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「完結済み」「もう用済みだ」と捨てられた毒見役令嬢ですが、私の記録簿なしでは王宮が回らないようですよ  作者: 夢見叶
第3章 返還要求の前触れ――噂が走る

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第13話 私がいない朝の混乱

 スープから湯気が上がっていた。


 匙を手に持ったまま、私は止まっていた。白い器の縁、淡い肌色の液体、浮かぶ野菜の切り口――見ていたのは毒じゃない。でも手が止まった。癖が5年分、指に刻まれている。香りを嗅ぐ前に確認する。口に運ぶ前に一拍、待つ。誰も命じていないのに体が従う。


「毒見しない朝は、まず食べる訓練です」


 ミレイユが向かいに座って、真顔で言った。表情に揶揄はなかった。ただ事実を述べているだけの顔だった。帳面を手渡すように、私の前に匙を押しつける。


「……大丈夫です」


「大丈夫かどうかは、食べてから判断してください」


 言い負かされた形になった。私は匙を口に運んだ。塩気が舌に馴染んだ。毒は、ない。当たり前だった。


 朝が、宰相邸では普通に回っている。それだけのことが、今日は少し奇妙な重さで胸に残った。


  


 執務室に向かう廊下で、クラウスが待っていた。


 いつもより書類の束が薄かった。追加の報告を持てないほど、一枚だけを抱えている。眉間の皺が深かった。声が出る前から内容が分かった。


「急使からです。今朝方、届きました」


 受け取って読んだ。3行ほどの要旨だった。


 母国の厨房が機能していない。担当を3人失い、朝の配膳が1時間遅れた。薬師団でも引き継ぎ不備が表面化し、院内で口論になっている。


 読み返した。もう一度読んだ。


 5年間、私が記録し、確認し、動かし続けた場所が、私のいない朝に軋んでいる。その事実が頭に落ちてきた時、最初に来たのは痛快さではなかった。


「……私がいないだけで、朝が壊れるんですね」


 言葉は自然に出た。感慨というより確認だった。


「はい」


 クラウスが答えた。余計なことは付け加えなかった。それで十分だった。


 私は書面を返した。紙の端を揃えて彼に渡した。指先が、一瞬だけ止まった。


 末尾に、記号が一つあった。受領印の写しだ。宰相府に届いたことを示す形式のもの。意味自体は普通だった。ただ――この書式の押し方が、宰相府の手順に合わせた形になっていた。母国の急使が、なぜこの押し方を知っているのか。


 気になったが、言葉にならなかった。書面はもうクラウスの手にある。


  


 執務室では、レオンハルトが窓の外を見ていた。


 私たちが入っても振り向かなかった。手袋の縫い目を親指で静かに撫でている。押さえている時に出る癖だった。私はその癖を、いつの間にか覚えていた。


「母国の厨房が止まったという件ですが」


 クラウスが要旨を読み上げた。レオンハルトは最後まで聞いて、それから窓から視線を外した。


「返還要求は来る」


 断言だった。柔らかさが一粒もない声だった。


 私の肩が、小さく動いた。跳ねた、というほどではない。でも動いた。


「……それは」


「混乱の原因を外に押し出す時、人は理由を探す。一番都合のいい理由は——不在の者だ」


 彼が言葉を続けた。


「母国が混乱している事実は、こちらには関係がない。だが彼らにとっては誰かのせいにしなければ収まらない。そのための書面が来る」


 クラウスが静かに頷いた。胃薬の小瓶が袖から見えた。


 私は帳面を手に持ったまま立っていた。


 母国の朝が壊れた。それは私が不在だからだ。不在の理由は解任で、解任した側が混乱に責任を持つべきだ。筋道としては単純だった。でも今から来るのは、その筋道ではなく「セレーナが帳面を持ち去った」という話になる。記録がないせいで、記録した者がいなくなったせいで、と言われる。


「……私がいないことが、責任に変わるんですか」


 問いになっていた。声が少し低かった。


「壊れたのは朝じゃない」


 レオンハルトが言った。


「——君を不要と言えた神経だ」


 一呼吸、間があった。


 その言葉が意味を持つのに少し時間がかかった。不要と言った側の判断が、今になって綻んでいる。当たり前のことを彼は言っていた。でも私の中で、その言葉が動いた。


「記録しろ」


 彼が続けた。


「今日の報告は全部、帳面に入れておけ。返還要求への対応は、この数日の経緯から始まる」


 クラウスが一礼した。私も頷いた。


  


 自室に戻ったのは、昼を過ぎた頃だった。


 帳面を机に置いた。革表紙の角を指で揃えた。落ち着くはずだった。この動作はいつも落ち着いた。


 落ち着かなかった。


 必要とされている、と今朝の急使は言った。正確にはそうは書いていないが、意味はそうだった。私がいなければ朝が回らない。私の記録がなければ業務が滞る。


 必要。


 その言葉が今日、胸のどこかに刺さった形で残っている。


 5年前も、そう言われた。君の記録は必要だ、と。毒見役は必要だ、と。そして「不要だ」の一語で全部を終わらせた。必要は、回収の言葉だった。必要だから置く。必要がなくなれば捨てる。今また必要とされているなら、それは「取り上げに来る前段」に過ぎない。


 革表紙が手に馴染んでいた。


 この帳面には、5年分の記録が入っている。私が自費で買い、私が書いた。公の記録庫には出していない。出す場所がなかった。機密だと言われたこともあるが、機密の手続きなど誰もしなかった。だからこれは私物だ。


 指先が冷えた。


 必要とされる。それが今度は「渡せ」に変わる。帳面だけじゃない。この場所ごと、この記録ごと、私の足ごと連れ戻す話になる。今朝の急使の末尾にあった受領印の写し、あの押し方が頭に戻ってきた。宰相府の書式を模した、あの形。


 誰が、ここの手順を知っているのか。


 帳面を開いた。新しいページの端に、日付と要旨を書き始めた。手が冷たかった。それでも書いた。


 記録は事実だ。事実だけが、後で形になる。今は書く。それだけだった。


読んでいただき、ありがとうございます。


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