おれの知らない鑑定書
港街デルガの朝は、魚の匂いから始まる。
半月前もそうだったし、半年前もそうだった。たぶん十年後もそうだろう。おれがこの街にいる限り、朝は魚臭い。
石畳の坂道を下り、港沿いの広場に出ると、朝市はとっくに回り始めていた。威勢のいい声、銀色に光る魚の山、魔石の冷気で白い靄を立てる木箱。いつもの光景だ。
今朝は風が弱い。湿った空気が坂道を這い上がってきて、魚と潮の匂いがいつもより濃い。
「鯛もどき、今朝もいいのが揚がったよ!」
「岩貝、岩貝! 殻付き、朝獲れ!」
いつもの魚屋の前で足を止める。白身魚の鱗の艶、目の透明度、鰓の色。今日のは悪くない。二尾選んで台に置いた。
「ノルさん、おはよう。今日も早いね」
「魚は朝だろ」
「相変わらずだねえ。——そういえばさ、最近贋作が減ったって遺物商の連中が喜んでたぜ。ノルさんのおかげだろ?」
「おれは何もしてない」
「はいはい、何もしてない何もしてない。でもよ、実際助かってんだよ。前はさ、ウチの常連にも『あの遺物商で買ったモンは大丈夫か?』なんて聞かれてたんだけどさ、最近はそういうのがなくなった」
「魚屋に遺物の心配をする客がいるのか」
「いるんだよ。魚しか売ってねえのにな」
親父が笑いながら油紙に包んでくれる。銅貨を四枚置いて、坂を少し戻る。白身魚は塩焼きにするか。いや、昨日も焼いた。今日は酒蒸しにしよう。工房に戻ったら鍋を出す。
確かに、あの一件以来、市場の空気は落ち着いていた。贋作——正確には本物を偽物に見せかけていた品——が消え、遺物の相場も安定している。ヴィクトが捕まり、密売ルートが潰れたことで、デルガの遺物市場は平穏を取り戻しつつあった。
おれの日常も元に戻った。朝市で魚を買い、工房で鑑定し、食堂で飯を食う。面倒ごとのない、静かな毎日。
遺物商の一角を通りかかったとき、耳に声が入った。
「これ、ノルの鑑定書付きだぜ。間違いない」
「マジか。ノルが本物って言ってるなら、銀貨三枚は堅いな」
足が止まった。
止めようと思ったわけじゃない。おれの名前が出たから反射的に耳が拾っただけだ。通り過ぎればいい。他人の取引だ。
視線が、台の上の書状に吸い寄せられた。
冒険者らしい男が、遺物商の台で遺物を売ろうとしている。手のひら大の金属板。表面に細かい刻印。その横に、一枚の鑑定書が添えてあった。
書状の右下に署名がある。「鑑定士ノル」。ギルドの印章。おれの筆跡に見える文字。
だが——おれは、あの遺物を見たことがない。
「ちょっと待て」
声をかけていた。冒険者と遺物商が振り向く。おれは台に近づき、鑑定書を手に取った。
「おい、何だよ。人の取引に——」
「おれがノルだ」
冒険者が口を閉じた。遺物商の方は顔見知りだ。おれを見て目を丸くしている。
「ノル? お前が? じゃあこの鑑定書は——」
「見せてくれ」
鑑定書を光に透かした。
署名は確かにおれの字に見える。ギルドの印章も一見すると正しい。だが指先が紙に触れた瞬間、わずかな違和感があった。
滑りがない。ギルドの公用紙特有の、海藻繊維の滑りが。
海沿いの街で使う都合上、ギルドの公用紙には湿気に強い海藻由来の繊維が混ぜてある。だから指先にわずかな滑りが残る。おれは毎日のようにあの紙に触れている。指が覚えている。
この紙には、それがない。
「……この鑑定書は預からせてもらう。おれが書いたものかどうか、確認する」
遺物商が頷いた。冒険者は不満そうだったが、おれの名前の重さを知っているのか、それ以上は何も言わなかった。
工房に戻った。
革のエプロンを着け、ルーペを首にかける。鑑定書を机の上に広げ、魔石灯の光を当てた。白身魚は台所の隅に置いたままだ。酒蒸しは後でいい。
まず紙質。ルーペで繊維を確かめる。ギルド公用紙には海藻由来の細い繊維が混ざっており、光を当てると微かに青白い光沢を帯びる。指の腹でゆっくりと表面を撫でた。ざらつきの粒度が違う。普通の紙に近い、均質なざらつき。
この紙にはギルド紙の光沢がない。繊維の配合が違う。よくできた模造品だが、原料の段階で差がある。
偽物だ。
次に印章。ギルドの公印はデルガ支部独自の型を使っており、角の丸みに特徴がある。印影を真上から見下ろし、ルーペの倍率を上げた。
一見すると同じだが——角度が微妙にズレている。0.5度ほど。右に傾いている。おれが押すときは、必ず真正面から力を入れる。紙に対して垂直に、均等に。そういう癖がある。それを知っている人間が模造したが、完全には再現できなかった。
最後に筆跡。おれの署名の「ノル」の三文字。形は似ている。だが——ルーペで拡大すると、筆圧のパターンがおかしい。
「一定すぎる」
人間の筆圧は、書き始めと書き終わりで自然に変動する。力の入り方に癖が出る。おれの場合、「ノ」の入りが強く、「ル」の最後で抜ける。この署名は、全体にわたって筆圧がほぼ均一だった。
なぞっている。おれの署名を下敷きにして、上からなぞった。だから形は似ているが、筆圧のリズムが死んでいる。
椅子の背にもたれた。天井を見上げる。
紙質。印章。筆跡。三つとも偽造だ。しかも、かなり精巧な偽造だ。
紙の繊維の配合まで似せている。印章の角度はほぼ正確。ルーペで見なければ筆跡の区別がつかない。素人どころか、並の鑑定士でも見抜けないかもしれない。
「こいつは……おれの鑑定書を何枚も見ている人間だ」
ギルドに提出された鑑定書の控えは、支部の書庫に保管されている。閲覧にはギルドの許可がいるが、書庫番に顔が利けば目を通せないわけではない。あるいは、おれの鑑定書付きの遺物を何点も購入して、鑑定書だけを集めたか。
どちらにしても、場当たり的な犯行じゃない。準備に時間がかかっている。おれの署名の筆圧パターンまで模倣しようとした——つまり、おれの鑑定書を並べて、署名だけを繰り返し練習した人間がいる。
面倒な匂いがする——いや。面倒な匂いどころじゃない。おれの名前が汚されている。
工房の扉が開いた。
「ノルさん! おはようございます!」
赤茶の短い髪。きらきらした目。棘鱗の軽鎧の上から背負った大きなリュックが、体の幅からはみ出している。
リタだ。半月前の事件以来、こいつの工房への出入りはさらに増えた。もはや日課だ。半月前より少し日焼けした腕に、新しい擦り傷が二本。中層に潜った痕だろう。
「……ノック」
「しました。返事がなかったので」
「鑑定中は——」
「耳が遠くなるんですよね。知ってます」
反論の余地がなかった。
リタがリュックを床にどすんと下ろした。じゃらじゃらと金属の音。
「今日は中層の西側まで足を延ばしたんですよ! いい感じのが三つ——って、ノルさん、何見てるんですか?」
リタが机の上の鑑定書を覗き込んだ。
「これ、ノルさんの鑑定書ですよね? ノルさんの字だ」
「見ろ」
ルーペを渡した。リタが首を傾げながら覗き込む。
「……えっと、普通にノルさんの字に見えますけど」
「筆圧を見ろ。ここ、署名の部分だ」
「筆圧……」
リタがルーペを近づけたり離したりしている。眉間に皺を寄せて、真剣な顔で紙面を睨んでいる。
「……すみません、やっぱりわかんないです。普通にノルさんの字に見えます。紙の色も同じだし、ギルドの判子も——」
「紙の色は似せてある。印章も精巧な模造だ。だが紙質が違う。触ってみろ」
リタが指先で紙に触れた。次に、机の引き出しからおれが書いた本物の鑑定書を出して横に並べた。リタが両方を交互に触る。
「……あ。こっちの方がちょっと滑る?」
「そうだ。ギルドの公用紙には海藻の繊維が入っている。こっちにはない」
「えっ……じゃあこれ——」
「リタ。これはおれが書いた鑑定書じゃない。偽物だ」
リタの目が大きくなった。
「偽物……? でもノルさんの字で、ギルドの印章で——」
「全部偽造だ。紙も印章も筆跡も。おれの鑑定書を何枚も研究して、精巧に再現している」
「えっ……じゃあ、この鑑定書で本物って証明されてる遺物は——」
「おれが見てもいない遺物が、おれの名前で『本物』にされている」
リタが口を閉じた。おれは鑑定書を机の端に置いた。指先に、まだあの紙の違和感が残っている。海藻繊維のない、滑りのない紙。おれの署名がある。おれが書いていない署名が。
窓の外を見た。港が見える。朝の光の中で、漁船が行き交い、朝市の喧騒が丘の中腹まで薄く届いている。
あの景色のどこかに——おれの名前で嘘をついている奴がいる。
「……面倒な匂いどころじゃないな」
リタが持ち込んだ遺物は、後で見ることにした。今は——こっちが先だ。




