重さが空気に触れた瞬間、ハインツの視線がそこへ動いた。
「これは私が自費で購入したものです」
声は平らだった。自分でも意外なほど、平らだった。
「書材店の購入控え。インクの控え。帳面の購入証書。日付と金額と店名が全て一致しています。公的機関への届出の形跡もない。所有権の帰属を主張されるなら、それを覆す根拠を先にお示しください」
ハインツが眉の動きだけで私を見た。答えなかった。答えられなかったのか、答えない選択をしたのか、私には分からなかった。でも沈黙は、「国の物だ」より軽かった。
「雇用関係について確認する」
レオンハルトが口を開いた。声に感情がなかった。ないからこそ、重かった。
「セレーナ・ヴォルマーは現在、当府の毒見役兼秘書官として雇用されている。母国における役職は解任済みだ」
「解任後も帳面を所持していた。それは——」
「解任の時点で雇用は終了する。終了した職務の命令は本人に及ばない」
ハインツが口を止めた。
「帳面が解任以前の記録を含むとしても、解任以降の継続は私的記録だ。公的拘束力は消えている。返還を求めるなら、その法的根拠を文書で提示するよう要請する」
鎖が外れる音は聞こえなかった。でも確かに、何かが外れた。
「……機密指定の書類については」
「機密であるなら、所有権の証明が必要になる。機密と私物が重なる場合、帰属はいずれかへ確定していなければ動かせない。その確定を先にどうぞ」
ハインツが封蝋を指で押し直す動作をした。圧の形をした時間稼ぎだった。返す言葉がなかった。機密という言葉が、黙らせる刃だと思っていたはずが、逆に立証責任を生む言葉になった。沈黙が部屋に落ちた。
「クラウス」
レオンハルトが短く言った。
「証人は私です」
クラウスが即答した。書類の角を揃えながら、目を上げて言った。それから声を少し落として、
「……胃が痛いですが」
と続けた。ハインツには聞こえなかったかもしれない。私には聞こえた。笑えない場面なのに、喉の奥で何かが一瞬だけほどけた。
廊下に出た時、足が重かった。
重いのは疲れではなかった。震えが来ていた。指先から始まって、手首まで上がってくる、細かい震え。応接間では出なかった。出なかったから、廊下で来た。泣きたい気持ちはなかった。泣く理由が分からなかった。ただ体が、何かを吐き出したがっていた。
拳を作った。指先を握り潰すように折り畳んで、爪が手のひらに当たるところで止めた。
命より重いなら、どうして私を捨てたんですか。
喉の奥に言葉があった。ハインツに向ける言葉ではなかった。5年間、膳の隣にいた男へ向ける言葉だった。国の物を守るために私を使い続けて、不要になったら捨てた。なのに今、その国の物を取り戻しに来る。
帳面を、帳面ではなく私ごと取り戻しに来る。
拳の中で震えが止まった。止まったのではなく、押し込めた。
レオンハルトの声が頭の中で繰り返した。解任の時点で雇用は終了する。鎖が消えた瞬間だった。終わった鎖は、誰にも巻き直せない。分かっていた。分かっていて、震えが来た。
治療室の前で、レオンハルトが待っていた。
書類は持っていなかった。手袋のままだった。外していなかった。
「……大丈夫ですか」
声が来た。問いではなかった。確認だった。私は一拍置いて、「大丈夫です」と答えた。口癖だった。口から出る前に止めようとしたが、間に合わなかった。
レオンハルトが私を見ていた。答えを聞いていなかった。聞いた上で、信じなかった。その目が、大丈夫ではないと知っている目だった。
「君は捨てられていない」
低い声だった。
「——今、私がそうさせない」
手袋の指先が、ドアノブの横で止まった。触れたかった。触れる理由がなかった。誓約文はまだ書き終わっていない。意思の一致の欄には、まだ何も書かれていない。距離は条文が決める。触れたいという感情は、条文より先に動いていけない。
その条文が、昨日から引っかかっていた。
旧式の押印規定。誓約文に適用される、古い書式の縛り方。昨日クラウスが広げた時、封蝋の形と重なった。二重線の縁。時代遅れの型を今でも適用する、その重さ。なぜこの規定はまだ生きているのか。誰かにとって、生かしておく理由があるのか。
問いが頭の中に来た時、ドアが開いた。レオンハルトが先に入った。私は後を追いながら、手袋を外す音がしないことに気づいた。
外さないと本音が出ない。
外さなかった。まだ、言葉を探していた。
誓約文の空白が、頭の後ろで光っていた。意思の一致。その一行のために必要な言葉が、この部屋のどこかに浮いていて、まだ紙の上に降りてこない。
この条文の縛り方は——誰の都合で、今もここにある。
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