20.結依
物心ついたときには漠然とした怒りを抱いていた。
記憶にないほど幼い頃は常に虫の居所が悪いようで、夜泣きが多く手の掛かる子供だったとお母さんが言っていた。
父は六歳の頃に借金が嵩んで蒸発した。後から聞いた話だといなくなる直前に離婚届を父が書き置いていったので、借金を肩代わりすることはなかったようだ。金にだらしなくても妻と子を思いやる心があったことは救いだと思った。
だけど突然家人を失った家はとても貧しく母も昼夜問わず働いていたので、私も自然と家の事をするようになった。その忙しさが良かったのか自我が確立されるに連れて、イライラはなくならないものの、生活に忙殺される内に制御する術を徐々に覚えていった。
十一歳の頃、妹の保育園のお迎えに遅れて慌てていたら、危うく車にひかれそうになった事がある。
その時私を救ってくれた女性がいた。
私は気が動転していて、名前も聞けなかったし助けてくれた人も慌てていたのか、私の怪我の確認だけして走る様に去っていった。あまりに一瞬のことで顔は覚えられなかったが、夕焼けの所為か赤み掛かった瞳が印象的だった。
妙な懐かしさと同時に、その人が去っていく後ろ姿が物悲しく思えた。
その日を境に私の生活は一変した。
物心ついた時から常に感じていた苛々が治ったのだ。霧が晴れた様に頭がスッキリして、生きる事が楽になった。
そしてもう一つ、その日から夢を見る様になった。
とても残酷で、愛しくて、身を焼く様な怒り。
幼い頃から感じてきた怒りはここからくるものだったのだと私は確信した。
そして私は自分が生まれ変わったのだと理解した。
最初は訳も分からず、赤ちゃんみたいに夜泣きをぶり返したが、一ヶ月も経つ頃には慣れてきて受け入れられるようになった。
日本とは全然違う世界で、魔法や精霊、戦争なんて日常で、その上神などが干渉してくる理不尽な世界。
その中で私は女王として君臨していた。
神など信じていない今の私では考えられないほど神に忠実で、神の声を聞き、その通りに国を動かしていた。
盲目的でとても恐ろしい事だと思った。
だけどそんな中でも、私は幸福を感じていた。
私は一国の王だったけど、聖女と呼ばれる存在でもあった。
魔物から引き起こされる大気の汚染を浄化するため、いろいろな土地に赴いては時に魔物と戦ったりもした。
身も心も休まることの無い日々だったけれど、唯一私を癒してくれた存在があった。
私の大切な大切な精霊。
八歳の洗礼の儀式で私と契約した水の上位精霊。
名前を聞くと、あるけど好きじゃ無いと言ったので、私がオルテンシアと名付けた。
王と聖女、どちらにもなりたくなはなかったけど、唯一オルテンシアと出会えた事だけは感謝できた。
彼女は水の精霊らしく掴みどころの無い自由な性格で、感情の移り変わりで目の色が変わる特異な性質も持っていた。
だから腹の探り合いの生活の中で、感情が目に見えて分かるオルテンシアがいてくれる事が救いでもあった。
外見の美しさとは裏腹に面倒臭がりで、悪戯好きで、我儘で手のかかる子供の様な性格だったけれど、誰よりも優しく、心根が美しかった。
あの時のは私は分かっていた筈だ。
欲を持った人間が一番に飲み込もうとするのは、純粋無垢で優し過ぎる存在である事を。
だけれど、私は一番大切な時に、一番大切な物から目を離してしまった。
あの男がオルテンシアに近付かなければ、あの様な悲劇は起きはしなかった。
私が事故から救ってくれた人と再会したのは五年後の事だった。
家事とバイトと学業の目まぐるしい生活に慣れなくて気持ちが落ち込んでいる時に、バイト先にその人はやってきた。
少し疲れた様子だけれど目に強さが宿る綺麗で凛とした女性。
一目であの時助けてくれた人だと分かった。
忘れたことなどない。
自分でも不思議だと思うが、あの時の女性にはもう一度会えると確信していたから。
「結依ちゃん、いつも元気だね」
篠崎翠さんと言う女性の第一印象は意思が強くて何事もはっきりしていそうなイメージだが、笑うと目尻が下がって愛嬌と優しさが滲み出る可愛い人だった。
バイト先の店長も、たまに一緒になる常連の男性も翠さんに好意を抱いていたが、全く気付かない鈍感な部分も私の大好きな子によく似ていると思った。
そう、普段は薄茶色の瞳が怒った時や悲しい時に微かに色が変化するところも。
私はこの世界に生まれて初めて神に感謝した。
何故二人して何もかも違った世界に生まれ変わったのかは分からない。彼女が精霊でなくなってしまったのかも分からない。
だけどこんな平和な国で大好きな子と、他人として出会い、契約も何もない一人の人間として共に生きていける事が幸せだ思った。




