17.偽りの声と死者
まるで油の切れたロボットのように僕の身体が動き始めた。布団から抜け出し、純也の大鼾をBGMに、僕の身体はゆっくりとベランダへと続く大窓へと動いていく。
身体が暑いのは、夏だからだけではない。腹立たしいことに、怪物との再会で消沈している僕の心とは裏腹に、身体の方は歓喜に打ち震えているようだ。
内心で無駄だと分かっていても、よせ! 止めろ! と叫んでみる。が、当然どうにかなるものではなく、僕の指は窓の鍵に引っ掛けられた。たちまち僕と怪物の間にあった細やかな唯一の障壁は、他ならぬ僕自身の手で取り払われてしまった。
夏の生暖かい夜風が部屋に入り込むのを感じながら、僕は怪物の元へ歩み寄る。
バキン! という音が脳髄の奥で響き、僕の身体は自由になるが、もう遅い。僕は逃げることも出来ず、怪物に抱きすくめられた。
何処か嬉しそうに、怪物は僕に頬擦りのような行為をしてきたかとおもうと、そのまま僕の首筋に顔を埋める。
その瞬間、ゾブリという音がした。
僕は再び怪物によって酩酊と快楽の渦の中に放り込まれていった。お酒のせいだろうか? 今夜のこれは、僕の意識が朦朧とするほど生々しかった。体液が吸い上げられる、思わずゾッとするような感覚も、何かが流し込まれることでコイツと一体となっているかのような感覚も、どちらの感覚もより鋭敏に僕の身体の神経という神経を飲み込んでいったのだ。
どれくらい時間が経っただろうか? 僕は耐えきれず、ゆっくり膝から崩れ落ちた。そんな僕を怪物は優しく支え、そのまま静かに腰を落としていく。
「オイ……どこで覚えたコレ?」
僕の悪態もどこ吹く風で、怪物は僕の頭を座り込んだ自分の太股に乗せたまま、頬を撫で始めた。俗に言う膝枕というやつだった。
動きたいが、今になってお酒の酔いが回って来たのか、はたまた怪物に血を吸われたからなのかは分からないが、身体を動かすことが出来なかった。
「う……うん? レイ? 起きてるのか?」
僕が怪物のなんとも言えぬ柔らかな太股の感触に戸惑っていると、窓から入り込む風で目が覚めたのだろうか?
不意に純也が眠そうな声を出す。
ヤバい。僕がそう思った瞬間、怪物はそっと僕の頭を固いベランダに移動させると、さっと、僕の視界から消失した。
「おいおい、酔ってるのか? なんでベランダで寝てんだよ」
呆れたような声と共に、純也がゆっくりベッドから起き上がる音が僕の耳に届く。やがて、ゆっくりと純也が此方に近づいてくる気配を僕は肌で感じとっていた。
怪物の姿は、純也に見られてしまったのだろうか? 僕が謎の危機感を覚えていると、再び僕の脳髄でバキン! という音がして、僕の身体はアイツの傀儡と化した。
弾かれたかのように立ち上がった僕の首は、いきなり右斜め下を向く。
ベランダから見下ろせるのは、街灯一つない、マンションの裏側の小さな空き地だ。その裏側の小さな空き地に、微かに人影が見て取れる。
そこにいたのは紛れもなく、つい先程までここにいた怪物だった。ぼんやりと此方を見上げて、真っ直ぐ僕を見つめている。その姿は、何処か淋しげで、それでいて何か底知れぬものを覗きこんでいるかのような不気味な印象があった。
「何だ? 何かいるのか?」
訝しげな表情で歩いてきた純也を、操られた僕の手が押し留め、そのまま純也をグイグイ押していく。純也も突然の僕の行動に驚いたのだろう。普段は僕などに押し負ける筈のない、生粋のスポーツマンである彼は、「うぉ、おい、なんだよ? どうしたんだよレイ? 」と、目を白黒させる。そのまま純也は無抵抗のまま僕に押され、最後はベッドに座ってしまう。
叶うのならば謝罪をしたいのだが、生憎、この状態の僕は謝罪どころか言葉を発する事自体が不可能だ。
僕は内心で歯噛みをする。一方、無言で立ち続ける僕を流石に不審に思ったのか、純也の顔が怪訝なものになっていく。友人の変化に僕の焦りは加速し、早く、早く切れろ……! と、一切動かせない身体をもどかしく思いながら僕はただ念じていた。
その時だ。僕の身体に、今までにない出来事が起こった。
「あ……ぎ……」
その変化は突然だった。
「はふ……ありまぃ……なかあらはなやまかありならまがにぎゅきよやまゃぁ……」
「………………は?」
ポカンとした表情の純也の前で、僕は〝僕の意志とは関係なく〟意味不明の言語を話し始めた。
いや、それは正確に言えば、言語というものとは程遠いものだ。近いものをあげるならば、赤ん坊が言葉を覚える前に発する、意味のない音の羅列。まさにそれだった。
「ひぎゅい! あうぉいるに……ふぬほみゃ、ほくは……ち……ぬ……ゲホッ!」
やがて、意味をなさない音は僕の脳髄で弾けるような音が鳴ったと共に終わりを告げ、僕はむせるような咳を漏らした。
口元の涎が凄い。だがそんなことは些細な問題だ。それ以上に僕を見つめる純也の疑惑の視線が僕にとってはよっぽど厄介だった。
「おい……レイ、大丈夫か? 酔ってる……のか?」
誤解を解きたい。出来るなら早急に。だが、そんな僕の気持ちを嘲笑うかの如く、再三、僕の身体は支配される。
バキン! という嫌な音が、脳髄に響いた。
「けみ……は、とこかろきとんだ……きみは……なむものなんだ?」
僕の口が、またしても支離滅裂な言葉を発し始めた。純也は相変わらずポカンとした顔だったが、不意に真面目な顔になり、台所へと走る。
「しゃべらる? こばわかる?」
徐々に言葉がただの音の羅列から、人間の言葉に近づいていく。その瞬間、僕にさせている不可解な行動の意味が何となく予想できてきた。
アイツは……今、練習しているのだ。
僕は軽い寒気と共に結論を下す。
怪物の身体所有権剥奪能力において、出来なかった事が二つある。一つは、僕の思考など、精神面は操れないこと。もう一つは、言語を使用する事だった。……この瞬間までは、確かにそう思っていた。だが、実際には違う。怪物は僕の身体を操る際に、言語を使用することは出来たのだ。では、僕の話す言葉すら操る事が出来る怪物が、なぜそれをいままでしてこなかったのだろうか? これには幾つか推測が出せるが、どれも真実に迫るものではない。
ただ、一つ。確かな事が今分かった。『この怪物は、人間と同じく学習している』ということだ。常に学習し続け、進化を続ける。
『人前では僕の身体所有権剥奪を使えない』この推論も、あっさり覆されてしまった。ただ、『姿を現していなければ身体所有権を奪えない』これは確実に正解らしい。でなければ、わざわざ人の姿のまま、人目につかない裏の空き地までベランダから飛び降りたりはしないはずだ。怪物は僕を操るために、純也からは見えない位置に移動したのだ。
「ぼくは……にげもかくれもしない。あげないよ? おなかすいてるなら、いえにかえりなよ……」
思考を続ける僕と、意志とは関係なく言葉を話す僕。なんとも言えない気持ち悪さを感じていると、純也が台所からコップを持って戻ってきた。
「ほら、水だ。飲めるか?」
反応することもなく、支離滅裂な言語を話す僕に埒が明かないと判断したのか、純也はコップの水を僕の口元に近づける。
だが、僕の手はそれを無情にも振り払い、脈絡もない言葉を発しながらゆっくりと玄関へと歩を進めていく。酔いと吸血されたことによってフラフラだった身体は、何故かスムーズに歩を進めていく。
「お、おい! レイ! どこ行くんだよ!」
慌てて追いかけてきて僕の肩を掴む純也。その瞬間、僕の身体はあの忌々しい音と共に既に自由になっていたのだが、僕はもう、ここに長居するつもりはなかった。
「ごめん、ちょっと、急用が出来て……もう、戻らなきゃ……」
「き、急用? こんな夜中にか? よ、酔ってるんだろ? そうだと言ってくれよ!」
純也のその瞳には心配、困惑、そして、少しの畏怖の感情が灯っていた。申し訳ないと思うと共に、無理もないと僕は思った。目の前で友人が……まぁ、友人が少ないからはっきりとは断言できないが、ともかく友人があんな行動をとったら、僕だって心配もするが、少し怖いと思ってしまうかもしれない。内心で自嘲するように笑いながら、僕は友人の方へ向き直る。
「ごめん、今酔いは醒めてるんだ。実はここ数日色々あって、不安定でさ……」
不安定なのは紛れもない真実だ。それなのにここに来たのは、久しぶりに会えて嬉しかったから。怪物という存在に捕らわれながらも、唯一の友人と話す機会を僕は逃したくなかったのだ。
でもその結果がこの様だ。人といれば大丈夫だと、たかを括っていた僕の元に怪物は再び現れ、僕の推論の幾つかを叩き壊していった。
「ごめんよ、でもどうしても君ともう一度話がしたかったんだ。許しておくれ」
隠さぬ本音だけを伝え、制止しようとする純也を振り切り、僕は友人の元を後にする。
今この瞬間に僕を操らなかった事だけはアイツに感謝しよう。
人がいてもアイツが僕の近くで、かつ人目につかない所で姿を現していれば僕を操れると判明した以上、純也の近くにいることは避けた方がいい。操られた僕が何をするか分からないのだ。
僕はゆっくりとマンション裏の空き地に歩を進める。ぼんやりと周りを照らす月明かりの下に怪物の姿は……。
「アイツ……また消えた?」
何処にもいなかった。人を操って危機感だけ煽って帰るとはやってくれるな。
僕は眉をひくつかせながら空き地を出ると、自分の部屋への帰路につく。
僕がもう戻ってくると踏んで先に帰っているのだろうか? いや、恐らく違う。多分この近くを人が通ったのだ。こんな夜更けに人が通るなんて珍しいが、今はその人に感謝するべきだろうか? 僕は黙って歩き続ける。
何とかする必要がある。それも早急にだ。アイツから逃げることだけ考えているのでは甘い。僕から興味を失わせるなり、何らかの撃退手段も念頭に入れて考えていった方がいいかもしれない。
最終的にどうにもならなかったら……その時は、アイツを……。
僕がそんなことを考えながら暫く歩いていると、ふと大きめの公園の近くを通りかかった。木が回りをぐるりと取り囲み、中の様子を覆い隠すような閉鎖的な印象を与えている。ここからでは中の様子はよく見えないが、僕は思わず立ち止まっていた。
「今……何か……」
動いていた。携帯電話で時刻を確認すると、時刻は午前三時半少し過ぎ。あまり一般人が歩き回る時間ではない。
僕は少し迷った後に、ゆっくりと公園の中に入っていく。僕しか知り得ないことだが、今は怪物が彷徨いているのだ。近所の高校生や早起きのお爺さんなどだったら、家に帰れくらいの警告はした方がいいかもしれない。僕はそう思いながら公園の奥へ奥へと足早に進む。
大きな公園だった。夜の静寂に包まれたそこは、昼間は子ども達の遊び場として活気に満ち溢れているのだろうが、今はそんな気配は欠片もない。周りをバリケードのように囲む木は、公園の端に置かれた少し錆び付いたブランコと一緒に夜風で妖しく揺れ、不気味な音を奏でている。滑り台やシーソーはまるで廃墟の中の建造物のようにただそこにあるだけで不安感を煽るようだ。
普段この公園に出入りしていない僕でも、夜の公園とはこんなにも気味の悪い雰囲気を醸し出せるのかと思ってしまうほど、その光景は何処か非現実的だった。
僕は溢れる不安感を抑え、ぐるりと辺りを見回す。ブランコ、滑り台、シーソー、砂場……人影は見当たらない。
木馬に鉄棒、登り棒……やはり僕の気のせいだったのだろうか?
大きめのアスレチックに、一本橋、ジャングルジム……そこで、最後の遊具に目を留めた時、僕の身体は硬直した。
「なんで……どうして?」
気がつけばそんな声が出ていた。ジャングルジムには、見覚えのある顔の人物がいた。
……人物がいたという言い方はおかしいかもしれない。何故ならば、その人は既に、〝生きている人間ではなかった〟のだから。
まるでイエス・キリストのようにその人はジャングルジムに全裸のまま磔にされていた。
恐怖に叫び声をあげているかのような表情で固まったまま、ダラリと力なく首を傾けていた。その人物の右腹部は切り開かれ、そこから内臓が引きずり出されて、月明かりでぼんやりと照らされた地面に赤黒い水溜まりを作っている。
この世のものとは思えない光景が、目の前に広がっていた。
その光景の中心には、いつかの星空の下で音楽を奏でていた男が、無惨な姿を晒している。見間違えようがない。純也のマンションの隣人さんだった。
「う……ぶっ……」
それを認識した瞬間が、もう限界だった。後ろから僕を呼ぶ純也の声が聞こえる中、僕の喉を酸っぱい唾液が満たしていく。胃の内容物が込み上げる感覚が身体を舐め回したその瞬間、僕はその場に崩れ落ちて、激しく嘔吐した。




