27話 コトノハの記憶
「おっかしいな……」
父親から予備として渡された、たった一つのキューブを握りしめ、極度の緊張で手に汗をかきながら、エレベーターの上り下りを何度も繰り返していた。
が、何の反応もない。
放課後の構内を見回りしている警備員に奇妙なことをする奴だなと思われただけだった。
よく見てみれば、最初にシオンが持っていたキューブに比べてなんだか安っぽい。
光っているようなオーラもない。
もしかすると、父親から最後に渡された予備のキューブは、何の変哲もない普通の金属でできたオブジェだったのかもしれない。
下校時間を知らせるチャイムが鳴る。
「これより門を閉めます。残っている生徒はすみやかに校舎を出て、下校してください」
追い出されるように校舎を出たナオトは、空を見上げた。
——こっちの世界にも空曜日があったらよかったのに。
——本物のキューブが落っこちてくるかもしれないから……。
そんなナオトの期待とは裏腹に、迫り来る黒い夜が、今か今かと待ちかまえている薄暗い空からは、何も落ちてこなかった。
——もう二度と会えないのか。
あの世界の住人に会うことは叶わない夢なのだと、必死に自分に言い聞かせながら、しょんぼりとした足取りで、ナオトは学校の校舎を後にした。
※
結局すぐには学園に戻れず、近所の公園やコンビニをうろうろしたあげくに、ようやく学園に戻った時には、晩ご飯の時間はとっくの昔に過ぎていた。
だが、学園長は、落ち込んでいる様子のナオトを見て、何も言わずに冷えてしまった料理を温め直して、テーブルに並べてくれた。
魅力的な匂いでいっぱいの湯気が立ちあがるハンバーグをナオトは一切れ口にした。
だが、すぐに箸を置いた。
「どうした。旨くないのか?」
ナオトは小さく首を振った。
「だったら、そんな湿気たツラして食べんなよ。お前の大好物なんだろ?」
学園長特製ハンバーグは、いつものように世界で一番おいしかった。
けれど、それ以上に、心の中が、何かでいっぱいだった。
押さえきれない感情が溢れ出してくる。
やがて、それは涙となって、ナオトの瞳からこぼれ落ちた。
「なんだ、なんだ。どうして泣く? そんなに旨いのか?」
ナオトは首を振った。
「じゃぁ、やっぱりマズイってことじゃねーかっ」
ナオトは首を激しく振った。
「ちがう……ちがうんだ……」
ナオトは幼子が泣きじゃくるように肩を揺らして嗚咽を漏らし始めた。
学園長は、だまって背中をさすってやる。
「もう……ヒック……二度と……会えないんだ……」
「誰に?」
「……みんな……に」
「どうして?」
「キューブが……偽物……ヒック……だったから」
「何が偽物だったって?」
質問に答えずにナオトは続ける。
「また……すぐ会えると……思ってたから……ちゃんとお別れ……言ってないのに……」
後はもう声にならなかった。
学園長は静かにナオトの頭を撫でてやる。
「そうか……お別れか……辛いな……お別れは。オレもお前の父ちゃんと母ちゃんがいなくなった時は、ほんと辛かったよ。一番の仲良しだったからな」
窓の外には大きく太い幹を持つ老木が見えている。
母トワが空から降ってきて、父マサナオが受け止めた場所というのは、この老木のことだった。
若かりし日の学園長は、その様子をそばでこっそり見ていた。
どうやら小さい頃は引っ込み思案だったらしい。
思いを寄せていたトワを、目の前でマサナオにかっさらっていかれた衝撃の瞬間を、ただ見ているしかなかったようだ。
「まぁ、泣きたい時は、山ほど泣け。死ぬほど泣けば少しは前に進めるからな……。でもな、ナオト。二度と会えないなんて悲しいこと言うな」
学園長は優しい眼差しで、ナオトを見ている。
「お前が生きてる限り、お前が思い出す限り、いつまでもそいつはお前の中にいる。お前が忘れない限り、いつだって会えるんだ」
ナオトは顔をあげて、学園長を見た。
「なんで……父さんと……同じこと言うの?」
「そりゃーあいつが昔、オレにそう言ったからだよ。しかも元々はトワがマナサオに教えたことだしな。要するに受け売りの受け売りだ。どうだ、格好悪いだろ」
学園長は笑った。
ナオトも少しだけ笑顔になった。
ふと学園長が真顔になる。
「つーかなんで、お前、そのことをマサナオが言ってたってこと知ってるんだ? オレお前に言ったことないはずだけどな……」
「父さんに会ったんだ」
「は? どこで」
「コトノハを使う、いろんな猫がいる世界で」
「はぁー?」
学園長は真の底から混乱している。
「その世界ではね、空曜日にいろんなモノが降ってくるんだ」
ナオトは、混乱する学園長を見て、少しだけ楽しい気持ちになった。
「おめーな、大人をからかうのも大概にしろー。腹減ってるから、そんな変なことばっか考えちまうんだ。とっとと食え。たらふく食え!」
その日、ナオトは山ほどおかわりをしすぎて、お腹を壊したのはここだけの秘密だ。
※
両親馴れ初めの老木に、体を預けるようにもたれて、ナオトは空を見上げていた。
——最後に見た空曜日の空も、こんな色の空だったな。
結局、あれ以来、ナオトがあの世界へ訪れることは二度となかった。
それでもなお時として町中で、白い猫を見かけるたびに振り返ってしまう自分に、ナオトは自分で自分を笑うしかなかった。
——もしかしたら、シオンじゃないかって。
——そんなことがあるわけないのに。
「シオン……」
ふとその名を口にしてみる。
返事はない。
「アヲ……シロ王……」
涙が出そうになる。
「……父さん……母さん!」
心揺さぶられるその大切な人たちの名は、コトノハとなり、空気に触れ、風に乗り、彼方へと吸い込まれるように消えていく。
——もう会えないんだ。
こらえきれなくなった涙は、一粒、二粒と頬に流れ落ちる。
——もう誰もいない……ここには。
けれど、目を閉じれば、懐かしいみんなの顔が脳裏に浮かぶ。
日溜まりのような優しい笑顔がはっきりと。
色あせることなく、永遠に……。
——そうだ。ボクの中にみんながいる。
——みんなの笑顔を思い出すだけで、ボクは幸せになれる。
——ボクが思い出す限り、いつまでも、永久に。
この瞬間、ナオトの遺伝子に刻まれた。
大切な人々の名が、幸せを意味するコトノハの記憶として——。
「何を泣イテおる?」
頭上からシオンの声が降ってきた。
見上げた青空から、子猫のように軽やかにシオンが降ってくる。
ナオトはとっさに抱きしめたが、衝撃で地面に押し倒された。
驚きのあまり動くことができないでいるナオトを、じっとシオンは見下ろしている。
銀細工のように繊細な白髪が、さらりと肩から流れ落ちる。
「本当は二度ト行クナと言わレタのダガ……。皆にハ内緒ダぞ。特にアヲには、な」
茜色の瞳をした美しい少女は、春色で満開になった桜の様に、世界で一番幸せそうに笑った。
「シオン!」
ナオトは幸せを意味するコトノハを口にし、シオンを強く抱きしめた。
きっといつの日か、ナオトは自分の子どもたちに話すことになるだろう。
お前達の母さんは、空から降る猫だったのだと——。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。




