16.望まぬ再会
僕は、走っていた。
何かから逃げるように走って、走って、走って、走り続けていた……。無限に続く耐久マラソンのなかで僕は、密かにこの先に待ち受ける運命を半ば直感していた。――僕は、逃げられない。
走る先に待ちわびたかのように現れるのは、決まって、小さな蜘蛛だ。
まるで僕を追跡し、監視するかのようなその蜘蛛と遭遇する度に、僕は慌てて道を変え、また別の方へと走りだす。
「レイ君……どこもいかないでよぅ」
不意に悲しそうな顔の京子が、何処からか現れて、ゆっくりと手を伸ばしてくる。その腕は、脚は、小さな身体には、糸のようなものが絡みついていて、まるでマリオネットのようなぎこちない動きをしていた。
「ねぇ、レイ君。こっちに来て……」
今更確認しなくても、京子を動かしているその糸が何なのか位、僕には分かる。誘惑するかのような京子を振り切り、僕は手招きする京子とは、逆の方向へ走り抜ける。
「おーい! レイ! こっちに来いよ!」
次に耳へ届いた陽気な声に僕は再び足を止め、声のする方へ振り返る。
そこには現実ではあり得ないくらいの大きな蜘蛛の巣があった。直径三十メートル程の円形の網が、空中に浮かんでいる。その中心に磔にされたかのようにして笑っているのは、僕の親友、阿久津純也だった。
「レイ、来いよ! 楽しいぜ?」
邪気のない、見た人の誰もが頼りになりそうといった印象を抱くような、男くさい笑み。僕はそれをただ呆然と見ているだけだった。言葉が出なかった。京子も、純也も、捕らえられてしまった。
僕が返事をしないことに気づいた純也は、仕方ないなと肩を竦める。すると、空中に張られていた巣が、純也を拘束したまま、ゆっくり、ゆっくり、形を変えながら地上に降りてくる。
「なら、俺が連れてくぜ?」
糸に絡み取られたまま、純也は微笑み、その筋肉質な腕をこちらに伸ばしてくる。僕は再び、純也とは別の方向へ逃げ出した。
再三走る僕の前方から、今度は工事現場で見られるような重機が、あり得ないほど無音でこちらに向かって動いてきた。運転席には誰も乗っていないのに大きなショベルが振り上げられ、僕の頭を目掛けて降り下ろされる。
僕は咄嗟に横に飛び退いた。こんな状況で回避行動がとれたのは、謎の危機感や緊迫感で精神が張りつめていたお陰だろう。
その瞬間、ショベルの理不尽な暴力から逃れた僕の耳に、トマトが潰れるような嫌な音が飛び込んできた。
振り下ろされたショベルの下には、いつからそこにいたのか、人が倒れていた。
知らない人だと思う。判断は出来ない。何故なら、その人の頭は、木っ端微塵に粉砕されていたのだから。
僕は悲鳴を上げ、胃の内容物を嘔吐した。
暫くの間はそこに座り込んでいたと思う。ここにいてはいけないと、脳が警笛を鳴らしている。逃げなくては……。
僕は痺れる口元を拭い、ゆっくりと立ち上がり、周りを見渡し……、
再び絶望に陥れられた。僕の周りには、いつの間にか沢山の死体が転がっていたのだ。
臓物を引きずり出された死体。
何か獣にでも食い散らかされたかのような死体。
四肢が無い死体。
そして……。
それらが霞むくらい、おぞましいものがそこにあった。
そういった目を背けたくなるような死体に混じってちょうど、大人の人間くらいのサイズをした繭のようなものが転がっている。
だが、普通の繭とは違う点がある。その繭は図鑑の写真や、お土産売り場で見られる蚕の繭のように純白ではなく、所々赤黒い染みのようなものが滲んでいることだ。
僕の口から渇いた笑いが漏れた。分かってしまった。それが何なのか。
それは、蜘蛛の糸でぐるぐる巻きにされた、人間の……それも、〝僕の死体〟だった。
その時、いつかの妙な気配を僕は背中に感じ、身を凍らせる。
唐突に僕はその気配の正体を悟った。あの時と同じだ。僕の背後に、誰かが立っているのだ。 僕がそれに気が付いた時は既にすべてが遅かった。静かに、音もなく僕の首に、腕に、脚に、口に、目に……何かが巻き付いてくる。
乱暴に扱われる操り人形のように、僕の身体が後方に引き寄せられ、ふわりと甘ったるい香りと共に、僕は誰かに抱き寄せられるのを感じた。
「…………逃がさない」
そんな呟きが、僕の耳元で響いた。
今まで聞いたことのない、透明感がある、囁くような綺麗な声だった。
※
――ハッと、大きな息を吸い込みながら僕は目を覚ました。見慣れないオンボロな天井が視界に広がっている。荒い息を付きながら、僕は辺りを見回す。長い間使われていない布団の匂い。どうやら僕は布団にくるまっているらしい。傷みが多少目立つ壁が見えた。右隣に、簡易なベッドがあり、上から鼻がつまったかのような寝息が聞こえる。
そうだ、純也の部屋で飲んでいたのだ。僕は段々ハッキリしてきた意識の中でゆっくり眠る前の出来事を思い出していく。ということは、さっきのは夢か……。
僕はホッと安堵のため息をつき、ゆっくり右側に寝返りをうつ。
見ていた時は恐ろしくリアルなのに、こうして覚めてみると、途端に非現実感を伴うのだから、夢とは不思議なものである。
一度身震いした後に、僕は深呼吸を何度も繰り返す。心臓の音が酷いことになっている。何とか気持ちを落ち着けるため、僕は目を閉じたまま胸一杯に空気を取り込んだ。
よっぽど気が動転していたのだろう。暫くの間、静かに呼吸を整えていた僕は、そこで初めて自分の手が誰かの手によって優しく握られているのを感じた。
恐らく、寝返りを打って深呼吸をしている時に握られたのだろうな。まだ少しねぼけていた僕はそんなことを考えながら、その不気味な状況に気がつくことなく、自分の手を握るその手をマジマジと見た。純也は上のベッドだ。ではこの手は? 僕はその出所に視線を向ける。その瞬間、僕の背筋が凍りついた。
白くて冷たい、見覚えのある手が、純也のベッドの下から伸びて、僕の手を掴んでいた。
戦慄に身を委ねる僕。
黒衣の袖から伸びる手は、そんな僕をゆっくりと、物凄い力でベッドの下に引きずり込んだ。
「……見つけ……た」
さっき夢で聞いた、そんな声が耳元で静かに響き、僕の意識は急速にブラックアウトしていった。
「うわぁあああああ!!」
悲鳴と共に、僕が目を開くと、その視界は再びオンボロな天井に覆い尽くされた。
弾かれるように上体を起こし、僕は辺りを見回す。痛みの目立つ壁、僕の真後ろには、月明かりが射すベランダへと続く大窓、右隣には簡易式のベッドがあり、往復する純也の大イビキが聞こえてくる。左側には押し入れがあり、僕と純也のお酒やつまみを乗せていたちゃぶ台は、今は僕用の布団を敷くスペースの為にその襖に立て掛けられている。
見間違えようがない。つい先程まで寛いでいた、純也の部屋だった。
無言のまま自分の頬をつねる。痛い。
続けて、純也のベッドの下を確認。アイツの姿がないことに、僕は一先ず安堵する。もしいたらどうするつもりだったんだ? とは聞かないでほしい。いたとしても、僕はきっと混乱して、どうすればいいか分からなくなることだろう。
今アイツはここにいない。それでいいじゃないか。
ブルリと、身震いをする。心臓の拍動は、例によって早い。夢の中で更に夢を見るだなんて、初めての経験だった。それにしても……。
僕はそっとベッドで眠る純也の方を伺う。
デカイいびきだ。往復な上に、音が凄まじい。僕は思わず苦笑いを浮かべながら、携帯電話のディスプレイを見る。
猟奇殺人事件の最新情報、有名歌舞伎役者の逝去、とある食品会社の不祥事などの報道が画面下のテロップで流れていた。時刻を確認すると午前三時。ふと、窓から外を見れば、まだ空は暗く……。
――そこで、僕の思考回路は完全停止した。
「………………」
声は出ない。ただひたすらの沈黙。そのまま、僕の視界は備え付けカメラのようにベランダへの窓一点に固定される。
僕の目が暗闇に順応すると共に、月明かりに照らされ、そのシルエットが明らかになっていく。
腰ほどまでの黒髪ロングストレートヘアは、夜風に怪しく靡いている。
黒いセーラー服に身を包んだその立ち姿は、暗闇の中だというのに、異様な存在感を醸し出し、只でさえ白いその肌は、月下の元で淡い輝きを発しているかのようだ。
僕は背中を冷たい汗が伝っていくのを感じながらも、それから目を離すことが出来なかった。
姿を消して僕の傍にずっといたのか? それとも、姿を消したと思わせてアイツは何処かにずっと隠れていて、深夜、人通りが少なくなってから僕を探しにきたのか?
真実は分からない。だが、なぜこのタイミングで出てきたのか。それだけは分かる。
昼間は人通りの多い所を歩いていたし、それ以降は純也と共にいた。夜に純也がタバコを買いに行った時はすぐ近くに隣人さんがいた。
では、今は……?
純也のいびきが、とても大きく聞こえた。窓の外にいるソイツは、とても嬉しそうに、そして幸せそうに微笑んでいる。
あの笑みは知っている。僕を抱きしめ、血を啜り、情熱的なキスを交わす時に見せる表情だ。
窓の向こうのベランダで、溜め息の出るほど見事な満月を背に、僕を虜にした、あの美しい怪物が佇んでいた。
「や、止めてくれ。今は、それだけは……た、頼む……!」
その瞬間、僕の必死な懇願を嘲笑うかのように、バキン! という電撃のような感覚が、僕の脳髄を走り抜けた。
身体の支配権が奪取され、僕の身体がゆっくりと、己の意思とは無関係に動き始めた。




