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あの日、『松の湯』は“呪いの銭湯”と呼ばれた。


――でも、あのときの私は、そんなこと、知る由もなかった。





その夜は桜がさやさや散っていて、小雨が舗道を濡らしていた。


『松の湯』の営業時間は夜十一時までだから、九時を過ぎたあたりから徐々に店の中はまばらになる。


春の夜の甘い空気を吸いながら、私は番台に腰かけて少しぼうっとしていた。


「ささらちゃん、久しぶり!」


ガラス戸が開く音とともに、明るい声が飛び込んできた。


顔を上げると、そこに立っていたのは、春の花みたいに華やかな女性だった。


ピンクのカットソーに白いスカート。耳元には真珠のイヤリング。


場違いなくらいに綺麗なその姿に、私は一瞬、言葉を失う。


でも、その顔には見覚えがあった。


「もしかして、ゆみりー?」


「そうだよ~!めっちゃ久しぶり!」


ぱっと笑顔が弾ける。


麻生結実理(あそう・ゆみり)――中学時代の同級生。三年間、同じクラスだった友達だ。


「結婚式以来だよね?元気してた?」


変わらない軽やかな口調。でも――。


(あれ……?)


私は、ほんのわずかに違和感を覚えた。


顔色が悪い。

それに、あれだけおしゃれに気を使っていたはずの指先が、ひどく荒れている。


視線を落とした先にあるはずのものが――ない。


(結婚指輪……してない?)


「大学辞めて銭湯継ぐって聞いてたけど、本当だったんだね~」


結実理は番台に身を乗り出しながら、楽しそうに店内を見回す。


「ずっと来てみたかったんだよ。思ってたよりレトロでいい感じ!」


その明るさに、私は思わず微笑んだ。


――変わらないな、ゆみりー。


「大人一人お願いします。あ、PayPayって使えないよね?」


「四百二十円になります。ごめん、現金だけなんだ」


「全然大丈夫!」


グッチの長財布から新札を取り出し、結実理はにこっと笑った。

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