59話 こちらが本題
けれど本題であるバルト伯爵との婚約解消については、一枚目ですべて書ききられていたはずだ。だとしたら、この二枚目には一体何が書かれているのだろう。
アイリスは二枚目の便箋を広げ、綴られた文字に目を落とした。
そこには――
『ハワード公爵家から婚約の申し出があった。これ以上ない誉れであるため、快く受け入れた。バルト伯爵家との婚約解消にも、ルイス・ハワード様がご協力してくださった。彼は実に紳士的で――』
という旨と、良縁を祝福する言葉とルイスを絶賛する言葉が長文で綴られていた。
(ハワード家からの婚約……? ハワード家ってルイス様の…………いや、でもそんなわけ……)
何度、目を擦って読み直しても便箋に綴られた文字が書き換わることはない。一体、何が起こっているのか。頭の処理が全く追いつかなかった。
バルト伯爵家との婚約が解消されたと思ったら、今度はハワード公爵家から婚約の申し込みが届いただなんて……あまりにも非現実的な話だ。
「あの……ハワード家から、婚約の申し出があったと……しかも、両親がそれをもう受けてしまったと書いてあるのですが……」
「ええ。とても快く、引き受けてくださいましたよ」
ルイスは何でもないことのように、さらりと言ってのけた。
「で、ですが……! うちはしがない田舎の伯爵家ですよ!? 最高位の公爵家とはあまりにも身分が違いすぎます! こんな婚約、周囲が許すはずありません……!」
「私の家からの了承も得ていますし、王家にも報告は済んでいます。ですから何一つ、心配する必要はありませんよ」
(お、王家にまで……!?)
ハワード家は建国時から王家との交友が深い名家ではあるものの、まさかそんなところにまで、話が広まっているとは思いもよらなかった。
外堀を埋めるにしても、限度というものがある。
ことの重大さに震えるアイリスに対して、ルイスはいつもの上品な笑みをその顔に浮かべている。そして彼は一歩、アイリスとの距離を埋め、彼女の手を両手で包み込んだ。
「アイリス嬢は、私ではご不満ですか……?」
少し不安げな甘やかな声で囁くルイスだが、彼の青い双眸の奥には獲物を決して手放そうとしない、絶対的な執着と決意が滲んでいる。
「ま……待ってください、ルイス様! これ以上は本当に頭が追いつかないので一旦、整理させてください……!」
「ダメ。もう待てません」
あまりの急展開と、真正面から向けられ甘い熱に耐えきれず目を泳がせる。けれどルイスは一切の猶予を与えてはくれない。笑顔のままアイリスの逃げ道を、容赦なく塞いでしまう。
「私はもう、貴女のいない未来なんて考えられないのですよ……?」
ルイスは一度、切なげに長い睫毛を伏せた。そして包み込んでいたアイリスの白い手の甲へと薄い唇を落とす。
再び視線を上げたその深く青い瞳は、熱に揺れながらアイリスだけを愛おしそうに捉えて離さない。
「アイリス、貴女を心から愛しています。私と婚約していただけますか?」
(ルイス様が、私を…………愛している?)
アイリスの鼓動が大きく高鳴る。プロムの夜に告げられた言葉は、本当に冗談ではなかったらしい。
締め付けられるように、胸が苦しい。嬉しくて、愛おしくて、けれど不安でたまらない気持ちが溢れ出して止まらない。
だって、アイリスはただのモブ令嬢で、ルイスからその言葉を貰う資格なんてなくて……彼の未来に本来アイリスは存在しない。
(それでも……ルイス様と、一緒にいたい)
もっと彼と話がしたい。そして叶うのならば、彼の隣で未来を歩いてみたい。
(モブとしてではなく、アイリス・メルヴィルとして。叶わないと思っていた願いを追いかけてもいいの……?)
アイリスは一度、溢れそうになる感情を堪えるように目を閉じた。そして再び瞼を開き、彼の深く青い瞳を真っ直ぐに見つめ返す。
不安げな、けれど喜びの表情を浮かべながら――
「私も……ルイス様を愛しています。貴方の歩む未来に、どうか、私もいさせてください」
アイリスの震える声が届いた瞬間、ルイスは弾かれたように彼女の身体を強く引き寄せ、その細い身体を包み込むように抱きしめた。
「わ、ルイス様…………!?」
普段の彼からは想像もつかないほど強く、隙間なく密着した身体。そこからアイリス自身の激しい心音だけでなく、いつも冷静なはずの彼の驚くほど速く波打つ鼓動が直に伝わってきた。
常に完璧に見える彼も、自分と同じように張り裂けそうなほど緊張していたのだと気付いたとき、アイリスの胸の奥に愛おしさがこみ上げて視界が滲む。
ルイスは掠れた吐息を漏らし、抱きしめている腕の力をほんの少しだけ緩める。そして彼の胸の中にあるアイリスの顔を覗き込んだ。
「ありがとうございます、アイリス。必ず、貴女を幸せにします」
蕩けるような甘い眼差しでアイリスを見つめながら、彼のしなやかな片手が愛おしさを確かめるように、アイリスの頬を優しく包み込み親指でそっと肌を撫でる。
「私の、愛おしいアイリス……」
見つめ合う二人の視線が至近距離で絡み合い、ルイスの中性的な美貌がゆっくりと下される。彼の銀髪の影がアイリスの視界を覆い、アイリスが驚いて目を見開かせるが、頬に添えられた長い指先が彼女の逃げ道を優しく阻んだ。
そのまま静かに引き寄せられ、溶け合うようにお互いの髪が混ざり合っていく。そして優しく、唇が重ねられた。
頭の中が真っ白に染まり、ただ甘く痺れるような熱だけが全身の隅々まで駆け巡る。やがて惜しむように愛おしい熱は離れていった。
ほんのわずかな隙間ができた唇と唇の間に、冷たい空気が滑り込んでくる。彼は慈しむような、艶やかな笑みを浮かべた。
「……私、もう貴女を逃がしてあげられませんからね?」
甘えるようにルイスはアイリスの頬へ、自身の頬を擦り寄せる。彼の絹糸のような柔らかな銀髪が肌に触れ、少しくすぐったくて、アイリスもつられて小さく微笑んでしまう。
「はい。私も、もう逃げません」
真っ直ぐにルイスへ宣言すれば、彼は一瞬だけ驚いたように目を見張った。けれどすぐに、言葉にならないほどの愛おしさを抱え、美しく微笑む。
言葉を交わす必要など、もうどこにもない。
二人はどちらからともなく引き寄せられるように、もう一度、甘く熱を帯びた唇を重ね合わせたのだった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
次回【最終話】です。
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