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「完結済み」「もう用済みだ」と捨てられた毒見役令嬢ですが、私の記録簿なしでは王宮が回らないようですよ  作者: 夢見叶
第4章 帰国命令、帳面を奪いに来た

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第20話 隣に立つ背中が、強すぎる

 明朝、帳面を奪いに来る。


 その1文が夜を越えてもまだ腹の底にある。昨夜揃えた領収の束は抽斗に入れた。帳面は今朝も腕の内側にある。奪われたくなければ逃げるのではなく根拠を作る。昨夜の結論はそれだったはずなのに、廊下を歩いていると靴音が妙に大きく聞こえた。足が重い。呼吸が浅い。自覚してから、少しだけ丁寧に息を吸った。


「セレーナ」


 声が前から来た瞬間、1歩退いていた。


 また体が先に動いた。5年間の癖がまだ生きていた。声が来れば引く、圧が来れば小さくなる、そういう動きを体が覚えている。覚えているということは、忘れていなかったということだ。気づいた瞬間、胸の中で静かに何かが焦げた。


 レオンハルトが廊下に立っていた。書類を片手に、黒手袋の指先が壁の縁に軽く触れていた。こちらを見ていた。退いた1歩を、見ていた。


「後ろではなく——隣」


 低く、短い言葉だった。


 言いながら彼が動いた。私の1歩分だけ横に空けて、廊下を歩き始めた。後ろに控えるなということだった。横に並べということだった。私は一拍遅れて足を合わせた。


 視線の高さが、近かった。昨日応接間でテーブルを挟んでいた距離とは全く違う重さが、横から来た。廊下の石壁の冷たさが遠くなって、彼の気配の方が近くなった。


 逃げ場がない、と思った。心の、が。声には出さなかった。



 執務机にクラウスが書類を広げていた。法的根拠の要求文の骨格が罫線に引かれていて、証人欄の横に胃薬の小瓶が静かに置いてあった。この人間は机の上でさえ戦っているらしかった。


「購入証書、使用記録の継続性、公的機関への届出がないこと。この3点で柱を立てます」


 紙の角を揃えながら言った。揃えないと喋れない人間だった。私は領収の束を机に出した。音は立てなかった。けれど紙の重さが机に落ちた瞬間、クラウスの指の動きが一瞬だけ止まった。


「揃っています」


 短い言葉だった。驚きではなく、安堵の短さだった。


 誓約文の書式が横に並んでいた。罫線と空白の欄。証人の署名欄、条文の番号、浄化の回数と距離に関する条件。それから下の方に、まだ何も書かれていない1行があった。意思の一致と記された欄だった。


 視線がそこで止まった。


 言葉が必要な欄だった。言葉は、まだ形がなかった。


 ペンを取って、余白の端に何か書こうとした。気づいたら止めていた。書きかけたのは文字ではなかった。丸い輪郭。月に近い形を、指が描こうとしていた。


 折り目を入れて、端を隠した。クラウスが目を上げなかったことに、少し感謝した。



 昼の食堂でミレイユが椅子を引いた。お茶を置きながら、置き方より言葉の方が先に来た。


「今日の閣下、すごかったですよ。回廊でセレーナさんの隣に立ったまま執務まで歩いて」


「……はい」


「宰相閣下の背中が強すぎると、壁が要りませんね。セレーナさんの後ろに誰も立てない感じで」


 咳き込んだ。


 お茶を一口飲もうとしたところだったので最悪だった。ミレイユが背中を叩いた。容赦がなかった。


「大丈夫ですか」


「……大丈夫です」


「顔が赤いですよ」


「熱いお茶を飲んだので」


「砂が1粒も落ちていませんが」


 ミレイユが砂時計を机に置いた。置いてから満足そうな顔をした。


「5時です。言いかけは、明日」


 何も言いかけていなかった。でも何かが顔に出ていたのは否定できなかった。



 夕方、クラウスが誓約文を持って治療室に入ってきた。


「古い書式との照合が残っています。押印規定の確認箇所があって」


 書式を机に広げた。私はその横に立った。条文が細かく並んでいた。浄化の回数制限、距離の条件、違反の定義。それから——照合箇所と言っていた部分を目が追った時、指先が止まった。


 承認に際しては旧式の押印規定を適用する、と1行にあった。


 旧式の押印。


 昨夜書き留めた封蝋の形が、頭の中で重なった。二重の縁。古い型を重ねた痕。その縛り方の重さと、この条文の重さが同じ感触だった。誰の都合でこの規定はまだここにあるのか、という問いが頭の中に来た。でも声には出なかった。


「セレーナ」


 名前だった。肩書ではなかった。


 手袋を外す音がした。引き出しに置かれる微かな音。外す時だけ、本音が出ると気づいたのはいつだっただろうか。


 レオンハルトが書式を見ながら、けれど声だけをこちらへ向けて言った。


「契約は——冷たいものじゃない」


 一拍あった。


「触れていい、理由になる」


 声が低かった。こちらを向いてはいなかった。でも言葉は、まっすぐ来た。


 胸の中で何かが一枚、静かにひっくり返った。契約は形式だと思っていた。距離を決めるものだと思っていた。その形式が、近づくための根拠にもなる。触れることへの意思を、言葉にするための場所にもなる。


 私は何も言えなかった。言葉が形になる前に、別の何かが出そうになった。


「君は——」


 扉が叩かれた。


「失礼します」


 クラウスの声だった。少し間があって扉が開いた。眼鏡の縁に手を当てたまま室内に立って、声に温度がなかった。


「草案の写しが1枚」


 室内の空気が静止した。


「——宰相府の外へ、出ました」


読んでいただき、ありがとうございます。


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