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第3回:政治圧力と見えない包囲網

東京都千代田区霞が関。日本の経済秩序を守る「番人」たちが集う公正取引委員会の庁舎は、外から見れば無機質な官僚機構の塊に過ぎない。しかし、その内部で古根川を待ち受けていたのは、かつての同僚たちが放つ、凍りつくような「忖度」の空気だった。


「……古根川さん。これ以上、この案件を突き回すのはやめてください」


 古根川の前に座る現役審査官、佐藤は、提出された申告書を見ようともせずに溜息をついた。かつて古根川が手塩にかけて育てた後輩の目は、激務によるクマと、それ以上の「圧力」によって濁っている。


「佐藤、証拠は揃っているはずだ。不当廉売、優越的地位の濫用。どれも独占禁止法違反の教科書のような事例だぞ。あけぼの商店街はもう、窒息寸前なんだ」


「ええ、資料は拝見しました。完璧な調査です。さすがとしか言いようがない。ですが……」


 佐藤は声を潜め、周囲を伺った。


「上が『慎重に検討せよ』と直々に言ってきたんです。マオウ・ホールディングスが進める再開発計画は、国家戦略特区の目玉事業です。背後には、経産省のドンと呼ばれる大物議員、御門みかど先生が動いている。今の公取委に、その首に鈴を付ける度胸はありませんよ」


「法律に『政治的配慮』という免責条項があったかな? 私の持っている法典には載っていないようだが」


 古根川の皮肉に、佐藤は机を叩いて立ち上がった。


「古根川さん! あなたは五年前にそれで一度、死んだじゃないですか! 聖域に踏み込んで、証拠を握りつぶされ、組織を追われた。あの時と同じ轍を踏むつもりですか?」


「……轍? いいや、私はまだ一度も、その道を通り抜けてはいない。立ち止まったままなのは、君たちの方だ」


 古根川は冷めた目を佐藤に向け、申告書を机の上に置いて立ち去った。公取委の廊下を歩く彼の背中には、かつての「法の番人」としての誇りよりも、獲物を追い詰める「掃除屋」としての冷徹さが漂っていた。


 一方で、あけぼの商店街の空気はさらに冷え込んでいた。

 商店街の入り口にある掲示板には、いつの間にか『再開発同意書・最終受付』という鮮やかなポスターが貼られている。皮肉にも、そのスポンサーロゴはデモン・マートのものだった。


「……もう、終わりなの?」


 サキが店先で力なく呟く。彼女の視線の先では、馴染みの魚屋の主人や、文房具店の店主たちが、苦渋の表情でデモン・マートの社員から封筒を受け取っていた。


「再開発協力金、五百万だってさ。これを受け取れば、借金が返せる。……悪いな、サキちゃん。俺たちも、もう限界なんだ。一円の魚に勝てるわけねえだろ?」


 魚屋の主人の言葉は、裏切りというよりは、絶望の告白だった。一人、また一人と、かつての仲間たちが、巨大な資本という名の「魔王」に魂を売っていく。彼らを責める権利など、誰にもなかった。一円で物が買える魔法の国で、百円の価値を説くのはあまりにも無力だ。


 そこへ、一台の高級セダンがゆっくりと現れた。

 後部座席から降りてきたのは、阿久津マネージャーではない。銀髪を完璧にセットし、オーダーメイドの三つ揃えを纏った男。マオウ・ホールディングスの最高経営責任者、マオウその人だった。


「……おや。まだ看板を掲げている勇敢な店があるとは」


 マオウの声は、深みのあるバリトンで、不思議な慈愛に満ちていた。しかし、その瞳には感情の一切が欠落している。


「マオウ……!」


 源さんが厨房から飛び出してくる。マオウは微笑み、ベーカリー・サンの看板を指差した。


「源さん、と言いましたか。あなたの焼くパンは、この街の『ノイズ』です。効率を追求し、最適化された経済圏において、個人のこだわりは不純物でしかない。私はこの街を、一切の無駄がない『完璧な消費の揺りかご』に変えたいのです。そこに、あなたの不器用な情熱は必要ありません」


「勝手なことを言うな! 俺たちはここで生きてきたんだ!」


「『生きてきた』。過去形ですね。今のあなた方は、ただの屍です。五百万という弔慰金を用意しました。これを持って、どこか別の、まだ『不便な』街へ行きなさい。そこなら、あなたの遅いパンでも、誰かが喜んでくれるかもしれない」


 マオウが差し出した小切手を、源さんは受け取らずに睨みつけた。だが、周囲の店主たちは、その圧倒的な存在感に飲まれ、目を逸らすことしかできない。


「さて、古根川君。そこに隠れていないで、出てきたまえ」


 マオウが背後の影に声をかける。古根川が、ゆっくりとトレンチコートを揺らしながら姿を現した。


「……CEO自らのお出ましとは。私の申告が、少しは効いたということですか」


「申告? ああ、あの紙切れのことか。公取委の長官とは昨夜、ゴルフをしましてね。彼は非常に話の分かる男だった。君の申告書は今頃、シュレッダーの藻屑だろう」


 マオウは古根川の目の前まで歩み寄り、その耳元で囁いた。


「古根川。法律は、強者が弱者を統治するために作るものだ。弱者が強者に逆らうための道具ではない。君の『正義』は、インクのシミほどの実効性も持たない。……諦めろ」


 マオウが去った後、商店街には静寂だけが残った。

 仲間たちは去り、国の機関は沈黙し、敵の頂点に宣戦布告をされた。

 サキは、店内の椅子に座り込み、顔を覆った。


「……古根川さん。もう、どうしようもないよ。法律が助けてくれないなら、私たちに何が残ってるの?」


 古根川は答えず、ただじっと自分の手元を見ていた。

 そこには、公取委を辞めた時に持ち出した、古い手帳があった。


「……サキさん。五年前に、私が負けた理由を話しましたっけ?」


「え……?」


「あの時、私は『法さえあれば勝てる』と信じていた。正論を振りかざせば、真実は自ずと明らかになると。だが、現実は違った。法を動かすのはインクではなく、人の熱量だ。……そして、マオウの言う通り、公的な機関が動かないなら、私たちが『法そのもの』になればいい」


 古根川の言葉に、絶望していた源さんが顔を上げた。


「法になるって……どういうことだ、あんた」


「『中小企業等協同組合法』。……皆さん、この地味な法律の名前を聞いたことはありますか?」


 古根川は、懐から新しい書類を取り出した。それは公取委への申告書ではなく、商店街の再建計画書でもない。


「マオウ・ホールディングスは、巨大な一つの個体だ。対して、皆さんはバラバラの細胞に過ぎない。だから、優越的地位の濫用で各個撃破された。ならば、対抗策は一つ。皆さんが結合して、一つの『巨大な意思』になることです」


「結合……?」


「商店街の全店舗を、一つの『事業協同組合』として組織し直します。そして、その組合の代表として、デモン・マートと『団体交渉』を行う。これは労働組合と同じ、法律で守られた正当な対抗手段だ。……もしマオウがこの交渉を拒否すれば、その瞬間、彼らは『不当労働行為』ならぬ『不当な取引制限』として、今度こそ公的な制裁を免れない」


 古根川はサキの目を見つめた。


「SNSを使って、この状況を可視化します。『魔王軍に一人で立ち向かう、一円弁当のレジスタンス』。……世論という名の巨大な法廷を、こちら側へ引き寄せるんです。敵が政治圧力を使うなら、こちらは『国民の怒り』という、政治家が最も恐れる暴力で対抗する」


 古根川の瞳に、かつての官僚時代にはなかった、野良犬のような野心的な光が宿る。


「……裏切った仲間たちも、まだ間に合う。彼らが受け取った小切手。それ自体が、マオウによる『不当な囲い込み』の証拠になるんです。……源さん、パンを焼く準備はいいですか?」


「……ああ。火は消しちゃいねえ。……いや、今、もう一度火がついたぜ!」


 源さんが、力強く麺棒を握りしめた。

 サキも涙を拭き、古根川の隣に並ぶ。


「古根川さん。私、何でもする。レシートの整理でも、SNSの動画編集でも……あの魔王の鼻を明かせるなら!」


「ええ。明日、魔王軍の『聖域』に、史上最大規模の立ち入り検査を入れます。……ただし、検査官は公務員じゃない。スマホを手にした、この国の『消費者』全員です」


 夜の商店街に、キーボードを叩く音と、パンを捏ねる音が響き始めた。

 それは、巨大な資本という壁に穿たれる、小さな、しかし致命的な亀裂の音だった。


 古根川は夜空を見上げ、薄く笑った。

 五年前、自分を葬った「正義の不在」という闇。

 今度は、その闇の中から、最強の『法の罠』を仕掛けてやる。


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