朝市は今日も
朝市に行った。
いつもの時間に、いつもの道を歩いた。坂を下り、港沿いの通りに出る。潮風が頬に当たる。魚の匂い。干物を焼く煙。朝市の喧騒。いつも通りだ。
「ノルさん、今日もお目が高い」
魚屋の親父が白身魚を持ち上げた。
「魚は朝だろ」
「だからお前は上客なんだよ。二尾でいいか」
「ああ」
白身魚を二尾、紙に包んでもらった。親父の手つきは相変わらず雑だが、魚の鮮度を見る目は確かだ。
遺物商の並ぶ一角を通った。
「おう、ノルの鑑定書付きは値が張るぞ」
遺物商のベネックが、隣の商人に向かって言っていた。冗談半分、本気半分の声だ。おれの鑑定書の信用が戻った。いや——公開鑑定の後、以前より高くなっている。
「……面倒だな」
信用が上がれば、依頼が増える。依頼が増えれば——面倒が増える。
食堂に入った。いつもの席。魚介煮込みを頼んだ。
「ノル、この前の公開鑑定、すごかったって評判だぞ」
食堂の主人が煮込みを運んできた。
「おれは鑑定しただけだ」
「それが一番すごいんだろ」
煮込みを啜った。いつもの味。魚介の出汁が濃い。塩加減がちょうどいい。変わってない。それでいい。
窓の外で港の喧騒が聞こえる。荷下ろしの掛け声。カモメの鳴き声。あの左利きの店主の店は、もう閉まっているだろう。バルドが手配したギルドの警備が動いた。偽造鑑定書の回収も進んでいる。市場は——少しずつ、元に戻りつつある。
煮込みを食い終えて、茶を一杯飲んだ。
午後、工房にいるとノックが二回。丁寧な間隔。リタじゃない。
「おはようございます、ノルさん」
マリカだった。今日は巻き袋を持っていない。手ぶらだ。
「最後のご挨拶に来ました」
工房に入って、カウンターの前に立った。いつもの位置だが、今日は鑑定の依頼ではない。
「商団を離れることにしました。取引データの不正に関与した幹部は処分されましたが、わたし自身の判断で契約を解除しました」
「……あんたの意思でか」
「はい。雇い主の不正を見つけたのはわたしです。見つけた以上、同じ場所にはいられません」
マリカの声は落ち着いていた。だが目の奥に、覚悟の色がある。商団の後ろ盾を失うということは、鑑定士としての基盤を失うということだ。データと流通の知識はあっても、次の仕事が決まっているわけではないだろう。
「次はどこに行くかわかりません。でも——また鑑定の仕事はします」
「当然だ。あんたは鑑定士だ」
おれの声が、思ったより素直に出た。
「あんたの鑑定の腕は認めている。方法が違うだけだ」
マリカが一瞬、目を見開いた。それから——笑った。
「それ、前にわたしが言いましたよね」
「……面倒な奴だな」
「デルガの魚介煮込み、また食べに来ますよ。——そのとき、もう一度鑑定対決しましょう」
マリカが手を差し出した。おれはその手を握った。鑑定焼けの痕が残った指先。おれと同じ手だ。方法が違う。思想が違う。見ているものは同じだ。
「受けて立つ。次はおれの工房で、正式にやるぞ」
「楽しみにしています」
マリカが帰った後、工房が静かになった。
あの女がいなくなると、工房が少し広くなった気がする。——悪い広さではないが。
夕方、ギルドから伝言が届いた。受付の職員が封書を持ってきた。
「ヴィクトさんからです」
封を切った。短い手紙。ヴィクトの字だ。左に流れる癖のある、鑑定士の字。
『ノル。公開鑑定の話は看守から聞いた。お前らしくもない派手な真似をしたものだ。——だが、次はもっと面倒なことになる。おれの知っているあの遺物の本当の価値、そろそろお前にも見えてくるはずだ。格子越しでよければ、また話してやる。——ヴィクト』
手紙を畳んで、机の引き出しに入れた。あの遺物の本当の価値。何のことだ。——いや、今はいい。あの男は格子の中にいても、おれより先を見ている。面倒な先輩だ。
工房の扉が開いた。ノックなし。リタだ。
「ノルさん! あの第四層の遺物——回路痕の反応が前より強くなってる気がするんです」
リタの手に、あの金属片があった。棚から勝手に出したらしい。こいつは遠慮を知らない。表面の刻印。回路の痕跡。前に見たときと同じ品だ。変わっているはずがない。
指先に触れた瞬間、脈動を感じた。
前は感じなかった。金属の内部で、何かが動いている。呼吸するように。休眠していた回路が、一瞬だけ反応した。
指を離した。脈動は消えた。気のせいかもしれない。だがおれの指先は嘘をつかない。
深追いはしない。今日はここまでだ。だが——指先がまだ痺れている。この品が何を隠しているのか、それはいずれわかる。
「面倒だな。……まあいい、見せてみろ」
リタが笑った。リュックを下ろして、カウンターの前に座る。いつもの場所。こいつがここに座るようになって、どれくらい経ったか。工房に人がいるのは面倒だ。だが、面倒の質が変わった。
工房の窓から、港が見えた。夕日が落ちかけている。水面が赤く光っている。漁船が港に戻ってくる。朝市の屋台は片づけが終わっている。デルガの日常。おれの日常。
面倒ごとは——まだ増えるだろう。遺物が増え、依頼が増え、人が増え、面倒が増える。
まあ、悪くない。




