18.殺意と崩れゆく心
芳醇な香りと共に、暖かな湯気が僕の目の前で立ち上っている。高級な牛肉を筆頭に、椎茸、青菜、玉ねぎ、白滝、人参、豆腐等の具材が大きな土鍋でグツグツと煮える様子はまさに圧巻。少なくとも一人暮らしである僕にはなかなかお目にかかることがない贅沢な光景が、僕の部屋のテーブルの上で展開されていた。
だが、残念ながら現在の僕はそんな豪華な晩餐を前にしても、全く気分が乗らなかった。寧ろ食材と、わざわざ土鍋やカセットコンロまで持参して部屋を訪ねてきた人物に呆れたような視線を僕は向けていた。
「……なんで鍋?」
頬をひくつかせながら言う僕に、目の前の男はあっはっはと笑いながら僕に受け皿を渡す。
「いやな、久しぶりに会ったら何か痩せてたからさ。まぁ、しがない公務員の安月給で買った肉と野菜たちだが、遠慮することはない。食べなさいな」
「……叔父さん、本音は?」
「いや、もうさ。マジ猟奇殺人犯、捕まらねーんだわこれが。捕まるのはいっつも仏さんとは無関係の第一発見者。上にはどやされるし、現場ではコキ使われるし、鑑識の古い知り合いは失踪するし……もう何か豪華な肉でパァーッとやらなきゃやってらんねぇんだよ」
「猟奇殺人を追ってるのに肉を食える辺り剛の者だよね。大輔叔父さんは」
僕がバカにしたように笑うと、その男。小野大輔……通称大輔叔父さんは、軽く肩を竦めながら鍋の中の肉を突っつく。
「伊達に何年も刑事やってないからな。もうこれくらいじゃ胃には何にも影響ないのよな」
疲れたように話す大輔叔父さんを、僕は黙って見つめる。ため息をつきながら語るその姿は、ドラマに出てくる刑事のようで、なんとも哀愁を誘うように思う。……いや、実際に本物の刑事さんであるのだが。
「猟奇殺人事件って……実際犯人とかについて、どれくらいわかってるの?」
「……ん? 何だ? 気になってるのか?」
椎茸や人参を口に運びながら、僕は兼ねてからの疑問を聞いてみる。大輔叔父さんが訝しげな表情をするので、「ほら、あんなことがあって事情聴取を受けたから、やっぱり気になって……」と、僕が言うと、大輔叔父さんは納得したように頷いた。
「正直、あそこまで派手な殺し方をしてるのに、なんの証拠も残してないってのが恐ろしいよ。事の発端は、重機による殺人事件と、行方不明になっていた女子高生の変死体なんだがな……」
そこまで言って叔父さんは何故か言葉を切り、僕を見つめる。
「飯中にする話じゃないぞ?」
「実はまだお腹空いてないし……僕は鍋の具をじっくり煮込む派なんだ」
僕の返答にああそうかいと、再び頷くと、叔父さんは話を続ける。
「今のところ、この猟奇殺人事件の被害者と思われているのは、お前が見つけた犠牲者を含めて現在六人。だが、この六人のうち、最初の二人。この二人だけ、手口……いや、違うな。他の四件の犠牲者との共通点が無いんだ」
あっ、共通点てのは接点とかじゃなくて、殺害方法のことな。と、叔父さんは付け加えてから、懐から煙草を六本取り出してテーブルの上に広げると、そのうち二本を摘まみ上げる。
「一人目の被害者は、岡田信吾三十七歳。建設会社の作業員として勤務していたんだが、その会社が受け持つ作業現場で発見された。死因は重機による轢死。第一発見者は、工事現場に忍び込んで遊んでいた小学生だったんだが……死体は見るも無惨な程ペシャンコでな。あんまり教育上宜しくない光景だった」
小さな音を立てて叔父さんの手の中の一本の煙草が握り潰され、テーブルに落ちる。
「で、二人目の被害者は、米原侑子十七歳。都内の女子高に通う学生だったんだが、死体で発見される数日前から塾に行ったっきり行方不明になっていてな。捜索願いが出されていたんだが……」
叔父さんはそこで沈黙し、苦々しげな表情を見せる。
「発見したのはとある居酒屋の店主でな。現場は酷い有り様だった。ニュースじゃ内臓全部が持ち去られたなんて報道されてたんだがな。ありゃ、大分ソフトな言い回しだったよ。あの死体は何らかの生物に補食された後のような惨状だった」
「補食って……内臓とか全部食べられちゃったってこと?」
「ああ、現場を見た誰もがそう思っただろうさ。だが、冷静に考えれば、ライオンのような猛獣でも連れて来ない限り、人間の内臓を全て喰い尽くすなんて芸当は不可能だ。仮に連れてきたとしたら、何らかの痕跡を残してしまうのは避けられない。だというのに、現場は不自然な程にそういったものは皆無だった。現状、獣に食い散らかされたかのように見せかけて殺した。が、一番現実的なんだが……」
もう一本の煙草を爪でガリガリ傷付けながら叔父さんはぼやく。
「路地裏でそんな手間のかかる殺し方して、更に脳を含めた内臓を全部持っていくなんざ、正直な話、不可能だ。他の六つの殺人全てが残虐だったが、その中でも、この女子高生の事件は特に群を抜いている上、妙に異質さを感じるんだ。余りにも不可解というか、不気味だから、鑑識の知り合いは幽霊か怪物にでも襲われたんじゃないか? なんて言い出す始末だ」
「へ、へぇ……怪物、ね……」
参るぜ。と、頭を掻く叔父さん。それをを見る僕は傍から見ればきっと微妙な表情をしている事だろう。
目の前で鍋が泡立つような音を立てながら沸騰している。叔父さんに促されるまま、僕は鍋から白滝を掬い出し、ゆっくりと咀嚼した。
「他の死体も酷いもんだった。四肢が切断され、達磨でも飾るみたいにとある大学の中庭に安置されていた三人目の犠牲者、三人目の犠牲者の四肢が周りに置かれて……魔方陣か何かのつもりだったのかね? 自分の首を抱えた状態のまま、河原のど真ん中で見つかった四人目の犠牲者。身体中のパーツを細かく分解され、路上にぶち撒かれていた五人目の犠牲者。そして……」
「六人目。全裸で右側の腹部をごっそり削ぎとられた上で、ジャングルジムにまるで磔にされたかのようにして死んでいた、純也の部屋の隣人さん。……僕が、見つけた。」
自然と顔が強張る。あの衝撃的な光景は、何度も夢に出てくる程だった。出来ることなら忘れてしまいたいのだが、そうそう簡単に頭の中から消し去るのは難しそうだ。
「でも、これ、同じ人の犯行なの? 何かこんな言い方は変だけど、一貫性がないというか……」
僕がふと思った事を述べると、叔父さんは折られたり、潰されたり、捻られたりした煙草をいそいそと片付けながら、ああ……と、意味ありげに頷いた。
同じように折れた煙草がある辺り、煙草六本を被害者達に準えて説明するのは途中で挫折したらしい。今はどうでもいい事だが。
「一貫性がないように感じるかもしれんが、実はそうでもないんだ。被害者は全く接点がなく、目撃者も同様。これだけ見たら少し狂った殺人者が大量に出た……ようにも見えるだろうな。だが、最初も少し匂わせたが、二人目以降の犠牲者の殺し方には、ある共通点があるんだよ」
「共通点?」
僕が首を傾げると、叔父さんはそっと煙草に火を付け、紫煙を燻らせる。
「ああ、米原侑子と同様、全ての犠牲者が、恐らく犯人と思われる何者かに、内臓を持ち去られている。最も、米原侑子のように脳も含めてごっそり全部持っていかれたのではなく、一人最低一つか二つだがな」
それも三人目は胃と腸、四人目は肝臓……といった具合に毎度別のパーツを持ってくのさ。と、叔父さんはうんざりしたような口調で言いながら、再び煙草に口をつける。
「動機も何も見えてきやしない。犠牲者達の年齢や所属のばらつき具合から怨恨や単純なトラブルの線も薄く、目撃者や証拠らしい証拠も皆無だ。難航する訳だよ。今のところスポーツみたいに人を殺すサイコ野郎か、内臓好きの変態って俺は読んでるんだが……頼むから幽霊や怪物の仕業にして迷宮入りってのは勘弁してもらいたいね」
苦々しげに呟く叔父を僕は内心で葛藤しながらも黙って見つめる。
鍋に入れられた具材たちは、既に煮込まれ過ぎてフニャフニャになってしまっていた。
その瞬間、不意に叔父さんの携帯電話が鳴り響いた。
悪い、という一言共に叔父さんは通話ボタンを押す。
「もしもし。ああ、どうも。どうしましたか? ……え?」
叔父さんの目が見開かれ、表情が険しくなる。携帯電話の向こう側で、叔父さんの上司と思われる人物の切迫したような声が鍋の置かれたテーブルを挟んで、僕の方まで聞こえてきた。断片的で今一理解は出来なかったが、僕はざわめくような胸騒ぎがを感じた。
理由は言わずもがな。今現在、叔父さんが僕の部屋に来たことによって、アイツは、怪物は姿を消しており、今どこにいるかは僕にもわからない。そんな状況で、刑事である叔父さんの上司から電話……。
静かに電話を切った叔父さんは、此方を深刻な顔のまま、僕に事態を簡潔に告げる。
七人目が出た。と。
※
三十秒もたたぬうちに身支度を済ませた叔父さんは、「顔色は悪いが、しっかりやっているようでよかった。事件が解決したらまた何か奢るよ」とだけ僕に言い残すと、解き放たれた猟犬のように、勢いよく部屋を飛び出していった。
その後ろ姿を見送った後、僕は溜め息を漏らしながらドアに鍵を掛け、ノロノロとリビングに戻る。事情聴取を受けた僕を心配して来てくれたのであろう叔父に、兄が死んで以来、唯一普通に接してくれた。そんな優しい叔父に、僕は感謝すると共に心の中で詫びた。
「ごめん、大輔叔父さん。僕、事件については全く心当たりはないけど、何か関係ありそうな奴だったら知ってる」
そっとリビングに続くドアを開ける。予想通り、部屋に僕一人となった瞬間、ソイツは、怪物は僕の部屋に姿を現した。
何故か鍋蓋をマジマジと見つめ、突っついて遊んでいるのは気にはすまい。こいつは初めて見る物には決まってこんな反応を見せる。最も、これはほんの少しの間のことだ。
怪物は僕が戻って来たことに気づくと、嬉しいそうに駆け寄ってきて、僕に身体を擦り寄せてきた。
やがて首筋を伝わって訪れる酩酊感に投げ出されながら、僕はゆっくり怪物の美しい黒髪に手を添える。僕が逃げる意思を持っていないのをわかっているのか、怪物は特に僕の身体を操ることをしない。
こんなこと言えるわけないし、巻き込む訳にはいかない。僕はそんなことを考えながら、純也、京子、大輔叔父さんと、頭の中で僕にとって大切な三人の顔を順番に思い浮かべる。
今は確固たる証拠がない。だからコイツを……すかどうかは今は保留だ。それは僕にとってもリスクが大きいし、出来るのなら穏便に事を運ぶのが一番だ。コイツ自身の謎が非常に多いという点もある。
だが、ひとたびコイツが僕の大切な人達に牙を剥こうものなら……。
僕は静かに空いている手を握りしめ、クラクラするような浮遊感に耐えるように、決意を固める。
たとえこの身体に流れる血を全て吸い付くされてでも、刺し違える事になってでも、僕はコイツを……。
新たに芽生えた僕の意思を知ってか知らずか、僕の首筋から唇を離した怪物は、静かに微笑んだ。少女の外見に似合わぬ淫靡ささえ匂わせる笑みに僕は自分の目が囚われている事を自覚し、慌て目を逸らそうとする。
その瞬間、脳髄の奥で電流が走り、僕は自分の所有権を剥奪された。ゆっくりと僕と怪物の唇が重なり、互いの舌が音を立てて絡み合う。
その瞬間、僕は自分の精神が解体されていくような悲壮感と、もう一つの全く別な感覚を味わうことになった。……否、味わってしまった。
静かな殺意を自覚したというのに。この舌をいつか噛み切る覚悟を決めたというのに。背筋は今も凍りつくのではないかと思えるくらい冷えているというのに!
血の味がする怪物との口づけは、抗いがたい程に気持ちがよかった。
どうしようもない位に気持ちがいいと、僕は感じてしまったのだ。




