22話 試練〈ロジェリオ視点〉
今日僕は、約二十年の月日を過ごしたライブリー侯爵家から出て行くことになる。今日から、ライブリーの名を名乗ることも出来なくなる。
僕に残された名前は『ロジェリオ』ただそれだけだ。
片手で足りるだけの荷物を持ち、使用人たちからの見送りなく家を出る。
名残を禁じ得ずライブリーの邸宅を振り返れば、思わずやるせない思いが込み上げてくる。
「っ……」
このままここに居ては、離愁の念が増幅され立ち去り難くなってしまう。
――もう行こう。
未練を断ち切るように邸宅に背を向け、一歩踏み出す。また一歩、また一歩と歩みを進める。
「ロジェリオっ……!」
歩み出した僕の背後から、聞き馴染みのある声が僕の名を呼んだ。ハッと振り返ると、その人物は僕の方へと駆け寄ってきた。
「父上……」
「ロジェリオっ……」
普段走ることの無い父上は、軽く息を切らしている。そんな父上の姿に、胸がギュッと締め付けられる。もう、見ていられないと思った。
「父上……今までお世話になりました」
「っ……!」
「見送りは結構です。それでは、お元気で」
騎士たるもの、安易に泣くものではない。残された最後の矜持に縋るように、僕は心を押し殺して父上に背を向けた。
一歩踏み出すたびに、先程よりもずっと足取りが重く感じる。するとそんな僕の耳に、父上の喉から絞り出したような低く重い声が届いた。
「お前が私とジュリーの子であることには変わりない」
その言葉に、僕の足は思わず歩みを止めた。そして、再び父上に振り返る。
すると、ジッと真っ直ぐに僕を見つめる双眸が僕を射貫いた。
「ロジェリオ。お前は変われる力を持っているはずだ。堅実に、懸命に生きろ」
そう告げると、父上は僕の返事を聞くでもなく身を翻し邸宅へと戻っていった。
父上が戻った邸宅に再び視線を向けると、ふと二階の窓に人影があることに気付く。
ハンカチを手に持ち、目元にあてながらこちらを見つめる女性。母上だった。
失態を犯し、家門の顔に泥を塗ってしまった。そんな僕の去り際を、両親たちはそれぞれの形で見送ってくれている。
そのことに気付いた僕は、張り裂けそうなほど痛む胸を抱え、邸宅に向かって一礼し救貧院へと向かった。
その道のりは、長く遠いものに感じられた。
◇◇◇
「よくいらっしゃいました」
救貧院に着くと、院長が僕のことを出迎えてくれた。だが、院長以外の人物は誰も見当たらない。
普段は当たり前のように人がいるからこそ、どうしていないのかと思わず疑問が生じる。
「院長、他の方々はどちらにいらっしゃるのですか?」
「ああ、皆にロジェリオ様を紹介するため、大広間に集めているんです。今からご案内しましょう」
そう告げると、虫の一匹も殺せなそうなほど柔和な様子の院長は、僕の先に立ち案内を始めた。そして、大広間までの道のりにある施設について紹介してくれた。
「こちらは、食堂になっております。そして、こちらが畑です」
「かなり大きな畑ですね」
「そうなんです。援助だけに依存することは出来ませんから、自分たちでもこうして野菜を育てているのです。自給自足の勉強です」
そう告げると、院長は育てている野菜について紹介をしてくれた。
リディから道徳心に欠ける人もいると聞いていただけに、僕は内心院長の穏やかさに拍子抜けしていた。
ああ、ここは穏やかな救貧院なんだと思ったのだ。
だが、それは僕の間違いだったとすぐに気付くことになった。
「こちらに皆が揃っております。まずは私が、ロジェリオ様のことをご紹介しますので、その後ご自身で挨拶をしてくださいね」
そう告げたかと思えば、院長はすぐに大広間の中へと入って行った。僕も院長に続くように足を踏み入れる。
刹那、ゾッとするほど殺気を孕んだ何個もの視線が僕を射貫いた。だが、院長はその様子に気付いていないのか気付かないふりをしているのか、笑顔で僕の紹介を始めた。
「皆さん、こちらは今日から剣術指南のためにお越しになった、ロジェリオ様です。騎士爵も得られた実力ある、非常に素晴らしい剣術の持ち主です。今日からより専門的な知識を――」
ドスっ!
院長が僕を紹介している途中、かなり強い衝撃が胸に走った。そして間もなく、顔にも同じ衝撃が走り視界が真っ赤に染まった。
自身に起った現象に頭が追い付かず、視界を確保すべく慌てて顔面を拭えば、強い酸を感じる異臭が鼻腔に充満した。
その矢先、鋭い痛みが身体に走った。それも一回だけではなく、何回もだ。
――何が起こってる?
混乱する中、とりあえず顔面を拭った自身の手を見る。すると、その手には熟れ過ぎたのか、もしくは腐った状態のトマトらしきものが付着していた。
そのまま足元に視線を落とせば、周辺に石が散らばっている。それに気付いたのとほぼ同時に、標的である僕から外れたのか「痛い!」と隣に立つ院長が声を上げた。
「皆さん! 何をなさるのです! 食べ物や石は人に向かって投げるものではないでしょう!?」
温厚そうな院長が少し怒った様子で、集まった人々に諭すような声をかける。すると、その中のある一人の男性が嘲笑をあげた。
「何がおかしいのですか?」
「おかしいのはあんたの方だろ、院長? 何をなさるのです、何がおかしいのですだって? これはこっちの台詞だよ。頭大丈夫か?」
そう告げると男は、嘲るような表情を鬼の形相に変えた。そして、その表情と合わせると脅威すら感じかねない程の怒鳴り声をあげた。
「リディア様を貶めた野郎から、何で俺らが剣術を教わらなきゃなんねーんだよ!」
「そうだそうだ! ふざけんなよ。俺らを馬鹿にしてんのか!? ああ!?」
「義理人情も無い、女一人も守れない、それどころか傷付けることしかできない。そんな奴から騎士道を学べってか? 冗談も大概にしとけよっ……」
「帰れ! ああ、でもお前……廃嫡されたんだよな? じゃあ、先生なんて大層な役割なんて担わず、死ぬまでずっと大人しくしとけ」
広間に集まった男たちから発せられる、止まりそうもない数々の罵詈雑言。収集が付きそうもない彼らのその言動に、院長は困り果てた様子でいる。
だが、その状況に終止符を打った男が居た。
「黙れ」
たった三音のその言葉で、皆がピタと口を閉ざした。シーンと聞こえそうなほど、当たりは一気に静けさを取り戻す。
すると、屈強な体つきの厳めしい形相のその男性は、静まりを確認した後に言葉を続けた。
「この男が気に食わないのは俺も同じだ。だが、この男をここに派遣したのはリディア様だ」
この言葉に周りの人々も「それは……」と言葉を漏らす。
「俺はこの男から剣術を学ぶ。手段は選んでらんねえんだよ。……騎士になるには」
男がそう告げると、周囲は動揺したようにどよめき始めた。すると、その内の一人が声を荒らげた。最初に怒鳴り声をあげた人物だった。
「イゴールさん、あんた何言ってんだ? こいつはリディア様を貶めたやつだぜ?」
「だが、この男を遣わせたのもリディア様だ」
「っ……こいつのせいで、リディア様は死んでたかもしれねーんだぞ? 本当にそんな男から、剣術を学ぶってのか?」
「ああ、そうだ。リディア様は死んでいないから問題ないだろう。それに、お前らが剣術を学びたいとリディア様に言ったんじゃないか」
「っ……だけどこういうことじゃないだろ! 見損なったぜ……イゴールさん。リーダーのあんたがそんな奴とは思ってなかったよ」
そう言い放つと、その男は僕を一瞥してすぐに視線を外し怒った様子で部屋から出ていった。それに続くように、何人も部屋から出て行く。
最後の退室者だったある男に至っては、僕に寄って来るなり顔面に向かって唾を飛ばして、ケラケラと笑いながらそのままこの部屋を後にした。
結果、最終的に大広間に残ったのはイゴールと呼ばれる男を含む、たったの三人だけだった。
◇◇◇
――まさか、ここまで道徳観が欠落しているとはっ……。
今日の昼間に会った出来事を思い出し、新たな自宅でギリッと歯を噛み強く拳を握る。
院長は平謝りだったが、院長が悪いわけではない。
ただ、僕はこれからどうやって剣術指南を行っていけばよいのかと、苛立ちと悩みを共に抱えていた。
――何で僕がこんな目にっ……?
ここまでの事をする必要はあるのか!?
そんな思いが込み上げる。
だがそう思った瞬間、ふと執事長のアルフォンスにかけられた言葉が脳裏を過ぎった。
「そうだ、これは自業自得だ。一瞬でもこんな考えが頭を過ぎるなんてっ……」
そう独り言ち、僕は今日の彼らの言動を振り返った。
すると皆の発言の根底には、リディア様を傷付けたから許せないという彼らの気持ちがあることに気付いた。
自分たちの恩人を傷付けた人間。そんな奴から習いたかった剣術を教わるのは、彼らの矜持が許さないのだろう。
僕を拒絶する態度も、ある意味一本筋が通っていて納得だ。
だがその中でも、残った三人は僕を拒絶しなかった。それは間違いなく、剣術を学びたいという気持ちがあるからこそだろう。
ならば、僕は彼らのために全力で任務を果たそう。彼らが賭けてくれた望みに、応える働きをしなければならない。
そして、僕を拒絶する人たちを決して恨んではいけない。
徐々に信頼を取り戻していくんだ。
そんな決意を新たに、僕は激しい洗礼により乱された心の整理をつけながら長い夜を明かした。




