第66話 その船出、木札の故郷と使えない知恵につき
朝の光が、アルヴェアルの石畳を薄く染め始めた頃、湊は管理棟の廊下のベンチに座っていた。
昨夜はそのままあの屋上にいた。工房の音が止むまで。知らないうちに眠ったのか、気がつくとここに移動していた。記憶が曖昧だった。
外から荷馬車の音が届いてくる。朝一番の物資搬入だろう。アルヴェアルの朝は早い。
廊下の角から、足音が近づいてきた。
「ここにいたか」
ナノだった。
長旅の埃が上着についている。いつ戻ってきたのか、湊は知らなかった。
彼女は余計なことを聞かなかった。湊の顔色を確認するように一秒だけ見てから、隣に腰を下ろした。
しばらく、二人分の沈黙が並んだ。
ナノが、ゆっくりと懐を探った。
取り出したのは、薄い板だった。
「……あ」
湊は目を細めた。
艶のないプラスチックの表面。自分の写真。自分の名前。自分の学生番号。有効期限。
「ずっと持ってたんですか」
「捨てられなかった」
それ以上の説明はなかった。
湊は両手でそれを受け取って、しばらくの間、ただ見ていた。
写真の中の自分は、どこか眠そうな顔をしていた。いつ撮られたのかも、もうよく覚えていない。
* * *
この番号で、自分は管理されていた。
どのクラスに属するか、何時に登校するか、どの科目を履修するか。全部、誰かが決めた枠の中に収まっていた。
食べていた食料は、どこかの農家が作って、どこかの工場が加工して、どこかのトラックが運んで、どこかの店が並べたものだった。
使っていた電気は、どこかの発電所が生んで、どこかの会社が管理して、どこかの技術者が維持していた。
乗っていた電車も。使っていたスマートフォンも。住んでいたマンションも。
全部、誰かが作って、誰かが管理して、誰かが決めたルールの上を走っていた。
俺は、その上を歩いていただけだ。
「お前もこっち側だったんだな」
ナノが静かに言った。
「こっち側?」
「管理される側だ」
湊は学生証を見た。
(……フェリアの木札と、並べたら、どっちがどっちか分からないかもしれない)
名前。番号。所属。有効期限。
「……そうですね」
でも。
湊は思った。
不幸じゃなかった。
管理されているとも、依存しているとも、ほとんど意識しなかった。ただそこにある世界で生きていた。友達と馬鹿な話をして、好きなものを食べて、大して深く考えずに毎日が過ぎていった。
「……あの世界にも、リールさんみたいな人がいたんでしょうね」
「そうだろうな」
ナノは短く答えた。風が廊下を通り抜けていく。
「湊」
「はい」
「お前がここに来てから、いろんなものが変わった」
「……俺のせいで、いろんなことも起きましたけど」
「そうだな」
否定しなかった。ただそれだけ言った。
「それでも、ここにいる気か」
湊は学生証を握った。
「……はい」
「そうか」
ナノは立ち上がった。旅装束の埃を無造作に払って、廊下の奥へ歩いていく。
「ナノさん」
「何だ」
「持っていてくれて、ありがとうございます」
ナノは振り返らなかった。ただ、大きな手を一度だけ、ゆっくりと上げた。
それから角を曲がって、消えた。
* * *
リールの執務室の扉を、湊はノックしてから開けた。
リールは机の前で書類を読んでいた。顔を上げた瞬間、何かを確かめるように湊を一秒だけ見た。
「……もう大丈夫なの?」
「はい、もう大丈夫です」
リールはゆっくりと羽ペンを置いた。
「湊、あなたはこれからどうするつもり?」
湊は部屋に入って、机の前に立った。
「一緒に世界を管理して、良くしていきましょう」
リールの目が、わずかに細くなった。
数秒の沈黙。
「……戻ってきていきなり面白いことを言うわね」
扇子が開く。三日月のような笑みが、ゆっくりと戻ってくる。
「元々そのつもりだったわ」
彼女は引き出しから新しい台帳を取り出し、机の上に広げた。
羽ペンを取り直す。
「まずは何からする? あなたの知恵を出してちょうだい」
湊は少し考えた。
「コーラと菓子が必要です」
リールの手が止まった。
「……何?」
「娯楽と甘いものです」
湊は続けた。
「この世界、無さすぎます。道路があって、食料があって、照明も作った。でも、誰も楽しんでいない。一部の技術だけが突出して発展していて、それはおかしいんです。生活に余白がない」
リールはしばらく湊を見ていた。
「……突出して進化、ね」
扇子を閉じる。
「コーラというのは何? 作り方はわかるの?」
「いいえ」
「……なら菓子の製法は?」
「いいえ」
「……」
「味だけはわかります」
リールは扇子を額に当てた。
「……使えない知恵ね」
そう言って、彼女は台帳を手元に引き寄せた。
新しいページを開く。几帳面な字で、一行書いた。
湊は覗き込んだ。
「嗜好品・娯楽 研究項目」
「……書くんですか」
「当たり前でしょう」
リールは顔を上げずに答えた。
「使えない知恵でも、記録しておけばいつか使える知恵になるかもしれないじゃない。……座りなさい。最初から話してちょうだい。あなたの故郷で、人々が楽しんでいたものを全部」
湊は椅子を引いた。
ポケットから炭の欠片を取り出す。昨日、石畳に印をつけた時と同じ炭だ。
そして、笑った。
久しぶりに、笑った気がした。
「……リールさん、コーラの味、うまく説明できるか分からないですよ」
「構わないわ。あなたの説明が下手なのは知っているから、私が聞き直す」
「ひどいな」
「事実よ」
扇子がぱちんと閉じる。
湊は話し始めた。リールは書き始めた。
窓の外、アルヴェアルの朝が動いていた。荷馬車の音。人の声。子供の笑い声。
(……始まりだ)
学生証は、湊のポケットの中にあった。
この世界の木札と同じように、静かに、確かに。




