プロローグ
『水沢くん日記』
五月六日。午後十二時十分。水沢くんに、彼女の嵯峨谷さんから、一通のメールが届いた。
「私、もう水沢くんと付き合ってく自信なくなった」
水沢くんは、このメールを受信するなり、食べていたお弁当を放置して思い切り席から立ち上がり、隣のクラスに駆け込んだ。
そして何事もないかのように、女子達数人と笑いながらお昼を食べる嵯峨谷さんの席まで行って、ちょっと来いよ、と言って、彼女の腕を引っ張った。
すると、嵯峨谷さんと同席していた女子たちが、集団で水沢くんを睨みつけて、サイテー、マジあり得ない、などの罵声を浴びせた。
嵯峨谷さんも苦笑いしながら言った。
「ちょっときもいんで、勘弁してくれません?」
水沢くんはそれにショックを受けて、静かに自分のクラスの席に戻って、お弁当も食べずにそのままずっと携帯電話をいじっていたが、やがてパタンと閉じると、そのまま机の上に突っ伏して、五限になるまで動かなかった。
黒い表紙の日記のページをめくりながら、呆れかえりながら男は言った。
「食うところも無い位、小さそうな肝をした男だな。こんな男の何がいいんだ?」
そう言いつつ、ページに目を落とす男の身長はとても高く、顔も整っていて、まるでモデルのようだった。しかし、その瞳孔は、横長に広がって、絶えずキョロキョロと左右に揺れており、彼が普通の人間ではない事を、表していた。
彼の男の前には、黒いベットに腰掛け、黒い服と黒い髪をした少女が座っている。
「うふふ、可愛いでしょ。頑張って一瞬怒ったんだけど、他の女の子たちが怖くて逃げ帰って来ちゃったの。だから結局水沢くん、自分がふられた理由知らないままなのよ」
少女は、夢を見るかのように、うっとりと芝居がかった調子で喋り続ける。
「私ね、水沢くんが私の事を好きになってくれるなら、死んでも良いと思っているの」
それを聞いた男は、ノートから少女に目を移して、冷静に尋ねる。
「本当にそれでいいのか?付き合いたいとかセックスしたいとか、そうゆう欲求はないのか」
少女は、その言葉を聞いた途端、明らかに怪訝そうな顔をして、キッと男をにらみつけた。そして、強い口調で叱責する。
「やめてよ!私は彼の事を純粋に愛しているの!だから、そんな汚れた気持ちを彼に抱いたりなんてしないの!」
それを聞いた男は、バカにしたような笑みを口元に浮かべながら言った。
「なるほど、プラトニックってやつだな。けれども、実際にそんなのを貫けた人間なんて世の中にほとんどいない。人間は欲望だらけの醜い生き物なんだ、お前も認めたほうが楽だぞ」
「そんなことない!」
彼女は思い切り立ち上がって叫ぶ。
立ち上がった瞬間、彼女の顔を覆っていた、分厚く長い前髪の隙間から、鋭く輝く目が見えた。
「私はそんな汚い人間とは違う!」
「ふーん、お前がそう言うなら、そうなんだろうな」
それを聞いた男は、薄笑いを浮かべて答えた。まるで本気にしていない様子だった。そんな男の様子を見て、少女は言う。
「契約の内容は、さっきと言った通りよ。変更するつもりはもうないわ」
そして男を挑発するように、口元に笑みを浮かべ返して言った。
「だから、さっさと実行してくれる?あんたも悪魔なんだったら、ヒヨってないで、早く仕事しなさいよ!」
「こりゃあ恐れ入った!お前は大した人間だよ!」
男は爆笑した。少女は、その笑い声と共に、空気がざわざわと揺れるのを感じた。その瞬間、男の頭からは、ミチミチと音を立てて、湾曲した角が映えてくる。
「ひっ!」
少女は思わず叫び声を上げ、後ずさる。
そんな彼女の頭を、男は異常に大きい片手で、がっしりと掴んだ。その手は、まるで動物のように、ゴワゴワとした毛で覆われており、真っ黒で分厚い爪は、猛禽類のように尖っていた。物凄い握力で少女の頭蓋を締め、その横長の瞳孔を彼女の顔に近づけながら、男は言った。
「さあ、お望み通り、契約を開始してやろう」