空白の椅子
ギルド支部の廊下は、朝から人の気配が薄かった。受付の前を通り過ぎ、奥の階段を上がる。二階の執務室。扉を叩くと、低い声が返ってきた。
「入れ」
執務室は前と変わっていなかった。壁一面の棚に依頼書と報告書の束。窓からは港が見える。机の向こうに座っている大柄な男——ギルドマスター、バルド。右腕の古い傷跡もそのまま。変わったのは机の上の書類の厚さくらいだ。
「珍しいな、ノル。二度目の自発的訪問か」
「面倒だが、放っておけない話がある」
偽造鑑定書を机の上に置いた。バルドが太い指でそれを取り上げ、魔石灯の光にかざした。
「ギルドとしても把握している」
バルドの声に驚きはなかった。
「知ってたのか」
「三日前に遺物商組合から報告が上がった。ノルの署名入りの鑑定書に疑義がある、とな。支部でも調査を始めているが——」
バルドが椅子の背にもたれた。革張りの椅子がぎしりと鳴る。
「今、市場は微妙な状態だ」
「どういう意味だ」
「ヴィクトの密売組織を潰した後、デルガの遺物市場に穴が開いた。あの組織は違法だったが、市場の一定の流通を担っていたのも事実だ。それが消えて、空白ができた」
バルドが窓の外——港を見た。
「空白を埋めようと、いろんな連中が動いている。ギルドとしては統制を強めたい。だが外国商人が入ってきている。サクヴァラの商団もその一つだ。旧来の遺物商たちは外の人間に市場を取られたくない。みんな自分の取り分を確保しようとしている」
「その混乱の中に、偽造鑑定書が流れ込んでいる」
「そうだ。だが今の段階で犯人を特定できなければ、ギルドとして公式に動くのは難しい。偽造の証拠はお前の分析だけだ。並の鑑定士には見分けがつかない」
バルドの言葉に、食堂の主人の声が重なった。「ノルの鑑定書って信用できるのか?」。おれだけが偽物とわかる。おれだけが見分けられる。その事実が証明を阻んでいる。
「ノル。お前の目が正しいことは、おれが一番知っている。だが目に見える証拠がなければ、ギルドは動けない。市場に出回っている偽造鑑定書を回収するにも、まず偽造だと第三者が確認できる根拠がいる」
「紙質の分析なら——」
「それをギルドの検証にかける。お前の報告書を正式に出してくれ。時間はかかるが、手順を踏む」
手順。バルドらしい。この男は正面からしか物事を動かさない。おれが面倒くさがりなら、バルドは愚直だ。だが、それが十年以上ギルドマスターを続けている理由でもある。
「わかった。報告書は明日出す」
「頼む。——ノル」
立ち上がりかけたおれを、バルドが呼び止めた。
「お前の鑑定書の信用は、この街の遺物市場の土台だ。それを壊そうとしている奴がいるなら、ギルドとしても放っておけない。だが——焦るなよ」
昼前にギルドを出た。坂を下りながら、バルドの顔を思い返した。あの男が「焦るなよ」と言うときは、自分が焦っているときだ。十年も見ていれば——。
いつもの食堂でいつもの席に座り、魚介煮込みを頼んだ。
バルドの話を整理する。権力の空白。ギルドの統制強化。外国商人の参入。三つの力が同時に動いている中に、偽造鑑定書が流れ込んでいる。誰が、何のために——まだ見えない。
煮込みが来る前に、見慣れた革の上着が食堂の入口に現れた。
「おう、ノル。ここにいたか」
ゴルツだ。食堂にゴルツが来るのは珍しい。裏通りから出てくること自体、あまりない。
「何だ、わざわざ」
「お前に会いに来たんだよ。裏通りで待っててもお前が来ないからな」
ゴルツがおれの向かいに座った。食堂の主人に茶を頼み、声を低くした。
「二つある。まず一つ目——軍の連中がまたうろついてる。前より人数が多い」
「軍?」
「ああ。私服だがな、歩き方でわかる。背筋がまっすぐで、周囲を見る目が冒険者とは違う。あれは訓練された目だ。最近、港の辺りで三人は見た」
軍。反宗教国家の軍情報部か。デルガは反宗教国家の領内だが、軍がわざわざ港街に人を出すのは穏やかじゃない。
「もう一つは?」
「港の方に新しい遺物買い取りの店が出たの、知ってるか? サクヴァラの商団の近くだ。表向きは小さい店だが、仕入れがやたら多い。裏通りの連中も首を傾げてる」
新しい店。港沿い。仕入れが多い。
「誰がやってる店だ」
「それがわからん。おれも一度覗いたが、店主は若い男で、遺物商の匂いがしなかった。素人じゃないが、デルガの人間じゃない」
ゴルツが懐から布に包んだ小さな品を取り出した。
「ちょっと見てくれ。裏通りで流れてた品だ。偽造鑑定書が付いてたって話だが、鑑定書は回収されて手元にない。品だけ残った」
布を開いた。金属の継ぎ手。指三本分ほどの長さの管状の部品。両端に嵌合部がある。
手に取った瞬間、指先に覚えのある感触が走った。
加工痕。管の内側に、旋盤で削った痕跡がある。削り角度を確かめた。12度。嵌合部の仕上げ精度は高いが、内壁の研磨が甘い。表の仕上げだけ丁寧にして、見えない部分は省力化している。
合金の色を光に透かした。灰色がかった銀白色。錫の含有率が高い配合だ。中層の東側——第三層と第四層の境界付近で採掘される鉱石から精錬した合金は、この色になる。
「これは偽造鑑定書が付いていた品と同じ産地だ」
「確かか」
「加工痕の角度、合金の配合比。間違いない。中層の東側、第三層と第四層の境界付近だ」
ゴルツが眉を上げた。
「東側の境界か。あの辺は最近、冒険者の出入りが増えてるって聞いたが」
「リタが最初に遺物を持ち込んできた場所に近い」
食堂で煮込みを食い終え、ゴルツと別れた。ゴルツは帰り際、茶代を置きながら言った。
「裏通りでは噂が立ってる。ヴィクトの組織の残党が動いてるってな。名前は出てこないが、あの辺のルートを知ってる人間が新しく品を流し始めてる」
残党。ヴィクトが消えた穴を埋めようとしている連中か。
「空白を埋めようとしてる連中がいる。ギルドだけじゃない、外の商人も、軍も——みんな同じ椅子を狙ってる。気をつけろよ、ノル」
空白の椅子。バルドも同じことを言っていた。密売組織が消えた後の、市場の主導権。
工房に戻り、机の上に偽造鑑定書付き遺物の記録を広げた。ゴルツの継ぎ手も加える。
紙の上に、確認済みの遺物を一つずつ書き出していく。書き出すたびに、地図の上に印をつけた。朝市で見つけた金属板。ゴルツが裏通りで確認した三点。リタが冒険者から聞いた三点。今日の継ぎ手。印を打ち終えて、ペンを置いた。品はバラバラだが、印が集まっている場所がある。
全部、中層の東側だ。しかも第三層と第四層の境界付近に集中している。あの辺りはヴィクトが密売に利用していた採掘ルートに近い。ヴィクトが捕まった後、誰かが同じルートを使っている可能性がある。
窓の外が暮れていく。魔石灯の光が机の上の紙を照らしている。
頭の中で構図を整理した。
ギルドは秩序を取り戻そうとしている。外国商人は商機を狙っている。軍は——何だ、あいつらの目的がわからん。
その三つとは別に、偽造鑑定書を流している「誰か」がいる。こいつは椅子に座ろうとしていない。椅子そのものを壊しにかかっている。
おれの名前を使った理由もわからない。なぜノルなんだ。デルガには他にも鑑定士がいる。なぜ、おれの署名を偽造する必要があった。
「……面倒だ」
口に出して言った。本当に面倒だ。だが——焦点は絞れてきた。中層の東側。港沿いの新しい店。軍の影。
糸が見えてきている。まだ、どの糸がどこに繋がっているかはわからないが。




