38 兄妹③
3年前のことだった。
その日、翔平の家には純が遊びに来ていた。
昔から互いの家で遊ぶことはよくあり、幼い頃は一緒にかくれんぼや鬼ごっこをしていた。
最近はそういう遊びはしなくなったが、一緒に本を読んだり庭で過ごしたりしている。
翔平の部屋に向かっていた純は、窓の外を見て足を止めた。
「…寄り道しよ」
純は、その時の気分で行動を決めることが多い。
約束の時間はとうに過ぎているが、翔平の部屋とは全く違う方向に歩き始めた。
「あいつ…またどっかで寄り道してるな…」
そして翔平は、純の性格をよく分かっている。
あまり期待もせずに待っていたが、やはり予想通りだった。
約束の時間は過ぎているが、純が姿を現す気配はない。
そもそも、時間通りちゃんと来る方が珍しい。
仕方ないので、純を探しに行こうと部屋を出る。
このまま待っていては、いつ現れるか分からないのだ。
以前に一度だけ現れるまで待ってみたこともあるのだが、結局現れることはなかった。
気が変わり、そのまま帰ったらしい。
「まずは…屋上から探すか」
純を探すことに慣れている翔平は、まずは一番高い所から探すことにした。
その頃、純は翔平の部屋とは関係ないフロアを散策していた。
勝手に歩き回ると翔平の執事に嫌な顔をされるのだが、改める気はない。
「――――」
どこからか、微かに声が聞える。それも、泣き声のようだった。
一応その声が聞える方に行ってみると、廊下の隅に何かがうずくまっていた。
白くて丸いそれは、よく見ると人間のようだった。
『幽霊みたい』
長い黒髪に白いワンピースを着てしゃがみこんでいるので、幽霊が泣いているように見える。
その正体は、小さい女の子だった。
『翔平の妹か』
翔平には4歳の妹がいることは知っている。
『…放っておくか』
幼い子供が泣いている姿を見ても、関わろうという気持ちは純にはない。
純は基本的に厄介ごとに巻き込まれるのが嫌いなので、たとえ目の前で小さな女の子が泣いていようが、放っておく。
純には関係のないことである。
その場を離れようとすると、1人のメイドがその子に近寄ってきた。
それに見つからないように、物陰に隠れる。
「瑠璃様、こんなところにいらっしゃったのですね。お薬のお時間です。早くお部屋に戻りましょう」
「…いや。もうにがいの、のむのいや」
「そんなわがままを言ってはいけません。瑠璃様のお体のためなのですよ」
メイドにそう言われても、瑠璃はまだその場から動こうとはせず、しくしくと泣き続けている。そんな瑠璃を見て、メイドの目つきが冷たいものに変わった。
「いい加減にしてください。ほら、行きますよ」
メイドは、幼い少女の細い腕を掴んで無理やり連れて行こうとする。
「…いや」
まだ頑固に嫌がっている瑠璃にイラついたのか、メイドは手を振り上げる。
メイドの手が瑠璃に触れそうになった時、その腕を掴んだのは純だった。
「な、何なのよあなた!」
「あなたに関係ない。告げ口されたくなかったら、早くどっかに行きなよ」
純の感情の無い表情に恐怖を覚えたのか、メイドは純の手を振り払って足早にその場から逃げていった。
『まぁ、嘘だけど』
使用人が主人の家族に手を上げようとして、何も罰せられないわけがない。
それにあのためらいのない様子を見ると、今回が初めてではないだろう。
『普通は、女主人が家の使用人をまとめるけど』
龍谷グループ夫人、つまり翔平の母親は昔からずっと病弱な人だ。
体調を崩してベッドにいることが多いので、家の中をまとめることができない。
家の中の隅々まで目を配ることができないため、さっきのような使用人も出てしまうのだろう。
翔平の妹は、今もまだ隅で怯えて縮こまっている。
目をぎゅっと瞑り、大人からの暴力に耐えようとしている。
「もう、メイドはいないよ」
純の声におそるおそる目を開けた少女は、初めて見る相手に不安げに眉を寄せる。
涙はまだ止まらないようで、鼻水と涙で顔はぐちゃぐちゃになっている。
「わたしは純。あなたは?」
少し迷ったようだが、怖い大人ではないと判断したのか、小さく口を開ける。
「……るり…」
「なんで泣いてるの?」
「…おくすり、いやなの」
「なんで?」
「だって、にがいもの…」
「薬飲まないと死ぬよ。死にたいの?」
4歳の子供に向ける言葉ではない。
しかし、純は事実を言っているだけだ。
少女の瞳からまた涙があふれ、しゃっくりをあげている。
「ち、ちがう、けど…」
「寂しかったの?」
泣いていた少女は、純のその言葉に反応して驚いている。
涙で潤んだ大きな瞳は、翔平と同じ漆黒の瞳だった。
「…どうして分かるの?」
「なんとなく」
父親は多忙で、母親は病弱のため簡単には会えない。
兄は学校で忙しく、あまり家にいない。
幼い少女が寂しさを覚えるのも、当然だろう。
広い家でさっきのような使用人に囲まれていれば、なおさらである。
家族と一緒にいたいというのは、子供にとって当たり前の願いだ。
薬を飲みたくないというのも、そう言えば家族の気を引けるかもしれないと思ったのだろう。幼い少女の、精いっぱいの訴えだったのだ。
家族に会えなくて寂しいと泣く少女の姿は、純の知る幼い少女と重なった。
「薬飲まなくて死んだら、家族に会えなくなるよ」
「…そ、それっ…は、いや…」
家族に会えないという部分に反応したのか、さらに泣きじゃくる。
白いワンピースに、ぽたりぽたりと涙が落ちる。
「じゃあ飲みな。生きたいなら」
純は子供にも容赦はない。しかし、今言っている言葉は情のない言葉ではない。
瑠璃はその厳しい言葉に泣きながらも、頷いた。
『翔平でも呼ぶか』
使用人は、信用できない。
大人を呼ぶよりは、兄を呼んでやった方がいいだろう。
そんなことを考えていると、泣いていた瑠璃の息が、ヒュッと短く鳴った。
すぐに呼吸が乱れ、苦しそうに胸を押さえている。
『発作か』
さっきメイドに叩かれそうになったこともあり、興奮状態にあったのだろう。
瑠璃は苦しそうに胸を押さえて顔を歪めており、呼吸が短くなっている。
純は迷うことなく瑠璃を抱きかかえると、その場から走り出した。
普段から家の中を散策しているおかげで、瑠璃の部屋がどこにあるかは分かっている。
瑠璃を揺らさないように滑るように走り、最短距離で部屋に向かった。
その間にも、瑠璃の呼吸はだんだん荒く短くなっていく。
部屋に着くと、テーブルの上に置いてある薬と水が目に入る。
すぐに瑠璃に飲ませようとするが、瑠璃は薬を見て、また泣きそうになっている。
それほど、薬が嫌らしい。
「薬飲めたら、好きなもの食べていいよ」
それは、純がよく自分の執事に言われていることだった。
純はパーティーが嫌いなのでパーティーに出ることを断固拒否すると、シロは少し呆れながら「パーティーに出たら好きなパンを食べてもいい」と言うのだ。
そして、純はパンに釣られて渋々パーティーに出る。
瑠璃もそれに釣られたのか、少し期待のまなざしで見てくる。
「お、おかし、たべて…いい?」
「いいよ」
「いつも、だめって…おこられる、の」
恐らく、そう言ったのはさっきのメイドだろう。
「わたしが許す。誰も怒らない」
瑠璃は純と薬を見比べると、覚悟を決めたのか薬を飲んだ。
しかしやはり苦かったのか、涙目で顔を歪めている。
純がいつも兄にされているように瑠璃の頭を撫でると、瑠璃は泣き顔のまま嬉しそうに微笑んだ。
その頃、翔平はなかなか見つからない純をいまだに探していた。
「どこに行ったんだ?」
家の中を探し歩いていると、廊下の向こう側から純が歩いてきた。
何故か、妹の瑠璃を抱いている。
「何で瑠璃と一緒なんだ?」
「発作を起こした」
翔平は慌てて瑠璃の様子を見た。
眠っているようだが、呼吸は安定している。
「薬を飲ませて寝かせるつもりだったんだけど、離してくれなくて」
確かに、瑠璃は純の服をしっかりと握ったまま眠っている。
「瑠璃付きのメイドは辞めさせた方がいい。瑠璃に手を上げてた。今回はそれが発作の原因」
「何だと?」
その使用人のことは知っている。
翔平が知る限り、真面目な勤務態度だと聞いている。
しかし、瑠璃にそんなことをしているとは気付かなかった。
「家の中に目が行き届かないと、こういう使用人も出てくる」
翔平は、眠る妹の姿を見てぐっと拳に力が入った。
瑠璃のことは気にかけていたつもりだった。しかし、つもりではだめなのだ。
翔平は、純の兄である湊を思い出した。
湊は、妹バカと言っていいほど純に甘い。
そして純を何よりも大切にし、一緒に側にいた。
自分はその姿をいつも見ていたはずなのに、自分の妹のことをちゃんと気にかけることができなかった。
瑠璃に手を上げるような、そんな使用人が瑠璃の側にいたことにも気付かなかった。
妹はきっと怖い思いを、寂しい思いをしていただろう。
それでも、自分たちに寂しいと言ってくることはなかった。
翔平は、眠っている妹の頭をそっと撫でた。
「ごめんな…瑠璃。気付いてあげられなくて」
翔平が10歳の時に生まれた妹は、母親に似て体が弱かった。
兄として、守ってあげたいと思った。
その時の想いは、ずっと変わっていない。
「そのメイドは、すぐに親に伝えて辞めさせてもらう。あとは…」
病弱な母親を思い出す。
体が弱くても、優しくて家族にあたたかい人だ。このことを知ったら、病弱の体できっと無理をしてしまう。
これ以上、体に負担をかけるようなことはさせたくなかった。
「父さんは仕事であまり家にいない。それなら、これからは家の使用人は俺がまとめる。もう、瑠璃にこんな思いはさせない」
翔平の強いまなざしを見て、純は柔らかく微笑んでいる。
「純。今日はありがとう」
「どういたしまして。これから頼むよ、お兄ちゃん」
「あぁ、任せろ」
翔平はその時、改めて大切な妹を守ると誓った。




