第13話 引き継ぎの秤
椅子を、もう一つ並べた。
朝の灰枝はいつも通り静かで、通りの棘鱗の風鈴がかすかに鳴っている。道具屋の軒先に朝陽が差し込んで、装甲片の壁が鈍く光る。私はカウンターの内側に立ったまま、二つの椅子を見下ろしていた。
三年間、ここには一つしかなかった。私の椅子。座面の左端が少し擦り減っていて、帳簿を開くときにわずかに軋む。体重のかけ方と木の癖を覚えてしまったから、もう他の椅子には座れない。
その隣に、倉庫から引っ張り出してきた椅子を置いた。背もたれに埃がついていたので拭いた。座面はまだ硬い。誰の癖もついていない、まっさらな椅子だ。
本部からの人事通知が届いたのは、半月前のことだった。
書類の表題には「灰枝支部 人員増配に関する通知」とあった。業務量の増加に伴い、事務員を一名増員する。着任予定日は秋の三の月、十日。そして——通知の末尾に、一行だけ付け加えられていた。
灰枝支部受付事務官 ナタリアを、同支部副支部長に任ずる。
最初に思ったのは、肩書きの欄を書き直さないといけない、ということだった。帳簿の署名欄、月次報告書の差出人欄、在庫管理表の責任者欄。全部「受付事務官」になっている。副支部長に変わったら、書式が変わる。過去の帳簿との連続性を保つために、切り替え日を明記して引き継ぎ記録を残す必要がある。
そのことを考えている自分に気づいて、少しだけ可笑しかった。普通はまず喜ぶか、驚くか、どちらかなのだと思う。
鍵を回すと、木戸がいつもの音で軋んだ。
石造りの受付。カウンターが一つ、掲示板が一つ、奥に事務室と倉庫。三年間、毎朝見てきた景色だ。ただ今日は、椅子が二つある。
カウンターを拭く。端から端まで、木目に沿って。ランプに火を入れ、帳簿を棚から出す。昨日の数字を確認する。蒼苔の在庫はやや多め。棘鱗の端材は適正。魔獣素材の在庫は——先月から微妙に増え続けている。持ち込む冒険者が増えたのだ。新規登録者が増えれば、素材の持ち込みも増える。灰枝の取引量はこの半年で目に見えて上がっていた。一人で回せない、というほどではない。でも、余裕があるとも言えなくなってきた。本部が増員を決めたのは、たぶんその数字を見たからだ。
帳簿は正直だ。私の仕事量が増えていることを、私より先に本部に伝えていた。
秤の布を外す。ランプの炎が安定する。ペンの先を確認する。インク壺の蓋を開ける。
準備が終わった。
あとは——
扉が開いた。
朝陽を背にして、一人の女性が立っていた。
若い。おそらく十九か二十。本部の制服を着ている。襟元にギルドの紋章ピンが光っていた。肩にかかる栗色の髪を一つに縛り、両手で革の鞄を抱えるように持っている。鞄は新品ではないが、手入れがされている。角が丸くなっているのは使い込んだからではなく、誰かに貰ったものを丁寧に使っているように見えた。
目が合った。大きな目だった。緊張で少し潤んでいる。
「あ、あの——本日付で灰枝支部に着任しました、リーネと申します」
声が少し震えていた。敬語の末尾が上がっている。初対面の相手に向ける、不安と期待が混じった声。
ああ、と思った。自分にもこういう朝があった。三年前、灰枝に赴任した日。あのときも扉の前で少し立ち尽くしたのを覚えている。中に誰もいないのが不安だったのか、誰かがいるのが不安だったのか——たぶん両方だった。
「ナタリアです。灰枝支部副支部長——になったばかりです。よろしく」
副支部長、という言葉がまだ口に馴染まない。リーネが深く頭を下げた。
「よ、よろしくお願いします!」
私はカウンターの中に入って、二つ並べた椅子の、右側を指した。
「こっちがリーネさんの席。帳簿と筆記具は引き出しに入ってる。まずは座って、支部の中を見渡してみて」
リーネが鞄を抱えたまま椅子に座った。座面に体重をかけて、きしり、と音がする。まだ椅子と体の位置が決まっていない。当たり前だ。椅子の癖を覚えるには、数ヶ月かかる。
リーネはカウンターの上を見回し、掲示板を見上げ、それから帳簿の棚に目をやった。
「ナタリアさん、ここ、お一人でやってらしたんですよね」
「三年間」
「三年……」
リーネが棚に並ぶ帳簿の背表紙を数えていた。日付のラベルが貼ってある。どれも同じ筆跡で、同じインクで書いてある。私の字だ。
「すごい」
「すごくないよ。灰枝は小さな支部だから。デルガの支部は事務員が八人いるって聞いたことがある」
「でも、八人分の仕事を一人で……」
「八人分じゃない。一人分を、一人でやってただけ」
リーネは少し考えるように黙った。それから「なるほど」と小さく言った。なるほどと思ったのかどうかは怪しいが、素直に頷く子ではあるらしい。
午前中は支部の案内に費やした。
帳簿の書式と記入規則。素材の分類基準と保管場所。依頼票の処理手順。冒険者登録の書類と牌の種別。越境通行証の発行条件。月次報告書のフォーマット。倉庫の鍵の場所と在庫管理表の更新方法。
私が三年間、体で覚えてきたものを言葉にする作業だった。思った以上に時間がかかる。体が知っていることと、口で説明できることは違う。帳簿の記入一つとっても、「日付、品目、重量、産地、品質、買取価格、備考」と順番に説明するのは簡単だが、「備考欄に何を書くか」となると言葉に詰まった。
何を書くか。何を書かないか。その判断は、三年分の経験から来ている。言語化できない部分が多い。
「備考欄は——」
言いかけて、止めた。
「とりあえず、最初は何も書かなくていい。慣れてきたら、自分で気づいたことを書くようにして」
リーネが真剣な顔で頷いた。この子は頷くのが上手い。でもたぶん、まだ何に頷いているのかわかっていない。それでいい。私も最初はそうだった。
昼を過ぎて、最初の客が来た。
ヨルさんだった。
大柄な体で扉をくぐり、麻袋を片手にカウンターに近づく。私の隣にリーネが座っているのを見て、一瞬だけ足が止まった。
「……増えたな」
「新しい事務員のリーネさん。今日から」
「ヨルです。よろしく」
リーネが椅子から立ち上がって頭を下げた。ヨルさんが少し面食らった顔をしている。この人は堅い挨拶に慣れていない。
「蒼苔ですね。リーネさん、受けてみて」
リーネが緊張した手で麻袋を受け取った。
束を取り出し、数量を確認する。五束。申告重量を聞く。ヨルさんが「百グレンくらい」と言う。くらい。相変わらずだ。リーネが帳簿に書き込もうとする。
「秤に載せて」
「あ、はい」
リーネが蒼苔の束を秤に載せた。
針が動いて——止まる。
「……百十二グレンです」
「申告は百グレンだから、差が十二グレンあるね」
リーネが困った顔でヨルさんを見た。ヨルさんも困った顔をしている。この二人の困り顔が並ぶと、少し可笑しい。
「乾燥が甘かったかな」
ヨルさんがいつもの台詞を言った。私はリーネに目で促した。自分で判断してみなさい、という意味を込めて。
リーネが束を手に取った。匂いを嗅ぐ。触ってみる。指先で茎を確認する。本部の研修で習ったのだろう、手順は正しい。
「乾燥はしっかりしてると思います。色も……普通の蒼苔と同じに見えます」
「じゃあ、なんで重いんだろう」
リーネが黙った。わからない、という顔をしている。
「秤」
私は秤そのものを指さした。
「秤が正しいか、確認した?」
リーネの目が丸くなった。
「校正用の分銅、引き出しの左に入ってる。載せてみて」
リーネが分銅を取り出し、秤に載せた。百グレンの分銅。針が動いて——止まる。
百四グレン。
「……ずれてる」
「うん。秤の校正がずれてる。最後に校正したのは——」
私は帳簿の巻末に挟んである校正記録を開いた。前回の校正日は二ヶ月前。通常なら半年に一度で十分だ。灰枝の取引量では、秤がずれるほどの使用頻度にはならない——はずだった。
「二ヶ月前に校正したばかりなのに、もうずれてる。それだけ取引の回数が増えてるということ」
ヨルさんが腕を組んだ。
「そういえば、最近やけに人が多いな、ここ。知らない顔も増えた」
「新規登録者は先月だけで四人。去年は一年で六人だったのに」
リーネが小さく息を呑んだ。数字の意味を理解したのだろう。
私は秤を調整した。分銅を載せ直し、ゼロ点を合わせ、もう一度蒼苔を量る。
百八グレン。校正後の正しい数字。申告との差は八グレン。これなら水分の残留で説明がつく範囲だ。
「ヨルさん、百八グレンでした。校正前の数字で買い取ってたら、四グレン分多く払うところだった」
「……危ねえな」
「危ないのは私の帳簿です」
ヨルさんが笑った。リーネは笑えずに、じっと秤を見ていた。
「ナタリアさん」
「うん」
「秤のずれって、こんなに大事なんですか」
「秤がずれたら、帳簿がずれる。帳簿がずれたら、在庫の数字が狂う。在庫が狂ったら——」
そこで止めた。リーネの顔を見る。
リーネは秤を見つめていた。眉が少し寄っている。自分で考えている顔だ。
「……依頼の報酬が、変わりますよね。在庫の価値が狂ったら、買取価格も依頼料も全部ずれて——」
リーネの声が小さくなった。
「冒険者さんが、判断を間違える」
「そう」
それだけ言った。リーネが自分で辿り着いた答えだ。私が説明するより、ずっと深く残る。
リーネはしばらく黙って秤を見ていた。それから、小さく息を吐いた。
「明日から、朝一番に校正します」
言われる前に、自分で言った。その返事は、さっきまでの「はい」とは違っていた。声の重心が下がっていた。
午後も客は途切れなかった。
棘鱗の端材を持ち込んだ革工房の職人。依頼完了の報告書を出しに来た銅牌の若者。魔獣の牙を三本、売りに来た冒険者。リーネはそのたびに横で私の処理を見ていた。目で追って、ときどきメモを取っている。
三人目の客が帰った後、私はリーネに帳簿を渡した。
「次の人が来たら、受付をやってみて。私は横にいるから」
リーネが帳簿を受け取る手が、わずかに震えていた。
四人目の客は、見慣れない顔の冒険者だった。銅牌。樹海の縁で採った蔓草の束を持ち込んできた。
「蔓草の乾燥品、三束です。重量は——」
リーネが申告を聞き取り、帳簿に書く。秤に載せる。重量を読み上げる。ここまでは手順通りだった。
品質の確認でリーネの手が止まった。蔓草を手に取り、匂いを嗅ぎ、断面を見る。研修通りの動作。だが判定が出ない。リーネが私を見た。
私は小さく首を振った。自分で決めなさい、という意味だ。
リーネが蔓草をもう一度手に取った。今度はゆっくり、指先で繊維の方向を確かめるように触っている。研修で教わった手順ではなく、自分の感触で判断しようとしている。
「……標準品、でいいと思います」
「うん。正解」
リーネの肩から、少しだけ力が抜けた。帳簿に品質を記入し、買取価格を計算する。計算は正確だった。冒険者に銅貨を渡して、取引が終わる。
リーネが帳簿を閉じてから、ふう、と小さく息を吐いた。
「一人目、おめでとう」
「……ありがとうございます。手が震えました」
「最初はそういうもの」
夕方になった。
最後の客が帰った後、私はリーネに帰っていいと言った。
「明日は朝、秤の校正からね」
「はい。おつかれさまでした」
リーネが鞄を持って、丁寧にお辞儀をして、扉から出て行った。石畳の足音が遠ざかる。
一人になった支部で、私は帳簿を閉じた。
カウンターの上には、椅子が二つ。右側の椅子には、リーネが座っていた痕跡が——いや、痕跡というほどのものはまだない。座面は硬いままで、癖はついていない。でも、朝より少しだけ温かい気がした。
三年間、帳簿と秤とランプだけが私の隣にいた。肉屋のおかみさんの差し入れと、ヨルさんの曖昧な申告と、フィオナの丁寧な品物。通り過ぎていった人たちと、帳簿に残った名前たち。一人で全部を見て、一人で全部を書いてきた。
それが変わる。
リーネにこの支部のすべてを教えられるだろうか。帳簿の書き方は教えられる。秤の校正も教えられる。素材の分類も、依頼票の処理も、全部教えられる。でも——備考欄に何を書くか。帳簿に書けないことをどうするか。それは教えられるのだろうか。
カウンターを拭く。端から端まで。秤に布をかける。ランプの火を消す。
窓の外に夕陽が落ちかけている。棘鱗の風鈴が鳴った。
鍵を閉めて、石畳を歩く。
明日は誰が来るかな、と思った。
——ふと、足が止まった。
少し戻って、支部の扉の前に立つ。鍵を開け直し、中に入る。
リーネの椅子の位置を、ほんの少しだけ直した。カウンターとの距離を合わせて、帳簿が開きやすい角度にする。私の椅子と同じ位置関係。
それだけのことをして、また鍵を閉めた。
石畳を歩く。棘鱗の風鈴が、夕風に鳴っていた。




