第12話 会議が来る――準備が間に合わない
母国側の原本が、3枚足りなかった。
会議準備室の机の上に、書類の束が積まれている。割印の跡が端に並ぶ外交形式の表紙、アルヴァス側の署名が揃った一式――それなのに、束を開くたびに同じ番号に行き着く。3番、8番、12番。母国の手続き局が発行するはずの、共有書式の原本が、そこだけ抜け落ちている。
それが分かった瞬間から、部屋の空気が変わった。
「欠番です」
クラウスが、書類の角を爪で叩きながら言った。痩せた指先が3枚分の空白を指す。咳払いが一つ出た。
「……念のため確認しましたが、受領印も控えも存在しません。母国側の提出が、最初から欠けています」
レオンハルトは答えなかった。机の向かいで両手を組み、その3か所の空白を見ていた。手袋の縫い目を親指が静かに撫でている。いつもの癖だ。押さえている時に出る。
私は隣で束を持ったまま、指先が止まっていた。
足りない。たったそれだけのことなのに、頭の中が変な音を立てていた。こちらの手続きに問題があるのか。それとも、発行元である母国側が――
「この書式の発行元は、母国側ですね」
口から先に言葉が出た。
「そうだ」
レオンハルトが静かに答えた。
「では、原本が足りないのは――母国側の提出漏れ、ということになりますか」
クラウスが咳払いをもう一度した。返事の代わりだった。
そうか。こちらの失点ではない。発行義務のある側が出していない。原本主義で言えば、不備はあちら側にある。
その事実が頭の中に落ちてきた瞬間、束の重さが変わった気がした。足りないという言葉が、責める刃ではなく、誰かに向かって跳ね返る爆弾に見えた。
30分後、使者が来た。
クラウスが扉を開ける前から、廊下に足音が聞こえていた。速い。息が乱れている。泥跳ねのブーツの音だ。国境から急いできた足だ。
書面を差し出された。封緘が雑だった。表の文字が、強い筆圧で押してある。封の跡を指先でなぞると、かすかに甘い匂いがした。
「……原本を提出せよ、と書いてあります」
クラウスが淡々と読み上げた。声に感情がなかった。それが逆に、内容の重さを正確に届けてきた。
「会議まで2日。期日内に提出のない場合、当該書式の権利を無効とする旨、通告する」
使者は書面を机に置くと、質問を許さず向きを変えた。伝えた、という事実だけを手に入れて退こうとしている。顔色が悪かった。視線が泳いでいた。責任を降ろしたいだけの顔だと、私にも分かった。
「少々」
レオンハルトの声が、静かに使者の背に落ちた。
「発行元の確認は、取れているか」
使者の足が止まった。肩が上がった。
「……私は、知りません」
それだけ言って、出ていった。封筒を握り潰した跡が、机の上に残った。
沈黙が落ちた。
クラウスが書類の角を爪で叩き、止めた。レオンハルトは手袋の縫い目から視線を上げなかった。
私は書面を見ていた。強い筆圧の文字が、こちらを責めているように見える。でも発行漏れはあちら側にある。原本が足りないのは、こちらではない。こちらの束は全部揃っている。
なのに、なぜ足が一歩、後ろに下がりそうになるのか。
「定時まで、あと30分です」
ミレイユが砂時計を持って入ってきたのは、その直後だった。部屋の空気が少し動いた。クラウスが書類の角から目を上げた。砂時計がくるりと返される音がした。
「……束の整理は」
「定時までに束ねます」
全員が一瞬、止まった。会議2日前、書面一枚届いた直後に、「定時までに」という言葉が真顔で出てくる。部屋の緊張が奇妙な均衡に落ち着いた。
クラウスだけが小さく頷いた。
廊下に出たのは、砂が落ち切った後だった。
気づいた時には、私は一歩下がっていた。後退していた。書面のせいではない、気がした。「原本を提出せよ」という文字が来た瞬間に、体が先に動いていた。また命令が来た。またこちらへ責任が飛んでくる。足がそれを知っていた。
レオンハルトが、一歩前に出た。
それだけだった。大きな動きではない。でも廊下の幅の中で、その一歩は私と書面の間に入る形になった。遮るつもりではなかったかもしれない。ただ前に出た。彼の背中が視界に入った。
「足りないのは紙じゃない」
声が低かった。廊下の光の中で、平坦に落ちた。
「――責任の方だ」
私は帳面を抱え直した。
正しい。原本が足りないのは母国側だ。発行漏れはあちらの怠慢だ。それを「期日までに提出せよ」と言って期限だけこちらに届けてくる。形だけ作って、穴を埋めないまま。
足りないという言葉が今日初めて、こちらを責めるものではなく、あちらを暴くものに見えた。
自室に戻って、机の上に帳面を置いた。
領収が挟んである。自費で買った時の紙袋の紐が、表紙の端に引っかかっている。自分の金で、自分で店で選んで買った。私物の印だ。誰かに命じられた帳面ではない。
書面の文字が頭の中で繰り返した。原本を提出せよ。
渡さない、という言葉が最初に浮かんだ。意地のある形の言葉だった。でも、それは正確ではない。
私は帳面を閉じた。
渡せない。
「渡さない」は拒絶で、「渡せない」は事実だ。この帳面は私の私物で、私の5年間で、誰かに移せるものが一枚も入っていない。移せないものは、移せないと言うべきだ。記録係として、それは正確さの問題だった。意地ではなく、言葉の選択だった。
紐の端を指先で持った。紙袋の素朴な手触りが残った。
2日後に会議が来る。原本が足りないのはあちら側で、書面だけはこちらに届いていて、私には渡せないものがある。それは今日、はっきりした。
私は帳面を開いた。新しい頁の端に、ペンを当てた。何を書くか、まだ決まっていなかった。決まっていなかったけれど、書こうとしている手が止まらなかった。
翌朝、クラウスが準備室に入ってきた時の顔が、いつもより白かった。胃薬の小瓶を上着のポケットに押し込みながら、ためらいなく言った。
「……返還要求の使者が、国境を越えたと報せが入りました」
会議まで、2日。
その場に来るのは「原本」ではなく、返還要求を携えた使者だった。
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