第11話 触れる指先が、言葉より先に
同意書の日付欄に、今朝の文字が入っていた。
昨夜クラウスが置いていったものだ。インクが乾くのを確かめてから持ってきた。「治療者と被治療者の双方の意思を確認の上、施術を行う」。その一文を読んだ時、手の中の紙が急に重さを持った気がした。意思の確認、という言葉がこんなに重いとは、書く前は知らなかった。
外では急使の残した書面が処理されているはずだ。原本を提出せよ。会議まで1日。昨夜のレオンハルトの顔が、まぶたの裏に残っている。それでも今日の治療は枠として入っている。制度として。手続きとして。
枠があるということは、今日ここへ来ていい理由がある、ということだ。
そう思いながら、治療室の扉を開けた。
レオンハルトはすでに椅子に座っていた。手袋を外しているところだった。黒い布が机の端に置かれ、指先が出た。古傷の白い線が光の中で見える。いつ見ても思う。隠さなければいけなかった場所があったのだ、と。
「今朝、書いてきました」
同意書を差し出した。日付の字が少し固い。緊張があった証拠だ。
彼が受け取り、一読した。ページを捲る指先が、手袋なしのせいでわずかに赤かった。呪毒を抱えたまま過ごした朝の体温か、とふと思った。
「……確認した」
昨日より静かだった。急使が来た後の夜を越えて、この部屋だけ速さが止まっている。窓から光が差している。それだけのことが、奇妙なほど落ち着く。
椅子に向かい合って座った。昨夜と同じ位置に指を当てると、すぐに熱が来た。
線になるような熱だった。私の指から彼の皮膚へ。あるいはその逆か。どちらかはわからないが、昨夜より深かった。指先が痺れるのではなく、手のひら全体に広がる感覚。
レオンハルトの眉が、少し動いた。
昨夜は動かなかった。今日は動いた。それだけのことで、息が一瞬、止まりそうになった。
「……軽くなる」
低い声だった。
私は指を離さなかった。離してはいけない気がした。指を当てている間だけ何かが緩む人間がいる。その間は続けなければいけない。5年間、膳の前に立ち続けた時と同じ感覚で、そう思った。
でも今は違う、とも思った。あの頃は役に立たなければという重さで立っていた。今は、離したくないから離さない。
「……痛みが、私の指に来ている気がします。昨日より、深く」
「来ていい」
間がなかった。
「——君が逃げないなら、私は言葉を探す」
喉の奥が動いた。探す、というのは今は持っていないということだ。言葉を探すと言う人間は、今は言えない状態にある。それが何なのかは分からない。ただ、逃げない、という条件付きで何かが保留されていることだけはわかった。
扉を叩く音がした。
「失礼します」
クラウスが入ってきた。証人の署名欄が空いた書類を1枚、手に持っている。治療の時刻と手順の記録様式。書類の角を爪で叩きながら、証人として、その場に立った。場を硬くするつもりのない顔で、十分に硬くした。
私は指を離した。レオンハルトが袖を戻した。クラウスが咳払いを一つした。
「……念のため、証人が要ります。規則です」
部屋が止まった。
同意書が初めて出てきた昨夜、私は冷たいと思った。触れている瞬間に書類が来ると、制度の重さが全部に被さる気がした。
でも今日は違うことを思った。
手続きがある。だから、触れていい。
レオンハルトが昨夜言っていた。「手続きがある、ということは——触れていい理由が、残ります」。制度が枠を作り、枠の中に今日の時間がある。枠があるから来られた。来られたから、指を当てられた。冷たいのではなく、手続きは、ここへ来ていい根拠だった。
クラウスが署名して退室した。胃薬の小瓶を机の端に置いて、足音もなく。
廊下に出ると、夕暮れ前の光が窓から差していた。
レオンハルトが隣を歩いていた。手袋は戻っていた。黒い縫い目を親指で撫でながら歩く、あの癖が出ている。廊下の途中で、彼が立ち止まった。口が開いた。私も止まった。
……口が、閉じた。
縫い目を撫でる指先が一瞬止まり、また動いた。壁の外を風が通ったのか、カーテンの端が揺れた。
私は帳面を出した。それしか出来なかった。
ページを開いた。書こうとして、止まった。ペンの先端が余白の端に触れた。
〔月〕
書いた。書いて、線で消した。2重に引いた。消えた字が透けていた。
「……今日の治療は、終わりです」
彼が静かに言った。
「はい」
また口が開いた。
「必要だ——」
その一語が、喉で止まった。
廊下の光が、揺れた。
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