1
あの日、『松の湯』は“呪いの銭湯”と呼ばれた。
――でも、あのときの私は、そんなこと、知る由もなかった。
その夜は桜がさやさや散っていて、小雨が舗道を濡らしていた。
『松の湯』の営業時間は夜十一時までだから、九時を過ぎたあたりから徐々に店の中はまばらになる。
春の夜の甘い空気を吸いながら、私は番台に腰かけて少しぼうっとしていた。
「ささらちゃん、久しぶり!」
ガラス戸が開く音とともに、明るい声が飛び込んできた。
顔を上げると、そこに立っていたのは、春の花みたいに華やかな女性だった。
ピンクのカットソーに白いスカート。耳元には真珠のイヤリング。
場違いなくらいに綺麗なその姿に、私は一瞬、言葉を失う。
でも、その顔には見覚えがあった。
「もしかして、ゆみりー?」
「そうだよ~!めっちゃ久しぶり!」
ぱっと笑顔が弾ける。
麻生結実理――中学時代の同級生。三年間、同じクラスだった友達だ。
「結婚式以来だよね?元気してた?」
変わらない軽やかな口調。でも――。
(あれ……?)
私は、ほんのわずかに違和感を覚えた。
顔色が悪い。
それに、あれだけおしゃれに気を使っていたはずの指先が、ひどく荒れている。
視線を落とした先にあるはずのものが――ない。
(結婚指輪……してない?)
「大学辞めて銭湯継ぐって聞いてたけど、本当だったんだね~」
結実理は番台に身を乗り出しながら、楽しそうに店内を見回す。
「ずっと来てみたかったんだよ。思ってたよりレトロでいい感じ!」
その明るさに、私は思わず微笑んだ。
――変わらないな、ゆみりー。
「大人一人お願いします。あ、PayPayって使えないよね?」
「四百二十円になります。ごめん、現金だけなんだ」
「全然大丈夫!」
グッチの長財布から新札を取り出し、結実理はにこっと笑った。




