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辺境ギルドの受付嬢ですが、冒険者の嘘は帳簿でぜんぶバレます  作者: 蒼月よる


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第12話 新しい帳簿

 新しい帳簿には、匂いがある。


 紙と、糊と、まだ何も書かれていないことの匂い。言葉にするとおかしいが、そうとしか言いようがない。白いページが束になって綴じられているだけのものが、これほど重みを持つのは、それが「これから」だからだと思っている。どんな取引も、どんな素材も、どんな嘘も、まだここには入っていない。数字は、全部これからだ。


 倉庫の奥の棚から取り出した新しい帳簿を、カウンターの上に置いた。


 今朝の灰枝は曇っている。秋の曇り空で、光が拡散している。窓から差し込む陽に輪郭がなく、カウンターの木目が薄く見えた。風は冷えていた。もうじき、通りの木の葉が落ち始めるだろう。


 私は古い帳簿を手に取った。


 表紙に日付が書いてある。一年と少しぶんの記録が、この一冊に収まっている。ページをめくると、日付の順に取引の記録が並んでいた。買取金額、素材の種別、申告者の名前、備考。一行一行が、一つの出来事だ。


 最初のページ近くに、ヨルさんの署名があった。


 あの朝のことを覚えている。麻袋の中の蒼苔が、申告よりも重かった。秤に載せると針が思いきり動いて、ヨルさんが頭を掻いた。樹海の沢筋まで迷い込んで、ついでに採ってきたのだと言った。嘘をつこうとしたわけではなく、本当にうっかりしていただけの人だ。正直に申告した方が査定が上がる、と告げたときの、あの目の丸さ。


 ページをめくる。


 春の記録に、小さな名前があった。ユーリ。登録番号を振ったのは私で、その日の備考欄に「探知能力・特異」と書いた。初めて会ったとき、あの子は窓の外の通りを歩く冒険者の数と荷の重さを、扉越しに当ててみせた。三人。全員、荷を持っていた。重さは正確だった。


 その後、パーティを組んで、デルガへ向かった。もうじき冬になる。デルガで冬を越すのか、それとも一度戻るのか、私には知る方法がない。帳簿には「越境通行証 発行」という記録だけが残っている。


 あの子の目が、今頃どこを見ているか。


 ページを少し飛ばす。


 夏の終わりに、聖騎士が通った。宿泊届の書類は事務的で、整然としていた。人数、名前、在泊日数、目的地。目的地の欄には「デルガ方面」とだけ書いてあった。あのとき胸を過ぎった感覚は、うまく言葉にできなかった。冷たいもの、とでも言えばいいか。春先の沢の水のような、澄んでいるが体温を奪う冷たさ。甲冑の音と、整然と並んだ書類の筆跡と、目的地に書かれた一語——その三つが頭の中で重なって、その夜は少し眠れなかった。


 翌日、フィオナに声をかけた。教えておくべきだと思ったから。余計なお世話だったかもしれないが、帳簿の数字は嘘をつかないし、私も嘘をつきたくなかった。フィオナが頷いたときの、静かだが確かな目の変化を覚えている。あの人は動揺を表に出さない。でも、知っていた方がいい、ということは理解している。私が正直に伝えたことは、無駄ではなかったと思う。


 秋のページを開く。


 デルガ支部からの文書が挟んであった。記録の一部として保管している。内容は鑑定証明書の確認依頼で、それが偽造だった。文書の紙の質、印の圧力、インクの成分——正規の証明書と、細部の全部が違っていた。どこで作られたものか、なぜ灰枝まで流れてきたのか、私には調べる術がなかった。本部への特記事項に書いて、デルガ支部への返信にも記録して、それで終わりにするしかなかった。


 終わりにしたが、気にしていないわけではない。


 帳簿には書けないことが、そこにはある。


 ページをめくる。先月の記録が出てきた。テオの名前があった。


 若い冒険者だった。少しずつ、少しずつ奥へ踏み込んでいた。帳簿の数字は変化を記録していたのに、私はそれを見落としていた。もっと早く気づけたはずだった——あの夜、帳簿を遡りながら何度もそう思った。数字は正直だ。でも読まなければ、ただの紙だ。


 きのう、テオが松葉杖をついてギルドの扉を開けた。足はまだ引きずっていたが、顔には少しだけ色が戻っていた。


「ナタリア嬢、迷惑をかけた」


「迷惑じゃないです。来てくれてよかったです」


「……そうか」


 それだけの会話だったが、それで十分だった。テオは掲示板を少しだけ眺めて、松葉杖の音を立てながら出て行った。春になれば、また何か依頼を探すかもしれない。


 私は古い帳簿をゆっくりと閉じた。


 棚に戻す。今年分の記録が並んでいる。その横に、今閉じたばかりの帳簿を並べた。背表紙に日付を書いたラベルが貼ってある。ここに収まった一年と少しが、棚の中で眠る。


 新しい帳簿に向き直った。


 表紙を開く。最初のページ。白い。


 今日の日付を書く。インクが紙に吸い込まれる。それだけで、空白ではなくなった。


 ペンを置いたとき、外で人の足音がした。通りを歩く足音ではなく、ギルドの入口に向かってくる足音だ。


 扉が開いた。


 入ってきたのは、フィオナだった。


 普段と違った。仕事着のエプロンではなく、薄い藍色の上着に落ち着いた茶の裾の長い服。髪は後ろで一つにまとめてある。手提げ籠を提げていたが、壺の形はしていなかった。


「おはよう」


 声も、いつもと少し違った。低く、落ち着いているのは同じだが、受付で品物を出すときの声ではない。


「おはようございます」


 私は立ち上がりかけて、止まった。フィオナがカウンターに近づいてくる前に、手を振った。


「今日は仕事じゃないから、そっちに座ってていい」


「——そうですか」


 フィオナが籠を持ち直して、カウンターの横の来客用の椅子に座った。私もカウンターの中の椅子に座り直す。


「これ、持ってきた」


 籠から取り出したのは、小さな包みだった。麻布を丁寧に折りたたんで包んである。フィオナが包みを開くと、焼き菓子が出てきた。薄い茶色で、縁が少し焦げている。


「蒼実を入れた。甘さは控えめにしてある」


「……手作りですか」


「うん。たまに作る」


 蒼実というのは、秋に樹海の縁でとれる小さな実で、少し酸味がある。乾燥させると薬の材料になるが、そのまま食べてもいい。それを焼き菓子に入れる、というのはこのあたりではあまり聞かない。


 フィオナが「お茶、ここで出せる?」と聞いた。


「はい、事務室に湯があります」


「私が淹れる。鍋と茶葉、どこ」


 フィオナは慣れた手つきで事務室のポットを使って湯を温め、私の茶葉の缶を見つけ、二つの椀に茶を注いだ。どこで覚えたのか知らないが、この人は初めて行く場所でも迷わない。


 ギルドの裏手に、小さな板張りの段差がある。椅子を出す余裕はないが、腰掛けるには丁度いい。秋晴れの日に私が昼食を食べるのに使うだけで、ほとんど誰も知らない場所だ。フィオナが「裏に出ていい?」と聞くので、戸惑いながらも連れて行った。


 二人で段差に並んで腰を下ろした。


 フィオナが椀を持って、茶を一口飲んだ。私も飲んだ。温かかった。


 しばらく、どちらも黙っていた。


 通りとは反対側なので、人の声がしない。空は曇っていたが、重たい雲ではなかった。木の葉が一枚、どこかから飛んできて、足元に落ちた。


「ナタリアのおかげで、この場所にいられる」


 フィオナが言った。


 静かな声だった。いつも通りの、抑えた声だ。でも抑えた中に、何かが入っている声だった。


「……帳簿に書いてあるだけだよ」


 私は言った。


 嘘じゃない。本当のことだ。フィオナの薬草が良い品質で、それを正直に査定して、正直な値をつけた。それだけのことだ。帳簿の数字が正直だっただけで、私が特別に何かをしたわけではない。


 ただ——「帳簿に書いてあるだけ」という言葉には、もう一つの意味がある。帳簿がフィオナの品質を正直に記録したから、フィオナはここに続けて品物を持ってこられた。数字は嘘をつかなかった。だからフィオナはここにいる。それも、本当のことだ。


 フィオナが少し笑った気がした。


「そうだね」


 それだけ言って、また茶を飲んだ。


 菓子を一つ食べた。蒼実の酸味が、控えめな甘さの中にあった。


「おいしい」


「よかった。初めて作った配合だから」


「うまくいったよ」


「帳簿に書いといて」


 思わず笑った。「菓子の配合が成功した、とは書けないですよ」と言ったら、フィオナが「なんで」と真顔で言うので、また笑ってしまった。フィオナが少し困った顔をして、それから自分でも笑った。フィオナが笑うのを見たのは、初めてかもしれなかった。


 椀を両手で持って、温かさが指先に伝わる。


 フィオナの手が、隣に並んでいた。


 ずっと思っていて、ずっと声に出さなかったことが、喉の手前にあった。今日ここに来たフィオナは、仕事着ではなく、普段着で、椀を持って隣に座っている。受付カウンター越しではない距離だ。


「いい手だね、職人の手」


 声に出た。


 フィオナが手元を見た。それから私を見た。


 爪の際に染み込んだ、黄みがかった緑の色。草と油を長年扱ってきた手の色。洗っても取れない類の染みだ。


「……前から気づいてた?」


「最初に来た日から」


 フィオナが少しの間、自分の手を見ていた。それから、何かを考えるように目を細めた。


「言われたことなかった」


「そうですか」


「職人の手、って。そういう言い方」


「でも、本当のことだから」


 フィオナがゆっくりと頷いた。それから、また笑った。さっきより少し長い、静かな笑い方だった。


「ありがとう」


 その「ありがとう」は、最初に品物を買い取ったときの「ありがとうございます」とは、重さが違った。あの日のは、取引の礼だった。これは——もっと別の何かだった。うまく名前はつけられないが、確かに違う重さだった。


 曇り空の下で、しばらく二人で黙って茶を飲んだ。葉が一枚また飛んできた。


 フィオナが立ち上がったのは、茶が冷める頃だった。


「じゃあ、また来るね」


「はい」


「次は、品物も持ってくる」


「待ってます」


 私は本当に、待っている。フィオナの品物が来ると、在庫の質が上がる。帳簿の記録が良くなる。それだけでなく——フィオナがまたカウンターに来る、ということが、待ち遠しかった。


 フィオナが籠を持って、建物の角を曲がった。足音が石畳に遠ざかる。


 私は少しの間、段差に座ったまま、足元の木の葉を見ていた。空の曇りが少しだけ薄くなって、白い光が広がっていた。


 立ち上がって、ギルドの裏口から中に入った。事務室を抜けて、受付カウンターの前に立つ。椅子を引いて座る。いつもの位置だ。


 新しい帳簿が、開いたままカウンターの上にあった。


 最初のページ。今日の日付だけが書いてある。その下は、全部白い。


 私はペンを取って、インク壺の蓋を開けた。


 灰枝は変わっている、と思う。


 数字がそう言っていた。樹海の採取産地が奥にずれている。越境通行証の発行が増えている。デルガからの照会が来る。遺物の提出件数が上がっている。偽造された鑑定書が、どこかで作られてここまで流れてきた。聖騎士が通り過ぎた先に、何かがある。


 何がどうなっているのか、私には全体が見えない。カウンターの窓から見えるのは、一件ずつの断片だけだ。ユーリが今デルガで何を見ているか、フィオナがこの町にいつまでいるか、テオの足が春までに治るか——帳簿には書けないことが、灰枝には積もっている。


 でも、窓は開いている。


 誰かが明日ここに来て、何かをカウンターに置く。素材か、依頼書か、言い訳か。そのどこかに、小さな真実と、小さな嘘と、本人も気づいていない間違いが混じっている。私はそれを受け取って、確かめて、正直に帳簿に書く。一行の数字が積み重なって、いつかまた、何かの輪郭が見えてくる。


 帳簿は続く。新しい一冊が始まった。古いものが棚に収まった。その繰り返しが、灰枝の時間だ。


 私はペンを置いた。


 ランプの芯を整えて、火を消した。椅子を引いて立ち上がる。カウンターを布で拭く。秤に布をかける。窓の錠を確認する。倉庫の扉を確認する。いつもの順番で、閉める。


 鍵を手に取って、扉を開ける。


 外に出ると、夕方の空気は冷えていた。秋の夕暮れが、屋根の端を茜に染めている。通りには少し人が増えていた。鍛冶場の槌音が、遠くから聞こえる。


 鍵を回した。木戸が軋んで閉まった。


 道具屋の軒先で、棘鱗の風鈴が鳴った。


 朝よりも少し強い夕風に、からからと涼しい音が上がった。最初の朝にここに来たときも、あの風鈴が鳴っていた。あのころから変わっていないのは、たぶんあの音と、石畳の感触と——私がカウンターに座っていること、くらいだろう。他のことは全部、少しずつ違ってきた。


 ——さて、明日は誰が来るかな。


 小さく思った。声に出したかもしれない。どちらでもよかった。


 石畳を歩き始めた。


 風鈴の音が、夕暮れの通りに溶けていった。



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